突然訪れた転機
城に戻ってからの数日、何事もない日々が続いた。王様は今日もコーネリア様かナミル様の元にいらっしゃるのだろう。私の寝室のドアが叩かれることはなかった。
「リコリス様」
最早習慣になりつつあった寝る前のワインに口づけていると、ベルナが重い口を開いた。
「そろそろ本当にご自身の身の振り方を考えねばならないと思われます」
『本来、私のような者が口を挟む問題ではないと思いますが』との前置きのあと、ベルナは話を続けた。
「城内でもリコリス様に疑念を持つ者が増えてきております。王様が何度も寝室を訪れているはずなのに、懐妊の兆しが見られないと。中には、その……リコリス様が本来のお役目を果たせない体ではないかと疑う者すらおりまして」
成程な、とベルナの話に合点がいく。王様が足繁く通っているはずなのに、懐妊しないとなれば、子供が産めない体なのではと疑われるのも当然だ。実際は、子供が出来るような行為をしていないのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。
「それだけでは御座いません。中には、王様のお体の方にも問題があるのではないかと訝しむ者まで……」
「はぁっ!?」
見当違いの容疑が浮上して、思わず低い声が出た。私を疑うならまだしも、王様のお躰を疑うなんて。
「お世継ぎは、どこの国にとっても重大な問題です。このまま王様にお世継ぎが誕生されなければ、諸派の貴族も黙ってはいないでしょう」
ベルナの話は至極尤もで、返す言葉もなかった。本来であれば私が即座に懐妊し、王様の躰の容疑なんて浮上することもなかったはずなのだから。
「ですから、リコリス様も、今一度お考え直しては下さいませんか? 王様との……御子を成すことを」
ベルナの懇願するような瞳を受けて、私の中の信念がグラグラと揺れるのを感じる。私だって、本当ならば――そう考えそうになって頭を振った。
「私は……私では……」
一度王様にその身を捧げてしまえば、恐らくすぐにでも私は懐妊するだろう。そうなれば正妃ナミルに毒殺される運命だ。いや、それ以前に、今の王様は、もう私のことなど――。
ツンと鼻の奥が痛んだ気がして、慌てて顔伏せる。ベルナにこんな顔を見せる訳にはいかない。
「リコリス様?」
「そうね、少し、考えてみる」
そう返したけれど、私の中の答えが変わることはもう二度とないだろう。
そしてその日は唐突に訪れた。
あまりの衝撃に細部の記憶は飛んでいたが、それでも扉を潜って現れたサファイアブルーの髪は、いつもと大して変わらないと思っていたのに。
「先日のお話の続きにいたしますか? それとも何かボードゲームでもなさりますか?」
ベルナが注ぐワインが彼の手元で揺れるのを眺めながら尋ねれば、王様はグラスの足元をクルクルと回すだけで何も発しない。あの城下町での一夜以来、アイザックの口数が減った気がするのは、私の杞憂だけではないと思う。
「王様? いかがされましたか? お加減でもお悪いのですか?」
アイザックは饒舌な方ではないが、そこまで寡黙な人でもない。毎日の激務に追われている彼は、尋ねられればすぐに答えを出すことが常となっているはずなのに返事がない。顔色を窺えばそこまで悪そうにも見えなかったが、何処か具合でも悪いのかと再度尋ねようとしたその時。
「リコリス」
唐突に名を呼ばれ、『はい』と素直に呼びかけに応じる。赤紫色に変化したアレキサンドライトの瞳が、ワイングラスから離れて私を射抜く。その視線に、確かにいつもとは異なる光がのせられていた。
「――そなた、私に抱かれたくないんだろう?」
まるで石畳に落とされた一粒の雨粒のようにポツリと落とされたその言葉。
あまりに切望しすぎて、勝手に喉から漏れ出たのかと思った。
それが、今の私の唯一の願いだったのだから。
気道が張り付いてしまったかのように、声が出せなくなっていた。カラカラの喉を少しでも潤そうと唾液を嚥下しようと試みたが、口内にも最早一滴の水分も残されていない。
「いえ、あの、それは……」
何か言わなければと思うのに、そう思えば思うほど頭は真っ白になってゆく。彼の赤紫の視線にジリジリと焼かれているようだった。そんな私の様子にアイザックは全てを悟ったのか、ふっと緩く笑みを零す。
「言わずとも、解っていた。怜悧なそなたのことだ、あからさまに態度に出したことはなかったが、ずっとそう思ってきたであろう?」
『いつから』とか『どうして』とか、そんな言葉が喉を突いて出てきそうになったが、そんなものは全て今更だ。アイザックにバレてしまった今、何を言ったとしても無意味なことに変わりはない。
「そう思う者がいるだろうとは思っていた。家族も含めた今後の生活の保障はしたが、それと引き換えに閨を共にしなければならないと解ってはいても、耐え難いと感じる者もいるだろうと」
アイザックの笑みは、いつの間にか冷ややかなものへと変化していた。もしかしたら彼は、最初から私の企みに気付いていたのかもしれない。そんな彼に露ほども気付くことなく、滑稽にも私は一人芝居を演じ続けてきたというのか。鈍器で殴られたかのような衝撃と共に、胸が圧し潰されるようだった。
「それは……!」
なにを言えばいい?
なにが彼に伝えられる?
真実を全て曝け出せばいいの?
私は正妃に毒殺される運命だったのだと。
そんなものを、彼が信じるとでも?
唇がわなわなと震える。それは恐怖によるものなのか、それとも他に起因するものなのかすら、今の私には分からなくなっていた。それ以上の言葉を発することが出来ずに固まっていれば、アイザックはふと赤紫の瞳を伏せる。
「安心するがよい、私も幾ら側室とはいえ、嫌がることを強要するつもりはない。そなたの真意が解った今、それを実行するつもりもない」
ガタンと椅子が一鳴きしてアイザックが立ち上がる。伏せられていた瞳が上がってきて、最後にカチリと噛み合った。
「そなたの今後の処遇についても、再考しよう。ここがそなたにとって在るべき場所なのか、そなたも今一度よく考えてみるといい」
それが彼の最上の恩情なのだと知ったのは、それから数日後のことだった。
「この3軒の中から、お気に召した家をお選び下さいとのことです」
丞相であるレオニードが私の部屋を訪れ、テーブルの上に3枚の紙を広げて確かにそう言ったのだ。
「どういう、意味、ですか?」
見当は、ついていた。レオニードの言っている意味も、恐らく予想通りだと解ってはいたけれど、それでも尋ねずにはいられなかった。
「王様は、リコリス様に街へと下るようにと王命を出されました」
――そうして私の側室としての生活は、幕を閉じたのであった。
遂に後宮から出されてしまいました…。