お忍びデート②
食後は未舗装の砂利の街道を少し歩く。緑豊かな広大な農地は、現世で訪れた北の大地を想起させた。
「そういえば、ここでは米は作らないんですか?」
この国の主食はパンがメインだ。白米にありついた記憶がなかったことを思い出し、アイザックに尋ねてみる。
「コメ?」
「イネ科の植物です。水田に水を張って……」
と言いかけたところで、アイザックの双眸が鋭くなった気がした。
「農地に水を張る、だと? どうやってその水が流れ出さないようにする?」
「え、えぇ?! 畔を作る、とか??」
「畔とはなんだ? 詳しく話せ」
「えぇ~……」
久々に白米が食べたいなと思っただけだったのに、どうやらこの国ではこの話題は地雷だったようだ。私、農業に関してはそこまで詳しくないのにと涙目になりながら、アイザックの猛襲になんとか耐えた。そうして話し込んでいると、ぽつりと額に冷たい物が落ちてきたのを感じて空を仰ぎ見る。気付けはそこには鉛色の雲が広がっていた。
「……雨!」
「降りそうだな。急いで街に戻るとしよう」
早歩きで街へと急いでいると、途端に雨脚が強くなる。途中からは必死に走って、何とか街角の屋根の下に駆け込んだ。
「いつまで降るでしょうか……」
未だざぁざぁと石畳を激しく打つ雨粒を眺めながら隣に尋ねる。
「この分だと暫くは止みそうにないな。あと数時間もすれば日が落ちる。今宵はこの街で宿を探した方がいいかもしれない」
アイザックの予想通り、夕刻になっても雨が弱まることはなく、私達は急遽宿を探して一晩を明かすことにした。急な雨に足止めをされたのはどうやら私達だけではなかったようで、何処の宿もほぼ満室になっており、何とか一部屋だけ押さえることができた。
「一部屋しかないが、構わないかい?」
宿の女将の言葉に私が首を振ろうとしたその刹那。
「構わない」
返されたアイザックの言葉に、私の開きかけた口が固まった。
「そうかい、そうかい。うちの宿の壁はあまり厚くはないからね? 隣近所には配慮しておくれね?」
何の配慮が要るというの!!? という突っ込みの言葉は、音になることはなかった。ただ顔を真っ赤に染めて俯くしかない私を、王様はどんな顔で眺めていたのだろう。通された部屋は4畳半ほどの広さで、ベッドも少し大きめのサイズが一つだけだった。
ベッドが一つ……。これ、どうすればいい?
壁際には一つ椅子が置いてあったから、そこに座って夜を明かすしかないかなぁと溜息を零していれば、アイザックが徐にマントを脱ぎ始めた。
「お前の服も濡れているだろう。早く脱いで乾かした方がいい」
そう急かされて初めて自分がかなり濡れていることに気付く。確かにこのままでいれば風邪を引いてしまうかもしれない。上着の襟に手を掛けたその時、壁に掛かっているハンガーに手を伸ばすアイザックを目にして慌てて駆け寄る。
「私がやります」
ここにはメイドなど居ないのだから、私がやらねばと思っての行為だったのだが。
「俺のことはいいから、自分のことをしろ。お前も大分濡れているだろう。早くしないと風邪を引くぞ」
すっと右手で制されて、彼の言葉に従う。確かに指先が熱を失い始めていた。すいすいと服を脱ぎ去っていくアイザックの隣で、のろのろと衣服を剥いでいく。濡れて重くなった服を脱いでいくのはいいが、これは何処まで脱げばいいのか。躊躇う私の隣で、アイザックはこともあろうか上半身の肌を露出していた。
「なっ!?」
彼の隆起した背中の筋肉が目に入り、私はガバッと首を逆方向に向けた。バクバクと早鐘を打ち始めた心臓に、嫌な予感が強くなる。
「濡れたままでいるわけにいかないだろ?」
その通りだけど、その通りだけど! でも、ここには着替えもないのに、どうしろっていうの!?と自分の両肩を抱いていれば、王様はベッドの上から上掛けをばさりと剥ぎ取って、そのまま両肩に掛けた。
「下で湯と上掛けをもう一枚貰ってくる」
そう言いおいて、彼は一階の受付へと向かってしまった。残された私は、この現状にどうすればいいか頭が回らない。雨に濡れた衣類は肌に張り付いて気持ち悪くて堪らなかったけれど、だからといって彼のように裸体を晒すわけにもいかない。そもそも晒せるような裸体を持ち合わせていない。どうすればいい!? と頭を抱えていれば、ガチャリとドアノブが回されてサファイアブルーの頭が現れる。
「まだ脱いでなかったのか。風邪を引きたいのか?」
「引きたくはないです!」
風邪を引きたくはないけど、この場で脱ぐのはもっと無理! と叫び出したいのを必死に抑えていると、アイザックは窓辺のチェストにお湯の入っているであろう桶を置き、中に浸してあったタオルをぎゅっと絞った。羽織っていた上掛けをベッドにおざなりに放ると、彼はすいすいと自分の体を拭き始める。その度にあちこちで隆起する筋肉が、まるで石像のように美しかった。一通り体を拭き終えたアイザックは、桶のお湯でタオルをザブザブと濯ぐと、それを桶に浸したままベッドの上の上掛けに手を伸ばした。バサリと上掛けを羽織ると、アイザックはそのまま壁際の椅子へ向けて歩き出す。ギギッと椅子の足と床が擦れる音が響いたあと、彼は私に背を向ける方向でその椅子に腰掛けた。
「見られたくないんだろ? こうしててやるから、早く脱げ」
瞳を大きく見開いて、彼の広い背中を眺める。そんな風に配慮されるのは、嬉しいことなのか悲しいことなのかよく分からなかった。
けれど、彼の気配りを無駄にするわけにもいかず、私はアイザックに背を向けて急いで濡れた衣類を脱いでいく。一気に下着姿になると、彼の視界に入らないように細心の注意を払って桶のお湯に手を浸した。心地よい温度にうっとりしそうになるが、そんな場合ではないと慌てて浸してあったタオルを強く絞る。暖められた生地でガシガシと体を粗く拭き、タオルを桶に戻すと、先程アイザックが借りてきてくれた上掛けを肩から羽織った。
「そんなに粗く体を擦るもんじゃないぞ。肌が荒れる」
クッと喉を鳴らしてアイザックが椅子から立ち上がる。彼はそのまま湯桶を手にして『返してくる』とだけ言いおいて部屋を出て行った。大丈夫、私の肌は元からそんなに滑々ではないですよと反論する余地はなかった。
間もなく戻ってきたアイザックは、ベッドに腰掛けたまま窓の外を眺めていた。あたしも彼に倣って椅子に腰掛け、ガラス窓を叩く雨を見つめる。何か話した方がいいのかもしれなかったが、この沈黙がそこまで嫌なものには感じられなくて、私はただ黙って流れる雨粒を見ていた。ひゅうっと雨粒の方角を変える強風が時折混じる。その度に建て付けのあまり良くない壁から入り込む隙間風に、少しだけ身震いした。
「寒いのか?」
「少しだけ」
夕立のせいか、外気も下がってきているようだった。その上これだけ濡れた後では、夏でも幾分寒さを感じる。
「……ならば、こっちにこい」
掛けられたその言葉に、私は視線を彼へと向ける。ベッドの上には両手を軽く広げるアイザックの姿。
「いえ、あの、いい、です」
ご厚意はとても有難いが、そんなの無理に決まっている。肩から掛けられた上掛けから垣間見えるのは、鍛え上げられた美しいくらいの躰。そんなものを見せられて、近づけるはずもなかった。
「窓辺より、こちらの方が暖かい」
それはそうかもしれないけれど、でもだからってこんな状況で彼の隣に座れると思う? そもそも私の心臓が持たないと顔を伏せれば、ギシッとベッドが一鳴きした。カツカツと近づいてくる足音に、私の鼓動も加速してゆく。
今、彼に手を伸ばされたら、私はどうしたらいい?
ここには彼の気を削ぐようなゲーム盤もない。
この状況で寝物語を話し始められる訳もない。
側室である私が、王である彼の求めを拒否するだけの大義も持ち合わせていない。
そもそも私は――彼の求めを拒否したいと本当に思っているの?
じっと見つめていた床板に、アイザックのブーツの先が映り込む。思わずぎゅっと瞼を硬く閉じた私の肩に、彼の掌が触れた。
「それなら、お前があっちに座れ。それなら幾分かマシになるだろう」
そう言われた後、ぐいっと肩を押され、私は前に数歩よろめく。
「え? あの……」
「場所を代われと言っている。俺はそこまで寒くないから」
私が居なくなった椅子に腰掛けて、足を組みながらアイザックがそう言い放った。
そうか、なんだ、それだけ、か。
そりゃ、そうだ。
彼は、そういう相手に困ることなんて、ないものね。
「有難う、御座います」
私はそう礼を述べて、先程までアイザックが腰掛けていた辺りに腰を下ろす。シーツに残されていたその熱に、何故だが泣きそうになった。
この格好では出歩けないだろうとの配慮から、夕食もアイザックが下へと取りに行ってくれた。私はベッドにトレーを置き、アイザックは窓際のチェストにトレーを置いて夕食を口にする。室内に響くのはカトラリーの当たる音と、ガラス窓を叩く雨音だけだった。食事が済んだのを確認すると、アイザックが再び階下へと食器を戻しに行ってくれる。何の役にも立たないなと歯痒さを感じていれば、アイザックがすぐに室内に戻ってきた。
「まだ乾かないか」
壁際に掛けられた自分の服の袖辺りを掴んでアイザックが呟く。夏ではあるが、これだけの雨が降っていれば湿度は相当なものだろう。ざぁざぁと窓を叩く雨音は、世界を二人きりにしてしまったような錯覚さえ起こさせる。
「まだ早いが休むか? 今日はあちこち歩き回って疲れただろう?」
窓に向けられていた視線が戻ってきて、そう提案される。確かに体は疲れていたけれど、この状況で眠れるのかは甚だ疑問だった。
「私は、まだ眠くないので。クシュカは先にお休み下さい」
ギッとベッドを鳴らして立ち上がる。どのみち今夜は椅子で過ごすつもりだったから、今の内に場所を代えておいた方がいいだろう。ツカツカと彼の座る椅子の方へと歩み寄ると、彼が徐に立ち上がるのを感じる。このまま場所をチェンジすれば、明日の朝までは安泰だとそう感じたその時。
「顔色が良くない。お前も休んだ方がいい」
突如として手首を掴まれて、そのまま今来た道を返される。
「え?! 何する……」
異を唱えようとした刹那、視界がぐるんと回る。背中には柔らかい綿の感触。手首には熱い掌。ベッドに縫い付けられたのだと気付いた瞬間、どくんと跳ねあがる鼓動。
どうしよう!? 私、遂に避けられない日を迎えてしまった!?
小説の中では登場して間もなく懐妊したリコリス。正妃ナミルの当て馬同然だった彼女に生まれ変わってしまったと気付いたその時から、私は生き延びる術だけを探し続けてきた。
どうすれば、毒殺されずに済むのか。
私が出した答えは、王であるアイザックとイタさないこと。
そうすれば懐妊から免れ、ナミルに毒殺されずに済む――はずだった。
見下ろしてくるアレクサンドライト。それは夜の闇を受けて今は赤紫色に変化している。表紙が擦り切れるほど愛読した小説の主人公。二次元の世界の住人であるはずの彼を想って、何度心ときめかせてきただろう。その彼の視界を、今、独り占めしているのは私だけなのに。
「……早く休め」
上から降ってきたのは、愛を紡ぐ言葉などではなく。焼けるように熱く感じた掌が、そっと手首から外されて。アイザックはそれだけ呟くと、私の隣に横になってしまった。
私は暫しこの状況が理解できずに固まっていた。私を押し倒していたのは、間違いなくこの国を治める王で。私はその彼の側室のはずだった。王と側室でなくとも、密室に若い男女が二人、ベッドに横たわっていたなら、そんな間違いが起こっても致しかたない状況のはずなのに。
こめかみを冷たいものが伝う。そうだよなぁ、王様にはコーネリア様もナミル様も居る。なのに、何を好き好んでこんな貧相な体を抱こうとするものか。自分で望んだ結果のはずなのに、その事実を目の前に突き付けられて、私は初めてその意味の深さを知った。
翌朝は昨晩とは打って変わっての快晴だった。アンヴァルを厩に迎えに行けば、彼は主の姿を見つけて鼻先を擦り付けてきた。王の愛馬の背に揺られて城へと戻る道を辿る。来る時と世界が違って見えたのは、決して日の傾きのせいだけはなかったと思う。
素直になれないのって辛いですよねぇ…。