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虹が欲しい

作者: 柳

 

 小雨が降っていた。

 ぽつぽつと、フロントガラスに雨粒がぶつかる。運転席から見える空はどんよりとした色をしていて、しばらく雨は止みそうになかった。


 目的地に着き、空いている駐車場に車を止める。生乾きのコートを羽織り、助手席の足元に置いた紙袋を持ってドアを開けた。冷たい風に身体が震える。白い息を吐きながら空に向けて折り畳み傘を開き、建物へと足を向けた。


 入り口で傘を畳み、白く無機質な裏口の通路を抜けると、二階まで開けたロビーに出る。今日が休日ということもあり人は少ない。静かなフロアにコツコツと鳴る革靴の音を聞きながら通いなれた通路を進んだ。


 エレベータで四階まで上がり、スタッフステイションにいる看護師さんに軽く会釈して、左側の、手前から三番目にある部屋の前で足を止めた。403号室。地域最大の病院の一室。その部屋のプレートには高橋沙夜様と書かれている。控えめにノックをすると、中から女の子の声で「どうぞ」と声が聞こえ、僕は病室のドアを開けた。


 六畳ほどの個室の殆どを占領するようにある大きなベット。その上には薄い桜色のパジャマを着た、細身の女の子が背もたれに身を預けるように座っていた。


 肩で揃えられた黒髪に、整った顔立ち。憂いを帯びた横顔は、長いこと傍で見てきた僕でもはっとする瞬間がある。ただ、血色はあまり良くはなく、青白い肌に枯れ枝の様に細い腕。とても健康的ではない様は少女の魅力を消してしまっている。


 この部屋に来てからもうすぐ一年が経とうとしている。沙夜ちゃんは日がな一日、この何もないこの部屋で本を読んで過ごしている。同世代の子達は学校へ行き、友達と他愛のない会話を交わし、遊びに出掛ける。そんな、誰もが当然のように過ごしている日々を、この子だけが送れていない。


 さっきまで本を読んでいたのか、それとも手に持っているだけなのか、視線は手元ではなく、何かを求めるよな表情で窓の外を見つめていた。


「こんにちは。体調の方はどうだい?」


 そう言って僕はベットの横にある椅子に腰かけた。


「まあまあよ」


 顔を向けることもなく、淡々とした返事がある。いつも通りということ。


「それはよかった。今日もお土産があるんだけど、食べられそうかい?」


 沙夜ちゃんが小さく頷くのを確認して、紙袋をベットに備え付けてあるテーブルの上へと置き、中から可愛らしくラッピングされた箱を取り出した。沙夜ちゃんはそっと顔を動かして、その箱を見つめ溜息を吐いていた。


「こんなに寒いのに、また並んだの?」


 そう言って飽きられような視線を僕に向けた。


「今日はそれほど混んでなかったんだよ? 雨が降ってたからかな」

「でも、並んでたんでしょ?」

「まあ、そうだね。人気のお店だからね、そこは仕方ないよ」


 ショッピングセンターの一角にある洋菓子店。場所は隅の方にあり、店構えはシンプルで、店内もそれほど広くない。狭いと言っても間違いないそのお店は、いつも人の絶えない。店内に三人も入ればいっぱいになるほど狭く、列に並んでいる時は外で順番を待たなければならない。


 美味しい洋菓子の店にあまり興味がない僕にとって、ここのケーキがどれほどすごいのかはわからないが、雑誌に載るくらいだから美味しいのだろう。そして、ここのモンブランは沙夜ちゃんの好物でもある。


「さあ、食べようか」


 ゆっくりとリボンを解いて箱を開けると、螺旋状のクリームに白い粉が振りかけられた、茶色の大きな栗が特徴のモンブランが二つ。そっと形を崩さないよう慎重に箱から取り出して、一つは沙夜ちゃんの前に置いて、もう一つは僕に。それから、この店のオリジナルである洒落た作りの木のスプーンをケーキの横に添えれば準備は終わる。終わったのだけど、


「こんなに冷たくなるまで、並んでいたの?」


 沙夜ちゃんはスプーンを持つことはなく、僕の手を掴んでいた。沙夜ちゃんの手は温かくて、僕の手は冷たかった。


「今日は寒いからね、手だって冷たくなるよ」


 冬なのだから仕方ないと、僕は伝えた。しかし、沙夜ちゃんはそれでも痛々しそうな顔で僕の手を見つめ、ぎゅっと握って離さなかった。


「どうせ暖房も付けなかったんでしょ? こんなに赤くなるまで無理しなくていいのに」

「無理なんてしてないさ。十二月にもなれば冷たくもなるよ。だから、気にしなくていいんだよ」


 それに、と僕は言った。


「ここのケーキは美味しいからね。寒い思いをしても食べたかったんだ」


 そう言って微笑み掛ければ、沙夜ちゃんは掴んでいた手を僕のほっぺたに持っていき、ぐいっと横に引っ張った。寒さで硬くなった頬をつねられれば力が入っていなくても痛い。


「おじさんは、甘いもの苦手でしょ」


 じろり、と向ける視線と沙夜ちゃんの指摘に苦笑いで返し、ぎこちなく動く口で、さあ、食べようか、と言った。沙夜ちゃんは不満そうな顔をしつつも、まったく、と言って手を離した。その顔のまま沙夜ちゃんはスプーンを持って、モンブランのぐるぐるの部分を掬った。


 ゆっくりと目線まで掲げて、たっぷりと三秒ほど見つめると、勢い良くぱくっと口に含む。一口二口噛みしめると若干ではあるが、沙夜ちゃんの頬が緩んでいた。甘いものは女の子を素直にさせる。そんな微笑ましい光景を見つめていると、ちらりと目を向けられた。


「食べづらいんだけど」

「ごめんごめん。美味しそうに食べてくれるから、嬉しくてね」


 その顔見れるなら寒空の中で耐えた甲斐があるっというもの。むしろお釣りが出るくらいだ。一時間など、大した苦労ではない。


 このまま見つめていたい気持ちは強かったが、確かに見られたままでは食べづらいだろう。まして、好物をじっくりと食べさせてあげたいのに、邪魔をしてしまっては元もこうもない。僕もスプーンを持ち、表面を掬って口へと運んだ。栗味のケーキ。もう少し甘さを控えてくれれば美味しく食べられるかもしれない。


 食後には決まって、桜が描かれた沙夜ちゃんのカップにココアを入れて渡し、黄色のガマガエルの描かれたカップに濃い目のコーヒーを用意していた。甘い物の後の苦いコーヒーは格別で、冷えた体に温かい飲み物が体に染みる。静かな部屋に、ココアとコーヒーのすする音だけがしばらく続いた。


 ふと、部屋の隅の棚の上に、この前に来た時にはなかったものが目に付いた。控えめに装飾された小さなもみの木はツリーだ。可愛らしく装飾されており、てっぺんには金色の星がある。きっと姉さんが飾ったのだろう。あの人はイベントごとが好きだから。


「おじさん」


 ふと、呼ばれて沙夜ちゃんへ顔を向けた。沙夜ちゃんの視線は窓の外に向けられ、その先を目で追ってみれば雨上がりの空に、薄いけれど虹が掛かっていた。七色あるかどうかもわからないほど薄い、アーチ型の儚い虹だった。


 僕と沙夜ちゃんはしばらくの間窓の外を見つめ続けた。数分もすれば虹は完全に消えてしまったが、それでも僕たちはまだ虹の消えた空を見ていた。


「あの虹がほしい」


 虹が消えた空に向けて沙夜ちゃんは呟いた。


「クリスマスプレゼントは、あの虹にしてほしい」


 その言葉にしばらく思考が停止した。困惑の後、窓の外へ顔を向けた。あの虹とは、さっきまで見ていた虹のことだろうか。多分、そうなのだろう。


「確かに何が欲しいか聞いたけど、流石に本物の虹は無理じゃないかな」


 そう言うと、沙夜ちゃんは真剣な顔で僕を見た。


「なんでもいいって言ったのはおじさんだよ? クリスマスプレゼント楽しみにしてたんだから」

「でも、お店で買えるものじゃないからね」

「それでも欲しい」


 無理を、沙夜ちゃんが言った。それはとても珍しいことだった。


 普段から物欲がなく、幼い頃から遠慮がちだった沙夜ちゃんが、心から望んでいる本当に欲しい物をリクエストしてくれるように言った方便だった。もちろんその言葉に嘘はない。それが例え、クリスマスプレゼントの枠に収まらない物でも。高価な、それこそグランドピアノであったとしても、ブランド物のバックでも、宝石でも、手が届く物なら何でも買ってあげるつもりだった。そのくらいの覚悟は持っていた。


「おじさんは、約束守ってくれないの?」


 悲しそうな顔でお願いされると胸が苦しくなる。出来ることなら叶えてあげたい。やっと欲しいものを言ってくれたのだから、無理をしたくなる。でも、現実的に不可能だということは僕じゃなくてもわかっているはず。


「他のお願いにしてくれると助かるかな」


 お金と、労力と、時間で解決するものなら問題はない。何かと忙しい時期ではあるが、時間が作れないなんてことはない。作れないのなら、何もかもを捨ててしまえばいいとさえ思っている。でも――。


「あの虹じゃないと、駄目なの」


 沙夜ちゃんは頑なにそう言い続ける。何が沙夜ちゃんをこれほど惹きつけるのか。年頃の女の子だからかだろうか。あの虹に、特別な何かがあるのだろうか。


「わかったよ。虹をプレゼントすればいいんだね」


 クリスマスまであと二週間。それが沙夜ちゃんの願いなら叶えてあげるべきだと思った。ただ、物理的に不可能で手の届かない消えてしまったあの虹を取ってくるのではなく、身近にある物で作り出すしかない。もしくは人工物でも、鑑賞用の何かが探せば売っているかもしれない。最悪の場合は絵や写真になるかもしれない。それで納得するとは思えないが、そうでもしなければ虹なんて手に入れることは出来ない。それしかないのだと、決めた瞬間だった。


「あじさんが何を考えてるかはわからないけど、あの虹じゃないと嫌よ。本物の虹が欲しいの。持ってきてくれるまで、おじさんとは会わないから」


 僕の考えなどお見通しとばかりに沙夜ちゃんは言った。そして、逃げ場をなくすように、追い打ちをかけるように、それが決定事項だと言うように沙夜ちゃんは言った。この手の悪質な冗談を沙夜ちゃんは言わない。だからこそ、戸惑った。


「おじさん、沙夜ちゃんに何か気に障ることしたかな?」


 ついさっきまでは和やかな時間が過ぎていたように思う。


「おじさんはいつも優しくいてくれてるよ」

「なら、どうしてそんなこと言うんだ? もう会わないだなんて」

「会わないだなんて言ってないよ」


 沙夜ちゃんは寂しそうな顔をして、


「ただね、虹を持ってきてくれるまでお別れなだけ」


 と言った。


「でも、それは……」


 会いたくないと言っているようなもの。拒絶されているのと何が違うのだろうか。無理難題を押し付けられ、それが叶わないなら会わない。


「今日はもう帰って。少し、疲れちゃった」


 沙夜ちゃんはそっぽを向くようにして窓の外に顔をむけてしまった。絶対の意志で僕から背を向けているのだと全身を使って僕に言っている。僕とはもう、話したくないのだと。


 でも、僕はその拒絶する小さな背中に昔の面影を見た。


「おじさんはあっちに行って!」

 まだ沙夜ちゃんが幼稚園に通っていた頃、姉に代わってお迎えに行った際、唐突に言った強い言葉。僕から背を向けて、必死に何かを隠そうと蹲っている後ろ姿と似ていた。


「ごめんね、長居しちゃって」


 コートと手提げを持って別れを告げたが、沙夜ちゃんは何も言わず顔を背けたままだった。


「それじゃあ、また来るね」


 寂しさを抱えながら背を向けてそっと病室を出た。


 ――――。


 沙夜ちゃんは姉の子供だ。僕からすれば姪にあたる。ふたり姉弟で育った僕と姉は仲の良い姉弟だった。僕からしたら姉は年上の女性と言うよりも、兄のような存在だった。それは今も変わらない。


 社会人になっても付き合いは続き、結婚して子供が生まれても時々、遊びに来い、と連絡が来る。そんなものだから、沙夜ちゃんとは赤ちゃんの頃からの付き合いになり、日に日に大きくなっていく姿を見てきた。容姿は姉に似たが、落ち着いた静かな性格は大らかな旦那さんに似た。


 小学校の入学式には僕も参加したし、毎年の家族旅行にも連れて行ってもらった。自分の子供と言うほどではないものの、それに近い感情が僕にはある。


 姉に逆らえなかった僕だけど、沙夜ちゃんと姉が喧嘩した時は、沙夜ちゃんの味方になれた。ピアノの発表会には旦那さんに代わってビデオ撮影をして、中学三年の時は有名な学業の神様にお願いしに行き、お守りを渡した。


 受験当日には車を出して、高校まで送っていった。ハラハラし続けた僕とは対照的に、沙夜ちゃんは落ち着いていて、大丈夫だから、と呆れながら僕に言ってくれた。


 些細な日々も、大切な節目の瞬間も見てきた。多くの時間を共有した。それでも、歳を重ねていく度に、沙夜ちゃんが何を考えているのかわからないことが増えていった。「そんなものよ、子供なんて」と姉さんは言っていたけど、それが僕には少し寂しくもあった。


 沙夜ちゃんが困っているなら助けてあげたい。話がしたいなら聞きたい。たいていの事はそつなくこなしてしまう子だけど、僕の力なんて借りる必要もないくらい自立している子だけど、僕からすればまだ子供。「子供扱いしないでよね」なんて言われたこともあるけど、それでも、僕たちの大切な子なのは変わらない。


 僕の両親も、相手方の親も、親戚も、友達も、みんな沙夜ちゃんのことが好きだ。それなのに高校生の一番楽しい時期に、沙夜ちゃんは寂しい病室の一室にいる。


 沙夜ちゃんには未来がない、それがほぼ、確定してしまっている。


 ――――。


 病院を出て車に乗り、まっすぐに東へ車を走らせた。それから二時間が経って、今は夕暮れの山道をゆっくりと走っている。そして、おおよの目安であった、山の中腹にある高い鉄塔の真下で車を止めた。


 病室から見えたあの虹は薄く、地上付近は消えていた。それでも、目に見える距離に虹はあった。近くはないが、行けない距離でもないからと来てみても答えは見つからない。運転席から空を覗いたが、そこに虹があるわけもない。


「虹が欲しい、か」


 その言葉の意味を噛みしめながら、来た道を引き返し、帰り道にあった本屋へ寄った。


 ――――。


 病院に戻ってきた時には辺りは暗くなり、面会時間も過ぎていた。もう会わない、と遠回しに拒絶されている。その言葉が本心かどうかはわからないけど、それでも一目だけでも会いたくなって、僕はおみあげを片手に再び病院内へと足を踏み入れた。


 受付の人には忘れ物を届けに来たと伝えれば、短い時間ならばと面会が許された。そうまでして会う必要があるのか自分にもわからない。ただ、寂しそうな沙夜ちゃんの横顔が忘れられられない。


 エレベーターが止まり四階に着くと、いつになく慌ただしい声が聞こえてきた。声のする方向に胸騒ぎを覚えつつ、足早になる足を止めることなくまっすぐに進んで行った。声はどんどん大きくなって、呼吸も早くなっていった。


 403号室のドアは開いていた。部屋の中から看護師さんの大声が聞こえてくる。そっと、足を前へと踏み出してベットが見える位置までやってきた。


 沙夜ちゃんのベットは赤色に染まっていた。まるで、バケツ一杯の真っ赤なペンキを掛けたように染まっている。沙夜ちゃんは眠っていた。ベットの上で目を閉じていた。この、異常な部屋で眠っていた。何が起きているのかわからなかった。


「すみませが、外で待っていてください」


 容赦のない声と、切迫した表情で看護師さんが僕を部屋から追い出した。僕は廊下の椅子に座り、部屋の様子を眺めていた。


 頭がぼんやりとして、心臓の音が耳にまで聞こえてくる。騒がしい声はいつの間にか遠く聞こえて、自分が何処にいるのかもわからなくなっていた。ただ、目の前に静かに眠る沙夜ちゃんの寝顔と、血に染まった果物ナイフと、手首のから広がる血の色が目に焼き付いていた。


 沙夜ちゃんが部屋から運ばれて手術室に入っていった。それからしばらくしてあの部屋で何が起こったのか看護婦さんが丁寧に教えてくれた。それからまたしばらくが経って混乱が落ち着いてくると、次に後悔が胸に押し寄せてきた。もう戻れないというのに。


 沙夜ちゃんの心臓は、その日に止まってしまった。


 失血死。もともと病魔に侵された体は弱っていて、多量の血液を失うことは致命的だった。自殺だった。


 駆けつけた姉も、両親も、沙夜ちゃんの突然の死に驚きはしたものの、放心するほどではなかった。ただ、静かに泣いていた。僕だけが泣いていなかった。


 それからは流れるように時間が過ぎていった。僕の隣には常に誰かが居て話し掛けてくれた。そうしているうちに葬式が終わっていた。


 その日の帰りに僕は病院へ寄った。すでに403号室に名前はなく、開け放たれた部屋の中も静かだった。ふと、遠くから名前を呼ばれた。顔を向けると、よく見かける看護師さんが僕も元へやってきて、一枚の折れた紙を僕に手渡した。看護師さんが言うに、引き出しの中に入っていた僕宛の手紙だと。


 それだけ伝えると、看護師さんは仕事に戻っていった。僕は手紙を一瞥し、誰もいない病室へと入った。


 何もない部屋。ここに、沙夜ちゃんが居た痕跡は何一つない。寂しい部屋だった。手紙を開いてみる。


「おじさんへ。

 まず、ごめんなさい。突然のことで驚いていると思う。でも、勘違いしないで。これは自殺です」


 沙夜ちゃんの字。


「多分、みんな悲しんでるよね。ごめんなさい。でも、もう、辛い。痛いのも、苦しいのも限界みたい。今まで頑張ってきたいけど、もう、いいかなって思ったの」


 沙夜ちゃんが苦しんでいるのは知っていた。辛いのも伝わってきていた。でも、僕達は何も出来なくて、ただ、傍に居ることしか出来なかった。


「私、頑張ったよね? 精一杯、生きようとしてたよね? おじさんなら、わかってくれるよね」


 薬が効かない日があった。痛みと吐き気で、何も食べられない日々が続いたこともあった。それでも、沙夜ちゃんは弱音も吐かずに頑張っていた。


「虹が欲しいって言ったは嘘なんだよ。おじさんを私から遠ざけたかったから、嘘をつきました。ごめんなさい」


 知ってたよ。でも、どうして?


「おじさんは、いつも私のことを一番に考えてくれていたよね。昔からずっと。誰よりも大切にしてくれた。優しくしてくれた。我儘だって、なんだって聞いてくれた。そんなおじさんが大好きなんだよ? 知ってた?」


 知ってたよ。だって僕も大好きなんだから。


「おじさんはきっと、自分の所為だって思うかもしれないけど、そうじゃないんだよ。これは私が決めたこと。後悔はしてないよ」


 だけど。僕はまだ、沙夜ちゃんに生きていて欲しかった。


「遅かれ早かれ私は死ぬのが決まってたから。弱って何も出来なくなる前に、死ぬ時は自分で決めたかった。 いつケーキが食べられなくなるかもわからない。そのうち起きていることも難しくなって、お喋りだって出来なくなるかもしれない。ずっとベットに横になってるだけで、みんなを見てるだけだなんて耐えられない。もう、悲しい顔を見たくない。惨めな姿を見せたくない」


 沙夜ちゃんが抱えていたモノを、僕は理解してあげられていなかった。


「だから後悔なんてしてないんだよ。でも、ごめんなさい。親不孝な娘でごめんなさい。こんな私ですが、最後のお願いがあります。どうか、悲しまないでください。泣かないでください。後悔しないでください。自分を責めないでください。私は幸せでした。だから、みんなも幸せになってください」


 手紙を読み終えても、僕はその場で立ち尽くしていた。涙が止まらなくて、嗚咽が漏れるのを必死に抑えていた。泣かないで、と言った沙夜ちゃんの最後の願いは守れそうになかった。


 沙夜ちゃんが何かを隠しているのはわかっていた。それなのに、見逃してしまった。それが僕に向けた最後のサインだったのかもしれないのに。止めることが出来たのは僕だけだった。


 どうして、気付いてあげられなかったのだろう。隠し事をしている沙夜ちゃんを見るのはこれで二度目だと言うのに。どうして、僕を最後にしたのだろう。どうして、今度は話してくれなかったのだろう。


 それだけが、いつまでも、わからない。


 ――――。


 沙夜ちゃんは梃子でも動かないとばかりにしゃがみ込んでいた。それでも辛抱強く質問し続けると、沙夜ちゃんは次第に困るような顔で僕を見つめてきた。そして、そっと立ち上がって僕に向き合った。


 沙夜ちゃんは申し訳なさそうな顔をして、擦りむいて血が流れる膝を見せた。僕は慌てて水道水で砂を落とし、消毒と絆創膏を貰い、簡易的な治療を施した。


 帰り道の車内で、どうして怪我を隠していたのかと尋ねると、沙夜ちゃんは小さな声で僕だけに教えてくれた。


「怪我の事を知ったら、みんな悲しむから、だから、みんなには内緒にしてね」

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