裏切り暗殺者は王子様の夢を見ない
裏切り者の私の前に、一人の憎悪が立っていた。
「はっ……はっ……」
それはくすんだ銀色の髪をしていた。月明かりだけが照らす夜でありながら、濃い緑と藍色の虹彩異色の瞳は異様に光っている。蠢く瞳が不気味な残像を残す。身につけているものは粗末に見える革鎧と、厚手のコート。手には指ぬきの武骨なグローブをはめ、過酷な山道も踏破できそうなブーツを履いている。
まだ若い。しかしその顔を黒々とした感情で醜く歪めていた。武器は持っていない。でもそれにとっては無手であることが、完全武装の証だった。
それは姿勢を少し前に倒し、ギロリと私をにらんできた。
「帝国か」
地の底からにじみ出てくるような声。私の全身が鳥肌立った。息は浅くなり、冷や汗が流れて止まらない。こみ上げてくる吐き気と後悔。震えで膝から崩れ落ちてしまいそうになるのを必死になってこらえる。
「目的は……まぁいいか」
ズルリと、憎悪に身を浸した男が一歩を踏み出した。“透徹の暴霊”と呼ばれる王国最狂の男は、帝国に組みした人間を絶対に許さない。この男は同じ王国の兵士を殺してでも、帝国の人間を殺そうとするのだ。
私の後ろにはバラバラに切り刻まれた王国兵の死体の山。ここは王国の陣地のど真ん中。時間は深夜。死んでいるのは見張りの王国兵たち。私がやった。私が殺した。
私は帝国の暗殺者。帝国に与えられた任務は戦争をしている王国の国王を暗殺。
「はは」
私の口から乾いた笑いがこぼれた。何も知らない人間が聞けば暗殺者としての腕前をよほど信頼されていると思うのだろう。でもそれは違う。
私は捨てられた。帝国はこれまでに国王の殺害を百回は試み、その全てを失敗に終わらせていた。それには色々な理由があるけれど、国王自身が埒外の使い手であることが大きい。
そんな相手に暗殺者一人を仕向けたところで成功するはずがないのだ。でもどうして私がその任務を受けさせられたかは分かる。
「私だって、裏切りたくて裏切ったわけじゃないのに」
「死ね」
小さな囁きは男には、王国最強の一角“玉石”には届かない。“黄の玉石”、“透徹の暴霊”と呼ばれる化け物は私の意識の間隙を縫うように接近してきた。
ひっ!と短く息を吸いこむ。目の前に死が迫る。しかし、硬直する意識とは裏腹に、鍛え上げた体は勝手に動いてくれる。
私は“透徹”が突き出した手を避けるように、身を伏せて転がっていた。
同時に暴風が私の真横を突き抜ける。私の髪が風に巻き込まれてちぎれていった。“透徹”の手には、いつの間にかに奇怪な細剣が握られていた。奇妙に細長い刀身に鍔替わりのリボルバーと引き金を取りつけたような武器。『六色細剣』と呼ばれるその武器の先端から、私を殺すための暴風が吹き出したのだ。
かろうじて初撃を躱した私を“透徹”はギョロリとした目で見た。口元に醜悪な笑みが浮かぶ。
「くそ」
私は“透徹”と戦うべく、細い指先から糸を伸ばした。昼間でも視認することが難しいほど細い糸。闇夜であれば尚のこと。
腰の直刀はまだ使わない。
「エロダイ オチ エオトム イトニ」
相手は何千という帝国兵を虐殺してきた“透徹”だ。矮小な暗殺者でしかない私が勝てるだなんて思ってない。でも悪あがきはさせてもらう。いつもの手順だ。白の精霊術を使い、糸を自在に動かせるようにする。
「へぇ」
真っ黒な闇が蠢くみたいに、“透徹”が動き始めた。彼の周りの空間が歪む。逃げろ。逃げろと暗殺者としての私の本能が叫びを上げる。弱い私の心が軋みを上げる。
「でも」
逃げられない。頭をよぎるのは一度だけ見た彼の姿。私が見た中で誰よりも勇ましく、覇気に溢れていたあの人。
かつての王子様。今の王国国王グランヘルム・レクスティア・オウルファクト。私はあの人にもう一度だけ会いたくて、そのために今此処にいる。
「まだ死ねないんだ」
虚空から現れ、“透徹”の周囲に十のナイフが展開される。月の光を反射しない黒塗りの刃が、私を殺すために解き放たれた。
*
私、ジリア・ハントラントは王国に生まれた。両親の職業は暗殺者。王国が昔から持っている隠密の集団“影衆”。ハントラント家はその中でも特に暗殺に特化した一族だった
「王国のため、国王のために全てを捧げよ」
厳格な父は幼い私にいつもそう言って聞かせた。暗殺者は自分のためではなく、使える主のために人を殺す。身勝手で傲慢な行為だ。その身勝手で傲慢な行為を是とするよう、私は昔から教育を受けていた。
「分かりましたお父様」
暮らしていたのは王都。しかし幼い私は町の大通りにも、仕える主がいるという王城にも行ったことがなかった。ハントラント家の決まり。子どもは半人前として認められる十二才になるまで外には出さない。毎日毎日人を殺すための訓練を続けるのだ。
どこを刺せば人は死ぬか。相手の意識から逃れるにはどうするか。武器の使い方から呼吸の仕方一つにいたるまで。無論、訓練は過酷で、耐えきれずに兄弟たちは何人も死んでいった。父は何人もいる妾に次々子どもを生ませ、過酷な環境に放り込み、才能のある子を選別していった。
今でならそれが狂った行為だと分かる。でも世間知らずな私はそれをおかしいとも思わず、毎日の訓練をこなしていた。こなせるだけの才能が私にはあった。
「ジリア。お前は素晴らしい。かつてハントラント家にお前以上の才能を持った人間はいなかった」
一日の訓練が終わり、私以外の全員が倒れているのを横目に、父が言った。私と、私以外の全員とで戦って、私が勝ったのだ。
「ありがとうございます」
父の言葉に頭を下げる。私の言葉は空虚だった。父から褒められた。だから礼を言う。教えられたプログラム通りの行動。
「うむ」
なのに、父は私に満足そうに頷いた。私は息も絶え絶えな兄弟たちを見る。父を見る。世界には色がある。
でもなぜか私の目には全部がモノクロに見えた。
私が初めて国王に会ったのは私の十二才の誕生日。私が生まれた日を父は祝うでもなく、王の前に連れていき、実力を証明するという名目で、罪を犯した王国兵を殺させた。
「よいな」
私が殺した王国兵が何をしたのかは知らない。訓練をさぼっていただけかもしれないし、もしかすると国王の妾か、娘にでも手を出したのかもしれない。
ともあれ、ぶくぶくに太った王はバラバラになって殺された兵士を満足そうに眺めた。そして私ではなく、父に向かって言った。
「この娘は儂の長男の護衛にしよう。見習い風情が直接顔を会わせるわけにはいかんが、周囲を守るくらいのことはできよう」
「あ……ありがたき幸せ」
父は王の言葉に少なからず動揺していたが、すぐに押し隠して頭を下げた。下げた頭はきっと怒りか恥辱に染まっていたと思う。
なにせ当時、国王の息子グランヘルム・ウァンティア・オウルファクトはとんでもないぼんくらとして知られていたからだ。ぼんくらの護衛。しかも近くからではなく、遠くから。
明らかな閑職だ。父にとって私は最高傑作で、一息の間に兵士の体をバラバラにしてみせた私の技量は半人前の領域を超えていたから。
「王は物の価値をお分かりではない……ッ!」
家に帰って父は絞り出すように呟いていたのが印象的だった。
ともあれ、私は王子の護衛の一人となり、半人前ながらも“影衆”に入ることとなった。
*
私の一日は大きく変わった。今までは朝起きて眠るまで人を殺す訓練ばかりしていたのに、今は来るかも分からない、顔も知らない王子の護衛をする毎日。王城の中をうろうろして、王子を害そうとする者たちを探る日々だ。
全く仕事がないわけではなかった。第二王子や王女の側近が第一王子を殺そうとする話を聞いて、先んじて計画を潰したり、謀反の企みを聞いて父に話を通したり。
王の目となり、耳となり。私はモノクロとした日々を過ごしていた。
守るべき相手の顔もろくに知らない。しかし王子が私という存在に気づいていることは知っていた。私が出向く場所によく、王子の署名の入った手紙が置いてあったからだ。内容は短く、他愛ない日々の文句が書かれていた。
「ふふっ」
その手紙は楽しみなど知らなかった私にとって、唯一の楽しみとなった。手紙を読んでいる時だけ、私の目には世界が淡く色づいているように見えた。手紙からは悪戯っぽい王子の性格が透けて見えて、手紙には王子としての退屈な毎日が滑稽に描かれていた。
今思えば、姿を見せたこともない隠密の動きを把握し、私にだけ見られるように手紙を置くなど、ぼんくらであればできるはずのないことであった。多分王子は私を勧誘していたのだと思う。“影衆”の立場を捨てて俺だけの部下になれと。後々の王子を見れば、その推測は正しかったはず。
誤算と言えば、世間知らずな私は自分が来るところに手紙があるという異常事態を異常と思っていなかったことか。きっと王子はがっかりしたに違いない。
一年、二年、三年と、私と王子の手紙だけでつながった関係は続いた。時が経つにつれて、私の能力が影衆の仲間たちを通じて王に伝わり始めた。そこで初めて王は私を別の役職にしようとしていたが、私はのらりくらりとその命令をかわし続けた。今の役職を離れれば、王子との奇妙な文通が途切れてしまうと思ったのだ。
父からも強い締め付けがあったが、私は今の自由に動ける役職の方が働けるといい、それもまた真実だったから第一王子の護衛を外されることもなかった。
そして私が護衛となって四年。十六才になった時。
帝国が王国に戦争を仕掛けてきた。
*
私の住んでいる王国は小国だ。いいところと言えば、他国よりも精霊術が盛んなことくらい。優れた為政者がいるわけでもなく、豊かな土地があるわけでもなく。
隣に自国の数十倍の土地を持つ強国帝国がこれまで攻めてこなかったのは、単に攻めるだけの価値がなかったというだけ。
帝国の進軍の報告に、王国はパニックに陥った。王国と帝国では国力に隔絶した差がある。その上長年まともな戦争を経験していなかった王国や国王からしてみれば、どうすればよいのか分からない。国王は早々に降伏勧告を送ったが、まず敗北はありえない戦争。聞き入れられるはずもなかった。
混乱の中で、父はハントラント家と家に従う“影衆”を呼び出して、とんでもないこと言った。
「王国を裏切り、帝国に恭順する」
それは王国のために尽くせと教育された私にとってはありえないことであったが、他の者たち、特にハントラント家以外の者には納得のいく考えだったらしい。誰だって沈むと分かっている船には乗りたくない。しかし、帝国もただで寝返らせてくれるとも思えなかった。
だから、
「ジリア。俺は王国の機密情報を抜いて手土産にする。お前は第一王子の首を持ってこい」
父の言葉。私が否と言うなどと微塵にも考えていない顔。私の頭に王子の手紙が浮かんだ。変わりない日々を彩ってくれた王子の手紙。でも、
「わかり、ました」
父は必死だった。兄弟たちも死にたくなくて必死だった。私は王子を殺さないとは言えなかった。少しずつ色づいてきた世界がまたモノクロに見えた。
その夜、私は王城の中を歩いていた。黒装束に灰色のローブという“影衆”の衣装を身につけ、誰にも気取られないように進む。
帝国に対してどうするかということばかりに気を取られている彼らは、誰一人として私の存在に気づかなかった。
そして私は王子が寝ている部屋の前に立つ。仮にも王族が眠っているにも関わらず、警備も何もない有様だった。暗殺して欲しいのかと思う程ザルな警備。数瞬のためらいの後、私は扉に手をかけた。
殺しは簡単だ。眠っている青年を殺すだけ。王子は今年十九になるが、精霊術の心得も武術の心得もないらしい。気配を殺すことに長けた私に気づくはずがない。仮に気づけたとしても、私には王子を殺せる自信があった。
そう、思っていた。
「よう。直接顔をあわせるのは初めてだな」
そっと扉を開くと、そこにいたのは眠りこんだぼんくら……ではなく、不敵に笑う青年だった。
「あ……なんで」
王子と目が合い、私は腰を抜かす。王子は背後に業火を背負っているかのようだった。赤い。モノクロな色彩に慣れた私には、その赤は目に痛すぎた。へたりこんだ私に王子はくくっと笑ってみせた。
「何てことはねぇよ。帝国が王国に戦争を仕掛けてきた。帝国は強く、王国は弱い。なら帝国に寝返ろうと考える輩がいることも当然ありうる。そんで、寝返るには手土産が必要だ。ならぼんくらであっても第一王子の首は、もってこいの品じゃねぇか」
それが分からねぇからクソ親父は無能なんだ、と王子は悪態をついた。私は王子の言葉を腰を抜かしたまま聞いていた。これが噂に聞いていたぼんくら王子?ありえない。
目の前にいるのは紛れもない大器の王だ。
「んで、お前は“影衆”の名家ハントラント家の一人だったろ?とすれば“影衆”の大半が裏切ったことになるか。ははっ!これで親父はもう駄目だな。貴族に権利の一部を食いつかれ、腹心は裏切った。頼りになる奴は大概俺の配下だ。これで余力を残して王位を手に入れられる」
王子はようやく立ち上がった私に構うことなく独り言を続ける。計画を楽しそうに語る姿はまさしく手紙から想像した悪戯小僧と同じ姿で、一介の暗殺者が本当に王子と文通をしていた事実が染みてくる。
「さて、と。実はな。俺の寝所に入り込んだ暗殺者はお前で三人目だ」
王子は腰掛けていたベッドから立ち上がると、側に置いていた剣を手に取った。私を見つめる瞳にあるのは不敵さと絶対の自信。勝てない。暗殺者として修行を積んだ私の勘が告げていた。
「なら他の二人はどうなったかって?ま、言わずとも分かるよな。そいつらはすでに俺の剣の錆さ。見どころもない奴だったから、殺すのにためらいもなかった。だが」
ふいに王子が表情を緩めた。王子の表情につられて私も息をはく。
「お前は違う。手紙を何度も送ってたろ?面白いなって思ってたんだよ。俺は帝国との戦争に勝つつもりだ。勝てはしないまでも休戦くらいには持ち込んでやる。そのためにあのクソ親父を王から追い出すつもりだ。どうだい?あんたも帝国、ハントラント家じゃなくて、俺を選ばないか?実は前から目をつけてたんだ。中々話す機会がなくて、こんな状況になっちまったけど、後悔はさせない」
ドクン、ドクンと私の胸が高鳴っているのが分かった。この人は王なのだ。不敵な態度も、傲慢にすら聞こえる言葉も、彼が言えば何もおかしさを感じない。それだけのことをやってみせるだろうと、そう思わされる。
「どうだ?」
王子が私に向かって手を差し出した。マメだらけの苦労人の手だ。才能だけではない、努力もしている者の手だ。
気づけば私は敵意を失い、王子に向かってフラフラと足を踏み出そうとしていた。父の顔が頭に浮かぶ。私は息をつまらせた。
どうする?どうすればいい?私は王子のもとへ行きたい。彼の下で働きたいと思う。でもそうすれば他の皆はどうなる?父はもう引き返せない。きっともう帝国と渡りをつけて、準備をしている。もし私が裏切ったら?ここで王子の手を取れば、他の皆はどうなるというの?
殺される。父や兄弟たちの顔が頭に浮かんだ。厳しい修行を強いた父を父と思う愛情はない。過酷な訓練を共に乗り越えた兄弟たちも兄弟というよりも仲間だ。
私を取り巻く世界はモノクロ。この世界の中で王子だけが赤い。その赤は私の目を焼いてしまう。
兄弟たちはモノクロで、でも仲間なのだ。私の命は私一人のものじゃない。だから。
「ごめんなさい」
王子を前に、私は頭を下げた。私は彼らを裏切れない。この首をそのままあげてもいい。そう思って私は首の後ろが見えるくらい頭を下げる。
「そうかい……そりゃ残念だ」
王子はそう言うと、剣を放りベッドに寝転がった。
「あの……」
「行きな。こうなっちまったのは残念だけど。それもまた、だ。俺はあんたを殺すつもりはないよ。だから行きな」
それっきり、王子はくあっとあくびをして本当に眠ってしまった。豪胆すぎる。もし彼についていけたら。最後にそう思ってから、私は王子の部屋を後にした。
王子の命を奪うことができなかった。私の話を聞いて、父は怒り狂って私を殴りつけた。殴り、蹴り、痛めつける。でも彼は私を殺さなかった。ハントラント家にとって最大の手土産は優れた暗殺者である私だ。だから父は私を殺さない。手放さない。
そのまま私たちは王国を裏切り、帝国の一員となった。そして厳しい洗礼を受けた。
*
「なぜだ!なぜ私を殺す!私は約束を守ったではないか!」
「あぁ。しかしお前は一度王国を裏切った。そういう奴はこれから先何度も裏切る。そんな奴はいらないんだよ」
父が渡りをつけたのは“七天将”という、帝国でも特に地位の高い男だったらしい。見た目はただのチンピラであるにも関わらず、周囲から頭領と呼ばれ、恐れられる男に、父はなすすべもなく殺された。
「ったく。帝国がお前みたいな雑魚を味方にするわけないだろうが。ちっとはその腐った頭で考えてみろよ。なぁ、嬢ちゃん?」
頭領は私に微笑みかけた。父を殺した返り血の付いた顔で笑われ、私は黙って頷くしかなかった。
そして私は帝国の隠密“鴉場”の一員となった。一員となった、と言っても当然真っ当な構成員としてではない。他の兄弟仲間を人質にされた上での、半分奴隷のような扱いだった。
王国にいた頃の平穏さは影をひそめ、十二才までの過酷な生活を思い起こさせる毎日。私は頭領のそばで命令を受けて、人を殺し続けた。帝国の敵は王国だけではない。帝国は周囲の国とも戦争をしていて、私はそちらに駆り出された。
来る日も来る日も人を殺す日々。王国のことなど忘れてしまいそうになるほどだった。失敗すれば、その度に人質が一人殺される。私が不満を見せれば確実に失敗する任務を言い渡される。そして人質が殺される。殺された死体は決まって私の寝所に捨て置かれた。気づけばモノクロだった世界はさらに色を失い灰色へ。全てが同じものに見えた。
「お前には同情するよ。生みの親に体のいい道具にされて、今は元敵国の俺にこき使われる。失敗は許されない、だからと言って優しくするつもりはさらさらねぁがな」
心を削る環境。すさんだ灰色。帝国に来てから二年。私は帝国に逆らおうとも思わない人形になっていた。人を殺すことを何とも思わない。帝国のためとも思わない。仕事がある。だから殺す。頭領が求めていたのはそんな殺戮人形で、私は一個の道具だった。
二年の間に私は何度も失敗を重ね、そしていつしか人質は一人もいなくなっていた。ジリアという殺戮人形を完成させるために、皆は犠牲になったのだ。
もし、と摩耗した心で考える。もし私があの時王子の手を取っていれば、私が王子の元にいれば。こんなことにはならなかったのかもしれない。もしかしたら父を止められたかもしれない。もしかしたら、皆も死なずに済んだのかもしれない。もしかしたら……
そう思いながら私の手は勝手に動く。帝国の敵を殺す。私が軽く腕を振るだけで誰もがバラバラになって死んでしまう。
仕事に失敗はない。でも血と臓物の上で私は物思いにふけることが多くなった。それがまずかったのだろうか。
酷薄な顏で頭領は私に一つの仕事を言い渡した。それが王国の国王の殺害。私の王子様の殺害だった。
灰色の視界に、わずかな赤色が見えた。がらんどうの胸に、一瞬温もりを感じた。
*
「あくっ!」
「きはっ!死ね死ね死ね死ね死ね」
強い。ただただ強い。“透徹”はおぞましい笑みを浮かべて私に襲い掛かる。私はそれを凌ぐので精一杯だ。
これが“透徹”。王国は帝国との圧倒的国力差を、個の力でひっくり返した。“玉石”と呼ばれる六人の人外じみた精霊術士。“透徹”はその中の一人だ。
“透徹”が撃ち出したナイフは私の指から伸びる糸で払い落した。両手の指は十本。その指から二本ずつ、合わせて二十本の糸を操るのが私の培ってきた殺し方だ。
目に見えないほど細い糸を操り、標的だけを糸で切り殺す。一本を操るだけでも困難なそれを二十同時に操れたからこそ、私は帝国に使われた。
でも“透徹”はそんなものただの小手先の技術だと言わんばかりに襲ってくる。
「うぅぅぅ!」
私は指先を細かく目まぐるしく動かし、縦横無尽に糸を動かす。“透徹”を包み込むように動かした糸。背後から突き刺すように伸びた糸。地を這うように迫る糸。“透徹”はそれを細剣で払い、生み出した水の塊でそらし、風でずらす。
非力な糸は吹き飛ばされ、私と“透徹”の間に道ができる。
「ひはっ!」
振り下ろされた細剣を横っ跳びに飛んで回避。V字を描いて追ってきた細剣は身を反らしてかわす。滑るようにして距離をつめてきた“透徹”の蹴りは、糸で薙ぐことで凌いだ。
「の……」
「はひっ!」
ガチンと細剣のリボルバーが回転する。“透徹”の口が「エタナウ」と動く。私の細胞一つ一つがけたましいサイレンを響かせた。一もなく二もなく全力でその場から逃げ出す。
途端に私のいた大地が大きくたゆんだ。大穴が空き、穴の縁からうねる砂が上がる。その砂は私に向かって飛んでき、躱しきれず砂嵐に飲みこまれた。
まずい。目が見えない。耳も聞こえない。でもサイレンは鳴りやまない。反射的に糸を私の周りに繭のように展開する。白の精霊術を調整。斬撃から衝撃を受け止める形に。私の背後の糸がたわんだ。押し飛ばされて地面に転がり込む。
回転する視界の端に、嗤う“透徹”の姿が見えた。“透徹”はリボルバーを回転させ、細剣の先を私に向ける。
両手を目一杯開く。繭のようになっていた糸が押し開かれて私の体は宙に浮く。流れる水の刃が真下を通り抜ける。違う。通り抜けただけじゃない。流水の剣は蛇のようにしなって私に迫る。まずい、まずい、まずい!
「っぁ」
私は糸を動かして流水の剣を包み込む。私の糸がただの糸なら糸は水を通り抜けるだけだろう。でも私の糸は違う。
精霊を通しやすい聖銀合金で作られた糸に通しているのは白の精霊術。白の精霊術の性質は「生命」だ。私は精霊術で糸にある種の命を与えると同時に、つかめないものでもつかめるような性質を付与することができる。
流水の剣を絡めとり、無理矢理流れの行く先を“透徹”に捻じ曲げる。戦いが始まって初めての反撃。しかし“透徹”は全く動揺することなく、精霊術の発動をきり、流水の剣自体を消失させた。
“透徹”の顔がさらに歪む。流水の剣に続き、パッと細剣が消え、代わりに虚空からライフルを取り出した。
ジャキン。銃口の先が私の額に向く。引金が引かれる。撃ち出された鉛玉は首を反らして回避する。
その瞬間、“透徹”が私の距離と詰めてきた。取り出したばかりのライフルを鈍器にして殴りかかる。見ればライフルの銃身は真赤になっていた。使い捨ての精霊器。当たれば衝撃と熱で殺される。
糸で受け止めると、同時にライフルが消える。力の向けどころを失い、糸がばらけて制御不能になる。その合間に“透徹”が拳を握る。さっきまでなかったはずなのに、拳には鋼鉄の棘のついたメリケンサックがはめられていた。おそらくあれもただの武器ではない、“透徹”は精霊器をよく使う。何かしらのギミックがあるはずだ。
例えば棘が体内に食い込んだ瞬間、体内で爆発するとか。
ならあの一撃は受けられない。王国にいた頃の私であれば躱しきれずに死んでいたはず。でも帝国で殺し続けた二年間が。失敗を恐れて頭領から見盗った技が私を生かす。
意識するのは体内を巡る“気”。王国でいうところの無色の精霊を極限まで活性化され、その動きを支配する。
王国は有色の精霊を操ることに長けているが、帝国は無色の精霊を操ることに長けている。根幹は同じもので、王国での下積みがあったからこそ、私は頭領の技を盗むことができた。
無色の精霊は体の中を絶えず動き続けている。その動きに干渉。物理法則に反する動きを実現する。
「っつ!!」
“透徹”の拳が撃ち抜かれる。その動きに合わせて私の体も動く。私は体を一切動かすことなく、真後ろにスライドした。
「はっ!」
“透徹”が止まり、私も止まる。攻撃をかわされたというのに、“透徹”は嬉しそうに笑みを浮かべた。“透徹”の緑色の義眼が私の動きを微塵も見逃すまいと蠢き、妖しく光る。
「こうだな」
そして“透徹”は体を一切動かすことなく、体を前にスライドしてきた。目の前に“透徹”がいる。しかし今しがた起こったことに、私は動けないでいた。
気の操作による強引な肉体駆動。私はこの技を何年もかけて、頭領から見盗った。だから誰かに見盗られてもおかしくない。
でもたった一度、一瞬見せただけで見盗られるなんてあんまりじゃないか?
「きひっ!」
腹部がねじれるような衝撃が走った。“透徹”の蹴りが横腹にめり込んでいた。ベキベキと音を立てて骨が砕け、内臓が音もたてずに破裂する。真っ暗な夜の景色が白に染まり、静寂が耳鳴りに侵される。
「ぁ」
飛んだ。落ちた。衝撃。吐いた息と一緒に口から真赤な血がこぼれた。手足がしびれて動かない。口から吐き出される血が止まらなくて、息ができない。
「死ね」
“透徹”が来る。私に決定的な一撃を与えたというのに、“透徹”には一ミリの油断もない。帝国の人間を殺すために、“透徹”は一切の妥協をしない。
王子様。グランヘルム様。彼の顔が頭をよぎる。会いたい。死にたくない。擦り切れて、仲間を皆失った私の最後の希望。灰色の世界に唯一輝く赤色。死ぬ前にどうか一目でも。あの人に。
「……ぃあ!!」
指先はもうろくに動かない。だから私は糸をよじってまとめる。二十の糸を二つの鞭に。その分だけ威力は増す。地面に倒れたまま、手首をひねる。
風を引き裂く鞭撃。目もよく見えないけど、“透徹”は私の攻撃を避けたらしい。手ごたえがない。暗殺者としての直感で、鞭を振り回す。耳鳴りの合間に「ちっ」と大きな舌打ちの音が聞こえた。
「ぁ……あぁ!!」
気……無色の精霊を操って無理矢理に体を動かす。顔を上げると、“透徹”は私の糸を掴み、炎で焼ききっていた。
「死ね」
もう笑いも漏れない。“透徹”の姿が何重にもなって見える。糸はもう使えないから、私は腰の直刀を抜いた。
私は暗殺者として一通りの武器は扱える。一番は糸だったけど、二番は刀だった。そりのない細身の刀を地面と水平に構える。姿勢を低く落とす。
「……ひひっ」
次は何を見せてくれるんだ?そう言いたげな様子で“透徹”は再び『六色細剣』を虚空から取り出した。
“透徹”は待ちの姿勢。その間に私は呼吸を整え、目を閉じる。目はもう使えない。見るな。感じろ。聞くな。感じろ。
意識を研ぎ澄まして“透徹”の動きを予測しろ。もう私に余裕はない。次の一撃で“透徹”を殺せ。
その時、私の頭の中に白閃が炸裂して、未来が流れ込んできた。死の間際にあっての幻覚?それとも覚醒?どうでもいい。この一閃に賭ける。
薄く目を開いて、私は“透徹”に向かって走り出した。見える。“透徹”は待っている。私が技を繰り出すのを待っている。出した技を全霊で対処し、この技すら盗むつもりだ。
盗ませてなるものか。今から使うのは、王国と帝国。二つの技術を合わせた私だけの秘技。そう軽々と使わせてやらない。
今にも萎えてしまいそうな足に力を入れる。大事なのは歩法。姿勢を低くし、地面を這うように、滑るように動く。
一歩。二歩……五歩六歩。“透徹”の間合いに入った。見えていない目が“透徹”の笑みを捉える。そしてその笑みが凍り付くのも。
「イトニ」
小さな声でつぶやく。白の初級の精霊術。やったことは生命の気配を前に押し出しただけ。素人なら一瞬動揺するだろうけれど、それだけの弱々しい精霊術。
「っ!」
それだけならば。私は白の精霊術と同時に前面に向けて気を押し出した。気当てという奴だ。これも帝国の戦士で気を使う者なら初期の頃に習う相手を威圧するだけの技術。
ただ、その二つを組み合わせれば、自分が一瞬だけ前に踏みこんだと錯覚させることができる。
“透徹”の視線が無形の幻影に向く。瞬間、私は気配を消して“透徹”の背後に回り込む。虚剣。糸が使えない環境に追いやられた時に編み出した、私の奥の手。
私は“透徹”の背後を取った。“透徹”は私を見失った。殺せる?思った時に未来が見えた。
“透徹”は身を伏せて、私をにらみつける。
全身に怖気が走った。見えた未来は一瞬先。私は真横に振ろうとした刀を斜めに傾ける。
“透徹”が私を見た。緑色の眼球が私をとらえ、刀を避けようと身を伏せる。真横に薙いでいたら当たらなかった。でも斜めに傾けたからこそ。
「ちぃっ!」
鮮血。私は“透徹”に手傷を与えることができた。
「この……」
憎悪にまみれた“透徹”の呟き。私は一度距離を取り、再び“透徹”に詰め寄る。
傷は浅い。右肩から右腕にかけて斬りつけた程度。でも私は刀に毒を塗っている。致死性の強力な毒だ。“透徹”に効くかどうかはわからないけれど、無意味ではないはず。
私が身を伏せて刀を水平に向けると、“透徹”もそれに合わせてきた。お前が苦労の果てに得た技を俺はすぐに使えるようになるぞと。“透徹”がコピーした技を使うのは、相手の心を折るためでもあるのだろう。相手の全てを踏みにじって殺す。それが“透徹”のやり口。一つの癖だ。
でもその癖は“透徹”に使う技を限定させる。使う技が分かれば、それはただの隙でしかない。
鏡合わせに私と“透徹”は走り出した。姿勢を低く剣を水平に。間合いに入った瞬間、気配を前に飛ばして背後に回り込む。
一歩。二歩。間合いに入る。未来が見えた。私は目を大きく見開く。
虚剣。白の精霊術と気当てをする。私の幻影と“透徹”の幻影が触れ合い、消える。
空隙。使ったのは同じ背後を盗む虚剣。なら同時に使えば両者の位置は入れ代り、間に距離が生まれる。
その隙に私は、“透徹”に背を向けて走り出した。
「にげ……!」
“透徹”の声に焦りが混じる。使ったのは同じ虚剣。“透徹”は一瞬私の姿を見失った。でも私は“透徹”の姿を見失わなかった。
“透徹”の虚剣は不完全だった。私の虚剣は気当てと精霊術の複合形。“透徹”のそれは気当てだけだった。見誤ったのだ。“透徹”は。だから一瞬の空隙をついて私は逃げだすことができた。
だって私の目的は“透徹”を殺すことではなく、あの人に再会することなのだから。
「ウレアノト アリ」
未来が見えた。背後から“透徹”の詠唱が聞こえる。それは低く空間に流れ、“透徹”の元に収束する。
「ネグネク ウテツオト」
“透徹”の使う精霊術が分かった。その結果がどうなるかも。だから走る。構わず走る。澱んだ“透徹”の周囲に精霊が集まり、陣を成し、美しい死を形成する。
「エソボロウ イタグ」
『穿つ透徹の礫』。“透徹”の代名詞とも言える、回避不能、防御無視の固有術式。世界で“透徹”にしか使えない終極の殺撃。
“透徹”の周りに拳大の水晶が形成された。その数およそ百から二百。それが私のいる一帯に向けてばらまかれる。
礫の速さはフラフラの私よりも速い。虹色に輝く美しい水晶が私を追いかけ、背後から前に突き抜ける。
「あぁぁっ!」
先端の鋭く尖った水晶が私を貫く。貫く。貫く。私の腕や足、腹に空いた大きな貫通痕。世界がひっくり返りそうな痛みが巡りに巡る。
「は?」
致命傷。でも私の足は止まらない。後ろから“透徹”の声が聞こえた。あったのは疑問。何が不思議だったのだろう。私には分からない。
もう何も見えない。真っ暗な中を私は進む。痛い。苦しい。辛い。足を上げて、下ろす。痛い。息を吸って、吐く。苦しい。手を、前に伸ばす。辛い。
どうして私はこんなにまでなってあの人を追い求めているんだろう。たった一度しか会ったことのない人に。
分かってる。あの人だけだったから。私を人として見てくれたのは。私の世界に彩りをくれたのは。
父も兄弟も頭領も。私を殺しの道具として見ていても、人間としては見ていなかった。私じゃなく、私の殺しの腕しか見ていなかった。
私に手紙をくれて、仲間になってくれと言われた。モノクロの世界を彩ってくれたんだ。そんなのはあの人だけだったから。
「私の、王子様」
体から力が抜けた。限界だ。ゆっくりと倒れる。あぁ、私はもう死ぬんだ。もう生きれない。あの人に、会えない。
あの人の隣にいたい、なんて過ぎたことは望まない。ただもう一度だけ会いたい。そんな他愛ない願いすら私は叶えられないの?
王子様の夢は見ない。一度きりのささいな現実が欲しい。
「驚いたな」
だからこの声も幻。今際の時に見えた夢の一つ。
力強い言葉が聞こえて、私の意識は闇へと溶けていった。
*** ***
*** ***
「あれ?」
目を開ける。明るい光が私の目をついた。思わず顔を手で覆う。あれ?
「腕が……ある。というか、生きてる?」
混濁した記憶が戻ってくる。私は確か頭領の命令を受けて王子様を殺しに行って、その途中で“透徹”と戦って、それで、
「殺されたはず。ならこれは夢?」
周りを見るとそこは花畑……などではなく、粗末な小屋のようなところだった。でも全く管理されてないわけじゃなくて、ベッドに敷かれたシーツは真新しい。天井には明かりなのか、精霊器のランタンが吊り下がっている。
「どういうこと?」
呟くと、頭に針を突き刺したような痛みが走った。視界が白に染まり、誰かが小屋に入ってくる幻影が見える。幻影が見えると同時に、扉が音を立てて開いた。その先に見えたのはくすんだ銀髪の、虹彩異色の瞳を持つ男。
「“透徹”……!?」
そこにいたのは“透徹”だった。私は体を起こして糸を手繰る。でも私の手元には糸はない。刀もない。
「黙れ。うるさい」
殺される。そう思ったけれど、“透徹”は私を殺さなかった。ただ私を不機嫌極まる目でにらみつけた後、大きな舌打ちをしただけだった。そこに敵意はあっても殺意はない。
「えと」
「俺の『透徹』は帝国のクズどもを追いかけて殺す」
何と言えばいいか悩んでいると、いきなり“透徹”が口を開いた。
「はい?」
「だがお前に『透徹』は追っていかなかった。ならば理由はなんであれ、お前は帝国の人間じゃない。殺してもいいが止められた。だから殺さない。……くそっ!腹立たしい」
それだけ言うと、“透徹”は私に背を向けて小屋から出て行った。残された私はポカンとするしかない。
「あれが……“透徹”?」
敵同士として対峙した時とは雰囲気が違う。あの“透徹”はすねた子どもみたいだった。
「よっ!元気かい?」
“透徹”が出て行って少し。小屋にまた違う人が入ってきた。その人を見て、私は息が止まる思いがした。
「あなたは……」
「改めて久しぶりだな。俺のことを覚えているか?」
扉を開けて入ってきた男が私ににこやかに笑いかける。見上げるほど大きな体躯に、宿す覇気は燃え盛る炎のよう。短く切り揃えた茶の髪と無精ひげが彼に粗野な印象と、それ以上の強靭な意志を見せる。
かつて一度だけ見た時よりずっと王威を増していた。それでも忘れるはずがない。忘れられるわけがない。自然と目から涙がこぼれてきた。
「はい……はい王子様」
「よせよ。俺はもう王子じゃない」
「ですね……王、グランヘルム様」
王国の国王。グランヘルム・レクスティア・オウルファクトはふっと表情を和らげた。
*
「全く……期待してたが本当にお前と再会できるとは思わなかった」
グランヘルム様は小屋の入り口の壁に寄りかかった。ベッドの上の私と入り口にいるグランヘルム様。この構図は奇しくも私たちが初めて会った時の構図と反対だった。
「あの」
「なんだ?」
「私は死んだはずでは?」
何から何まで分からない。でも最初に聞きたいのはそこだった。グランヘルム様は「あぁ」と言うと、ガリガリと頭を掻いた。
「別におかしなことじゃねぇよ。お前さんはウチの陣地に潜入して、見張りの兵士を殺した。んで、異変を察知したイラが交戦」
「イラ?」
「ん?……あぁ、“透徹”の方が通りはいいか?でもあいつにはイラ・クリストルクって立派な名前があんだ。できればそっちで呼んでやってくれ」
どうやら“透徹”はイラ・クリストルクという名前らしい。名前一つで歩く憎悪のような男に人間味が通う。
「んで、イラとあんたの戦いは激しかった。気づいてなかったかもしれねぇが、俺も近くで見てたんだぜ?ほんと驚いたよ。イラとあそこまでやれる奴は同じ“玉石”以外じゃ久々だったし、イラが技をコピーしきれなかったのも珍しい。極めつけは『穿つ透徹の礫』だ」
グランヘルム様が言うには、イラ・クリストルクの使う『穿つ透徹の礫』は相手が帝国兵であれば、避けても外れても追尾してくる性能を持つらしい。
防御しようにも貫通力が高すぎ、避けようにも追ってくる。帝国にとっては悪夢のような精霊術だ。
「てっきりあんたは穴まみれの肉塊になって死ぬかと思った。一人で『穿つ透徹の礫』を受けた相手は大抵そうなるからな。でも『穿つ透徹の礫』はお前さんを追わなかった。それでイラの殺気が失せて、俺が割って入った。驚いたんだぜ?なんせ顔を見たら、昔勧誘に失敗した影衆だ。くくっ!世の中何があるか分からんもんだな」
そしてグランヘルム様の胸で気を失った時、私にはまだ息があった。幸い凄腕の治癒術士がいたから、傷を癒すことができて一命をとりとめることができた、ということらしい。
「私は……」
「お前さんが帝国でどんな生活をしてきたかは分からん。でもさ、もう一度言わせてくれ。俺の仲間になってくれないか?お前がいてくれると俺は嬉しい。今はお前さんの腕しか知らないが、これからもっと色んなことを教えてくれ」
「わ、私は」
涙がこぼれて止まらない。これまでの辛い日々が溶けていく。灰色の世界がモノクロに、そしてカラフルに染まっていく。その中で何より鮮やかなのは赤。グランヘルム様の持つ赤だ。
胸にジンと熱いものが宿る。
「泣くなよ。泣き顔は似合わんぞ。笑ってくれ。そんでまずは」
お前の名前を教えてくれ。俺はお前の顔は知っていたが、名前は知らないんだ。
困ったように笑うグランヘルム様。その顔は悪戯がばれた子どものようで、でも間違いなく私の王で、王子様で。
「私は、私の名前は」
ジリア。
モノクロに見えた世界が色づく。かつて王国を裏切った暗殺者は王子様の夢を見ない。
その代わりに、目の前にいる現実の王をずっと見続けるのだから。
私の答えに、真赤な王様がにかっと笑った。
読んでいただきありがとうございました。本作品は作者の連載作品『誰か俺に異世界人の指導の仕方を教えてほしい』(https://ncode.syosetu.com/n3405ex/)の外伝的作品となっております。ですが本作だけ読んでも支障はありません。
そちらは作中に出てきた”透徹”が主人公で、約十年後が舞台となっております。もしよろしければそちらも是非(宣伝)。
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