八面六臂のしたり顔…の9
見たこともない生き物が空を浮遊し、スカートのように体の周りに生えた薄い膜をばたつかせている。その生き物は徐々に加速し、やがて灰色の空の向こうまで飛んで行ってしまった。沼地から少し離れてぬかるみ具合も多少はマシな靄に包まれた森の中にルリとフリティアは逃げ込んでいた。付近をフリティアがぐるりと一周してから木々の根が張ってしっかりとしている地面にルリを腰降ろさせた。
「少し暗いですね。」
曇ったような異世界では火もまともにつかないのでランタンは使い物にならなかった。ライトをフリティアも持ってきているのでそれを出そうと持ってきていたリュックを漁っていると、ルリが恐る恐るあるものを差し出した。
「…これでよかったら…その、使えませんか?」
丸いくぼみがある不思議なマジックアイテム、マジックランタンである。以前、光魔法の紫外線で大量の虫を呼び寄せて以来、使いたくなかった一品となっている。
だがそんなことは知らないフリティアは喜んでそれの使用を願い出た。
「魔具にはこのようなものがあるんですね!私は魔法などからっきしなのでルリ様、使ってみていただいてもよろしいですか?」
フリティアの様子に心強く思ったルリは、赤くて丸々とはれた手を構えてわざとらしく咳ばらいを一つする。
「では、ティア。見ててくださいね。」
ぽう。と光を放つ球がルリの手に浮かび上がる。それをそっと移し替えるように手を傾けてランタンの窪みのところへ落とした。意外なことにつるりと手を滑るように落ちて簡単にランタンに設置される。
上蓋を閉じて、真ん中の光玉を動かないように固定する。そしてもう一度ルリは指先に力を集中させた。
パッとまばゆい光を放つ。ランタンを手軽な木の枝にぶら下げると辺りがまるで昼のように明るくなる。
「う、うまくいった!」
「よかったですね!」
ルリは持ち前の膨大な魔力のせいで、どんな攻撃も大味になりやすい。故に少量の魔力微調整になれていなく、初めてランタンを使ったときなどはサングラスが必須であった。前回やった時も周りに人が来ないよう遠ざけてから使っていたぐらいである。その苦労をアルバートにも知ってもらいたいものだったが、結果は虫がたかってアルバートに怒られただけであった。虫がたかった前後の記憶はあいまいである。気が付いたら水浸しになっていた。
「ではこれで、手の治療ができます。」
あれほど強烈な寒波を放っておきながらしもやけ程度で済むのは何とも不思議なものであるが、彼女のマナから生み出されたものが彼女を傷つけることはほとんどないのだ。
ただ今回のような光の球を作るつもりが、光線になって飛び散ってしまうと二次的な被害がもたらせられるのでそれの予防策は必要になる。
ルリはおとなしく腫れてかゆみが増す手のひらをフリティアに見せた。フリティアがその手のしわ一本一本を舐めるように見つめてくる。見られただけなのに敏感になっているのか手のひらがくすぐったく感じてしまう。
「ふんふん、なるほどぉ。」
フリティアは訳知り顔で薬箱を開けながらも、ルリの手からは目を離さない。丸い薬入れの缶を開き、軟膏を薬指でチョンと一掬いする。ルリの片手を取って、くるくると手の上で円を描き薬を塗り伸ばす。
「んんっ、んっ、んうっ…」
ルリの背筋にゾクゾクと痺れるような快感が走る。ただくすぐったがっているだけなのだが。一方でフリティアも必死に謎の激痛に耐えていた。常人では耐えられるはずのない痛みを一本の細指で全て受け止めている。
(や、やはり…心までは許してくれていないということ…!)
最初にルリに触れた時はそんなことはなかったのに、突然、いやよこしまな気持ちを出した瞬間からこの仕打ちを受けている。『聖女の守り』などと魔導士の間では言われているのだが、ともかく乙女が邪悪を打ち払うための魔法の力であり、邪悪の度合いに限らず浴び続けると気絶しかねないほどの痛みが襲うようになっている。
これを耐え抜いたアルバートや、今のフリティアもどこか狂っているのかもしれない。
この魔法がかかっていることをルリは知らないということが、今の大人しく悶えている姿で分かる。
(こ、これは…愛の試練…)
フリティアは舌を強く噛んで別の痛みで紛らわせながら手のひらを撫でていく。
「でっ、ではぁ~次に…」
そういうフリティアの自分の手の感覚もいまいち残っていない。だが次が本来の目的なのである。両手でルリの手を揉みしだく。
(あの柔らかおててを揉みしだく!)
もはやフリティアも気合のみであった。自分がどんな形相をしているのかもお構いなしに、缶から薬を取り出す。
しかし悲劇は起こった。
「残りは自分でやりますね。」
…自分の邪気が相手に伝わってしまったのだろうか。
ルリは自分で、余分についた軟膏を両手で揉みながら伸ばしていく。フリティアはその様子を悲しみに暮れながらただ見ることしかできなかった。
だが、天はまだ見放していなかったようだ。
「あっ、ティアも手が荒れていますよ。」
「っ!!」
ルリが自分の両手に残ったクリームを、フリティアの手を包むようにしておすそ分けした。腫れて火照ったルリの手が斧を握続けてごつごつになった手のひらをすべっていく。
「あっひ!」
「ティアっ!?」
幸せはかくも痛きものなのか。
ついに痛みの限界が来たフリティアはその場に気絶してしまう。
「ティアーッ!」
巫女の叫びがこだまする。
フリティアは満足そうに涎を垂らしながら白目をむいて横になっていた。