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64.潮が満ちるまで何もさせられない ~Nothing can be done until tide has risen.~

コーラル・マーメイド号は低くて長い汽笛をいつものように3回鳴らし、小さなタグボートに引かれてフォクスロッテ港を出港した。順調に進めばこの先で寄港する予定はないので、出港のたびに幾度となく聞いてきたこの「ありがとう」や「さようなら」を意味する汽笛もこれで聞き納めというわけである。果たして次に聞くのはいつ、どこになることだろう。そんなことを頭の片隅で考えながら、私はもうこの先役目のなくなってしまった寄港地での上陸に関する書類を処分したり、整理して書庫へ保管したりする作業をこなしていた。


船の客室乗務員といえばもう少し華やかな仕事をしているものだと思っていたけれど、見習いという立場の私たちは、ベッドメイキングや書類の整理といった仕事がメインで、ときどきコーラル号がこの世界では(たぶん元いた世界でも)豪華客船と呼ばれる部類の船であることを忘れそうになる。けれど、客室部門の乗組員である私たちには、事務も大切な仕事の一つとして課せられているし、それにベッドをきれいに作るというのも単純そうに見えて意外と奥が深い職人技なのだ。そう自分に言い聞かせつつ、今日も私はいつも通りのお仕事に取り組んでいる。


ちなみに、事務の大切さとベッドメイキングの奥深さについてポーラに熱く語ったところ、「七海、この短い間ですっかり思考が勤続30年のベテランみたいになってるぞ」と笑われてしまった。確かに勤続30年どころか何もかもがこっちの世界に来て初めてすることなのに、ここまで馴染んでしまっているのは自分でもビックリだ。いろんなことがあったとは言え、やっぱり私は船と海が大好きなのだろう。


それだけではなくて、私が慣れない仕事をなんとかやっていけるのは、人に恵まれてたというのが一番大きいポイントだと思う。マリさんは正攻法でわからないところがあれば何でも教えてくれる私の先生のような存在だし、ポーラは力を入れるべきところと力を抜くべきところの使い分けがとても上手で、正攻法では難しい局面も切り抜けていく。


そして何より、セーラ・アサートンという存在が、今の私に勇気と元気とやる気ともうとにかく全部を与えてくれているのである。すごい、セーラすごい。


今日もこの仕事が終わった空き時間に、私とセーラは2人で上層デッキにあるランニングコースに行くことになっていた。そう、私がついこの前セーラに置いていかれることとなったあのランニングコースである。しかし、今度は置いていかれる心配はない。なぜなら、今日は「特訓」という名目でセーラが私のペースに合わせてずっと隣を走ってくれるよう約束しているからだ。隣で彼女が走ってくれていれば、私はきっと普段よりも数倍頑張れると思うし、そうしてランニングを続けていけばやがて、セーラと同じペースとは行かないまでも、置いていかれないくらいには走れるようになるのではないかという目論見だ。


そんなこんなでお仕事を終えた私は、運動の出来る服装に着替えてセーラと待ち合わせしている上層デッキのランニングコースへと向かった。コースへとつながる扉を開けると、北の大陸から吹いてくる冷たい風が飛び込んできた。そのせいもあってかコースにはほとんど人がいない。寒いとは言え外は晴れているし、海面もエメラルドグリーンでとっても良い景色なのに、なんとももったいないと私は思った。


「あんまり人が走ってないみたいだね。みんな寒いの苦手なのかな?」


後ろからまるで私の思考を見透かしたかのような声が聞こえてきた。それはもちろんセーラの声だ。


「ねっ、このくらい寒いには入らないと思うんだけど。むしろ涼しくてランニングにはちょうどいいんじゃない?」


「あれ、七海も寒いところは平気なんだ。」


「七海も」ということはセーラも寒さには強いということらしい。確かに彼女の出身地であるノルトリンク王国は、ここよりも南の方にあるとは言え、冬にはかなり雪が降るというし、その中で小さい頃から育って来たとあれば、確かに寒さへの耐性はつくだろう。


「平気だよ。だって私の故郷も冬はめちゃくちゃ雪が降って大変だったんだから。」


ノルトリンク王国がどれくらいの豪雪地帯かは私にはわからなかったけれど、冬は毎日雪かきからスタートしていた私も、寒さへの強さなら負ける気はしなかった。


「そっか、七海の『本当の』故郷は雪のいっぱい降る街なんだね。きっと七海の育った街だから、イルミスに負けないくらい素敵な街なんだろうね。」


「そうだよ。イルミスみたいに大きな港があって、きれいな帆船が泊まってて……出来るなら一度見せてあげたいな。」


そういって私とセーラは2人顔を見合わせて微笑んだ。その中には、「こことは違う世界を見せる」という非現実的な私の一言に対する笑いと、「それでも実現したらいいな」という希望の両方が込められていた。


そして私たちはゆっくりと、人のまばらなランニングコースを走り始めた。今回は無理をしなくても、自分のペースで一緒に走ってくれる人がいる。それが何よりも私にとっては心強かった。

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