5.本船は火災発生中である ~I am on fire.~
「もう一度繰り返します。これは訓練です。10F調理室にて火災が発生しました、直ちにクルーの指示に従い、安全な場所に避難してください。これは訓練です。」
溺死、転生、濡れ衣と来て次は船内火災に見舞われるなんて、さすがに不幸すぎやしないかと思ったが、落ち着いて聞くとただの避難訓練らしい。
そういえば、私の元いた世界でも豪華客船は出港直後に、乗客全員が参加して避難訓練をするとかいう話をどこかで読んだことがある。
一瞬緊張が全身を包んだものの、訓練と分かってしまえばあとは避難場所に速やかに移動するだけだ。とは言っても、私はまだこの船の構造をよく知らない、とりあえずセーラの後についていこう。そう考え私は彼女の方を振り向いた。すると、セーラは「しまった」という表情のお手本のような顔をしていた。
「七海さん、急いでください!」
次の瞬間、私はセーラに押され、半ば飛び出るような形で居住区の通路へと出た。続いてセーラが転がるように部屋から出て、私の手を取り猛然と走り始める。私も彼女に置いていかれないよう、猛ダッシュで後を追う。
「ちょっ、セーラどうしたの!?」
「避難訓練の際、クルーは自分の持ち場でお客様を誘導するように決まってるんです。もちろん私にも持ち場があって、早く行かないと!」
なるほど、つまり彼女は持ち場に遅刻してしまったということになる。それはなぜかと言えば、他でもない私に出会ったせいだ。今度は私が申し訳なさで押しつぶされそうになる。
「私のせいで、本当にごめんね。」
「いえ、困ってる人がいたら、それが最優先です。それに、私ドジだから、こういうことしょっちゅうあるんです。その度にいつもマリさんに怒られて……。」
「あの、私が言うのもなんだけど、本番でやっちゃダメだよ?」
おさない、しゃべらない、はしらないは避難の基本だというけれど、今はそれを全部無視してセーラの持ち場へと急いだ。
セーラの持ち場は、中層階の客室フロアだった。すでに多くの乗客が避難を始めている。乗客はこの避難訓練も一つのイベントのように思っているらしく、どこか楽しげな雰囲気さえ漂っていた。
セーラは乗客に避難場所の指示をしている。私もとりあえず身振り手振りで彼女の手助けをする。すると、廊下の向こうから一人の幼い子どもの泣き声が聞こえてきた。目を向けると、青いワンピースを着た幼稚園児くらいの女の子が一人ぽつんと人混みの中に取り残されているのが見えた。
「セーラ、このフロアの人の避難場所ってどこ?」
「船外通路にある救命艇の前です。この辺りの客室ならみんな同じところに向かうので、人の流れに沿っていっても分かりますよ。」
「分かった、ありがとう。セーラ、私先に行ってるね。」
避難場所の位置を聞き出すと、私は迷子の女の子の元へ向かった。元いた世界だと、迷子を見つけても真っ先に駆けつけて面倒を見てあげるタイプでは無かったように思う。しかし、両親からはぐれ、たった一人で知らない人混みの中に取り残されている彼女が、今の自分にはどうも他人のように思えなかった。
私は迷子の女の子に話しかけ、一緒に避難場所を目指すことにした。途中で案内を続けるセーラの前を通りかかると、彼女は一瞬だけこちらに微笑みかけてくれた。他のクルーの案内も聞きながら、セーラの言う通りに人の流れについて行くと、やがて船外通路のオレンジの救命艇の姿が現れた。救命艇の前には、すでに多くの乗客が集まっており、クルーが客室のエリアごとに乗客を分けていた。
出港直後ということもあってか、相変わらず乗客のムードはどこか浮ついた、楽しげな感じであり、思い思いにお喋りや写真撮影が行われていた。と、そんなムードとは対照的に、本当に火災が発生したのではないかというような深刻な表情をした乗客の男女が2人、クルーと何やら話をしていた。私と迷子の女の子はその乗客へと近づく。
「ママー!!」
一番最初に反応したのは女の子だった。深刻そうに話をしている2人の姿を捉えると、私の元を離れ、彼らのもとに駆け出していった。その声を聞くや否や、2人の乗客も走り出す。
「エリカ、あなたどこへ行っていたの、心配したんだから!」
女性の乗客が女の子を抱き上げると、もう二度と離れ離れにさせないとでも言うように彼女を強く抱きしめた。迷子の女の子は、母親とおぼしき女性の腕の中で、堰が切れたように号泣している。男性の乗客も、その様子を見てほっとしたような様子だ。周りを見渡すと、もうほとんどのグループで点呼が完了しており、残すはこの家族を含むグループだけだったようだ。案内を終えたクルー達も避難場所へと集まってきており、セーラの小柄な姿もそこにあった。
「あなたが駆け込み乗船の研修生さんですね、この船のクルーは他のお客様をご案内しなければならなかったから、どうしても対応が出来ませんでした。この子をご案内してくれて、ありがとうございます。これで全員避難完了です。」
先程まで迷子の女の子の両親と話をしていたリーダーらしきクルーが、私にそう話しかけてくれた。
これにて、コーラル・マーメイド号での私の初仕事は無事終了したらしい。点呼も無事終わり、乗客達が三々五々船内へと帰っていく。私もセーラのところへ戻ろうとすると、私と同じくらいの背の高さで、青みがかった髪を持つセーラー服の少女が、セーラに何やらお説教をしているようであった。