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29.本船は進路を左に変えている ~I am altering my course to port.~

これは夢だということがはっきりと分かった。私の目の前に広がっているのは、白くて大きな橋と雪化粧をまとった山並み、そして客船から貨物船まで様々な船が行き交うにぎやかな港と水平線がくっきりと見える広い海。ここは西の大国でもノルトリンク王国でも北の大陸でもない。私が元々いた世界で私が生まれ育った港町だった。


もしこの夢を見るのがもう少し早ければ、私はコーラル・マーメイド号とセーラ達の世界の方を夢だと思っていたかもしれない。しかし、今までのことをすべて夢だと思うにはあまりにも色々な経験をしていたし、セーラやマリさん、ポーラとの思い出が全部存在していなかったということにされてしまうなんて考えたくもなかった。それに、私が今見ている馴染みの景色が現実のものでないことを裏付ける決定的な証拠があった。それは私の目の前で仲良く並んでいる親子の姿の存在であり、その親子とはまぎれもなく小学校低学年くらいの私と私のお父さんだった。


小さい頃の私とお父さんは港に隣接している公園の中を歩いており、2人の目の前には立派な白い帆船が係留されていた。この帆船はその昔、船乗りを育てる練習船として活躍していた船であったが、今は引退してこの公園に保存され、内部はちょっとした博物館になっている。もちろん、これは私が船に興味を持つようになってから知った話で、今私が見ている小さい「わたし」はそんなこと全く知らないだろう。しかし、航海士の父親の影響もあってか、この頃から既に船を見ると楽しい気持ちにはなっていたようで、帆船を目の前に「わたし」は大はしゃぎしていた。


「ねえねえお父さん、あの船の上に国旗が飾ってあるよ!でもおかしいね、あの国旗、黄色くて黒い丸だよ。わたしが先生に教えてもらった国旗は、白くて赤い丸だったんだけど、どうして?」


「わたし」は帆船のマストに掲揚されている黄色地に黒丸の旗を指さしてお父さんに聞く。するとお父さんは、いつものように優しい笑顔を浮かべて、「わたし」の頭をなでてくれた。


「おお、もう国旗がわかるようになったのか。えらいぞ、七海。でも、惜しいけどあれは国旗じゃないんだ。」


「国旗じゃないってどういうこと?」


「うーんと、七海にはちょっと難しいかも知れないけど、あれは国際信号旗と言って、まあ簡単に言うと船はあの旗を使って他の船とお話をしているんだ。」


お父さんは小学校低学年の「わたし」にも分かるように、しかしとても専門的な知識を教えてくれていた。このようなことは私の今までの人生の中で何度もあったことだ。国際信号旗についての話の他にも、例えば「レフト」と「ライト」という英単語よりも先に、左側と右側を表す「ポート」と「スターボード」という海事用語を教えてもらったおかげで、小学校の初めての英語の授業の時にちょっと恥ずかしい思いをしたということもあった。とにかく、お父さんのおかげで私は小学生にして、船と海のことなら一般的な大人をしのぐ程の知識量を備えるようになった。一方で、目の前の「わたし」は旗で会話をするということに納得が行っていないようで、再びお父さんに何かを聞いている。


「旗でお話するの?なんで?ふつうにおしゃべりした方がいいんじゃないの?」


「確かに、七海とお父さんみたいに、同じ言葉を話せるんだったらその方がいいかもしれない。でも、海の上にはいろんな国の人がいるんだ。アメリカの言葉を話す人、アフリカの言葉を話す人、ヨーロッパの言葉を話す人、とにかくいろんな人達がいる。だから、おしゃべりしようと思ってもどの言葉を使えばいいのか分からないだろう?そのために言葉じゃなくて、この旗をあげた時はこういうことが言いたいんですよって約束をみんなでしておいて、海の上では旗を使ってお話することにしたんだ。」


「ふーん、海は広いもんね。地球の裏側までつながってるもんね、だからいろんな人がいるんだよね。」


果たして小さい「わたし」がお父さんの言ったことをどれくらいまで理解できたのかは怪しいところがあったが、とにかく海の上にいろんな人がいるということは理解したらしい。「わたし」が小さいなりに一生懸命頑張って解釈しようとしているところを見ると、自分のことながら微笑ましくなった。


「そうだぞ、海は広いし世界中のどこにもつながってるんだ。だからお父さんは、七海に世界中のいろんな人と仲良くなってほしいと思って、全世界の海という意味の『七海』って名前を付けたんだ。」


お父さんは小さい「わたし」に伝えたいのか、それとも独り言なのか、あるいはこっそりと二人の会話を聞いている今の「私」に聞かせたのだろうか、私の名前の由来を語ってくれた。お父さんは昔からこの名前の由来を何度も話してくれ、それと同時に海の好きな人がよく娘に付ける名前だともよく言っていた。それでも、世界中の人々と仲良くなってほしいという祈りが込められたこの名前が私は大好きで、その名前に負けないようにいろんな世界のことを知りたいと思っていた。まさかお父さんも、私が異世界の人達と仲良くなることになるとは思っていなかっただろうけど。


ふと目を覚ますと、そこはコーラル・マーメイド号の客室乗務員見習いの居住スペース、二段ベッドの上段だった。やはり今の私はこちらの方が現実で、さっきまでの見慣れた風景の方が夢なのだ。そう思うとなんだか急にさみしくなってくる。ずっと夢の中に居たいとまでは思わないけれど、もう少し長く夢を見ておけばよかったとか、そういう気持ちになってきた。


「おはよう、七海っ!」


下の段からセーラの声がした。そうだった、私たちは深夜の当番を終えて仮眠を取っていたのだった。私はおはようの挨拶をセーラと交わして、故郷の夢を見たことを彼女に話した。するとセーラは驚きの表情を浮かべた。


「私もちょうどイルミスでお父さんとおしゃべりする夢を見てたの。お父さんが、私の名前はセイル(帆)から取ったとか、そういう話をしてくれたんだ。」


今度は私が驚く番だった。セーラが私とまったく同じ夢を見ていたこと、この世界でコーラとポーラとセーラの響きは似ていなくても、セイルとセーラの響きが似ているということは分かってもらえるということ、そして何より私もセーラも海や船に由来する名前であるということが嬉しくて仕方なかった。その勢いで私はセーラに自分の名前の由来を話した。この世界の海も同じように7つあるのかはわからなかったが、もし違っても関係ないと思えるほど、私は「七海」という名前とセーラの名前の間に運命的なものを感じていた。


「じゃあ、七海が海で私は船ってことだねっ!」


興奮する私にセーラが投げかけた一言は、客観的に考えるとなんだかよく分からない気もしたが、私にとってはとても素晴らしい言葉であるように思えた。

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