2.私は水先人がほしい ~I require a pilot.~
「もしもーし、お客様ー?」
遠くから声が聞こえる。さっきの女神様の落ち着いた声ではない。普通の生活で聞く声というより、もっと幼い声。例えば深夜に放送しているアニメから聞こえる声の方が近いかもしれない。
「もしもーし!……ひょっとして、意識がない!?」
声が若干近づいてきた。聴覚以外の感覚も復活してくる。海の中とは違うしっかりとした地面を感じる。海水の冷たさとは違う適切に調整された暖かさを感じる。そしてかすかに華やかな甘い香りがする。
「どどどどどどうしよう、こういうときは応急処置をしなきゃだっけ。でも応急処置ってどうすればいいの?」
声の主はどうやら慌てふためいているようだ。早く目を開けて彼女を安心させてあげた方がよいのだろうが、まぶたは依然として重いまま動かない。ここまで来る間に色々あったんだ、もう少し眠ったままでもバチは当たらないだろう。
「やっぱり、応急処置といえば人工呼吸だよね……。でも私、今まで他の人とくちびるを重ねたことなんてないし、しかも女の子同士でなんていけないことだよ……。」
声の主が間違った方向へ暴走しはじめたのをよそに、私は「この世界は、どうやら応急処置と人工呼吸という概念がある」ということに少しほっと胸をなでおろした。元の世界と全く違う文明を持つ世界に送られたということではなさそうだ。
「いや、目の前で苦しんでる人がいるのに、ほっとけるわけがないよね。それに、この女の子、とっても美人さんだし……。」
ほっと一安心して再びウトウトしていたところ、先程からの声の主が私に迫り来るのを感じた。いや、迫り来るというよりももう目と鼻の先までいるような気配だ。調整された暖かさは、人の体温のような温かさへと変わり、華やかな甘い香りもはっきりと感じられるようになっている。心なしか、荒い息遣いも聞こえてくるような気がする。そして、気配が限りなく近くなった次の瞬間、私はくちびるに柔らかい感触を覚えた。
「「うわあああああああ!!」」
私が声を上げたのと半テンポほど遅れて声の主も叫び声を上げた。私ははっきりと目を覚ます。そこには、私よりも少し幼い、中学生くらいの白いセーラー服を着た少女が、まるでさっきまで見ていた海の中のような深い青色の瞳を真ん丸に開いて、こちらを見つめていた。
「お、お客様、お目覚めになられましたでしょうか!?」
金髪でストレートヘアの少女は、なぜかくちびるを大切そうに押さえ、顔を真赤に染めながら私にそう尋ねる。
「は、はい。おはようございます?」
金髪碧眼の少女はコホンと咳払いをすると、制服の白いプリーツスカートがシワにならないようピッと伸ばし、紺色のスカーフをきちんと整えて私に向き直った。
「ご気分が優れないようでしたら、医務室を案内しましょうか。」
「気分は別に大丈夫なんですけど、ここは一体どこで、あなたは一体誰なんでしょうか。」
少女は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐさま自信たっぷりに答えた。
「はい、お客様。本船は世界最高のサービスで皆様をおもてなしするマーメイド・クルーズ社の最新鋭旅客船、コーラル・マーメイド号でございます。そして私は、皆様のご案内係を務めております、セーラ・アサートンと申します。」
セーラはそう答えると、鼻高々といった感じで胸に手を当てた。
なるほど、ここは元いた世界とは別の世界を航海している豪華客船の船内らしい。つまり、海の安全を司る女神様はちゃんと私の願いを叶えたくれたのだ。ひとまず私は自分の体を確認してみる。海に落ちたときと全く変わらず、服装も制服を着たままだった。この分だと名前もおそらく願いどおり「常神七海」のままなのだろう。もっとも、この世界で私の名前を知っている人がいるのかは大いに疑問だけれど。
「ひとまず、お部屋までご案内しますね。お部屋の番号は何番でしょうか。」
セーラが尋ねる。しかし、私の記憶は転生したとはいえ元のままで新しい情報は何も上書きされていない。自分がこの世界でどういった存在なのかを知る術が無いのである。
「ちょっと、忘れてしまったみたいで」
「かしこまりました。お調べいたしますので、お名前を教えていただけますか。」
律儀な神様のことだ、名前は元のままで間違いないと考えても良いだろう。
「常神七海です。」
「ツネガミ・ナナミさま、ですね。少々お待ち下さい。」
そう言ってセーラはどこかへと歩き出す。おそらくは乗船客の名簿を取りに事務室にでも向かったのだろう。私は彼女の後についていくことにした。
この船、セーラ曰く「コーラル・マーメイド号」は出発地点であるル・メイズという都市を出港したばかりらしく、船内ではセーラと同じ制服を身に纏ったクルーが慌ただしく通路を行き来していた。
4,5階は続いていそうな吹き抜けのホールの先に、高級ホテルのフロントのような場所が見えた。ここがこの船のレセプションで、この奥にきっとクルーの事務室があるのだろう。セーラはレセプションの奥に消えると、数分後に小柄な体では持ち運ぶのに苦労しそうな分厚い台帳を持ってきた。出港後ということもあり、船の乗船手続きは一段落し、レセプションの業務はある程度落ち着いているのか、あるいは各種サービスの準備をするべく他の場所に人員を割いているのか、フロントには私とセーラの他には誰の姿も見えなかった。
「ツネガミさま……ツネガミさま……あれ?」
最初は鼻歌でも歌いだしそうな軽いノリで台帳をめくっていたセーラの表情がだんだんとくもり始める。
「TSUNEGAMI……TSUNEGAMI……おかしいな」
彼女は台帳と数分間にらめっこした後、曇った表情を隠しもせず私に尋ねた。
「お客様、ご乗船のチケットはお持ちですか?」
「……いえ、チケットは持ってないです。」
隠していても仕方ないので、私は事実をありのままに伝える。
「無くしたとか、忘れたとかではなく?」
「はい、最初から持たずにこの船に乗っています。ついでに言えばパスポートもこの世界で通じるものではないでしょうね。」
豪華客船の無賃乗船という自分の想定していなかった相手を前に、心細くなったのかセーラの碧眼が若干涙で潤みはじめていた。表情はくもりからそろそろ雨になりそうだ。
「じゃあ、ひょっとして、あなたは密航者さんってことですか?」
神様、私は二度目の人生が始まって1時間も経っていないのに、犯罪者になってしまいそうです。