16.患者は船酔いである ~Patient is suffering from seasickness.~
「おっ、ちゃんと生きてたな。えらいえらい。酔い止めは本当に船内中すっからかんでどこにも無かったけど、代わりにいいものをあげよう。」
そういって袋から取り出してきたのは、彼女がいつも口にしているコーラの缶だった。確かに私もこのコーラの味は、元いた世界を思い出させてくれるようで好きだけれども、それが船酔い中の私にとって「いいもの」であるとはあまり思えなかった。
「その顔は、『コーラなんていつも買ってきてるじゃん』って顔だな。まあ、あたしの普段の行い的にそう思われても仕方ないとは思うけど、とりあえず騙されたと思って飲んでみてよ。」
私は言う通り「騙された」と思って、缶の中身を口に含んだ。いつもどおりの炭酸の感覚と、いつもどおりの独特の香り、そして甘酸っぱい味が口の中を通り抜けていく。すると、今まで体の中を支配していた不快感やもやもやが、コーラの喉越しや冷たさで少しだけスカッとするような気持ちがした。私は続けて二口、三口と続けて飲む。缶の中身を半分ほど空けた頃には、飲み始めた頃よりもだいぶ気持ちは楽に落ち着きはじめていた。
「ポーラ、すごいよ!いや、すごいのはコーラかな?どっちでもいいや、とにかくかなり気分が落ち着いた、ありがとう。」
「な、効いただろ?すごいのはあたしじゃなくてコーラなんだけど、とにかく船酔いにはこれが一番効くんだ。」
コーラの缶を手に喜び合う私たちを、ポーラの少し後に部屋へと戻ってきたマリさんと、セーラがよく分からないといった様子で見守っていた。
「ねぇマリさん、本当に船酔いにコーラって効くの?」
「さあ、確かに大抵の病気は水分と糖分をしっかり取るのが重要だから、そういう点ではある意味理想的かも知れないわね。」
コーラのおかげもあって、私はその後なんとか気分の悪さを抑えて眠りに着き、無事に次の朝を迎えることが出来た。船は外洋から再び湾内へと入りつつあり、波の様子も昨日までと比べて少し穏やかになり始めた。今日はこれと言って仕事もなく、天気も一転してよく晴れているようなので、私はコーラル・マーメイド号の屋上へ、外の空気を吸いに上がってみることにした。
この船の屋上は、日光浴を楽しむ人々のためのスペースと共に、テニスコートやフットサルコート、プールに屋外ステージなど、様々なアミューズメント設備が整っている。さすがに客室乗務員見習いがこれらの設備を使うことは出来ないけれども、休みの日に日光浴スペースでのんびり海を眺めるくらいなら許されていた。視界の向こうに、水平線がどこまでも続いている。そして昨日までの航海とは違い、今日の水平線は勝手にぐらぐらと揺れたりせず、文字通り水平を保ったままだ。私は昨日船酔いで死にかけていた(すでに一回死んでるけど)自分を救ってくれたコーラを片手に、何を考えるわけでもなくただぼーっと海を眺めていた。
すると、いつの間にか横に青みがかった髪の少女、マリさんが並んでいた。
「調子はどうですか?もうノルトリンクの湾内に入りかけていますから、波の様子は落ち着きはじめていると思いますが……」
「そうですね、波が落ち着いてるのはもう実感として感じてます。次の港まであと数日だし、意外となんとかなりそうです。コーラもありますし!」
そう言って私は手に持っていた缶を彼女に見せた。
「そういえば、七海はどうしてポーラがコーラばっかり飲んでいるか知ってます?」
「……名前が似てるからですかね?」
「そんなに似てるかしら?まあ、要はポーラも結構船の揺れに慣れないタイプで、以前は外洋に出る度に昨日の七海みたいな状態になってたんです。」
どんな状況下にあっても余裕を崩さないポーラが、以前はそんなタイプだったとは。私にはとてもそうは見えなかったが、昔から長い付き合いのあるマリさんがそう言うならそうなんだろう。
「そこである日、先輩に教えてもらったのがコーラというわけなんです。」
なるほど、つまり彼女がコーラを愛飲しているのは、彼女もまたこの炭酸飲料に救われたからであり、ある種のお守りのような存在となっているという話のようだった。
「ポーラのそんな弱気なところ、私にはあんまり想像つかないです。」
「ふふっ、確かに今のポーラを見てたら、そう思うのが自然かも知れないですね。」
マリさんは「でも」と続けて、昔のポーラの話をしてくれた。
マリさんとポーラは学校に入る以前からの幼馴染で、小さい頃から二人でよく遊んでいたらしい。その時の2人は今とはまるで正反対で、マリさんは強気で頭で考えるよりも先に体が動いてしまう性格、一方ポーラは逆に考えすぎてしまい、なかなか行動に移せない弱気な性格だったという。
「じゃあどうして今の性格に?二人同時に頭をぶつけたとかですか?」
「七海、真面目そうに見えて意外と言うことが辛辣ですよね。頭をぶつけたのではなく、強いて言えば2人で客室乗務員への道を進んでいく途中に、様々な体験や色んな人と出会ったことがきっかけかも知れません。」
それからもマリさんは、二人の昔のエピソードについて教えてくれた。子どもの頃に乗った船でポーラとはぐれてしまい、彼女が泣き出してしまったこと、そしてその時に2人を引き合わせてくれたのが船員さんで、それをきっかけに2人は客室乗務員を目指すようになったこと。段々と今の性格に近づきはじめたポーラに対して、彼女の支えとなるべくマリさんが勉強に努力するようになったこと、2人の今までのエピソードは、目の前の海のように尽きないように思われた。
「まあ、今となっては性格が違いすぎて口喧嘩ばっかりしてるんですけどね。」
そうやって苦笑してみせるマリさんは、しかし本当は楽しげな様子であるように思えた。
「マリさん、本当はポーラのこと、すごく大切に思ってるんですね。」
私は彼女の話から感じ取ったありのままの感想をマリさんに伝える。
「た、たた、大切っていやそれは昔から一緒にいるからってだけの話であって、ポーラが特別とか別にそういうわけじゃ……」
さっきまでの楽しげな様子や、普段の冷静沈着なマリさんとは全く異なる慌てふためいた様子で彼女はマシンガンのように言葉を発する。その様子がむしろ言葉とは真逆のメッセージを私に伝えているようで、思わず私は可笑しくなってしまう。
「大丈夫です、ここでの話はポーラには内緒にしておきますから!」
「七海、あんまりからかうと怒りますよ!」
いよいよ余裕を無くし始めたマリさんの向こうで、大きな青い海は昨日までの厳しい表情が嘘のように、私たちとこの船を優しく包んでくれていた。