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15.あなたの海域のうねりの様子は? ~What are the swell conditions in your area?~

今更言うまでもなく、客室乗務員の仕事は実に様々で、もはや普段の日課になっているようなベッドメイキングや、お客様の荷物をあっちへ持って行ったりこっちへ持って行ったりする体力勝負のお仕事、それに書類とにらめっこしたり、電卓片手の計算仕事と言った頭脳勝負のお仕事までをこなさなくてはならない。


もっとも、私たちは見習いという立場なので、体力勝負の仕事がメインで、書類仕事に関しては先輩のお仕事を適宜真似しつつ補佐という形で行っている。


今日のスケジュールは、そんな書類仕事を行うための航海や客室サービスに関する法律や規則のお勉強だ。非常事態に陥った際の対処の仕方や、船が正面衝突を回避するためのルールなど、船や海の好きな私にとっては面白い内容だったが、私にはそれとは別の大問題が発生していた。


「マリさん、今のコーラル・マーメイド号の位置ってどこですか……」


「ノルトリンク半島の沖合の外洋ですが、それがどうかしましたか?」


「外洋ってことは波の様子は……」


「もちろん、ル・メイズやル・トゥーガの近海とは違って荒いですね。」


「やっぱり、ですよね……」


私は力なくマリさんに返した。

船がノルトリンク半島の先端を出て、外洋を航行し始めたのと同時に、船体はその巨大さにも関わらず、ローリング(左右のゆれ)やピッチング(上下のゆれ)を始めた。ル・メイズ出港後から今まで、酔うほどの船の揺れを感じていなかった私は、「ひょっとしたら私は船酔いしない性質なのかもしれない」などと幸せな勘違いをしていたが、「それ」は万人に等しく訪れるものだと思い知らされる羽目になった。


これが船の乗客ならあるいは、窓の外の景色を眺めたりして酔いを和らげることもできたのかも知れないが、客室乗務員見習いという身分はそれを許さない。部屋は窓の無い内側の区画にあり、仕事でも外を見る機会は多くない。見かけは陸地の建物と全く一緒なのに、感覚は前後左右に揺さぶられるという船酔いには理想的な環境が整っていた。


それに加えて今日の日程は教科書とにらめっこして法律と規則のお勉強である、私は外洋に出た瞬間に座学を行うというスケジュールを組んだ人間を心の底から恨めしく思った。


「七海、大丈夫?」


揺れる船内と私の頭に一服の清涼剤のようなセーラの声が届く。


「酔い止めのお薬、買ってこようか?」


やっぱりこの子は天使に違いない。けれど、私のためにそこまで気を使ってもらっては申し訳が立たない。ここは年上として大丈夫なところを見せなければ。


「大丈夫だよセーラ、本船は船体の大きさもさることながら、フィンスタビライザーを始めとする多くの揺れ防止装置を備えており……ううっごめんやっぱ無理。」


「七海!お客様にする説明を無理に私にしなくても大丈夫だからっ、むしろそっちの方が大丈夫じゃない感じが出ちゃってるよ!」


セーラがそっと背中に手を当ててさすってくれる。彼女の手のひらの感触が、まるで彼女の優しさに触れたように思えてくる。

しかし、無情にも大海原はコーラル・マーメイド号を小舟のように揺らし続け、細かい文字との格闘ももうしばらく続くようだった。


「あと何時間座ったままでいればいいの……」


「七海、頑張ってください。あと3時間で講座は終わりますから。」


「3時間もこの姿勢だと本気で大変なことになりそうです……」


「ま、まあ、非常事態になったら医務室なり部屋で休ませてもらいましょう。」


私はそれからの3時間を気合いで乗り切ったが、体も精神ももう限界が来ようとしていた。

お勉強が終わると、いつもなら待ちに待った夕食の時間となるが、今日ばかりは苦痛で仕方がない。食べなければよいのかも知れないが、それは余計に船酔いの症状を悪化させることにつながるとはマリさん、ポーラ、セーラの共通見解だった。


いつもの倍の時間をかけて夕食を食べる。座っているだけで身体の重心をあっちへこっちへ持っていかれるのがなんとも気持ち悪い。固形物を体の中に入れるのにも嫌悪感が勝ってしまう。


なんとか食べ終わり、食堂から居室へ戻る。本来はもう少し仕事が残っていたが、はじめての船酔いを重く見たマリさんとポーラが、私の分の仕事を引き受けてくれた。仕事の無かったセーラは私と一緒に部屋に戻ってくれるらしい。


「ごめんね七海、さっき船内を探し回ったんだけど、酔い止めのお薬が売り切れちゃってて……ここ何日かで一気に揺れだしたから、お客様の方に優先的に酔い止めを回さなきゃいけないんだって……」


セーラが自分のことのように悲しい表情で私に告げる。その気持ちだけでも私には薬になると言いたいところだったが、現実は中々そうは行かず、私は揺れる通路をふらふらと歩く。自分の思ったとおりに歩くことができないのがこんなに辛いなんて、想像もつかなかった。


ようやく部屋へと戻り、一目散にベッドを目指す。


「七海、今日は私のベッド使っていいよ。2段ベッドの上だと、揺れが強くなるかもしれないし、気分が悪いと上り下りで危ないから。」


2段ベッドの上下で揺れが変わるのかはさておき、細やかなセーラの気遣いが一つ一つ身にしみる。私はセーラの言葉に甘えて、2段ベッドの下段に飛び込んだ。自分の身体の重心が低くなったことから、若干気分が楽になる。

セーラは使ってるベッドまでいい匂いがするんだと久々に船酔い以外のことに気を向ける余裕も出てきた。あとはこのまま目をつぶって寝てしまおう。明日は今日のように細かい文章と格闘しなくても済むはずだ。


「七海が大変なのに、その大変さを一緒に分かって上げられないなんて辛いよ……」


セーラの声が向こうの方から聞こえてくる。そういえば、彼女は海軍一家の生まれということもあり、昔からカヤックなどで海に繰り出す方法を両親から教わったことがあると以前話していたような気がする。そんな彼女にとって、このような大きな船で船酔いするというのはあまり分からない感覚に違いない。それでも、なんとかして私と気持ちを分かち合おうとしてくれるのもまた、彼女の優しさがひしひしと伝わってくるようだった。


目をつぶると揺れに意識が向いて、逆に気分が悪くなったり、かといってベッドの天井を見つめていても気分が悪くなったりということを繰り返すこと十数回、部屋の扉が開き、いつもの元気な声が聞こえてきた。


「おーい、七海、生きてるか~」


「ちょっとポーラ止めてよ!七海はほんとに苦しんでるんだからね!」


セーラが猛反発する。一気に賑やかになった室内に、私は目を開けてポーラの方を見た。彼女の手には、この船の中でもう幾度となく口にした炭酸飲料が入った袋が提げられていた。私はその様子を「いつも通りのポーラの行動」としか思っておらず、その本当の意味について分かってはいなかった。

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