表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/71

1.人が海に落ちた ~Man overboard.~

 きらめく海と抜けるような青空、岸壁には多くの人々が思い思いに休日を過ごしていた。

穏やかな休日の朝をこれ以上なく体現したこの場所を、なぜか私は学校の制服で全力ダッシュしている。

そしてそんな私の目前には、潮の香りさえしなければ、大型マンションか、あるいは白亜の大豪邸としか思えないような巨大な構造物が、海の上に浮かんでいた。


 オーシャン・エメラルド号、それが「彼女」の名前である。この巨大な豪華客船は、5ヶ月前にヨーロッパを旅立ち、世界一周の途上で、私の住む街に入港した。


 豪華客船が時折寄港するこの街では、住民向けに寄港した客船の船内を特別に公開するというイベントをときどき行っている。今回のオーシャン・エメラルド号も例外ではなく、市の広報誌でイベントの開催が発表されて以来、私は未だ見たことのない絢爛豪華な船内を想像しては、その日が来るのを心待ちにしていた。


 商船の航海士をしている父を持つ私は、幼い頃から船と海の素晴らしさを両親から教え込まれて育った。「七海」という私の名前は、海の好きな人がよく娘につける名前らしい。そんな両親の影響を受け、高校生になった今となっては、船と海に人一倍、友達に言わせれば異常なまでの愛着を抱くようになり、港に珍しい船が来ると知れば、豪華客船、帆船、コンテナ船、タンカー、護衛艦に巡視船と種類は問わず駆け出していった。


 しかし、船と海のこと以外については弱く、今日も「豪華客船の船内にふさわしい服装」がどのようなものを散々悩んだ結果、こうして特別公開の集合時間に遅刻しそうになってしまった。そして私が今、学校のセーラー服で岸壁をダッシュしている理由がそれである。学校の制服なら、学生にとってはフォーマルな服装だという結論に至ったのは、つい20分前のことだった。


「もう10分も遅刻してるし、他の参加者の人達待たせちゃってるだろうなぁ。」


 ようやくオーシャン・エメラルド号の乗船口までたどり着いた私は、船に横付けされたタラップを駆け上がる。タラップの上にはもう誰の姿も見えなかった。きっとみんな船内に入ってしまっているのだろう。

 しかし、このタラップが続いていたのは、オーシャン・エメラルド号ではなく、まったく未知の世界だということを、この時の私は知るよしも無かった。


 タラップの階段を抜け、岸壁と船との間、海の上に掛かっている通路に差し掛かったその時、穏やかな港を突然の強風が襲った。

 私は走ることもできなくなり、タラップの上に立ちすくむ。


 ゴウゴウという凄まじい風の音と共に、金属の破壊される鈍い音が響いた。次の瞬間、私の足元が急に不安定になる。今まで船の入り口を捉えていた視線が、急激に豪華客船の船体へと移り変わり、やがて暗転した。全身がまだ冷たい春の海水の中に投げ出された頃、私はようやく強風でタラップが崩れ、自分が船と岸壁の間の海に落下しまったことを悟った。必死に海面まで浮上しようとするけれど、もがけばもがくほど、水面は遠くなるばかりだ。それまで全力でダッシュしていたことも災いし、徐々に体力も奪われていく。そして酸素も。


 最後まで「死ぬ」ということを意識することは無かった。ただ海面から差し込んでくる陽の光と、海の中の深い青色がグラデーションになっていて綺麗だな、と思ったのを最後に、私の記憶は途絶えた。




 次に私が目をさますと、そこはひたすらに群青色の世界だった。そして私はなぜか神秘的なものを感じた。


「常神七海さん、で間違いないかしら」


 初めて聞く声なのに、とても落ち着く女性の声が私の名前を呼んだ。


「はい。そうですが……?」


「まだ自分の状況が把握できてない状態で、混乱させることになるかも知れないけれど、単刀直入に言うわね。あなたは海で死にました。」


「あぁ、やっぱり」


「最近の子は理解が早くて助かるわね。では、私は海の安全を司る神です、といったら流石に混乱するかしら。」


「まあ死んだ以上は神様のところに行くでしょうし……」


「最近の子にしては信仰心が厚いのね。まあいずれにせよ理解が早くて助かるわ。」


 海の安全を司る神と名乗ったその女性は、自分が死んだという事の重大さと釣り合わない私の反応に、どうやら拍子抜けした様子で話を続けた。


「とても残念なことだけれど、海で命を落とす人は世界中、そしてはるか昔から今もなお多く存在しているの。海の安全を司る私としては、そういった人々を見る度に心が締め付けられそうになるわ。」


 確かに海の安全を司る神様が居るとすれば、海難事故はその存在を否定するような出来事だろうと私は思った。


「自分の力不足、ということですか?」


「まあそういうことね。もっとも、今は私と志を同じくする人間達が頑張っているおかげで、その数は少なくなったのだけれど。そう、海で『もしも』に出会ったら、118番に電話をすれば、すぐに私と志を同じくする人間達が駆けつけてくれるわ。頼もしい限りね。」


「118番……ですか」


「しかし人類が自らの手で編み出した118番という素晴らしい知恵も、かかってくる電話は99%が間違い電話だと聞くわ。私と志を同じくする人間たちが苦境に立たされているのを見るのもまた、心が締め付けられるわね。」


 私はなぜ、海で溺れて死んだ後に、神様を名乗る存在から海上保安庁の緊急通報ダイヤルについてのレクチャーを受けているのだろう。溺れる前ならまだ知識の活かしようもあったかもしれないのに。これもすべて、「七海」という名前を持ち、海に執着して生き続けた報いなのだろうか。


「それで、なぜ私は神様の元に居るのでしょうか」


「118番の話も大事だけれど、本題はそこなの。私は海の安全を司る神として、自分の力不足で犠牲となった人々に、せめてもの救済をしたい。だから、あなたのように海で死んでしまった人が、別の世界で幸せな第二の人生を送れるように応援しているの。」


「いわゆる転生、ですね」


 でも救済というなら、別の世界ではなく元の世界に戻してほしいと私は心の隅で考える。


「あなたの飲み込みの早さはきっと第二の人生でも役に立つでしょうね。もちろん本来は元の世界に戻れるのが一番よいことなのだろうけど、それはもっと上の方の神々が何度も会議を重ねた上で、決済を得なければならないと定められているの。しかも枠も少ないし、私の力ではどうにもできないところなの。ごめんなさいね。」


「神様の世界って、意外とお役所的なんですね」


「そうね。でも、世界を管理しているのだから、コーポレートガバナンスは大切よ。それはともかく、別の世界かつ私の管轄している『海』の範囲なら、あなたの次の人生はある程度、あなたの思い通りに望みを叶えてあげられるわ。さあ、七海さん、あなたは次の人生に何を望むのかしら。」


 タラップの事故に巻き込まれ、海の中で意識を失ってからまだ1時間と経っていないのに、急に次の人生のプランを求められても正直困る。


 でも、今まで私の人生は常に船と海と共にあった。だから、次の人生もきっと船と海が近くにあるといい、もっと言えば、最期に私が叶えられなかった豪華客船への乗船が、来世では叶うといいな。そうだ、あと「七海」という名前もそのままで。


「……七海さん、海で命を落としたにも関わらず、それでも海を愛してくれてありがとう。あなたの次の世界への転生は、私が責任を持って叶えてあげましょう。」


 118番に並々ならぬ愛情を注ぐ変わった女神様は、しかしとても穏やかで安らぎのある声で私にそう呼びかけた。そして女神様のそんな声を聞いていると、自分が転生という人智を超えた出来事に立ち会おうとしているにも関わらず、気持ちがリラックスし、徐々にまぶたが重くなってきた。


「次に目が覚めたら、あなたの新しい世界での航海が始まるわ。もちろん、私もあなたのことはずっと見守っていてあげる。どうしても私の力が必要になったときは、『海のもしもは118番』この言葉を思い出しなさい。」


 群青色の世界が暗転し、私は再び意識を失った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ