表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

妄想論

なろうがアニメで受けない理由2

作者: とびうお君

 書き忘れたことがある。なろう作品で、何故深夜アニメで受ける作品と受けない作品に分かれるのか?それはキャラへの好意になる。それじゃ今まで語ったのは無駄なのか?そうじゃない。私は魅力的なキャラを創ろうって創作論は今のご時勢ゴミだと思っている。結果論に対して無駄な思考を繰り返すというのは、神学論争などの形而上学に近いと思ってる。それは思考をする意味を持たないと思ってる。


 でも多くの人は、そういった峻別が出来ない。無駄な議論を切って捨てる知性が大半の人間には無い。それは生活の中でそれを避けようとしない周りの人間を見れば分かる。そして大半の人間を突き動かすのは感情だとなる。それは良いんだ。私が感情が無い冷徹人間か?と言うとそれは違う。共感能力はあまり高くないが、自己に対する喜怒哀楽はむしろ感情的な人間だと思う。冷静な人間ではない。


 だが、それは重要じゃない。感情が思考の邪魔をするときは、私は高い抑制能力を持つ。それゆえ他者とは思考が違う。冷徹ゆえにそうなるわけじゃない。人生で勝手に身についた思考様式になる。キャラ論は感情のままに思考する人が陥り易い無駄な話しになる。それゆえに魅力的なキャラは作品が作るって部分は、無駄ではない。だから私はキャラに一切触れないで、作品の中身についてしか書かない。


 それをこの人は分かってないなって突っ込まれるのをなんとなく想像できたので書いている。私は前提としてキャラ論を語るのは馬鹿で相手したくないから無視してるのを忘れていた。でも書いておかないと、私は多分馬鹿だなと軽視されると気が付いた。一番重要なものを分かって無いと多分言われる未来についてである。


 何故キャラ論が無駄なのか?なら20年前ならキャラ論はとても重要なものだったと思う。だがそういった基礎をやりつくした現代のキャラはそれを守るのは誰しもが作り手なら体感的に当たり前で、基礎的な魅力的キャラには食傷感が生じている。それゆえ現代受けるキャラは結果論でしか無いと私は結論付けているので無駄だと切って捨ててる。


 そしてその事はかなり重要なので今回書いた。今何かエッセイカテに私のテーマの流れが来てると感じている。だから誰かが多分キャラだとやりだす気がするから、敢えて無駄な馬鹿論を皆にさらすなと釘を刺している。


 魅力的なキャラが受ける受けないの最大の部分だが、じゃそれを前もってどうやって作ったか再現性の有る論のある作者はいるだろうか?まず無い。これが今のオタ向けで一発屋が多い理由になると思ってる。じゃ再現性の有る技術となる、キャラ以外の物語がキャラの魅力を上げるってのも同じ基礎的テクニックになる。これがこの20年で崩壊してしまったから、再度私は古典回帰が来ていると見ている。


 何故か?飽和状態から食傷感が来て、キャラ先導の作品作りが通用しなくなった時代に突入したからになる。それは深夜アニメが主導で、なろうと言う文字媒体はもっと顕著になる。何故か?何故ラノベが衰退したのか?キャラの魅力は絵が大半を占めてるるからになる。挿絵があるじゃないか?それは逆に言えばラノベのキャラありき小説が飽和状態じゃなかった頃の薄い刺激の海だから通用したぬるい時代だったというだけに過ぎない。


 そしてラノベの延長であるなろうも当然似てくる。何故キャラアリキの作りが大半ソシャゲに行ってしまったか?で、根本的にソシャゲはアニメ漫画側に属するからになる。ラノベは絵と連動した内容じゃない。次に根本的にこれは換金システムの優秀さのゲームに過ぎない。面白い面白く無いじゃない、いかに金を払いやすいシステムはどれなのか?の違いに過ぎない。


 グラブルアニメが私の主観と突っ込まれるが、なんだこりゃ?って思うレベルで、アニメのBDが売れたのがその根拠になる。ソシャゲのシリアルコードがついてるからになる。もちろんグラブルが人気ソシャゲであるのが大きい。不人気のソシャゲのシリアルなんて誰も要らないから。アニメもBDもそうだが、換金システムの優秀さのゲームを単純に作品の良さにするのはずれてると私は思ってる。これは同じエッセイを書いてるヤマダさんに言葉として影響を受けてるものになる。着想の根本はオリジナルだけど。


 そもそもなろうとラノベの決定的違いが、キャラアリキの時代が飽きられた時に地下に潜っていた古き良きラノベがなろうだったと見ている。なろうって新しいのでは?いや原型は古い。原型が古いまま進化したそれが答えで、かつそれらに大きな進化をもたらしたのは、全くベタ異世界ファンタジーと関係ないVRMMOのSAOソードアートオンラインだと私は思っている。


 誰が始めたのか?分からないが、フルダイブのSAOは異世界物と変わらないと解釈した作者が居て、なろうは劇的に新しくなった。後はこれを転移から転生でシステム化しただけになる。根本的になろうは、ゼロ年代のキャラアリキのラノベの反逆児の意味合いが有る。それゆえなろうでキャラ論を語るのは、アニメ漫画で語るより絵と連動した内容でない分もっと下らないと私は思っている。


 キャラ論が全て無駄と書いてるわけじゃない。これは時代を感じる敏感なセンスが創作論には重要だと書いている。時代が違えばどんな素晴らしい傑作方法論もゴミになる。こういった鋭敏な創作センスがある人に向けて書いてる。特にオタ向けの創作は過去のヒット作から単純に学ぶのはものすごい危険だと書いておきたい。


 安直に過去作品を出して、創作論を展開する人の頭を私は疑ってしまう。だがそれにPTが付くのを否定し無い。理由は最初に戻る。大半の人間は思考より感情を優先するからになる。何度も書くがそれが間違ってるわけじゃない。バッティングするときに感情を優先するのならそれは碌な考えにならないと私は経験から知ってるからになる。思考の邪魔をしなければ逆に感情豊かなな人は優れた話が出来る。


 PTが付くのを否定しないのは、なろうは中年が多いから今より古い作品の方が知ってる人が多いからになる。思考的に重要だという判断じゃなくて、ただ興味がわく話題か?で判別されてるだけで下らないゴミ論だと私は思っている。今受けるものは、今のアニメでしか分からない。過去のアニメとの共通点はいくらでもある。だが違う点が時代の経過によって生じてる問題を重視しない人間の創作論はゴミ論だとはっきり書いておきたい。


 私が過去のアニメに詳しい中年以上のオタクの創作論がオタク向けの創作論を腐らせた元凶だと敵視してるのが大きい。そういったオタクの教祖、ご意見番みたいな意見は古いとしか言いようがないゴミ論が多い。そういった人間の影響力が高いからオタク系の創作論で優れたものが無くて、今をきちんと楽しめてるど素人の私の方が面白いと自負している。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ