会社員の実力
雨降る夏の夜、出会った美女――シルビア。
その晩、酔った彼女に押し倒され、一発必中で宿ったのが長女の優菜だ。
いわゆる『できちゃった婚』である。
シルビアは自分を『女神』だと言い、
『下界の人と関係を持った以上、私はもう天界には戻れません。責任、取ってくれますよね?』
半ば脅し文句ではあったが、女性にはまったく縁のなかった正蔵に断る理由はない。
むしろ大歓迎である。
一発逆転、大勝利と言っても過言ではなかった。
けど、女神? 天界? 何かの隠語?
出会った当初の正蔵は、まったく理解できていなかったが――。
エマリアがぷるぷる震えながら尋ねる。
「つまり奥様は、わたくしと同じ、女神……?」
「そう言いましたよ?」
「しかもわたくしよりずっと階級が上の、1級神……?」
「それも言いましたよ?」
「いやいやいや! なんで1級神の女神がこんなところで主婦をやってるんですか!?」
「こんなところは失礼だな、君は」
「はっ!? いえその、失言でした。ごめんなさい……」
エマリアはしゅんとするも、すぐさまハッと何かに気づいたように頭を上げた。忙しい女である。
「ていうか、どうしてご主人はそんな冷静に? 女神ですよ? 1級神ですよ? 長年連れ添った奥様がっ! びっくりですよね!?」
「神様の等級はよくわかりませんが、妻が『女神』だとは知っていましたからな」
もちろん、当初は彼女が『女神』だと信じきれていなかった。が、
『本当は下界で使ってはダメなのですけれど、特別に』
何もないところで火を起こしたり、空を飛んだりされたら信じないわけにはいかない。
「だからってふつうに受け入れますかね!?」
「拒絶する理由こそありませんよ」
シルビアは普段、なんの変哲もない美女である。
結婚してからはご近所さんとも仲良くする社交的な専業主婦だ。
女神かどうかなど、正蔵にとっては些末なことだった。
「なんなのこの夫婦……げふんげふんっ。失礼しました。てかこの状況、わたくしがサポートする必要は、もしかしてまったくないのでは?」
「現役を退いたとはいえ、たしかに私と貴女の魔力量は3桁ほど違うでしょうね。戦ったらさっくり終わってしまいそう」
「怖いこと言わないでください……」
「でも、人と関係を持ってしまった私は天界と絶縁状態にあります。エマリアさんは窓口として必要ですよ」
「そ、そうですよね。そのためだけに、必要ですよね……」
エマリアは目のハイライトが消えかかっていた。
かなり精神的ダメージを負ってしまったらしいが、まだ話は終わっていない。
「原因は特定された、と考えてよろしいのですかな?」
「へ? あ、はい。いちおう上に報告しても、いいんですよね?」
シルビアは頬に手を当てて嘆息する。
「仕方ありませんね。でもこれで、心置きなく魔法が使えます」
「今までは正体を隠すために気を遣っていたからな」
はっはっは、と仲良し夫婦が笑い合う。
「下界で魔法を使っちゃダメですってば!」
「でも、私は天界とは絶縁状態ですもの。力も制限されていますし、この状況です。文句は言わせませんよ?」
にこにこ顔の背後から、どす黒いオーラが立ち昇っているのをエマリアは感じた。寒空に捨てられた仔猫のようにぷるぷる震える。もう帰りたい……。
「それでエマリアさん」
「はひっ!?」
「いちいち驚かんでください。貴女は今後、どちらに住まわれるのですかな?」
「え? ああ、えっと……この家の側に、テントを張って暮らそうかと」
現地通貨で特別手当は出そうにないので、宿暮らしはできなさそうだとエマリアは肩を落とす。
ここで救いの女神のひと声が。
「この客間に住んではいかが?」
「いいんですか!?」
ちらりと正蔵を窺うと、腕を組んでうなっていた。
「若い娘さんを野宿させるわけにはいきませんからな」
「ありがとうございます! さっそくテントを持ってきますね」
「「ここに張るの!?」」
「すみません、動転してて……。お布団を持ってきます」
「布団ならお客様用のがあるからそれを使ってください」
「重ね重ね、恐縮です……」
そうしてこうして。
正蔵はほっと胸を撫で下ろす。
ひとまず原因が特定されたのだ。早ければ1年で元の世界には帰れるだろう。
エマリアを同居人として受け入れることになったが、娘たち――特に長女の優菜には(見た目)年齢の近いお姉さんがいてくれれば心強くもある。
「あ、忘れてました!」
エマリアが叫んだ。居心地が悪そうに目を伏せる。
せっかく前向きになっていたのに、どうやら悪い知らせがあるらしいと、正蔵はため息を吐いた。
「なんですかな?」
「大変申し上げにくいのですけど……」
エマリアはきゅっと目をつむり、
「通常、転移の際には対象者に特別な能力を付与するんです。『第二の人生を楽しく陽気に』が異世界転移のコンセプトですから。ただ今回は転移主体がこの家で、皆さまはあくまで付属物扱いですので……」
「特別な能力は与えられない、と?」
「大変申し訳ございませんっ!」
エマリアはざざっと後退して土下座した。
いろいろ危なっかしいお嬢さんだが、土下座はとても美しいなと正蔵は感心する。
「必要ありませんよ。特別な能力なんて」
普通に暮らせればそれでいい。正蔵は心からそう思っている。
だが、またもエマリアは後出しで不穏なことを言った。
「実はこの世界、魔物が棲息していまして……」
「魔物……? 熊とか、狼のような獣の類ですかな?」
「ま、まあ、そのレベルのモノから、街ひとつを壊滅させる災厄級のドラゴンとかそんな感じのモノまで……」
「どうして貴女は、後になってそんな重要な話をするんですかね」
「本当に、申し訳ありません……。でもっ! 魔法で結界を張れば恐れることはありません。命の危険があるので特例として、わたくしが魔法をお見せしますよ」
エマリアは息を吹き返し、自信満々に告げた。
ふむ、と正蔵は腕を組み、
「つまり今現在は、『結界を張っていない危険な状態』ということですな?」
「へ?」
エマリアが青ざめる。
まったくこの女神は、本当に抜けているなあと呆れてしまう。
そして悪いことは重なるもので。
どたどたと廊下を走る音。
「お父さん、大変っ!」
長女の優菜が、慌てて客間に飛びこんできた。
「でっかいのが庭にいる!」続けて次女の香菜が、
「おいぬさまですっ」三女の陽菜はころころと楽しそうだった。
「さっそく魔物とやらが現れたか」
正蔵は娘たちの無事にほっとしつつ、腰を上げようとして、彼女らの言葉に動きを止めた。
「でもお父さん、変なの」
「すっごい勢いで体当たりしてるんだけど」
「あたらしいおうちは、とてもがんじょうなのですっ」
魔物は窓を破ろうと突進するも、家はびくともしないと言う。たしかに衝撃音すら聞こえてこなかった。
エマリアがハッとして叫ぶ。
「そうか! この家は転移主体。だからチート能力を授かってるんですよ!」
「そういうのはちゃんと確認してから来てください」
「はぅぅ、ごめんなさい……」
ひとまず差し迫った事態ではないらしい。
かといって放ってはおけない。
正蔵は今度こそ腰を上げ、リビングへと向かった。後ろからぞろぞろみんながついてくる。
一階廊下の突き当り。
ドアを開くと、正面に天井までの高さの窓が見えた。
その向こう。
象ほどもある巨大な犬がこちらを睨んでいた。真っ黒な体毛は針金のように鋭い。剥き出しの牙はちょっとした西洋剣くらいあった。
魔物は小休止しているのか、長い舌をだらりと下げて肩を上下させていた。
「ヘルハウンドです! あんな大きいのが、この辺りにいるなんて……」
エマリアは慄きながらも、努めて冷静に状況を分析した。
「あまり刺激しないでください。しばらくしたら、諦めて去っていくと思います」
正蔵は一歩、踏み出した。
「それでは、またいつ襲ってくるかわかったものではない」
「えっ? いやあの、でも、結界を張れば……」
正蔵は、またも一歩踏み出す。
「それでは、娘たちが外を駆け回れない」
「へっ? いやあの、でも、安全が最優先……」
正蔵は、つかつかと窓へと近づいた。
「むろん、家族の安全が最優先だ」
「だったら――」
「ゆえにこそっ!」
正蔵は、怒っていた。頭に血が上っていたのだ。
今日はいろいろなことがありすぎた。
突然家ごと異世界へ転移させられ、やってきた説明役はおどおどびくびく使い物にならない。
そして極めつけがこれである。
ちらりと後ろを見やれば、愛して止まない家族がいた。
いつも天真爛漫な陽菜を除けば、優菜も、お調子者の香菜でさえ、瞳を怯えに揺らしている。
愛する我が子を、怖がらせたな。それだけで万死に値するっ!
正蔵はクレセント錠を外し、窓を開け放った。
「ご主人なにをぉっ!?」
家族の安全が最優先。
明るく楽しく朗らかな生活を脅かすモノは、なんであろうと――
「排除するっ!」
ずしん、と。
正蔵は素足のまま外へ出た。
巨大な黒い魔物は、低くうなりながら正蔵を凝視する。
視線の交錯は、数秒。
「グガァッ!」
魔物が正蔵に飛びかかった。涎をまき散らし、正蔵を食らわんと大口を開ける。それを――。
正蔵が膝を折った。すぐさま掌底を軽く振り上げる。
「ガフンッ!?」ガチーンッ!!
掌底は魔物の顎にヒット。
目標を外した大口は無理やり閉じられ、上下の歯が打ち合う音が響いた。
魔物の上体が跳ね、ぐるんと回って背から地に落ちる。
魔物は脳震盪を起こしたのか、ぴくぴくと痙攣していた。やがて小刻みに震えながら立ち上がろうとする。
正蔵はそれを眺めつつ、すぅっと息を吸いこんだ。
子どもたちが一斉に、両耳を手でふさぐ。
直後――。
「失せろっ!!」
一喝が空気を引き裂いた。
「ぴぇっ!?」
頓狂な声はエマリアのものだ。大音声に腰を抜かす。
「キャウンッ、キャウキャウンッ!」
魔物も飛び上がり、悲鳴を上げて一目散に逃げていった。
正蔵は何事もなかったかのように振り返り、リビングへ足を踏み入れようとして、裸足だったのに気づく。
「あなた、お疲れさまでした。これをどうぞ」
妻シルビアが濡れタオルを持ってやってきた。さすが長年連れ添った仲である。正蔵は礼を言って受け取り、足の裏をきれいにしてからリビングに戻った。
「さすがお父さん!」
「パパすっごーいっ!」
「おとーさま、かっこいーです!」
子どもたちが出迎える。正蔵は相好を崩して三人を抱きしめた。
当たり前のことを、当たり前のようにやってのけた。
そんな家族の反応を見て、エマリアは腰を抜かしたまま口を開いた。
「ご主人……、貴方はいったい、何者なんですか……?」
疑問は当然。
しかし正蔵には不可解な質問だった。
自分は『何者なるや?』と問われるほど、特別な存在ではない。
他者と違うことがあるとすれば女神を妻に迎えただけの――
「一、会社員です」
「んなわけあるかぁっ!」
思わずタメ語で叫ぶほどエマリアは混乱していた。
「はぅ、すみません、失礼な発言を……でもでもっ! おかしいですよ。どうしてただの会社員がヘルハウンドを一撃で倒せちゃうんですか!?」
腰を抜かしたまま尋ねると、正蔵はなぜか頬を赤く染めて目をそらした。
「こ、子どもの前では、ちょっと……」
なに照れてんだ?このおっさん。
エマリアは回答をシルビアに求めるも、こちらも『いやーん//』と照れまくり。
優菜も恥ずかしそうにうつむいていた。
「ん? なになに? なんの話?」
「いいおんなには、ひみつがあるですよ!」
「いや、パパは男だし?」
「いいおとこにも、あるですよ」
どうやら妹二人組は知らない様子。
エマリアがもう一度正蔵に目を向けると、
「さて、私は出かけてくるとするかな」
はぐらかそうとしてません?
「ていうかご主人、どこへ行くんですか?」
「魔物とやらはアレだけではないだろうからな。付近一帯に棲む連中を片っ端から追い払う」
ギラリと双眸を光らせた正蔵に、エマリアは何も言えなくなる。
「シルビア、君は結界とやらが張れるのか?」
「ええ。ちょちょいとやっておきますね」
「うん、頼む」
自分を差し置いて、夫婦は勝手に話を進めている。
鼻息荒く玄関へと向かう大きな背を、エマリアは眺めるしかなかった。
シルビアに支えられ、エマリアはどうにか立ち上がる。
今日はいろんなことがありすぎて、早く帰って休みたかった。
けれど、やはり気になって仕方がない。
「奥様、ご主人はどうして、あれほどの力を? たぶんですけど、天界でのわたくしなんかより、ずっと強いですよね?」
「純粋な強さで言えば、1級神の私より強いですよ? なにせ魔法を物理的に弾いてしまいますから」
「いやだからっ! どうして普通の会社員が神を超える力を手に入れちゃったんですか!?」
ぽっと、またもシルビアは頬を赤らめ照れっ照れになる。
白けるエマリアの耳に、シルビアはそっと口を寄せ、ささやいた。
「愛の営み、ですよ」
「は?」
「ご存じないですか? 心と体が深く深ぁ~く、神と繋がった『人』は、神から大いなる愛の祝福を受ける、と」
いやだわ恥ずかしい、とシルビアは真っ赤になって顔を手で隠した。
エマリアは呆けたまま、視線を動かした。
愛らしい女の子たちが、きょとんとこちらの様子を眺めている。
つまり、ただの『人』である正蔵が、神をも超越した力を得たのは、1級神であるシルビアと、子を成す行為をしたからで……。
「そんなの初耳ですよぉ!?」
「まあ、一度や二度では、効果は高が知れていますからね。でも私たちは、それはもう新婚時代は毎晩のように、今だって……うふふ♪」
またもや照れまくる1級神を眺め見て、
(……爆発しろ)
内心で舌打ちをするエマリアだった――。