奥様は1級神
朝、外へ出ると見知らぬ景色が広がっていた。
会社の部下の話では、正蔵の新築一戸建てが丸ごと消えてなくなったとのこと。
そんな折、インターフォンが鳴って応じてみれば。
――わたくし、天界から参りました女神です。
金髪でスーツを来た若い女が、奇妙なことを口走った。
思わず『間に合っています』とインターフォンを切ってしまったが、不可思議な現状を打破するには必要だろうと、正蔵は女を招き入れた。
玄関から入ってすぐ脇にある客間へ女を通す。和室に置かれた座敷机を挟み、女と対峙した。
「あのこれ、つまらないものですが……」
朝早くから菓子折り持参とは恐れ入る。
「それで、貴女は?」
正蔵は柔らかに尋ねたつもりだったが、女はびくっとなって目をそらした。
「わ、わたくしはあの、こういうものでして……」
女が名刺を差し出す。
「……『転生・転移管理局』? エマリア、さん?」
もろもろの疑問はあるが、一番気になるのは『転移』という言葉だ。
女――エマリアはずりずりと後退し、
「大変申し訳ございませんっ!」
土下座した。
「このたび、転移システムをリニューアルすべく最終運用試験を実施中に、誤ってお宅を丸ごとこの世界に転移させてしまいましたっ」
エマリアは額を畳にこすりつけている。
正蔵はふっと息を吐きだした。
「顔を上げてください。私は謝罪が欲しいのではない。建設的な話をしましょう」
「は、はい……。恐縮です……」
エマリアは上体を起こした。おずおずと元の位置に戻るも、怯えたようにうつむいて、ちらちら正蔵を窺う。
妻のシルビアがお茶を持ってきて、二人の前に置いた。正蔵の斜め後ろに正座して控える。
エマリアは「恐縮です……」といっそう縮こまった。
ずいぶん気の弱いのがやってきたものだ、と正蔵は呆れながら、静かに問う。
「理解不能な点は横におくとして、要するにそちらの不可思議なシステムに欠陥があり、その何らかのトラブルに我々は巻きこまれてしまった、と?」
「欠陥と言いますか……ひっ!? ま、まあだいたいそんな感じです!」
言葉を濁したエマリアを正視しただけだが、眼光の鋭さにエマリアは慄いたようだ。慌てた様子で言い訳を始める。
「ほ、本来はあり得ないことなんです。転移システムは〝個人〟を対象に異世界へ転移させるものですから、家を丸ごと、中身も一緒に、というのは初めてで、まだわたくしどもも原因の特定に至っていないと言いますか――」
「エマリアさん」
「はひっ!?」
「起きてしまったことを、この場で非難するつもりはありません。原因を明らかにせよと貴女に迫っても意味がない。それは後回しにしましょう。私が求めるのはただひとつ。原状回復です」
「お、おっしゃる通りです……。ただ、その……」
エマリアがまたも言葉を濁した。
いい加減、爆発しそうではあったが、感情的になっては話が進まないと正蔵は自らを戒めた。
「すぐには難しい、と?」
「原因がはっきりしないうちは、なんとも……。仮に原因がわかったとしても、プログラムの修正や再試験を含めれば、早くても1年はかかってしまうらしく……」
「1年も?」
「は、はい、すみません……。でもっ! 今回はなぜか元の世界とのつながりが確保されています。電気もガスも水道もネット回線も、有線や配管設備を介するやり取りは今までどおり使えます。それに敷地内へ置かれた品物はこちらへ転移するようにもなっていて、お届け物は生き物以外ならきちんと届きます。生活への影響はほとんどないかと――」
「エマリアさん」
「はひっ!?」
「今現在は大丈夫でも、『なぜか』と貴女がおっしゃる以上、ライフラインが永続して使える保証はありません。それに、私には仕事がある。娘たちには学校や幼稚園、妻には地域の皆さんとのお付き合いがある。社会の一員として生活できない以上、支障は大きくあるんですよ」
「お、おっしゃる通り、です……」
「今日は長女の大切な入学式がある。今すぐ、我々5人だけでも帰してもらえませんか?」
懇願するように声を柔らかくするも、エマリアはずずーんと沈んでしまった。
「それも無理、と?」
「先ほど申し上げましたとおり、転移システムは〝人〟を別の世界へ移動させるものです。個人の持ち物はその〝人〟に紐づけされ、一緒に転移します。今回は、その……、どういうわけかこの家が転移主体となっていて、皆さん5人が紐づけされている状態なんです。転移主体以外を個別に転移というのは難しく……」
それに、とエマリアは続ける。
「今回トラブルを起こした新システムでは、転移対象の情報管理方法も旧システムから変更されています。もちろん下位互換はあるのですけど、その逆――新システムで転移したものを、旧システムで戻すのは無理なんです」
「では『戻す』のではなく、旧システムで改めて我々を転移させるのは?」
「一度システム的に転移させてしまいますと、改めてはできないことになっているんです」
「なんでまたそんな」
「仕様です、としか……ごめんなさい……」
「つまり、現状は新システムの修正を待つしかない、と?」
「はい……、そうなります……」
正蔵は天井を仰いだ。
机にこぶしを叩きつけたい衝動をどうにか抑える。
彼女を叱責したところで、問題は解決しない。怒りをぶちまけても、すっきりなどしないのだ。
(1年……1年か。いや、それはあくまで最短。原因がわかるまでの期間を含めれば、さらに延びる)
貯えはある。ネットは繋がり、荷物も届くと言う。ある程度の倹約は必要だが、2年はどうにかなりそうだ。
が、元の世界との繋がりは保証されていない。いつ断絶してもおかしくなかった。
「そちらは我々の生活をサポートしていただけるのでしょうな? 具体的には生活費と、万が一の場合の支援ですが」
「そ、それは……」
「まさか、なんの支援もなく『どうにか生きろ』と?」
「いえっ! 本来、転移後に対象者へ直接関与するのは認められていないんですけど、今回はイレギュラーかつ瑕疵はこちらにありますから、特別に――」
エマリアは自身の控えめな胸に手を当てて、
「わたくしが現地に駐在しまして、皆さまの生活をサポート――」
「却下だ」
「ひぃっ!?」
「いや、すまない。つい……。が、具体的に貴女がどう我々をサポートしていただけるのかな?」
「働きに出ます」
正蔵は再び天井を仰いだ。
「下界で女神の力は使ってはならないですし、そもそも力がかなり制限されますから、わたくしの力は微々たるものですけど、こちらで皆さまが生活する上で必要な路銀は、わたくしが稼いで――」
「ああ、もういい。もういいですよ、エマリアさん」
「はへ?」
「貴女も、貧乏くじを引かされたものですな」
エマリアの言動を観察するに、必死さの中に諦念じみた感情が見え隠れしていた。
長く営業職に就き、多くの人と対面してきた正蔵にはわかる。
『めちゃくちゃ嫌だけど上から命令されて仕方なく』というのが痛いほど伝わってきたのだ。
エマリアはしばらく呆けたあと、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「わたくし、ずっと天界で事務仕事をしていて、今回が下界に降りるの初めてで、すごく不安で……」
音もなく、シルビアが泣き腫らす女神の傍らに座った。
「辛かったのですね。でも大丈夫ですよ。私たちも一緒ですから。いっぱい頼ってくださいね」
「奥様……うわーんっ!」
大きな胸に顔をうずめるエマリア。
ひとしきり泣く間、シルビアは優しく彼女の頭を撫でていた。
「ところでエマリアさん」
彼女が落ち着いたのを見計らい、正蔵が尋ねる。
「転移だの女神だの天界だのは、一般に認知はされていませんよね? ところが今、日本は大騒ぎになっているはずです。そちらはどう対応されるおつもりですかな?」
「ああ、そうですね。状況が状況ですから、ある程度の情報開示は必要になるかと思います。そのあたりの判断は上がして、政府対応は別の者が担当するかと。でも、どうしてそれが気になるんですか?」
「最低でも1年は戻れないのです。休職や休学の手続きに理由は必要ですからな」
「そう、ですね。考慮が足りませんでした。いちおう上と相談しつつになりますけど……」
「構いませんよ。ひとまず娘たちにも事情を説明して、今後の生活について話し合います」
その前に、と正蔵はお茶をひと口すすってから、
「原因究明の目処は、まったく立っていないのですかな?」
これが長引けば、元の世界へ帰るのも伸びてしまうのだ。とても重要なことだった。
「まったく、ではありません。問題は新転移システムが、強大な魔力に干渉した結果だと推測されています。今まで観測されなかったことから、巧妙に隠されていたようです。それほどの魔力源が、たまたま鬼瓦さんのお宅に存在していた、というところまではわかっています」
ん?と正蔵は首をかしげる。
「強大な、魔力源……?」
「ええ。女神クラス……それも1級神レベルの超強力なものです。下界にそれほどの魔力源があるとは考えられないんですけど……。あ、ちなみにわたくし、7級神です。下っ端ですみません……」
正蔵は三度天井を仰いだ。
顔を戻し、エマリアの側にいた妻に視線を当てる。
「シルビア、もしかして……」
続く言葉は出てこなかったが、長年連れ添った妻は察してくれたようだ。
「はい。どうやら、私が原因のようです」
「へ?」とマヌケな声を出したのはエマリアだ。
シルビアはしゅんとしてしまう。
正蔵はすかさず妻をフォローする。
「君が責任を感じることはないよ、シルビア。実社会に影響を及ぼす大規模システムにおいて、『想定外だから』と試験項目に入れていなかったのは言い訳にしかならないからね」
「ありがとうございます、あなた……」
「え? え? あの、えっ? さっきからいったい、なにを……?」
混乱するエマリアの肩に、シルビアがぽんと手を置いた。
そして、告げる。
「私は、女神です。1級神の」
ぽかんと呆けたエマリアはしばらくして、
「えぇえええええぇぇっ!?」
家中に響くほどの絶叫を上げたのだった――。