昨日の自分、今日の自分
ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
陽は直上を通りすぎ、しかし容赦なく照りつけている。したたる汗が止まらない。
「くそっ、僕は、王子、なんだぞ……」
悪態の勢いも、昼食を済ませてから時間が経つにつれ弱まっていた。
シャルロ・アルスバイトあらためシャルロ・アーシュは、防水性の手袋と長靴を身に着け、鼻から下を布のマスクで隠して『ドブさらい』に従事していた。
トレイアの大通りのひとつ。
中央広場から南門へと抜ける道路の両端には、細い側溝が通っている。幅は50㎝ほどで、深さは70㎝といったところ。
石で作ったふたがあり、五つほどを開いて、底に溜まった汚泥を取り去るのだ。すくった汚泥やゴミは、木樽に入れて並べておく。
ときどき荷馬車がやってきて、汚泥入りの木樽を回収し、空の木樽を置いていった。その繰り返しである。
シャルロは頻繁に休憩を挟みながら、黙々とドブをさらっていた。
腰が痛い。
腕と足がパンパンに張っている。
ヘドロ状になった泥は異臭を醸し、マスク越しにツンと鼻を刺した。
道行く人たちの視線が痛い。
見る者すべてが自分を嘲笑っているかのようだ。
『ドブさらいなんてマジ底辺』
『あそこまで落ちたくはないよなー』
『つーか、あいつ丸すぎw』
そんな幻聴まで聞こえてきた。
「くそ、くそ、くそ、くそっ」
穴の開いた専用のスコップに怒りをぶつけ、汚泥を木樽へ移していく。
もし指差して笑うような奴が現れたら、汚泥をその面にぶちまけてやるっ。
しかし実際には、彼に関心を持つ者は稀だった。
気に留めた人も、『暑いのに大変だなー』とか『ご苦労さま』とか、中には街をきれいにしてくれる彼に感謝しつつ通り過ぎる者もいた。
彼には、温かな視線に気づく余裕はない。
「くそ、くそぉ……」
体力はとうに限界を超え、腕が上がらなくなってきた。
前に目を向けると、南門が霞んで見えた。
「まだ、あんなに遠くなのかよ……」
さすがに一人が一日で終えられる距離ではない。今日のノルマは二百メートルほど先までだが、それも夜までに終わるとはとても思えなかった。
やる気が急速にしぼんでいき、シャルロは手を止めた。
いや、もともとやる気などなかった。
自らに振りかかった理不尽な事態に対する怒り。それを原動力としていただけだ。
「帰りたい……」
尖塔の最上階にある自室で、食べ物を貪りながらゴロゴロしていたい。
あの夢のような生活は、いつになったら戻ってくるのだろう。
「あいつさえ、現れなければ……」
ひげ面の大男が思い出され、頭の奥が熱くなった。
「くそっ、くそくそくそぉっ!」
再び湧き上がった怒りを、スコップにぶつける。
そのときだ。
背後から、いきなり声をかけられた。
「なかなか気合が入っているじゃないか」
「あんた……」
手を止めて待ち構えていると、ひげ面の大男が横に立った。手にはアタッシュケースを持っている。
「なんの用だよ?」
「外回りの最中、近くに寄ったものでね。様子を見に来た」
「ふんっ。どうせ笑いにきたんだろ……」
作業が遅いのは自覚している。木樽を運ぶ係の者に直接指摘もされていた。
シャルロは正蔵を無視すると決め、作業に戻った。
正蔵はすぐ側でじっと、眺めている。が、やがて。
「君は、剣術や体術を学んだことはあるかね?」
「は? いきなりなんだよ?」
疲れていたこともあり、手を止め、反応してしまった。
「言葉のとおりだよ。で?」
「そりゃあ、まあ……」
今は見捨てられているが、幼いころは次期国王として様々な教育を受けていた。
剣術もそのひとつ。
武の達人であるジルク・ゴルダス侯爵に、指導を受けたことがある。
「ふむ、やはりか。体力は衰えていても、動きの端々に痕跡が見て取れる。たまには昔を振り返ってみるのもよいものだよ」
正蔵はそれだけ言って、「ではまた」と去っていった。
「……なんなんだよ、ったく」
意味不明なことを言われ、むかむかとしてきた。
スコップを乱暴に突き刺し、底を削るように引っ掻いた。腕に力を込めて持ち上げようとしても、なかなか上がってくれない。
「……そうか。一度にたくさん持ち上げるから、力がいるんだ」
スコップを引き、汚泥の表面を滑らせるように小さくすくった。
「これっぽっちでも、けっこう腕にくるな……」
ふいに、正蔵が残した言葉が頭をよぎる。
――たまには昔を振り返ってみるのもよいものだよ。
続いて、幼いころに聞いたゴルダスの声。剣術の稽古をしているときのものだ。
『殿下、剣は腕だけで振るうものではありません。腰を落とし、重心を安定させた上で、体全体を使って、このようにっ』
シャルロは当時言われた言葉を反芻しつつ、腰を落とし、脇を締めてなるべく腕を動かさず、汚泥をすくった。
「あー、これ楽だ」
何度か試行錯誤を繰り返し、力を使わず、効率よく汚泥をすくう方法を模索する。
そうして、徐々にコツをつかんでいった。
「……つっても、疲れるものは疲れるな」
忌々しげに前を見据える。まだまだノルマにはほど遠かった。
もっと効率的に、楽にできる方法はないだろうか?
昔学んだことで、何かヒントになるものは?
(昔……昔……っ!?)
ハッとして思考を止める。
「ええいっ! 僕は疲れた。休憩だ、休憩」
シャルロはスコップを放り投げ、道路にどかっと腰を落とした。マスクをずらし、大きく息を吸いこむと、すえた臭いに顔をしかめる。
「あいつめ、余計なことを……」
正蔵の言葉が頭にこびりついて離れない。
――たまには昔を振り返ってみるのもよいものだよ。
過去を振り返って、何になるというのか。
さっきは役に立ったように思えるが、ドブさらいの技術を上げたって意味はない。
それに思い出すものは、役に立つことだけではないのだ。
むしろ――。
毎日毎日、遊ぶ時間は当然なく、食事や寝る間も惜しんで訓練に明け暮れていた。
剣術に体術、弓や魔法。
体を動かしては机に向かい、帝王学を叩きこまれた。
辛かった。逃げだしたかった。
こんな苦しい生活を続けるなら、王になんてならなくていいとさえ思った。
でも、たぶん、それだけなら耐えられた。
(僕が、耐えられなかったのは――)
目に映るのは、困ったような薄笑い。
耳に流れてくるのは、落胆と失望の声。
『筋がよいとは、とても……』
『物覚えが悪いとまでは言いませんが、この程度では……』
『こんな初歩の魔法に何日費やすのか……』
自分は、よくやっていたほうだと思う。
でも周囲の期待には、まったく届いていなかった。
いくら努力しても評価されない。
褒められた記憶なんて、一度もなかった。
――あにうえは、すごいですねっ。
ふいに、幼い声が耳をかすめた。
(そういえば、リーンフィルだけは、僕をやたらと褒めたたえていたな……)
基礎的な剣舞や簡単な魔法を披露しただけでも、年の離れた妹にはまぶしく映ったのだろう。
だが本当にすごいのは、妹の方だった。
『姫様はすばらしく筋がよいですなっ』
『この難解な詩を諳んじるどころか、作者の意図まで読み解くとはっ』
『たった半日でファイヤーボールをマスターなされましたぞっ』
兄の後ろをついて回るだけだった幼い姫。見よう見まねがことごとく、周囲を騒然とさせる出来だった。
ああいうのを、天才と呼ぶのだろう。
シャルロがそれまで積み上げてきたものすべて、否定された気になった。
彼が引きこもる決定的な要因は、紛れもなく妹の存在が一番大きかったのだ。
(あいつは、どこまでも上に行く。だから、僕なんかが王位を継いだらいけないんだ……)
会わなくなって、もう三年ほどだろうか。
その間に自分は、体重が二倍近くに増え、髪も肌も艶を失くした。
今の自分を見ても、きっと妹は誰だか気づかない。
そう、思っていたのに――。
「兄、上……?」
幻聴かと思った。けれど耳に嫌なくらい貼りついてくる小さな声音。
恐る恐る顔を上げると、女の子がこちらを呆然と見ていた。
町娘風の衣装に、顔を目立たなくするためかフードを目深に被っている。成長はしているが、三年前の面影が目元に色濃く残っていた。
見間違うはずがない。
妹のリーンフィルだ。
なんで? どうして? よりにもよって今の自分を一番見てほしくない人が、こんなところにいるのか?
頭の中がぐちゃぐちゃになっているうちに。
「このひとが、あにうえさまですか?」
「なんか、王子様ってイメージじゃないね」
妹の両隣に、見知らぬ女の子が二人、立っていた。
一人はリーンフィルより年上らしく、ショートカットでボーイッシュな印象。もう一人は思い出の中の妹と同じくらいの年だった。
混乱する思考を急速に正し、シャルロはマスクで顔の下半分を隠す。穴あきスコップを持ってすっくと立ちあがった。
「人違いじゃないか? 僕は一介の冒険者だ」
冷ややかに否定すると、リーンフィルは彼の目を見、スコップに視線を移し、ふたの開いた側溝を眺め、再び兄の顔へと目を戻してから、
「はっ! そうでした。貴公はなりたてほやほやの冒険者。キツイ、汚い、キモイと嫌がられるドブさらいの依頼を積極的にこなし、街の美化に貢献して衛生状態を守っておられる尊き御仁」
「キモイは余計では……?」
シャルロのツッコミを無視し、リーンフィルはクワっと目を見開いて叫んだ。
「なんと立派なっ。汚れ仕事を率先して行うとは、さすが兄上っ」
「だから僕は君の兄上じゃ――」
「そうでありましたっ。しかし何度でも申しましょう。さすが兄上っ」
リーンフィルは目をキラキラ輝かせていた。
居たたまれなくなり、シャルロは顔を背ける。
「それにしても、体型まで変えられるとは……何事にも徹底しておられる。さすが兄う――」
「もういいっ!」
行き交う人の注目を浴びて恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。側溝は狭すぎて無理っ。
「と、とにかく、仕事の邪魔だ。子どもはとっとと家に帰るんだな」
シャルロはスコップを振りかざし、ドブさらいの構えに入る。
「し、失礼しました。邪魔をするつもりはありませんでした……。では、わらわはこれにて」
言いつつも、もじもじとするリーンフィルは言いにくそうに、
「最後に、ひとつだけ。………………お会いできて、嬉しかったです」
そう言うと、中央広場のほうへ向け、大通りを駆けていった。
「あ、リーンちゃん待ってよっ」
「まいごになるですよー」
二人の女の子も駆けていく。
いつからいたのか、きれいな女性がぺこりと頭を下げて、三人を追った。女の子たちの保護者だろうか。
(なんだったんだ、いったい……)
一国の姫が護衛もつけず、見ず知らずの母娘と街を歩き回っている。
お忍びでの視察にしても奇妙な話だ。
(まさか、あいつの差し金なのか?)
大男のいやらしい笑みが頭に浮かび、心底忌々しくなる。
(にしても、大丈夫なのか? この街の治安はいいほうだけど、それにしたって……)
気にはなるが、妹の背を目で追うのはためらわれた。
自然と前方、気が滅入るような残りのノルマを眺めてしまう。
それでも黙々と、なるべく力を入れずに汚泥がすくえるよう体の動かし方に注意して作業を進めていると。
「無駄な動きが少なくなったな。ずいぶんとこなれてきたじゃないか」
背後からの声にぴたりと手を止めた。
横に並んできた大男に、文句が口から飛び出す。
「こんなのが上手くなって、なんの役に立つって言うんだ」
「そのものズバリ、ドブさらいの効率が上がる。他にも肉体労働なら、だいたい応用が利くさ。そもそもベースが剣術や体術なのだから、基礎を思い出すだけでも要人警護や魔物狩りのような高給クエストに有用だろうな」
あっけに取られていると、正蔵は柔らかな笑みで言った。
「どうかね? たまには昔を振り返るのも、悪くはなかったろう?」
「あなた、全部知ってて……」
「君を預かると言った手前、情報はあるだけかき集めたさ」
「それで妹まで……リーンフィルまで連れてきたってのかっ」
正蔵はふむと顎に手を添えた。
「彼女がここに現れたのは、私も予想外だった。まったくの偶然だよ」
中央広場のすぐ側にある役所から出たところで、思わぬ人物と出くわした。
妻や娘たちと一緒に、まさか王女が一緒だとは。
「すこしだけ話をした。とても楽しそうに、自慢げに、君のことを語っていたよ」
「あいつは天才のくせに、僕を過大評価するんだ。自慢になんて……」
気が沈んで目を伏せるも、
「たしかに、彼女の君への評価は高すぎると言えるな」
はっきり言われると、自分ではなく妹がバカにされたようで、むかっときた。
思わず正蔵を睨むと、意外にも柔和な笑みが彼を迎えた。
「他者の評価には、たぶんに主観が宿るものだ。君の妹は兄を慕う気持ちが強すぎて、実際よりも高い評価をしてしまったのだろう。そして――」
正蔵は、真摯にシャルロを見た。
「王にしろジルクにしろ他の指導者にしろ、君に過度な期待を持っていた分、君を常に過小評価していた」
「ぇ……?」
正蔵はゆっくりとうなずいてみせた。
「そう。過小評価だ。君は妹さんのように、天賦の才があるわけではない。が、人は誰であれ、凡人の域を抜け出す可能性を持っている。君だって例外ではないさ」
だが、彼は挫折した。その原因を、正蔵は鋭くえぐる。
「君は実に前向きな男だ。悪い意味でね。辛い過去を思い出したくなくて、逃避のために前を見続けてきた。今もそうだ。残りのノルマばかり気にして、気が滅入っているのではないかね?」
「そ、れは……」
「君に必要なのは、時には立ち止まり、振り返る勇気だ。見たまえ」
正蔵が指差したのは、現在作業中の側溝だった。
半分は汚泥が積もり、もう半分は汚泥が取り除かれている。取り除かれている部分も、ヘドロ状の汚泥が徐々に侵食してきているし、磨いてぴかぴかにしたわけではないので、一見すると汚れていると感じる。
それでも――。
「たったそれだけの汚泥を取り除くのでも、大変な苦労をしたと君は実感したはずだ。さて、君の実績は、たったそれだけだろうか?」
正蔵の指が、シャルロの後方を指し示した。
シャルロは導かれるように、振り返る。
遠く、中央広場が見えた。夕方になり、多くの人が出歩いている。
大通りの端に伸びるのは、ふたが閉められた側溝。彼がずっと気にしていた、今日のノルマよりも長く、続いている。
「ここから中央広場までの側溝は、すべて君がきれいにした。ふたは閉められ、ほとんどの人は気づかないだろうが、紛れもなく君の、今日という日をやり遂げた証だよ」
シャルロは声を出すことができなかった。
視界が涙でぼやけていく。
「これからは、他者の評価に振り回されるのはやめなさい。君自身が客観的な基準を定め、日々自己を評価すればいい。それだけで、君は大きく変われる。いや、本来の自分を取り戻せる」
難しいことではない。ごくごく簡単なやり方だ。
「一日の終わり、寝る前の数分でいい。比べればいいのさ。昨日の自分と、今日の自分を」
「たった、それだけで……?」
「ああ。たったそれだけで――」
正蔵は、遥か中央広場を眺めて言う。
「あの女の子が、真に自慢できる男になれるだろう」
シャルロのぼやけた視界には、一人の女の子が映っていた。
側溝の端。今日の作業のスタート地点で、ずっと、敬愛してやまない兄の背中を見続けていた女の子。
(ああ、そうか。僕が耐えられなかったのは――)
幼い彼女の、純真なる期待。
自分には絶対に無理だと、諦めてしまったからだ。
シャルロはスコップを握りしめる。
あとはただ、汚泥をすくう作業に没頭する。
――昨日の自分を、もっと大きく超えるために。