お願いとお誘い
異世界に来て、初めての海水浴。
昼にはバーベキューをする段取りになっている。
太陽が頭上に来るにはまだ間があるものの、状況が読めないだけに、『先に始めていて構わない』と言うしかなかった。
遅れてやってきたエマリアに後を託し、正蔵は海を駆る。
人の欲望に翻弄されている、善良な水竜を救うために。
空中を並走するのは妻のシルビアだ。
眼前に表示されたウィンドウ画面を静かに見つめ、正蔵に方向を指し示していた。
「止まりましたね」
画面上の赤い点が、動きを止めた。
「まだ海上には出てきていませんね。海の底で休んでいるようです」
となると、水竜のいる位置に命令者はいないかもしれない。
だがそれは杞憂に終わった。
前方、海上に中型の帆船が漂っていたのだ。
むろん、その船に目的の人物が乗っている保証はない。
もっともそれは、調べればすぐにわかることだ。
正蔵は速度を上げ、海面を蹴って飛び上がった。
突如として甲板に降り立った、半裸の巨漢。
船員たちはみな一様に驚き、慄いた。
その傍らに、そっと降り立つ半裸の美女。
船員たちは女神降臨かと驚き、うっとりする。
ハッとした男が叫ぶ。
「な、何者だっ!?」
正蔵は答えない。ぐるりと周囲を見回す。
甲板には5人の男たちがいた。甲板掃除をしていたらしく、デッキブラシを槍のように構える者もいた。
みな、体格がいい。海の男がそうなのか、それとも武人であるからなのか、マストの上からボーガンを構える男を視界に収める。
正蔵がしばらく黙っていると、船員がしびれを切らして怒鳴った。
「おい、貴様、聞こえているのか! ここがネミーラソ・ギール様の船だと知っているのだろうなっ!」
侵入者への紋切り型の口上としては期待通りのものだった。
「シルビア、頼めるかね」
「はい、承知しました」
シルビアがウィンドウ画面を表示させる。通信魔法で浜辺にいるエマリアに繋ぎ、ジルク・ゴルダス侯爵に『ネミーラソ・ギール』なる人物を照会すると。
『ショウゾウ、すぐに戻ってこい。ギール子爵はバーデミア帝国から派遣された外交特使だ。揉めるのはマズい』
帝国からの使者が、水竜が休む真上にいる。
ほぼ決まりではあるが、念のため正蔵は質問した。
「外交特使が、海上になんの用があると?」
『……自国の商船が襲われているのだ。特使はぜひ王国に協力したいと、たびたび自分の船を出し、調査を行っていてな』
「外交特使のやることかね?」
『何度も止めはしたが、本国からも許可をもらい、何があっても外交問題にはしない、責任は自身で取ると言われては止められんよ。ともかく、相手が知れたのなら一度戻り、じっくり策を――』
「そんなまどろっこしいことはやっていられない。その間にまた被害が出ては意味がないからな」
正蔵は言うと、通信を切るようシルビアに頼んだ。
『おいっ、ショウゾウ! 待――』
さて、と。
正蔵は首をこきこきと鳴らし、
「責任者に会いたい。お前たちが水竜を操り、自国の商船を襲っているのは知っている。観念するのだな」
ざわめきが起こる。
戸惑いや焦り、不安や諦めといった感情が渦巻く中で、覚悟めいた気迫も伝わってきた。
「賊だっ! 賊が侵入したぞっ!」
一人の男が叫ぶと、デッキブラシを振りかぶって正蔵に襲いかかった。
正蔵は直立不動で迎え撃つ。
デッキブラシの先端が正蔵の肩に振り下ろされた。バキッと音を立て、ブラシの柄が折れる。正蔵は動かない。
船内から剣や槍を持った男たちが現れた。
だがすぐには襲ってこない。
上空。
マストの上から三人が身を乗り出し、複数のボーガンを使って矢の雨を降らせた。
矢は重力も加わり、勢いよく正蔵の体に突き刺さる――ことはなく。
文字どおり鋼の体に阻まれ、弾かれた矢は、まるで木の枝がばら撒かれたように散らばった。
「な、なんだ、こいつは……」
「硬化系の魔法なのか……?」
「化け物……」
船員たちの気迫が見る間に萎えていく。
正蔵は最初に襲ってきた男をぎろりと睨み、
「案内してもらおう」
「わ、わかり、ました……」
男は震え声になり、「こちらです」と先導した。
正蔵たちは男の後についていく。
船室に入る直前、シルビアが眉をしかめた。
しかし目配せするだけで、何も言ってこない。
何かしらの魔法が施されているのかもしれないが、シルビアが注意しないのだから、さして問題はないだろう。
船内に入ると、甘ったるい匂いが鼻をついた。
男は「あそこの部屋です」と奥を指差して、それ以上は進まなかった。
怯えた者に無理強いはできない。
罠かもしれないが、怯む気もなかった。
示された扉を開く。
むわっと煙が出迎えた。
薄暗い部屋の中に、男が一人、ロッキングチェアに揺られてパイプたばこをくゆらせている。
線の細い、痩せた男だ。とろんとした目は、怪しげな薬をやっているように感じる。
男は怪訝に問う。
「誰だ? 貴様は?」
「お前がネミーラソ・ギールか。水竜を操り、自国の船を襲って何を企む?」
冷徹に目を細めたギールはしかし、にやりと笑った。
「ほう。よくわかったな。いや、ようやく、と言うべきか」
ギールは何が面白いのか、くつくつと笑う。
「ここまで無傷でたどり着いたか。なかなか腕が立つようだな。それとも、裸同然の格好で海を泳ぎ、船員どもの目を盗んでやってきたのか?」
「質問をしているのは私だ。答えろ」
「はっはっはっ、たいした自信じゃないか。だからこそ、二人でのこのこ乗りこんできたのか。私の部屋に、なんの備えもなく」
ギールはパイプを口に咥え、ふぅっと紫煙を吐きだした。
「この部屋には魔法術式が幾重にも張られてある。竜種をも操る、精神を犯す魔法のな」
正蔵は違和感を覚えた。
体に、クモの糸のような細く透明なものが絡まっているような感覚。
「動けまい? 貴様らはすでに我が術中にある。さて、絞め殺す前にいくつか訊いておこう。貴様らがどこの誰で、誰に命令されてここに来たのか。どうやってウォータードラゴンの一件からここへ到達したのか」
ギールはもう一度パイプを吹かし、下卑た笑みを浮かべる。
「まずはそちらの女と、たっぷり楽しみながらなあ」
ぶちぶちぶちっ。
「へ?」
正蔵は何か体に巻きついたと感じつつも、お構いなしでずんずん歩く。
「な、なぜだ? なぜ動ける?」
なぜと問われる理由が正蔵にはわからなかった。
体を動かすとぶちぶち小さな音が鳴ったが、目には何も映っていない。
魔法的な何かをされたのかもしれない。
それについてギールは語っていたのかもしれない。
が、正蔵にはすべて些末なことだ。
「もう一度、訊く」
ずいっと顔を近づけ、ふっとパイプを吹き飛ばす。
「水竜を操り、自国の船を襲って何を企む?」
「ひぃ!?」
仰け反った拍子にギールは椅子から転げ落ちた。
「バ、バカな。貴様らからは魔力がまったく感じられなかった。抗魔法をかけていないのも、部屋に仕込んだ術式で確認済みだ。なのに、なぜ……なぜぇ!」
答えてやる義理はないが、納得させなければ話が進まないと正蔵は判断する。
正蔵では答えられないので、シルビアにバトンタッチ。
「女神の魔力は人とは質が違いますし、周囲の人が『当てられる』危険も考慮してある程度隠蔽していますから、注意力のない魔法使いは感知できません。また抗魔法を使うまでもなく、1級神にはこんな雑な魔法は効きません」
「は? ぇ……?」
正蔵もよくわからないが、ギールも理解できていないようだった。
「それから、正蔵さんは――」
シルビアはぽっと頬を赤らめて言った。
「愛、ゆえに」
まったくもって、わからなかった。
気を取り直し、正蔵は怯えるギールの肩をつかむ。
「ひっ、わ、わかった。話す。すべて話す」
ギールは堰をきったようにまくしたてた。
正蔵たちの予想とほぼ合致する、帝国の自作自演工作だった。
水竜を操り、自国の商船を襲う。
対応する王国軍の動きをつぶさに記録し、将来の海戦に生かす腹積もりだ。
また、多額の賠償金を請求し、断れば戦争を仕掛けるつもりでもあった。
商船から投げ出された荷は、水竜を使って一部をちゃっかり回収していたとも言う。
「と、捕らえられた場合は、抵抗せずに洗いざらいしゃべっていいことになっている。私を犯人扱いして追及したところで、皇帝陛下は白を切り通すからな。逆に開戦の口実にしてくださるだろう」
ギールは話すうちに興奮してきたのか、引きつった笑みを作った。
「は、はははっ。そうだ。皇帝陛下の思惑どおりだ。お前たちは、帝国に目をつけられた時点で詰んでいるんだよ。さあ、どうした? 私を捕らえてみろ。ふは、ふはははっ。言っておくが、私は捕虜として丁重に――ひぃ!?」
正蔵が、にたりと笑った。
「ギールさん、何を言っているのかね?」
「へ?」
「捕らえる? 捕虜? 意味がわからないな。私はここへ、お願いとお誘いに来ただけだよ」
「お、お願い? お誘い……何を……?」
正蔵は鼻先がくっつくほど顔を近づけた。ギールの後頭部をがっちりつかみ、離さない。
「水竜にかけた魔法を解け。これがお願いだ」
「は、はひぃ……」
正蔵はわずかに顔を遠ざけ、大きくうなずいた。そのままギールの首根っこをつかみ、部屋を飛び出す。
承諾したなら即行動。
考える時間は与えない。
甲板に出るや、水竜を呼び出した。
特殊な笛を吹くと、ウツボのような体躯でカジキマグロに似た角を持つ巨大獣が姿を現す。
さっそくギールに解呪の魔法をかけさせる。
正蔵にはどうなったか判断できないが、水竜は嬉しそうに一度海面を跳ね、海底に潜っていった。おかげで船は大揺れだ。
シルビアからもお墨付きをもらい、これで最大の目的はクリアした。
その間、甲板ではギールが正蔵の言いなりになる様を、船員たちが呆然と眺めていた。
ギールが不安そうに正蔵を見やる。
まだどんな『お誘い』なのか聞いていないからだ。
正蔵は怯えるギールの肩にそっと手を乗せて、子どものように屈託のない笑みで、言った。
「では、ギールさん、私たちとバーベキューを楽しもう」
「は? ばーべ、きゅー?」
ギールの混乱に拍車がかかる。この男は、いったい何をさせようというのか?
「野外で食事を楽しむのだよ。そこには王国軍を統括するゴルダス侯爵もいる。彼に水竜問題を解決した貴方の武勇伝を聞かせてあげようじゃないか」
瞬間、ギールは理解した。正蔵の恐ろしい企みを。
「今回はささやかな宴だが、なに、ゴルダス侯爵が口を利いてくれれば、国王から正式に酒宴のお誘いがくるだろうさ。貴方は冒険者ではないから、水竜退治の報奨金とは別に謝礼が贈られる。確実に、ね」
「や、やめてくれ……。そんなことをされたら、私は――」
皇帝陛下に、裏切り者だと疑われてしまう。
「はっはっは、遠慮することはない。では、さっそく行こうか。ああ、船員たちには寄港したら酒でも振舞うよう、侯爵に頼んでおこう」
「ぁ、ぅぅ……」
正蔵はギールの首根っこをつかみ、船から飛び降りる。
ギールは、魔法も使わず水上を駆ける大男に改めて恐怖し、逃れられない運命を呪うのだった――。
浜辺の片隅で、虚ろに横たわるギールがいたものの。
バーベキューは賑やかで楽しいものとなった。
事情を知らない子供たちは、別れの挨拶にきたウォータードラゴンと陽が落ちるまで戯れていた――。