水竜現る
「あはははっ、来た来た来たよっ。ソフィ、逃げろー」
「あ、エリザさん待ってくださいよ。ひぅ、冷たーい」
寄せては返す波打ち際で、はしゃぎまくる少女二人。
「おっ、戻ってくよ。待て待てー」
「わっ、おっきな波が来ましたよっ。危ないですって」
「へーきへーき、あはははっ――ぶべっ」
前のめりに倒れたところにちょうど波が押し寄せ、エリザベートは顔面で受け止めた。
「ぶはっ! ぺっぺっぺ、なによこれ? 本当に塩辛いのね」
ソフィは自身の指をぺろりと舐め、「あ、本当ですね」と目を丸くする。
その間にも波は緩やかに、行ったり来たりを繰り返していた。
二人はその場に座りこみ、腰まで来ては引いていく冷たい感触に浸りながら、沖合を眺めていた。
「ん?」
「あれ?」
波の狭間に黒い影を見つけたかと思うと、
ざばぁっ!
「うわっ!」
「ひっ!?」
「にゃははっ、大漁っ!」
ゴーグルにシュノーケルなモコが海の中から現れた。
「いやー、このでっかい眼鏡すごいよ。海の中見えまくり。足にくっつけたのでビュンビュン泳げるしさー。お魚気分になってお魚獲ってきた」
その両手にはぴちぴち跳ねるお魚が。モコは足ひれをぺったんぺったんさせて歩く。
「この調子でお昼ご飯をたくさんゲットだぜっ。んじゃ、行ってくんねー」
お魚を砂浜へ放り投げ、踵を返して海に飛びこむモコ。
「わたしたちも泳ぎますか?」
「……あんた、泳げるの?」
「ええ、川でよく遊んでいましたから。エリザさんは?」
「………………教えて」
「はい♪」
二人は手をつないで海へと入っていった。
彼女たちから離れた場所では、いよいよシドリアスの修行が開始されようとしていた。
「あの……この縄はなんでしょうか?」
シドリアスの腰にはしっかりと縄が結ばれ、長いロープの先を正蔵が握っていた。
「船酔いは不規則で不慣れな『揺れ』により引き起こされる。だから『揺れ』に対して耐性をつければよい」
酔い止めの薬もあるにはあるが、種族が違う彼に使ってよいかはわからない。
だから体を鍛えようと正蔵は考えた。
「はあ……。で、どうして縄を?」
「こうするのさ」
正蔵はシドリアスから距離を取り、ロープを引っ張ると、
「のぉわああぁああああぁぁあああああ――」
ぐるんぐるんと振り回した。
「とまあ、このように加速減速を繰り返して……どうしたのかね? 五秒も経っていないが」
ぐったりしたシドリアスを砂浜にざざざあっと下ろす。
少年は今にも吐きそうなほど顔を青くしていた。
「こ、これ……、船酔いよりきついですよ……」
「きつくなければ修行にはなるまい?」
「克服する前に、死んでしまうかも……」
荒療治が過ぎただろうか?と、ちょっとだけ反省する正蔵だった。
父と少年の修行風景を、目をキラキラさせて眺めていたのは下姉妹だ。
「かなおねーさまっ、ひなさまは、あれがやりたいですっ」
「奇遇だね。あたしも今、陽菜っちにやりたいなって思ったんだ」
予備のロープを拝借してきて、陽菜が身をくぐらせている浮き輪に縛りつける。
父を真似、距離を取って思いきりロープを引っ張り、振り回した。
「あははははははっ、たのしいですぅ~」
「ぬおぉ~っ。けっこう力いるなあこれっ」
それでも香菜は陽菜をもっと喜ばせたくて、回す速度を上げていく。
しかしロープが結ばれているのは脆弱な浮き輪だ。
パンッ、ぷしゅぅ~。
浮き輪は破裂して、中の空気が抜けた。
すぽーん、と。
「あははははははははっ」
「陽菜っち~っ!?」
支えの浮き輪が萎むと、陽菜は空高く飛んでいった。
下は大海。しかし陽菜は泳げない。
「ぬっ?」
正蔵は娘を助けようと駆けだしたが、すぐに足を止める。
「クエェ~っ」
ばっさばっさと蒼天を駆る青い影。
ブルードラゴンのプルが陽菜を追いかけ、相対速度を合わせて背でそっと陽菜を受け止めた。
「ぷるさま、ありがとうですっ」
上空で旋回飛行し、陽菜はきゃっきゃとはしゃぐ。
香菜はホッと胸を撫で下ろすも、
「はい、香菜はちょっとこっちへおいで」
禍々しいまでの笑みをたたえた姉優菜に、こってり絞られるのだった――。
「あまりに危険な修業は、子どもたちの見ていないところでお願いしますね」
妻シルビアに窘められ、正蔵は新たなる案を思いつく。
「ここは発想を転換してみよう」
「発想、ですか?」
「うむ。船に乗るから、船酔いになるのだ。ならば、初めから船に乗らなければいい」
「なるほど……って、ずっと泳いでるんですか?」
「泳ぐ必要もない」
シドリアスは首をかしげる。ちょうど、上空から楽しげな声が聞こえて見上げると、ブルードラゴンと陽菜がびゅんと通り過ぎた。
「飛行系の魔物にも乗ったことはないんですよね」
「何を言っているのかね、君は。騎乗の必要もない。その身ひとつで水竜に挑むのだ」
「泳がずに、ですか?」
「走ればいい」
「えぇ……」
いくらなんでも水の上を走るなんて不可能だ、とシドリアスは表情で訴える。
「やり方は簡単だ。まず海面に足をつける。その足が沈む前に、反対の足で一歩前に出る。前に出した足が沈まないうちに、最初の足で水面を蹴って前に出す。その繰り返しだ」
「言うのは簡単ですけどねっ!?」
実践するのは不可能だ。
「パパ、忍者走法だね」
優菜の説教から逃れてきた香菜がひょっこり顔を出す。
「香菜、できるかね?」
「ふふん、まあ見ててよ」
香菜は砂浜の上でクラウチングスタートの体勢になり、ずびゅんと飛び出した。
「うりゃあぁあああ――」
ものすごい勢いで足を動かし、寄せては返す波を切り裂きながらじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ……腰まで海水に沈んだところで、すいーと泳ぎ始めた。
「できてないしっ」
「いやー、これ無理だよ」
ぷかぷか浮きながら頭をかく香菜。
そこへ陽菜がプルと一緒に降りてきた。
「かなおねーさま、いっしょにあそぶですよ」
「よーし、優菜姉も呼んでこよう。いい加減、キミたちは泳げるようにならないとね。あたしが教えたげるよ」
「やったーっですー」
プルの背でぴょんぴょん陽菜が飛び跳ねていると。
「クェッ!」
突如、プルが声を上げ、沖をぎらりと睨みつけた。
「おっ?」
異変に気づいたのは香菜だ。体が沖へと引っ張られる感覚。
次の瞬間、彼方の海中から巨大な魔物が飛び出した。
飛沫を立ち昇らせたそれは、一見するとウツボのようだった。長い体躯は縦に平たく、水晶のような鱗が陽光で七色に輝いている。頭はカジキマグロのように、上あごの先が鋭くとがっていた。
遠目に見ても大きさが尋常でないのがわかった。
かつて正蔵が対峙した、ダークドラゴンを二匹つなげたくらいはある。
「噂の水竜か……」と正蔵。
「この海域で2匹といる魔物ではありませんから、間違いないと思います」とシドリアスが忌々しげにこぼす。
距離はある。
ウォータードラゴンは陸にあまり近寄る習性がないため、襲いかかってくる可能性も低かった。
だが探して見つかるものではない以上、できればこの場で決着をつけたいのが正蔵の本音だ。
ところが冒険者ギルドの職員は、依頼をこなす行為を禁じられている。
「さて、どうしたものか……ん?」
ぞわりと、総毛立つ感覚。
魔物は海面から上体半分を出してたゆたっていた。尖った角を蒼天へ向けると、大口を開けて吠えた。
音波が押し寄せる。耳をつんざく轟音だ。
遅れて魔物の周囲から大波が生まれた。
5メートルほどの高さの波は、まるで城壁が迫ってくるようだった。
香菜はプルの背に飛び乗って上空に逃れたものの、このままでは、砂浜や波打ち際で戯れる少女たちが波に飲まれてしまう。
正蔵はぐっとこぶしを握ると、
「うらららららららあっ!!」
正拳突きを連打した。衝撃波の弾幕による面制圧。高波は砕かれ、逆に沖へと海面が押し流される。
波とは引いては返すもの。
正蔵は波を押し戻してはしばらく休憩し、寄せてくるタイミングで徐々に威力を落としながら、穏やかな海面へと戻していく。
「ふぅ……」
みなの避難が終えたのを見計らい、正蔵は息をついた。にやりと口元を歪ませる。
「そちらから言い訳を用意してくれるとはな」
明らかな攻撃を受け、家族が危険にさらされた。
依頼がどうこうを無視できるだけの、戦う理由ができたのだ。
正蔵が駆ける。
水竜へ向け一直線に。
「本当に海の上を走ってるぅ!?」
海水は当然ながら液体である。しかし高速でぶつかれば固体に似た硬さとなる。だからといって誰にでもできる芸当ではないが。
正蔵は自身の言葉どおり、足が沈む前に次なる一歩を進め、海面を走り抜けた。
「どぉりゃあっ!」
跳躍。
ウォータードラゴンの横っ面へ、強烈な一撃をみまおうとした、そのとき。
背後から風が抜けた。
空を駆る別のドラゴンが、正蔵を追い抜いたのだ。そしてその背から、小さな影が飛び出して。
「おとーさまっ、このこをいじめては、だめなのですっ」
水竜を庇うように、陽菜が両手を広げて立ちふさがった――。