一家丸ごと異世界転移
4月初旬。いつもと変わらぬ朝だった。
けれど今日は、特別な一日である。
鬼瓦正蔵41歳はいつものように、朝起きてすぐ身支度を整えた。
パリッとしたスーツは礼服に近い黒。
しかし今日は会社を休み、長女が通うことになる中学校の入学式へ赴く。
真新しい洗面台であご鬚を整え、厳つい顔を心持ち緩ませる。
彼はとにかく初対面の印象が悪い。巨躯と強面、野太い声のトリプルコンボ。初対面で彼を恐れぬ者は、今まで妻以外にはいなかった。
娘の晴れ舞台に粗相があってはならない。
入念に表情をチェックして、正蔵はリビングルームへと入った。
「おかしいわねえ……どうして映らないのかしら? あ、おはようございます、あなた」
リビングでは妻のシルビアが、テレビの前でリモコンを手に首をかしげていた。銀髪碧眼の美女。細身ながら重そうな物体を胸部に抱えている。
6つ年下の彼女は、結婚13年目に突入しても敬語のままだった。そして今でも出会ったころの美貌と若さを保っている。
さすがは女神様である。
「どうかしたのか?」
尋ねてみたものの、状況は一目瞭然。
テレビ画面が真っ黒で、画面中央に『受信できない』旨のメッセージが表示されていたのだ。
「どのチャンネルもダメなんです。買ったばかりですのに、壊れてしまったのでしょうか?」
「テレビではなく、アンテナの調子が悪いのかもしれんな。BSも映らないのか?」
「はい。どの局も、まったく」
ほとほと困ったような妻、シルビア。眉を八の字にしても美しい。
「魔法で直してみたらどうだ? 女神様」
正蔵が冗談めかして言うと、シルビアは目をぱちくりさせて、
「まあ、あなたったら。冗談なんて珍しいですね」
うふふ、と嬉しそうに笑った。
「はっはっは、今日は私も浮かれているようだ。まあ、入学式は昼までだから、帰ったら電気屋に電話しておこう」
41歳にして手に入れた、新築のマイホーム。引っ越してまだ1週間だというのに、さっそく不備があるとは。忌々しく思うも、不機嫌なまま娘の晴れ舞台に行きたくはなかった。
正蔵は努めて明るく振る舞い、新聞を取りに玄関へと向かう。
つるつるの廊下を抜け、玄関でサンダルをつっかける。
ドアを押し開き、外へ身を出した、直後。
(………………)
雄大な景色に呆けてしまう。
数メートル先には胸までの高さの門扉があり、きっちりと閉じられていた。
ここまではいい。
が、その向こうにあるはずのアスファルトの道路や、お向かいのお宅は、影も形もない。お隣さんも、無くなっていた。
むき出しの地面は緩やかに下っており、数百メートルを隔てて、草原が広がっていた。いや、田んぼか畑だろうか? 背の高い草は整然と区切られていた。
その遥か彼方に、街が見える。
高い壁に囲まれた、まったく知らない街並みだった。
視線を手前に戻す。
門扉の内側に、新聞紙が落ちていた。
いきなり見知らぬ景色になり、配達員も相当慌てたのかもしれない。
いや、そもそもあちら側が見た通りなら、配達員はどこから来たというのか?
ひとまず正蔵は、ほっぺたをつねってみた。痛い。
のろのろと前へ進み、新聞紙を拾って踵を返した。
リビングへと戻り、ひと続きのダイニングのテーブルについた。妻の姿はない。子どもたちを起こしに行ったのだろう。テーブルには用意されたコーヒーが香ばしい匂いを立ち昇らせていた。
新聞を広げる。
どこぞの紛争地で小競り合いがあっただとか、プロスポーツの結果だとか、特段奇妙なニュースはなかった。
スマートフォンを取り出す。
ニュースサイトの見出しを流し読みしても、これといって目に留まるものはない。
コーヒーをすすり、ひと息ついた。
(なんだったのだ? さっきのアレは……)
もう一度確認してみようか? そう考えたとき、
「お父さん、見て見て!」
弾んだ声で、長女がリビングに飛びこんできた。
真新しいセーラー服に身を包み、くるりとその場で一回転すると、黒髪のポニーテールが跳ね踊る。
長女の優菜。今現在は12歳。今日から新中学1年生である。
「よく似合っているよ」
「えへへー♪」
にっこりと愛らしい笑みに、正蔵の頬も緩む。
「あら優菜、もう着替えていたのね」
シルビアがやってきた。彼女の後ろから、小さな女の子が目を輝かせて現れる。
「ゆなおねーさま、かっこいいです!」
まだパジャマ姿の三女、陽菜、5歳。肩口までの髪は寝ぐせでぼさぼさだった。その髪色はきらめく銀。瞳は南国の海のようで、シルビアの影響をもっとも受け継いでいる子だ。
さらにその後ろから、眠そうな少女も姿をみせる。
「もう朝とか、信じらんない……。寝たら一瞬で朝になるってやっぱりおかしいよ……」
次女の香菜、10歳の新小学校5年生。こちらもパジャマ姿だ。ボーイッシュな彼女はショートカットで、色は抜けて茶みがかっている。
三人姉妹、髪や瞳の色はそれぞれ異なるが、顔立ちは妻に似てとても愛らしい。
(私に似なくて、本当によかった……)
神に感謝する正蔵だった。
娘三人はテーブルに着いた。
香菜の眠気も吹き飛んだのか、明るい笑顔になる。
三人姉妹、いつものように会話に花を咲かせる。
「入学式って陽菜ちゃんも来るの?」と優菜。
「ひなさまは、ようちえんをおやすみするのです!」陽菜は元気よく手を挙げる。
「いいなー。あたしも休みたい……。早く夏休みにならないかな」香菜は頬杖をついた。
「香菜は一昨日、春休みが終わったばかりじゃないの」
「ゆっくり眠る生活に慣れちゃうとね、なかなか元には戻らないんだよ」
「休みの日も平日と同じ時間に起きればいいじゃない」
「せっかくの休日、だらだら寝てたいじゃん」
「かなおねーさまは、ぐうたらさんなのです」
「いやー、照れるなー」
「褒めてないから」
まじめな優菜と奔放な香菜はときおり口論になりかけるが、幼い陽菜がよく場を取りなしてくれる。
香菜は小学校で平常授業があるので、一人だけ入学式に出られず寂しいのだろう。
優菜は優菜で、香菜の気持ちを汲み、普段よりも言い方が柔らかだった。
みんな、いい子に育ってくれた。
こんな幸せな生活を、壊したくはない。
だからこそ――。
(外の状況を、もう一度確認する必要があるな)
決意を新たにしたとき、スマートフォンが震えた。
メッセージアプリに何か届いたらしい。
『部長大丈夫ですか?』
たったそれだけ。意味がわからない。
送信したのは正蔵の部下だ。入社3年目の女性で、見た目は大人しい感じだが、ぐいぐい押していく営業部のホープである。
大丈夫、とはどういう意味なのか?
もしかしたら、こちらの異変と関係あるのかも?
気になった正蔵は返信ではなく、電話をかけようとした。
(……圏外?)
だが、通話しようとして『圏外のため使えない』旨のメッセージが表示された。
(どういうことだ? 家の中で圏外になるなんて……)
引っ越してから今まで、一度もなかったことだ。
と、またもスマートフォンが震えた。
今度は電話。
しかし標準搭載の電話アプリではなく、メッセージアプリの機能で呼び出しがかかっていた。
アプリの応答操作を行うと、
『部長ですかっ!?』
とても慌てた声が聞こえた。
「綿貫さんか? いったいどうした?」
『どうしたもこうしたも、部長、今どこにいるんですか!?』
「自宅だが?」
『うそ……』
「私が嘘を言ってどうする? それより君こそどうしたんだ? そんなに慌てて」
『だって、部長の家、消えてなくなったんですよ?』
「は?」
変な声が出た。
家族が訝るようにこちらを見る。
『今、テレビでやってたんです。『一晩で家が一軒丸ごと消えた』って』
短文投稿サイトにアップロードしたとある画像を、朝の情報番組が取り上げたらしい。
『そしたら、『鬼瓦正蔵さん宅』って言うじゃないですか。驚いて部長に電話したけどつながらなくて、メッセージを送ったら既読になったから、じゃあメッセージアプリならと思って……』
「たしかに、スマートフォンのネットワークは圏外になっているな。だがWebはつながる。電気も水道も問題なかった」
でもテレビは映らない。
(もしかして、電波が届いていないのか……?)
家のネット環境は、光回線でつながっている。宅内はそこからWifiを飛ばしているのだ。メッセージアプリでの通話は、この回線を介して行うものだった。
「すまないが、他に何か情報があれば教えてくれないか」
『えっと、新聞配達の人のコメントがありました。配達先の家が一軒丸ごと消えてて、不思議に思いながらも新聞を敷地内に放り投げたら、それも消えてなくなったって……』
「新聞は、門の内側に落ちていた」
綿貫が息をのむ音が聞こえた。
「敷地の外は、見知らぬ景色だった。どうやら小高い丘の上に、今この家は建っているらしい」
『いったい、何が……?』
「わからん。が、とにかくこちらも情報を集める。それではな」
『電話切っちゃうんですか!?』
「不測の事態が起きれば、どのみち通話できなくなるだろう。こちらの状況がわかり次第、連絡する」
『わ、わかりました……』
「ああ、それと、私たち一家はみな無事だと、警察にでも知らせておいてくれないか」
電話口の綿貫は『はい』と弱々しく応じ、正蔵はいったん通話を終えた。
「あなた……」
シルビアが不安そうに瞳を揺らしていた。子どもたちも眉尻を下げている。
「なんだかよくわからないが、家が丸ごとどこかへ移動してしまったらしい。私は外の様子を見てくる。お前たちはここにいろ」
「ですが……」
「大丈夫だ。何があろうと、家族は私が守る」
正蔵は眉間のしわを深くして、こぶしをぱちんと鳴らした。
そのときだ。
ぴんぽーん。
インターフォンが鳴った。
緊張が走る。
正蔵は妻を制し、インターフォンへと向かう。
液晶画面に、女の姿が映っていた。
リクルートスーツみたいな服を着た、長い金髪の若い女だ。
「どちら様ですかな?」
正蔵が緊張した声で尋ねると、女は奇妙なことを口走った。
――わたくし、天界から参りました女神です。
正蔵は一瞬呆けたあと、
「間に合っています」
思わずインターフォンを切るのだった――。