雨の夜、彼は女神様に――
鬼瓦正蔵が〝女神〟に出会ったのは、28歳のとき。雨の降りしきる夏の夜だった。
零細ブラックなIT企業で営業職に就く彼は、連日連夜顧客のオフィスを飛び回り、この日も誕生日だというのに、足が棒になるほどへとへとに疲れて家路についていた。
雨が容赦なく傘を打ちつける。
日中のうだるような暑さはそのままに、蒸し暑さで不快感はうなぎ上りだ。
正蔵はネクタイを緩め、歩みを速める。
自宅アパートにもうすこし、というところで。
路上で天を仰ぎ、雨に濡れる美しい女性に目を奪われた。二十代前半と思しき若い女性。
まるで女神様だと、一瞬我が目を疑った。
それほどに美しい女性だったのだ。
銀色の髪は濡れそぼち、薄手の白いワンピースはぴっちり体に張りついている。豊満な胸は透け、下着を身に着けていないのがすぐにわかった。
「あの……、どうかされましたか?」
まさか自分から声をかけるとは。正蔵は驚く。
彼女いない歴=年齢。仕事上以外で女性と話した経験は皆無。
巨躯と強面、野太い声のトリプルコンボで誰も彼をも恐れさせてしまう正蔵は、例外なく女性からも恐れられていたのだ。
「あ、いえ、失礼しました……」
夜道で野獣のような男に話しかけられれば、恐怖に身を竦ませるに決まっている。そも相手は見た目外国人だ。言葉が通じるかも怪しかった。
正蔵は慌てて謝罪し、小道の反対側を回ろうとした。
「雨に、濡れていました」
小川のせせらぎのような心地よい声音に、正蔵の足がぴたりと止まる。
「は?」
変な声も出た。
女性は碧眼を正蔵へ向け、またも涼やかに言葉を紡ぐ。
「とても蒸し暑いので、涼みたかったのです。雨に濡れるなんて初めてですけれど、とても気持ちいいですね」
「は、はあ……」
傘を忘れてずぶ濡れになった経験はあるが、気持ちよいものだったろうかと正蔵は記憶をまさぐる。
「貴方もどうですか? ご一緒に」
人生初の女性からのお誘いが、『一緒に雨に濡れよう』とは思いもよらなかった。
「いや、しかしですね。雨に濡れると体温の低下を招き、抵抗力が弱まったところを病原菌に侵されて、つまるところ風邪を引いてしまいますよ?」
「大丈夫ですよ」
「いや、しかしですね。昨今の雨粒は酸性がやや強く、空から落ちてくるときに埃やなんかを付着させてもいるでしょうし、お肌によろしくないのでは、と危惧する次第でして」
もはや自分が何を言っているのかわからない。
ただひとつ、自身の感情だけは把握していた。
「これを」
正蔵は傘を差し出す。
年ごろの女性が一人、雨に打たれている。
そこには他者が推し量れない理由があるのだろう。
雨に哀しみを洗い流す効果はない。痛みを和らげもしない。
だからせめて、〝人の情け〟はどこにでも転がっていると、彼女に知ってほしかった。
「人生、辛いこともありますけど、いいことだってきっとありますよ」
自分に言い聞かせるように言うと、正蔵は自身が濡れるのも構わず、傘を持つ手をさらに伸ばした。
「優しいのですね」
彼女が傘を受け取ると、褒め言葉には何も返さず、
「お元気で」
正蔵は全力で走り去った。
木造アパートの二階。外廊下にはトタン屋根があるが、激しい雨は内側も濡らしている。
自分の部屋の前にきたときには、下着までべっちょり濡れていた。
とても、気持ち悪い。
正蔵はドアにカギを差し込み、がちゃりと回す。
が、ここで動きが止まった。
(もったいないことをしたかな……?)
あれほどの美女と会話する機会は、もう二度と訪れないだろう。
それ以前に、若い女性を夜遅く一人きりで放置したのは、問題ではなかろうかと考える。
(やはり、戻ったほうがいいだろうか?)
おそらく傷心の彼女が、自暴自棄になって自ら危険に飛びこみやしないかと心配になった。
「なにか、誤解をされていませんか?」
「ひょわっ!?」
いきなり背後から声をかけられ、飛び上がるほどに驚いた。
振り向くと、さっきの女性が傘をさして微笑んでいた。
「えっと、あの……」
「私、今とても楽しいですよ? 辛くなんてありません」
「は? はあ……えっと、それを伝えに……?」
女性は「ええ」と屈託なく笑い、
「ただ困ったことに、今夜は泊るところがありません。もしご迷惑でなければ……」
上目づかいに見惚れてしまい、「はあ……」とため息のような生返事をする。
それを承諾と受け取ったのか、女性は「では失礼しますね」と正蔵を押し退けて部屋へと入った。
(いいのだろうか……?)
部屋は主に寝るだけの部屋なので、きちんと片付いている。そもそも物がないのだから散らかりようがない。
ボロアパートだがユニットバスだけは真新しい。
若い女性が使うのに、嫌な気持ちにはならないだろう。
(いやいやいやっ! 俺がいるだろ! こんなかさばる男がいたら嫌に決まってる!)
正蔵は慌てて女性のあとを追う。
「あの――」
「シャワーをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「へ? ああ、どうぞ。そこのドアがユニットバスに繋がってます」
「ご一緒にいかがですか?」
「遠慮します!」
人生二度目の女性からのお誘いが、『一緒にシャワーを浴びよう』とは思いもよらなかった。
一度目はついさっき。同じ女性。『雨に濡れる』から着実にステップアップしているようでいて、実は『水(あるいはお湯)を頭からかぶる』という大差ない内容。進歩してるのか?
などと、どうでもいいことを正蔵は考える。
彼女は「そうですか」と残念そうにユニットバスに入った。
雨音とは違う水の跳ねる音が、室内に響く。
正蔵はスーツを脱ぎ、さっとバスタオルで髪と体を拭いた。下着もろとも部屋着に着替える。
「ど、どうしよう……?」
とりあえずベッドを整えてみた。
やましいことは何も考えていない。彼女が寝るならここだし、と言い訳じみた作業をせっせとこなす。
折り畳みのちゃぶ台を出し、グラスをふたつ置いた。
小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスの横に並べる。
(べつに酔わせてどうこうなんて考えていないが……)
そう思う時点で下心満載だと自覚し、ビールを冷蔵庫にしまった。
さて次は何をしよう?
とにかくじっとしていられなかった。
ティッシュでテレビにくっついた埃を取り除いていたら。
「お先に失礼しました。貴方もどうぞ」
「ああ、それじゃばわぶわっ!?」
現れた女性はすっぽんぽん。真っ裸。全裸だった。銀色の髪をバスタオルでぽんぽん叩いているけれど、飛び出た胸やくびれた腰、Vラインも隠そうとしない。
「ふ、ふふふふ服っ! 服を着てください!」
「まだ濡れています」
「じゃじゃじゃじゃあっ!」
正蔵はタンスから自分のTシャツやら短パンやらを引っ張り出し、
「これっ! てきとうに着てください!」
目をつむって放り投げた。
「では、ありがたく使わせていただきます」
正蔵はそんな声を聞きつつ、薄目めでどうにかユニットバスへ飛びこんだ。足の小指をぶつけて痛い。
で――。
シャワーから上がり、おそらく下着をつけていないであろうTシャツぱっつんぱっつんな巨乳美女と差し向いに座り、今さらながら自己紹介をしたわけだが。
「私の名はシルビア。人間年齢で22歳の、女神です」
「俺……私の名前は鬼瓦正蔵。28歳、会社員です」
互いにぺこりとお辞儀するも、正蔵の頭は疑問符に占拠されていた。
人間年齢って? 女神? なんなのこの人?
そんな正蔵の様子を気にすることなく、シルビアは語る。
「私、下界に降りるのは初めてなのです。ただの観光ですけれど、予想以上に有意義でした。貴方のような素敵な男性にも出会えましたしね」
「は、はあ……」
正蔵は缶ビールをあおる。わざわざグラスを用意したのだが、普段どおり缶に直接口をつけた。
「これはお酒ですか?」
彼女は目の前に置かれた缶ビールを興味深そうに眺めている。その横にはペットボトルのお茶を用意していたが、そちらには目もくれない。
「そうですけど、アルコールが苦手なら――」
「いえ、初めてです。いただきますね」
シルビアはぐびびーっと缶を傾けた。惚れ惚れするほど豪快な飲みっぷり。
と感心している場合ではなく。
「ちょ、初めてで一気に飲んだら――」
「ぷはぁ! 美味しい!」
シルビアはさっそく一本を空けてしまった。ほんのり白肌が赤くなる。
「あの、無理はしないほうが……」
「らいじょうぶれすよぉ、あはははは♪」
めっちゃ酔っ払ってる!?
シルビアは四つん這いで冷蔵庫まで進み、勝手に缶ビールを数本抱えて戻ってきた。
その後も陽気にビールをあおり、饒舌に、しかしろれつは怪しく話し通し。
「私、男の方と二人で語らうのは、初めてれすぅ」
「そ、そうですか。俺も女性と二人きりなんて初めてで、緊張してますよ」
舌足らずな言葉をどうにか脳内で処理しつつ、正蔵は会話を続けた。
「はりめて同士れすねー♪」
ものすごく上機嫌な彼女はしかし、
「すやぁ……」
「寝ちゃったし……」
やがてちゃぶ台に突っ伏してしまった。
肩をゆすっても起きなかったので、正蔵はベッドへ運ぼうと彼女を抱えた。
細身の彼女は予想どおり軽い。
でも初めて体験する柔らかさに、理性が蒸発してしまいそうだった。
(いかん、いかんぞ正蔵! 酔った女性を手篭にするなんて……)
ベッドへ寝かせ、あらためてシルビアの顔を眺めた。
息を忘れるほどの美しさ。
女神というのも、あながち嘘ではないかもしれない。
と、ぱちり。
シルビアが目を開いた。
ちょうど覗きこむ態勢であったため、正蔵は心臓を握られたように驚き、慌てた。
「いや、あの、これは違っ、押し倒そうとしたのではなく……」
しどろもどろの弁明に、シルビアはくすりと笑った。
「ええ、わかっていますよ。本当に貴方は、優しい人ですね。もしかしたら寝込みを襲われるかもと、考えていましたけれど、貴方はそうしませんでした」
口調が元に戻っている。すこし休んで、酔いが醒めたのだろうか。
そう、思ったのは大きな間違いで。
「だからぁ、わらひが食べちゃいますぅ♪」
がばっと起き上がったシルビアは、正蔵を押し倒した。筋骨隆々の正蔵でも振りほどけない強さだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、初めてで――」
「大丈夫ですよ」
シルビアはまたも口調を戻し、にっこりと微笑んで、
「わらひもはりめてれすからぁ♪」
「きゃーっ!?」
鬼瓦正蔵、28歳。これまで守って(?)きた童貞と、別れを告げた夜だった――。
それから、13年と8か月の月日が流れ――。