じいちゃん編②
末期癌のじいちゃんは、山本家の近くの病院で痛みの緩和ケアを受けることになった。
このじいちゃん、かなりの頑固者だった。
最初に癌が見つかったとき、医者からは、癌の進行が先か、寿命が先か、そんな状態だから手術は薦めませんと言われたが家族にも相談せず勝手に手術を決めた。
で、手術を終えた日の夜、麻酔も覚めきっていないはずなのに、体に刺さった管という管を自ら引きちぎり、壁を伝って廊下に出て、咆哮した。
廊下中に響き渡ったじいちゃんの叫び声に、看護師さんたちは飛んできたらしい。
そりゃそうだ。
翌朝、主治医から、「長生きしますね、これは。」とお墨付きをいただいた。
数年後、癌は再発したのだけれど。
さすがのじいちゃんも、今度は手術を諦めた。
でも、入院は頑として同意しなかった。
で、在宅介護を引き受けてくれた、母の腹違いの姉が、結果的にくも膜下出血で倒れたのである。
介護共倒れ。
在宅介護で一番陥ってはいけない状況に陥ってしまったのだ。
今度ばかりはじいちゃんも入院に同意せざるを得なかった。
娘が自分のために半身不随になってしまったことが、やはり相当堪えた様子だった。
緩和ケアが始まって、母は毎日夕方じいちゃんのお見舞いに行くようになった。
事務仕事一式病室に持ち込んで、もう声も出せないくらい弱ってしまっていたじいちゃんの足の干からびた皮をめくり、その成果をティッシュに集めてじいちゃんに見せて笑い合う、というちょっと変わったコミュニケーションの取り方ではあったが、じいちゃんは嬉しそうだった。
ある月の綺麗な冬の夜、じいちゃんがどうしても窓を開けてほしい、と自分で布団を口元までひしっとかぶってせがむので、少しだけ、母と3人でお月見をしたのを覚えている。
それから、鼻水が出るから、と鼻にティッシュを詰めてどや顔をして見せたじいちゃんの顔。
最期の数ヶ月、じいちゃんの心臓は何度も止まりかけ、その度山本家は病室にかけつけたが、じいちゃんは何度も持ち直した。
だから、じいちゃんが亡くなった夜も、きっと大丈夫だと思っていた。
主治医に臨終を告げられても、まだ信じられなくて、額に触れてみた。
冷たくなっていた。
ああ、今度はほんとだったんだ、と思った。
じいちゃんには、生きようとする強い力を教えてもらった。
孫の私が夜、1人でお見舞いに行くと、危ないから早く帰れとよく言われたものだ。
最期まで、孫を可愛がってくれた。
じいちゃんは、ひぃばを1人にしたくなくて頑張ったんだと思う。
やがてひぃばの在宅介護が始まったわけだが、じいちゃんはどんな気持ちでその様子を見ていただろう?
癇癪持ちな愛妻家のじいちゃんだから、怒っていたかもしれない。
じいちゃんの葬式が終わり、金にがめつい母の腹違いの兄が遺産をせしめていって、じいちゃんの看護生活は終わった。
次は、ここまでの看護生活に不満を募らせていたおばばの話である。
末っ子の母が何故毎日毎日見舞いに行くのか。
近くに長男が住んでいるのに。
しかもじいちゃんの洗濯物はおばばがしていたし、この間、ひぃばは山本家で、おばばに面倒を見られている訳である。
その心労もあったのだろうか。
今度はおばばが大腸癌で倒れた。
第二次看護生活のはじまりである。
なので次はおばばの話。