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十万年後の僕ら

若干グロテスクな描写が含まれています。苦手な方はご注意ください。(犯罪的なものではありません)

 その夜、一人の患者が私の診療室に運ばれてきた。

 運んできたのは、いずれも負けず劣らず粗末な格好をした二人の年老いた苦力たちである。とりあえず手近な襤褸布をまとったかに見える彼らの格好は、しかし、この遺跡では決して珍しいものではない。おそらくは彼らもまた、街で仕事を失い、あるいは戦乱や飢饉で田畑を手放すなどして食うものに困った挙句、この地獄のような発掘現場へと流れ着いてしまったのだろう。その、人生の労苦が皺となって刻まれたかに見える彼らの赤茶けた顔はしかし、今は血の気を失い、青褪める代わりに貧相な土気色に染まっている。赤く濁った白目に浮かぶ双眸には、こちらも色濃い恐怖が。

 彼らが怯える理由は、その担ぐ担架にある。

 患者は、頭の先から爪先まですっぽりと茶色い毛布で覆われていた。それは彼が、苦力たちが言うところの〝呪い〟の犠牲者であることを示す何よりの証拠だった。なるほど患者が〝呪い〟の患者だとすれば、苦力たちの強張った態度も理解できる。〝呪い〟が伝染性のものと信じて疑わない苦力たちは、それゆえに、できるかぎり患者との接触を避けようとするからだ。自然、患者の搬送は苦力たちの中でも最も立場の弱い人間に押しつけられることになる。二人の苦力は、だから、社会からあぶれ出した連中の集まりである遺跡の苦力の中でも、さらに日陰に追いやられてしまった最も憐れむべき男たちなのだ。

 やがて苦力の一人が、おずおずと口を開いた。

「ええと、ここ三日ほど食堂に見えなかったってぇことで、所長さんが心配して部屋の鍵を開いたんです。そったらもう、部屋じゅうにこの臭いが……」

 この臭い、とは、どうやら早くも室に充ちはじめたこの吐き気を催す腐乱臭を指しているのだろう。この悍ましく、そしてどこか背徳的な気分を誘う腐臭は、生き物の身体が腐敗したときに発散されるものに間違いない。

 口許を三角布で手早く覆いながら、さっそく私は苦力たちに担架の男を診察台に寝かせるよう命じた。

 担架と患者の間には、おそらく患者をベッドから移す際に剥いだらしいベッドシーツが挟まれていて、患者を診察台に移す時にも、やはり苦力たちはシーツを担架から剥いで患者もろとも診察台に移した。〝呪い〟が伝染することを怖れる彼らは、決して患者にじかに触れることをしない。一見すると非道な扱いではあるが、余計な雑菌が傷口から侵入する危険を減らせるという意味ではまあ正しい処置といえるだろう。――もっとも、実際に患者の容体を目の当たりにすれば、どんな聖人も触れることを躊躇うには違いないが。

 純白だったはずのシーツは、すでに糞尿とも、体液ともつかない液体で赤褐色に染まっていた。もう何十、何百回と目にしてきたとはいえ決して慣れることのない光景。慣れる日が来るとすれば、それは私が、人として何か重要なものを一つ失った時でしかない。

 役目を終えると、苦力たちは逃げるようにさっさと踵を返し、空の担架もろとも診察台を離れた。一刻も早くこの場所から逃れたいという気持ちが、彼らの気持ちを室の外へと向かわせたのだろう。本音を言えば、かくいう私とて、許されるなら今すぐ患者を放棄してこの場を立ち去りたいのだ。すでに腐臭は室に色濃く充満し、その不快さは頭痛を誘うほどの耐えがたい域に達している。胸のむかつきは、今にも吐瀉物となって口からあふれ出てしまいそうだ……

 が、この場に踏みとどまり、患者に最期の処置を施すことこそ私の役目である以上、その責任を放棄することは許されない。私が、この発掘現場における唯一の医師であり、ここで働く者たちの健康と衛生に責任を負う主治医である以上は。

「ああ、待ちたまえ」

 去りゆく男たちの痩せた背中を私は慌てて呼び止めた。そういえば、患者の名前を聞いていなかったことに気づいたのだ。

「彼の名前は。どこの部署の人間だ」

「研究者ですよ」

 苦力の一人が、肩越しに捨てるように答えた。

「ほら、一人、若い金属学者がいたでしょう。名前は忘れたけど」

「金属学者……?」

 じゃああたしらはこれでと、今度こそ苦力たちは部屋を出て行った。今度は私も、無理に彼らを引き止めることはしなかった。

 とうとう診察室には、私と患者の二人が残された。

 診察台の患者は、生きているのか死んでいるのか、毛布の下で呻き声ひとつ洩らさず横たわっている。いっそ死んでいてくれた方がと願ってしまうのは、言い訳がましいが、決して私の非情さを示す証拠にはならない。一度でも〝呪い〟の患者を目にしたことのある人間なら、私の苦しい言い分にもきっと理解を示してくれるだろう。

 まずはこの臭気を何とかするべく、私は部屋の窓という窓をすべて開け放った。立ち込めた腐臭が和らぎ、砂漠性の涼しく乾いた風がさらり頬を撫でる。この発掘現場は四方を広大な砂漠に囲まれ、夜になるときまってこんな心地よい風が吹く。昼間の遮るもののない過酷な日差しに晒された地表や建物、そして私たちは、夜、この風が吹いてはじめてようやく一息つけることができるのだ。

 もっとも、今夜に限っては、そんな余裕は求めるべくもないだろうが……。

 気を取りなおし、室のすみに干してあった治療用の白い術着に袖を通す。その袖ぐりを長手袋のなかに押し込むと、いよいよ私は毛布の縁に手をかけた。

「……捲りますよ」

 繊細な小動物を起こさないよう気遣う手つきでそっと毛布を捲り上げる。途端、それまでとはまた異質な、強烈な腐敗臭が鼻腔をつき、三角布の奥で私は密かに顔をしかめた。

 最初に毛布の下から現れたのは、赤黒く膨れた両の素足と血の滲んだ部屋着だった。部屋着はシーツと同様、すでに汚物と体液でどろどろに汚れている。できることなら着替えさせてやりたいが、正直それはかなり難しいだろう。覗いた足は赤黒く膨れ、その爪や皮膚は、ひどい火傷でも喰らったかのように無残に剥げている。ほかの、たとえば大腿や胴体部の皮膚も状態としてはそう変わらないとするなら、衣服を脱がせたり着せたりすること自体むりな相談だからだ。

 さらに毛布を捲る。次に現れたのは大腿と、投げ出された手指の先端だった。そのまま、あえて何も考えずに首のあたりまで一気に捲り上げる。と、そこまで捲り上げたところで私は、これまで剥いだ毛布を丸めてふっと小さく息をついた。

 ここから先、すなわち患者の顔を暴くとき私は必ずいちど立ち止まる。

 顔は、身体のよその部分に較べて露出が多い。乾いた体液のせいでべったりと毛布が貼りついていて、そいつを剥がすのにことさら体力を使うということもある。が、何よりの理由は、顔を暴くことで患者の人間性を損ねてしまうのが怖かったからだ。一度でも〝呪い〟の恐怖を目の当たりにしたことのある人間なら、自分が同じ目に遭ったとき、その風貌を他人に暴かれることを何よりも恐れる。少なくとも私なら、そうだ。

 そして、この遺跡に働くものの中で、〝呪い〟の患者を目にしたことのない人間はまず皆無といってよかった。だが――

 私は医者だ。医者なのだ。私が手を止めてしまえば、ほかには誰が。

「……めくりますよ」

 私は、患者というよりむしろ自分に言い聞かせるようにそう呟くと、最後の毛布の一片を、ほとんど一気に剥ぎ取った。

 古びた壁紙を剥がすような、めりめりと厭な感触が指先に伝わる。早くも固まりはじめた血液のせいで、やはり毛布の毛羽が患者の皮膚にべったりと貼りついているらしい。

 ようやく現れた患者の相貌は、私が想像した容体よりもひどい有様だった……

 顔をそむけずにいるだけでも気力を要するそれは、もはや血糊のかたまりと表現した方がふさわしいほどに醜く膨れていた。まともな皮膚は小指の先ほどの面積も見当たらない。ぼろぼろに割け、捲れた皮膚の下には赤黒い肉が覗き、今この瞬間も新たな体液を吹き出していた。目尻から流れるのは文字通り血の涙で、その閉じた瞼も、遠からず腐って剥がれ落ち、充血した眼球に浮かぶ濁った瞳が露わになるだろうことは一目瞭然だった。

 そして頭は――私は患者の頭を一瞥した。

 研究者の間ではよく知られているように、〝呪い〟の症状がもっとも顕著にあらわれる場所の一つが頭である。症状のかなり初期の段階で、患者の毛髪は鬘でも剥ぐようにごっそりと抜け落ちてしまうのだ。

 患者の頭には、案の定、もはや一本の頭髪も残ってはいなかった。

 よく見ると、シーツのそこかしこには血糊で固まった毛髪の束が残っていた。その一つを抓み上げ、指先でそっとほぐしてみる。凝固した血糊を拭って現れたのは、短いが、絹のように美しいつややかな金髪だった。

 ああ――私は声にならない悲鳴を洩らした。

 覚悟はしていたつもりだった。あの苦力が、患者は若い金属学者だと口にした時にはもう、熔けた鉛のような予感が私の胸にどろり流れこんでいた。あのとき私は、すでにして今の結論に至ってはいたのだ。この無残な身体の主が、誰あろう彼であることを――だが。

 いざ、その事実を目の当りにしてしまった私を襲ったのは、想像以上の衝撃であり、そして身を貫く痛みだった。

 ――いや。それが誰であれ、私の前で患者はすべて平等のはずだ。

 気持ちをあらためると、私はいよいよ患者の処置にかかりはじめた。まずは患者の身体の洗浄と消毒である。下手に患者の身体を動かすことはできないので、普段そうするように血まみれの衣類に細かく鋏を入れ、少しずつていねいに身体から剥がしてゆく。

 コツは、とにかく患者をただの肉塊とみなし心を無にすることだ。指先から、衣服に貼りついた皮膚の剥がれるぴりぴりと厭な感覚が伝わるが、あえて気にせず黙々と作業を進める。

 この作法を体得するのに、私はじつに一年以上の時間を費やした。慣れるまでの一年を当時の私がどう乗り切ったのか、今となっては思い出すこともできない。

 この遺跡に赴任して五年。こんな単純作業ばかりが上手くなる私は、果たして今も医者と呼ばれるに値する人間でいるだろうか――

 その時である。

「……う……」

 潰れた蛙の出すような声がして、それが風の音ではなく患者の呻き声だと気づいた時、私は飛び上がらんばかりに驚いた。

 見ると、患者の爛れた唇がかすかにひくついている。

 ああ、生きている――

 この時、私の胸を襲ったのはしかし安堵でも喜びでもなく、奇妙なことに、途方もない後悔であった。――ああ生き永らえさせてしまった。あのまま何もせず静かに見送っておれば、彼は、何の苦痛もなく旅立つことができたはずなのに。

 忌まわしいことに、この〝呪い〟の患者は、どれだけ身体を蝕まれはしても知覚だけはほぼ無傷のまま残されるのである。見えない力に刻一刻と身体が蝕まれ、醜く爛れ落ちてゆくさまを、明瞭な意識で見守らなくてはならない苦痛とその深さは、実際に〝呪い〟に罹った者でなければ決して知ることはできないだろう。

 彼らの多くは、だから、私が最期の治療を施すあいだ、同じ言葉をくりかえしくりかえし私に訴えることになる。

 殺してくれ。どうか早く死なせてくれ。

 この患者も、やがては同じ言葉を訴えることになるのだろう――私は思った。だが。

 ひ、ひ、ひ。

 やがてその唇から漏れ出たのは、老犬の咳を思わす引き攣った声だった。その痙攣めいた声が患者の笑い声なのだと気づいた私は、およそ正気とは思えない患者の反応にぞっとなった。まさか、すでに人格が崩壊をはじめているのでは――

「……ん、せい」

「えっ?」

 先生? ――呼んでいるのか? 私を?

 診察台に乗り出し、その唇にそっと耳を寄せる。口許に漂う不吉な腐敗臭は、身体の内部で早くも内臓が腐りはじめていることの何よりの証拠だ。生きながら、すでにして彼は腐敗をはじめているのだ。

 その爛れた唇が、ふたたび声を絞り出す。

「……きろくを……」

「記録?」

「これは……きちょうな、きろくに、なります。だから……どうか、きろくを……」

 その時、私は彼の頬がふっと緩むのを見た。

 ああ、と、私はふたたび声にならない声を洩らした。同時に、彼の正気を疑った自分を深く恥じた。もとより彼は錯乱などしていなかったのだ。というより、元からして彼はこういう人間だった。文字どおり好奇心の塊で、未知なるものを明らかにするためならば、時にどうしようもなく破滅的な行為にも平気で手を伸ばしてしまう。よく言えば探究心旺盛、悪く言えば、加減を知らない子供のような青年だった。

 そういえば――

 ふと私は、彼がここに運ばれてから一度も彼の名を呼んでいなかったことに気づいた。

 どうやら私は、自分でも気づかぬ間に彼の名を口にすることを憚っていたらしい。あるいはおのれの中で〝患者〟が顔を持つことを――この、生きながらにして腐乱体と化した憐れな肉塊を自分の友人と認めることを――怖れていたのかもしれない。

「タチラギ君」

 私は、彼がここに運ばれてからはじめて彼の名を呼んだ。



 彼は――タチラギは、この発掘現場で最も年若い研究者だった。

 専攻は金属学と考古学。三十歳で卒業できれば早いといわれる帝都の科学アカデミーを若干二十一歳で卒業した後、多くの名だたる研究所の誘いを断り、研究者の間でも日陰分野と囁かれる旧世界学を専門にあつかう王立旧世界学研究機関へと入所した。それだけならまだしも、その後、驚くべきことにタチラギは、並の人間なら金を払ってでも出向を辞退したいと願う〝あれ〟の発掘調査に自ら名乗りを上げたというのだ。

 ここ第十三号特殊遺跡は、関係者の間では死の谷と呼ばれ怖れられている。

 派遣される研究者のほとんどは、異端的研究で主流派に睨まれ学界から島流しを喰らった者たちで、すき好んでこんな場所に足を運ぶ人間は皆無といってよかった。苦力たちですら、その多くは罪人か、借金を背負ったあげく人買いに送り込まれた連中なのだ。

 そんな忌まわしい場所にみずから望んで乗り込んでくる人間がいようとは、彼に出会うまでは想像したこともなかった。

 ユニークだったのはそれだけではない。

 研究者の多くは、すすんで苦力たちと交流を持つことはまずしない。彼らの多くは貴族階級の出身で、苦力たちを人ではなく家畜の一種としてしかみなしていないからだ。

 ところがタチラギときたら、頻繁に苦力たちの寝泊まりする飯場に赴いては彼らの輪に加わり、勧められるまま不純物まみれの粗製の安酒や、明らかに配給品でない謎の――おそらくは倉庫に湧いたネズミや砂漠に棲息するヘビ、トカゲの――肉を煮込んだスープといった得体の知れない料理を飲み喰らっていた。おかげで何度も腹を下しては、そのたびに主治医である私を閉口させた。

 ――だって、どんな味か気になるじゃないですか。

 問診かたがた、どうしてそんなものを喰ったのかと問う私に、タチラギは、さも当たり前といわんばかりの口吻でこう答えたものだ。さらに、ヘビの肉は骨っぽくて不味かっただのトカゲは案外さっぱりしていて食べやすかっただのと、頼みもしないのに料理の感想を語ってはさらに私をうんざりさせた。

 そんな彼の姿は、しかし、汗と泥とある種の諦念で疲弊した苦力たちの姿に見慣れた私の眼にはひときわ美しいものに映った。そうでなくとも彼は美しい青年だった。神話の登場人物のように整った目顔立ちと、すっきりと伸びた背筋、若く透明感のある肌。そこに好奇心に輝く空色の瞳を加えるなら、いよいよ彼の存在は遺跡の中でも際立った。

 彼の貪欲な好奇心の食指は、いつしか我が診察室にも向けられるようになっていた。

 この室には、歴代の医師たちが書き残した何百人分もの患者の診察記録が保管されている。中には、当然ながら〝呪い〟の経過を記した記録も多く含まれている。それらの記録にどうやら彼は目をつけたらしかった。

 なぜ金属学者がそんなものに興味を、と疑問を抱かないではなかったが、彼にしてみれば、トカゲやヘビの肉を食うのと同じ程度の意味合いでしかないのだろう。要するに単なる怖いもの見たさにすぎない――当初の私はそう思っていた。ところが。

 ――先生は、この〝呪い〟の原因を何だと考えます。

 ある時、だしぬけにタチラギはそんなことを訊ねてきた。

 ここへ来た当初は私も、その原因について多少なりとも〝呪い〟について研究を試みたことがあった。遺跡の坑道内に棲息する小型生物を宿主とする細菌がその原因だと疑ったときは、それこそネズミからコウモリ、小型の昆虫に至るまで捕えてまわり、その血液や便を調べたものである。そうではないことが判明し、つぎに私は黴の毒性を疑った。坑道内に繁殖する黴の胞子が人体に何らかの影響を与えているのだとしたら――ほかにも、遺跡内に染み出た地下水や運び出される土砂に含まれるダニ、細菌類を調べたが、残念ながら〝呪い〟の症状を引き起こしうる菌や物質を特定するには至らなかった。ただし。

 ――〝あれ〟の存在が何らかの原因となっているのは確かなんだ。

 現に、世界に百か所ほどある〝あれ〟の遺跡では、必ずといっていいほど同様の病が報告されている。ところが同じ古代遺跡でも、たとえば日用品や墓地、宗教施設などの遺跡では〝呪い〟は一切報告されていない。この現場においてさえ、〝呪い〟に罹るのは〝あれ〟の運搬にかかわる苦力が主なのだ。となると、〝呪い〟の原因を〝あれ〟に求めたくなるのはむしろ自然の流れといえよう。

 そんなことをかいつまんで答えると、タチラギはにやりと意地悪く笑った。そして、とっておきの秘密を告げでもするように顔を寄せ、得意げにこう明かしたのだった。

 ――原因はですね、光なんですよ。

 ――〝あれ〟の内部にはですね、実は、ある特殊な光を発する金属が封じ込まれているのです。光といってもそれは目には見えず、ですから我々の眼で存在を確認することはできません。しかし、これまで重ねられた数々の実験や観測の結果から、その光の存在は理学的に証明されています。――で、この光の大きな特徴として、金属や岩、そして人体などあらゆる物質を透過する性質を持つのです。ところが透過する際、たとえば人体ならばこれを構成する細胞にこまかな傷をつけてしまう。あまりに細かい傷のために、はじめは傷を受けたことにさえ気づきません。ところが、それらの傷は確実に人体を蝕み、やがては生きながらにして腐敗させてしまう。

 ――だからこそ彼らは、数百メルテもの地下深くに〝あれ〟を封じたのです。これだけ厚い岩盤で蓋をすれば、さすがにこの恐ろしい光も地上まで洩れ出ることはありませんからね。

 タチラギの説は、しかし、私の石頭には少々突飛にすぎた。

 現在、帝都のアカデミズムでは、〝あれ〟こそは旧世界人の宗教的崇拝の対象であり、〝呪い〟は後世の人間に自分たちの崇拝物を暴かせまいとして仕掛けた彼らの悪趣味な罠であるとする説が主流を占めている。ところが、かりにタチラギの説が正しいとするなら、この学説は完全にその根拠を失うことになる。

 これは、現在のアカデミズムの潮流を変えうる新説になるかもしれない。私がやや興奮気味にそう告げると、タチラギは、〝あれ〟があのように厳重に封印されているのは宗教的な畏敬の念のためなどではない、とこともなげに切って捨てた。

 ――怖かったからですよ。単純に。



 今から約五万年前、この星で一つの文明が栄え、そして亡びた。

 現在、私たちが旧世界文明と呼ぶこの文明は、滅亡後もこの星にさまざまな遺跡を遺した。錆びず朽ちない、非金属の素材でできた日用品。独特の意匠化を施された人型の大小さまざまな美術品。厖大な石版に刻まれた、今や判読不明のさまざまな文字類――それらの遺物が示すのは、かつてこの地球上に、星を網羅するほどの巨大で精密な産業文明が存在したという事実である。

 この第十三号特殊遺跡も、そんな旧世界文明が遺した痕跡の一つだ。ただしこの遺跡は、ほかの遺跡とはまったく違うある特徴を備えている。たとえば、この遺跡では〝あれ〟以外の、旧世界人の生活の痕跡を示す遺物が何ひとつ見つかっていない。これが普通の都市遺構であれば、必ずといっていいほど日用品なり石碑といった人間の生きた証が遺されているものだ。ところが、この遺跡にはそれらの証が全く見当たらない。

 ここは最初から〝あれ〟を封じるためだけに造られた場所なのだ。

 この遺跡が、どこか行き場のない苛立ちと、そして色濃い死の香りに包まれているのは、おそらくはここが、はじめから旧世界人の恐怖と絶望を封じ込むためだけに生み出された場所だったからだろう。

 その、死と絶望が支配する場所に、この男は自ら乗り込んできた。

 ――怖くなかったのか。君は。

 別のある日、私は彼にそう訊ねた。

 ――何がです?

 ――この場所が、だよ。ここには死の臭い以外に何もない。

 すると彼は、そりゃ怖いですよと笑った。

 ――でも、底の見えない穴があれば、より奥を覗き込んでみたくなるのが人の性ってやつでしょ?

 こつ、こつ、と頭上のランプを硬質な何かが叩く。叩いているのは、窓の外から迷い込んだ羽虫に違いない。そういえば、なぜ虫は灯りを目指して飛ぶのだろう。身を焦がされると分かっていながら、どうして彼らは光を求めて報われぬ旅をつづけるのか。

 相変わらずタチラギは、恐るべき冷静さでみずからの症状の報告を続けている。

 身体全体が燃えるように熱い。ひどい吐き気がする。頭痛がますます悪化している。視界は白濁してほとんど利かない。目の前にある私の顔も、もう何も見えない……

 こんな行為に一体何の意味があるんだ。

 いくら自覚症状についての詳しい情報を手に入れても、原因を特定しないかぎり根本的な治療法の解明にはつながらない。私の行為には、タチラギの苦しみを無駄に長引かせる以上の意味はないのではないか。いま私がやるべきは、彼の最期の時間が少しでも安らかなものとなるよう処置を――具体的には麻酔などの――施すことではないか。

 そんな虚無感が幾度となく私を襲い、そのたびに私は手元の紙に走らせるペンの先を止めた。事実、答えなど誰にも分からないのだ。私にも、そしてタチラギにも。

 それにしても――私は運命の皮肉を呪わないではいられなかった。なぜ、あのタチラギが〝呪い〟に? 〝あれ〟の危険性を、〝呪い〟の恐ろしさを、誰よりも知悉していたのは専門家であるタチラギだったはずだ。〝あれ〟を調査する際にも、だからタチラギは極力余計な時間をかけないようつねに心がけていたし、実験によって金属が〝あれ〟の光を遮断することを突き止めるやみずから金属の鎧をこしらえ、実験中はこれを着込むなどして独自の防衛策を取っていたものだ。それほどまでに用心を重ねていたはずのタチラギが、どうして、よりにもよって〝呪い〟に――

「お……ぼえて、ますか」

「えっ?」

「せんせ、と……へきが、みた、ときの、こと。……おぼえて、ますか」

 彼の言う壁画とは、遺跡の入口に遺された旧世界人たちの壁面装飾を指しているのだろう。それにしても、なぜこの場面でそんな話題を。

「あ、ああ、覚えているよ……あのとき君は、たしか旧世界の文明についてとても熱心に語っていたね」

 私の言葉に、タチラギは爛れた頬をわずかに緩めた。多分、笑ってみせたのだろう。

〝あれ〟を収める遺跡には、ほぼ例外なく、見る者に本能的な嫌悪感を与える仕掛けが施されている。とくに入口付近には必ずといっていいほどに旧世界時代の石碑や壁画が遺されていて、石碑の碑文の意味については今もって新たな研究成果を待つところだが、少なくとも壁画の方は、どれも見る者に不安を与え、不快な気分にさせる効果を狙って描かれていることは素人目にも一目瞭然だった。

 ここ第十三号特殊遺跡の入口にも、やはり同じような壁面装飾が遺されている。

 その壁画を、タチラギと二人で見に行ったことが一度だけあった。いまだ壁画を見たことのない彼に、是非ともと頼まれ渋々案内を引き受けたのである。黴や小動物を採集するさいに何度も目にした壁画だったが、誰かを連れて見に行ったのはこの時が初めてだった。

 ――言っておくが、決して愉快なものじゃないよ。

 坑道に向かう道すがら、背中に従うタチラギにそう告げれば、

 ――わかっていますよ。

 と、こともなげにタチラギは答えるのだった。

 やがて私たちは、くだんの壁画がある坑道の入口に到着した。

 なんど目にしてもその光景に慣れることはできない。壁いっぱいに本能的な嫌悪感を誘う壁画が描かれたその空間は、長く留まれば留まるほどに心に狂いが生じてくる。

 突き立った針に覆われた寒々しい平原。恐怖に引き攣る人間の表情を露悪的に戯画化した絵画。坑道のそこかしこに記された人間の頭蓋骨を意匠化したと思しき図案は、最新の古代史研究によると〝死〟を意味する意匠であることが明らかになっている。

 頭髪の抜け落ちた頭や皮膚組織の溶け落ちた身体――それら〝呪い〟の症状を正確に描写した壁画は、〝あれ〟が人体に与える影響を知悉した者でなければ描けるはずのない絵だった。描いたのは〝あれ〟をここに封じた者たちに違いない……

 いくら眺めても不快感しか得られないそれらの絵を、しかしタチラギは、飽きずにいつまでも眺め続けていた。

 美しい横顔だった。ランプの乏しい灯りに浮かび上がったその白皙の横顔は、それ自体が一つの美術品のようであった。どこか遠くを眺めるような眼差しは気高くさえあり、できれば一刻でも早くそこを立ち去りたかった私も、彼のこの完璧な横顔が失われることを怖れてついに声をかけることができなかった。

 やがてタチラギはおもむろに口を開いた。まるで自分自身に語り聞かせているような、それは静かな声だった。

 ――おそらく旧世界人たちは、自分たちの文明が滅び文字が失われた後も、後にここを訪れる人類が不用心に遺跡の奥に入り込まないようにとこんな警告を遺したのでしょう。

 だろうね、と私は頷いた。それにしても笑止なのは、彼ら旧世界人たちが、こんな警告さえ遺しておけば自分たちの責任は果たされたと本気で信じていたらしいことだ。

 実に身勝手な話である。こんな警告一つでこれほどの害悪を、悪意を恐怖を、数万年先の人類に押しつけても良いと考えていたということなのだから。

 ――ひどい話です。

 ――ああ、まったくひどい話だ。

 ――これじゃあまるで家畜扱いだ。入るなと言われたから引き返す。こんなのはただの家畜だ。でも我々は家畜じゃない。彼らと同じ、何かを知りたい、突き止めたいという主体的な欲求を持つ人間です。そうでしょう先生。

 ――えっ?

 私は思わず問い返した。何を言っているんだ君は。一体君は、何にそう憤っているんだ。

 ――ですから、僕らを家畜としか見做さなかった旧世界人にですよ。

 ずるいですよ、と彼は吐き捨てるように言った。

 ――自分たちはさんざん世界の秘密を暴いておいて、知りたいことを知って造りたいものを造って、なのに、我々子孫にだけそれを禁じるのはあまりにも不公平だ。

 よくよく聞けば、その主張は子供の駄々とまるで変わらない。自分たちがさんざん良い思いをしたのなら自分にも同じ分け前をくれろと、その程度の浅はかな主張でしかない。

 だが――何なのだろう。

 この青年の主張に感じる得体の知れない力強さは。遺跡に澱む行き場のない苛立ちを、陰鬱な閉塞感を、一気に吹き払うかに感じられるこのすがすがしい力は。

 僕はですね、と、タチラギは続けた。

 ――彼らに思い知らせてやりたいんですよ。僕らは人間だ。彼らと同じ、未だ見ぬ真実を求めて彷徨う人間なのだとね。

 それは、見えない誰か――おそらくは壁画を刻み込んだ旧世界の人間たち――に向けて高らかに宣言するかのような、朗々たる声だった。



「まさか君は……そのために……」

 私の意図を察したのだろう。タチラギは小さく、小さく頷いた。

「タチラギ君!」

 気づくと私は彼の手を取り、その手が潰れるかと思うほどに強く握りしめていた。

「分かったよタチラギ君! 君のこれは〝呪い〟なんかじゃない。これは戦いの証なんだ! 最期まで未知なるものを追い求めた君の、これは戦いの証なんだね!」

 いまや私はすべてを理解していた。そうだ。タチラギはついに、我々に与えられた最大の謎に挑んだのだ。最大の禁忌、最上の危険に、彼は、たった一人で挑んだのだ。

「見たんだね。――〝あれ〟の中身を」

 爛れた頬が、ふたたび、ふっと緩むのを私は見た。それは、おのれの運命から逃げず立ち向かい続けた人間だけが見せる、実にさわやかな笑みだった。

 かつては私も、よくこんなふうに屈託なく笑ったものだった。

 いつのまに、私はそんな笑い方を忘れてしまったのだろう。



 この遺跡で働きはじめた頃、私は一つの野心を抱いていた。

 それは他あろう〝呪い〟の治療法の開発である。この〝呪い〟は、帝都の医学界では非常に高い関心を集め、今も毎年数十もの単位で論文が発表され続けている。しかし、それらの論文はいずれも、発掘現場で治療に当たる現場の医者の診察記録をもとに書かれており、みずからの診察経験をもとに書かれたものは皆無といってよかった。しかも、それらの研究はいずれも基礎医学的な研究にとどまり、治療の効果を上げるための臨床研究はさらに絶無であった。

〝呪い〟は、学術的な研究対象としては興味を引いても、こと臨床研究となると冗談のように見向きもされなかった。具体的な治療法となれば尚更だった。おそらく誰もが無意識のうちに、そんなものは無駄だと匙を投げていたのだろう。

 そんな、見えない諦念を断ち切るべく私はこの遺跡へと乗り込んだ――はずだった。

 そんな私を待っていたのは、あまりにも惨たらしい死。死。死の連続だった。

 それらは、帝都で見た診察記録の描写をはるかに超えて悍ましい現実だった。ひとたび〝呪い〟と呼ぶそれに罹ると、いくら傷口を洗浄し包帯を当てようとも、皮膚は甦るどころか余計に腐り、無残に溶け落ちてしまう。包帯を交換するたび、残った皮膚や肉が包帯とともに剥がれ、赤紫色に変色した皮下組織が露わになる。幾度となく絶望に打ちひしがれながら、それでも手を止めることなく処置を続ける私の耳に、患者の声なき悲鳴が谺する。もうやめてくれ。どうか早く殺してくれ――

 そんな場面を繰り返しくりかえしくりかえし目の当たりにするたび、これまで医師として築いてきた自信や使命感、いや人としての何かが、患者の腐った肉とともに少しずつ少しずつ剥がれ落ちていくのを私は感じた。

 そしてある時、ふと私は悟ったのだ。

〝呪い〟の治療は不可能。彼らに対する処置はその全てが無駄であり無意味なのだと。医師の使命は、彼らの最期を見届けること、ただそれだけである――と。

 だが。

 私が厖大な無意味の前に立ち尽くす間も、タチラギは一人、未知の曠野を延々と進み続けていたのだ。それが自分の使命だと――人間として生きる唯一つの理由だと信じて。

「――そうだね? タチラギ君」

 私が、私の物語を全て語り終えたその時には、すでにタチラギは安らかな寝顔のまま息を引き取っていた。脈を計り、その鼓動が感じられないことを確かめると、私は静かに目を閉じ、医師ではなく一人の友人として彼の冥福を祈った。




 その翌日――

 タチラギの遺体は、発掘現場脇の焼却炉で静かに荼毘に付された。

 今さら数える気にもなれないほど繰り返された葬儀が、今回に限って特別なものとなったのは、彼が私の、この遺跡における唯一の友人だったからである。

 あの後、タチラギの部屋からは、彼が最期の力をふりしぼって行なった〝あれ〟の中身の分析結果を記したノートが大量に見つかった。それらは近々、同僚の研究者らの手によって丁寧に梱包され、帝都のアカデミーへと送られることになるだろう。

 私も少しばかり目を通してみたが、あまりにも専門的な内容ゆえに門外漢の私には到底ついてゆけなかった。が、その主旨としては、彼が生前に語ったこととそう大差はないだろう。

 やがて煙突の先から、ゆるゆると白い煙が立ちのぼりはじめる。自分の使命にまっすぐに生きたタチラギは、天に帰るときも、やはりまっすぐに帰って行くつもりらしい。

 では、私は――?

 煙突に背を向けると、私は診察室に戻る道を一人歩きだした。

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