ラズベリーコロンの香り
いつも使っているラズベリーのコロンを手首に吹き付ける。
何気ない仕草。でも、その仕草がいちいち私の中の彼を呼び起こす。
別に彼との思い出の香り、なんてわけじゃない。
ただ、不器用な私が恥ずかしさにうつむいたとき、自分の体から香っていたのがこの香りなだけ。
甘酸っぱいラズベリーの香りは、彼を思い出すのに十分すぎるんだ。
それほど、私のなかにはまだまだ色濃く彼がいる。
君は、私がまだ君のことを想っているだなんて、想像もしないだろうな――
* * *
窓から見かける体育の授業。いつも、君を探してしまう。こんな遠くからわかるわけないのに。馬鹿みたい。
微かに開いた窓から風が通って私の頬を撫でていく。髪の毛がふわりとなびいて、あの香りが、また。
「あ」
授業中なのに、微かに声が漏れる。
……いた。
やだな、なんでわかっちゃうんだろ。男の子は他にもいっぱいいるはずなのに。
つくづく自分が嫌になる。相当重い女だよね、私。
本当は別れたくなかった。
でも、メールですべてを終わらせようとする君に、会いたいの一言も言えなかった。だって……
『紗季の笑顔が、好きだったんだ』
何気ない一言で、もう、戻れないことが分かってしまったから。
好きだった、って。もう、私のことは終わったんだね。
最後くらいいい彼女でいたかったって言えば、ずるいかな。それでも、困らせたくなんて、なかったんだ。
廊下で友達とじゃれている君。
にこやかな横顔。
見慣れたリュックを背負った後ろ姿。
一生懸命部活を頑張っている真剣な眼差し。
まだまだ慣れることのない君のいない日々。いつの間にか君の姿を探して、見つけて。ほっとしている自分がここにいて。
いつになったら、この恋は本当の終わりを迎えるんだろうね。
始まりは、ずっとずっと昔。仲良しだったから、周りにからかわれたりもした。けれど恋愛感情なんてこれっぽっちもなかったはずだった。
それが、気づかないうちに変わっていって。いつの間にか私の中で恋は芽吹いて蕾になった。
その恋の花は少しずつ開いていったんだ。
付き合い始めてからも、友達の延長みたいに感じてた。それくらい、居心地のいい関係だった。離れることなんてないって、信じていた。
でも、そんなことはあり得ない。お別れは、あって当たり前。そんなことは分かっていた。知っていた。だけど、見えないふりをしていた。
いつだってそう。でも、分かってからじゃ遅いんだ。
そんなことは分かっているつもりでも、人間はみんな、心のどこかで安心してるんだ。
離れ離れになることなんてないって。
でも。だから。
離れ離れになっちゃうんだ。
「紗季、次移動だよ」
ぼうっとしているうちに授業終了のチャイムはなっていて、窓の外を眺めていた私は慌てて次の時間の用意をする。
「ごめん、待って待って! あとちょっと!」
「待ってるって。いつものことじゃん、紗季が遅いのは」
「なにそれ、ひどいー」
女子らしい軽やかな笑い声と共に廊下へ飛び出す。
友達がいれば、今は十分。確かに、寂しいことは多いけれど。
そう心の中で呟いた瞬間、視界に彼が入ってくる。ほんと、タイミング悪いよ。
「あ、佑樹! ばいばいっ」
「……おぅ」
何気ない一瞬の中に、気まずさが溢れ出す。
こんなことになるなら、付き合わなきゃ良かった?
最高の友達のままでいられるなら、付き合わなきゃよかった?
もしもう一度、選択のチャンスが与えられたなら。
それでも私は、間違いなく、同じ選択をする。
佑樹と付き合えて、本当によかったんだよ。臆病な私にいろいろなことを教えてくれた。
手を繋いだりだとか、キスしたりだとか。そんな恋人らしいことはしなかったけど、あなたが隣にいるってことがとてつもなく幸せなことだったんだ。
最後にもう一度、彼の姿が見たくて振り向いた。後ろ姿でもなんでもいい。この思いが届かなくったって、それでいいから。
あのとき言えなかったこと、ちゃんと言わせて。あなたに向かって、ちゃんと言わせて。
『傷つけて、ごめんな』
……だったっけ。確か最後にそう言ってたよね。
でもさ、私、傷つけられたなんて、これっぽっちも思ってないよ。
佑樹がふいにこっちを振り向く。
だから、佑樹。
ありきたりな言葉だけど、絶対、幸せになってね。
まだまだ忘れられそうにはないけど、私もあなたが誉めてくれた笑顔で居続けるから。
本当に、ありがとね。
私は笑って背中を向けた。