婚約破棄された氷の令嬢、ヤケ酒した帰りに、倒れていたチャラい魔導士を拾いました~ワンコ系の彼に溺愛されるまで~【全年齢版】
それはラグーナ国、ヴァルハイト伯爵家でのある晴れた日のことだった。
「すまない、エレノア。……好きな人ができたんだ。婚約は破棄させてほしい」
館の執務室で、婚約者のロンから冷酷に告げられた。
急速に指先の感覚が失われ、抱えていた分厚い革表紙のノートが床へと滑り落ちる。バサリ、と無機質な音だけが虚しく響いた。
来月の夜会の出席者一覧。彼の好む料理と苦手な調味料の控え。結婚後に滞りなく領地運営を助けるための勉強ノート――すべて、私が幾夜も徹夜して書き溜めてきた努力の証だった。
「聞こえませんでした。もう一度、言ってください」
「だから、好きな人が――」
「婚約者である私がいながら、浮気をしていたのですね……ロン様」
「っ……そういうとこだぞ!! そうやって何でも正しく指摘して、正論で追い詰めてくるところ! その堅苦しくて真面目なところが窮屈なんだよ!」
叩きつけられた怒声。
伯爵家の長女として、「妹たちの模範でありなさい」「常に完璧でいなさい」と言われて育ってきた。きっちりと切り揃えた前髪も三つ編みも、すべては「ちゃんとした私」でいるための証だった。
感情を表に出さず、何事にも正しくあろうとする私を、社交界では陰で「氷の令嬢」と呼ぶ者もいた。
正しくあろうと努力してきた。彼のためにと必死に勉強してきた。それなのに――『ちゃんとしすぎたから、いらない』と言われてた。
「……承知いたしました。今まで、大変お世話になりました」
散らばったノートを一冊ずつ丁寧に拾い集め、歪んだ背表紙を揃えて胸に抱き直すと、私は静かに執務室をあとにした。
さらに打ちのめされたのは、屋敷へ戻った後のことだ。
両親に事の顛末を報告すると、慰めの言葉どころか溜め息混じりの言葉が返ってきた。
「困った子ね……ロン様を引き留められないなんて。すぐに次の縁談を探しましょう。エレノア、今度はもう少し可愛げを持ちなさい」
――その言葉を、私はすぐに理解することができなかった。
浮気をしたのはロン様であり、落ち度があったのは向こうのはずなのに。なぜ私が「可愛げがない」と責められなければならないのだろう。
自室へ戻り、静かに扉を閉める。窓の外を見上げれば、空は残酷なくらいに快晴だった。澄み渡る青空が、自分の情けなさをあざ笑っているように思えて――私の心だけが、どこまでも暗く曇っていた。
(……ああ、もうやめにしましょう)
糸がぷつりと切れる音がした。
しばらく窓の外を見つめたあと、私はもう一度両親のいる部屋へ戻った。
「お母様、お父様。……私、もう令嬢をやめます」
「……は?」
「今までありがとうございました」
私は必要最低限の荷物と長年貯めてきた自分の手持ち金だけを鞄に詰め、家を飛び出そうとした。
……けれど、屋敷を出る直前、裏庭の犬小屋へ足が向かった。
「……くぅん?」
そこには、幼い頃から私の唯一の心の拠り所だった大きな白い犬――ラブラがいた。
「完璧な令嬢」であることを求められ、誰にも弱音を吐けなかった私に、ラブラだけはいつも温かい体温を寄せてくれた。
私は膝をつき、ラブラのふさふさとした首元に顔をうずめて強く抱きしめた。ポタリと、堪えていた涙が溢れ落ちる。
「ごめんなさい……ラブラ。あなたを連れて行ってあげられなくて……元気でね」
寂しそうに私の手を舐めるラブラに背を向け、私は溢れる涙を拭って屋敷を飛び出した。
平民街の端に小さな借家を借り、今日からここで一人で生きていく。
幸いなことに、私には伯爵家で叩き込まれた厳しい教養と、一銅貨単位まで狂いなく管理できる会計術があった。近隣の商店から帳簿整理の仕事を請け負えば、生活費にも困らなかった。
最初は柄にもなく、誰の目も気にせず「自分のためだけに生きる一人暮らし」に、胸を躍らせてさえいた。
――それから、数週間が経った。
暦をめくり、その日付を目にした瞬間、胸の奥が冷たく冷え切った。
今日という日は、本来ならロン様と私の結婚式を挙げるはずだった日だ。
完璧に準備を整え、彼と二人で迎えるはずだった特別な日。どれだけ忘れようとしても、頭の隅でカウントダウンしていた記憶が、残酷に今日という現実を突きつけてくる。
……この夜だけは、どうしても耐えきれなかった。
(……今日だけは、外へ出ましょう。ちゃんとした私なんて、捨ててしまいたい)
人生で一度も訪れたことのない、夜の街へ。
私は震える手でマントを羽織り、逃げるように路地へと足を踏み入れた。
カラランと重い扉を押して入った夜の酒場。薄暗くガヤガヤとした店内で、引きつる表情を隠しながら「一番強いお酒を」と注文する。
喉を焼くような琥珀色の液体を一気に飲み干す。二杯、三杯と重ねるうちに、頭の奥が痺れるように重くなっていった。胸の奥で、ドロドロとした悔しさと悲しみが渦を巻く。
(正しくあろうとすることが、そんなに悪いことなのですか……っ)
頭がグラグラとし、これ以上飲めないと悟った私は、這うようにして酒場を抜け出した。
冷たい夜風が頬を打つ。ふらふらと暗い路地裏を歩いていると――物陰に、何かが崩れ落ちているのが目に入った。
壁にもたれかかるように座り込んでいる男。
派手な刺繍の入った上着に、夜目にも眩しい金髪。顔立ちが異様に整った、どう見ても「関わらない方がいいタイプの男」だった。
けれど、放置して通り過ぎるには、彼の呼吸があまりにも荒い。
「……生きていますか?」
「…………たぶん?」
「たぶん!?」
かすれ声で返ってきた返答に、酔いが少し吹き飛ぶ。
男がゆっくりと顔を上げた。吸い込まれそうな青い瞳。彼は力なく唇の端を上げ、困ったように笑ってみせた。
「いやあ、ちょっと力尽きちゃってさ……動けないんだよね……」
『正しくあろうとするところが窮屈だ』と捨てられ、今日くらいはそんな自分を忘れようと酒まで飲んだというのに――私はやっぱり、目の前で困っている人を見捨てることができなかった。
「……立ち上がれますか? 私の家まで、肩を貸します」
「え……いいの? 俺、怪しい奴かもしれないよ?」
「怪しいのは見れば分かります。ですが、死なれるよりはマシです。ほら、立ってください!」
よろめく身体を支えるように肩を貸し、並んで夜道を歩き出す。
彼から漂う甘く爽やかな香水のかすかな香り、耳元に荒い息が触れるたび、肩に回した腕へ妙な力が入った。どうにも落ち着かない。
「いや、本当にありがとうね。えっと……名前は?」
「エレノアです」
「エレノアちゃん、ね。……ふふ、凛としてて、すごく素敵な名前だ」
「ありがとうございます。そういえば、貴方の名前はなんですか?」
「俺? バンプっていうんだ。よろしくね」
ふわりと耳元で囁かれ、酔いとは別の熱が顔に集まっていくのを感じながら、私はなんとか彼を自宅の借家へと連れ帰った。
家に上がり込ませると、まずは怪我がないかを確認する。
幸いなことに、先日街で万が一のために買い置いてあったポーションが役に立った。傷口にふりかけ、軽く飲ませてやると、荒かった呼吸は少しずつ落ち着いていく。彼の容態が落ち着くのを見た私は、胸を撫でおろした。
「ずぶ濡れで服も汚れてしまっていますし……お風呂、貸しますよ」
「え、いいの? 助かるよ」
彼を浴室へ案内し、私はリビングで冷たいお水を飲んで一息ついていた。
しばらくして、湯気のあがるドアが開き――
「な、なんですか、その格好は……!?!?」
思わず叫んでしまった。
浴室から出てきた彼は、まさかの下着一枚姿だったのだ。引き締まった筋肉と、濡れて前髪の落ちた金髪の男らしさ。人生で初めて目にする男性の生の姿に脳の許容量が限界を突破し、私は動転するあまり、かけていた眼鏡を床に落としてしまった。
「えーー? 服汚れちゃったからさ……洗っちゃった。ただの裸だよ?」
「ただの裸って……! 男性のそんな姿、正しくありません! だ、だめです!」
いくら暑い季節とはいえ、服がないからとそのまま過ごされては困る。何より私の心臓が保たない。風邪でもひかれたら困ると慌てて押し入れを開け、かわりに大きめのバスタオルを差し出した。
「これを使ってください!」
「ありがとう。……わ、このタオル、ふわふわでいい香りだなあ」
バスタオルを腰に巻き、肩に別のタオルをかけた彼は、くしゃりと屈託のない笑みを浮かべた。その眩しさに、ぼやけた視界のなかで胸がどきりと跳ねる。落とした眼鏡を慌てて拾い上げ、掛け直した。
「じゃ、ソファー借りるね?」
「……ええ、どうぞ」
彼はソファーに体を預けると、心底安心したように目を閉じた。
その夜、自分のベッドに入ったものの――私はなぜか、まったく眠ることができなかった。
薄い壁の向こうに、自分以外の誰かがいる気配。彼から漂っていた甘い香水の残香。そして、あの眩しい笑顔。
完璧に整えられていた私の世界に、突然暴風のように舞い込んできた男。
私は天井を見つめたまま、朝が来るまで何度も寝返りを打つのだった。
* * *
翌朝。
陽の光で目を覚ました私は、香ばしい匂いに誘われて台所へと向かった。
そこには、昨夜拾った金髪の男がエプロン姿でフライパンを握っていた。
「おはよ。朝飯できたよ、エレノアちゃん」
「…………なぜ?」
「ん? 拾ってもらったお礼」
「もう元気なら帰ってください」
「えっ」
「えっ、ではありません」
ピシッと言い放つと、男――バンプはあからさまに肩を落とし、まるで犬のようにしょんしょんと耳を垂れ下げた。
(……あ)
そのしおれた姿に、ふと実家に置いてきた愛犬・ラブラの面影が重なった。
大好きな人に構ってほしくて、叱られると大袈裟に落ち込んでみせる、あの愛くるしい大型犬。
目の前の男は一目見た時から「関わってはいけない男」のはずなのに……なぜだか妙に、愛着が湧いてきてしまう。
「ひどいなぁ……命の恩人においしいスープ作ったのに」
「ありがたいですが……見知らぬ男性を一人暮らしの部屋に長居させるわけにはいきません。そもそも貴方、何者なのですか?」
溜め息をつきながら尋ねると、バンプはスープを器に盛りつけながら苦笑した。
「俺? これでも一応、腕の立つ魔導士」
話を聞けば、郊外で大物の魔物討伐を行った際、調子に乗って魔力を限界まで使い切ってしまったらしい。
ふらふらになって街まで戻ってきたものの、普段つるんでいる仲間たちには「じゃ、先帰るわ〜」と置き去りにされ、路地裏で尽きていたのだという。
「まあ俺、誰とでも仲良くできるけどさ。別に『誰かに必要とされてる』わけじゃないしね」
バンプはカラカラと笑ってみせた。
けれど、その笑顔の奥に一瞬だけ差した影を、私は見逃さなかった。
(……必要とされていない)
『お前なんて要らない』と捨てられた自分と、へらへら笑いながら『誰にも必要とされていない』と諦めている目の前の男。
……胸の奥が、ちくちくと痛んだ。
「……数日だけですよ」
「え?」
「魔力が完全に戻るまで、動くのも大変でしょう。三日だけです。魔力が回復したら、すぐに出て行ってくださいね」
「やったー! ありがとうエレノアちゃん!」
「三日です!!」
こうして、奇妙な三日間の同居生活が始まった。
ーー同居一日目
私、エレノアの生活リズムは完璧だ。
朝六時起床。七時朝食。掃除は曜日ごとに担当場所が決まっており、家計簿は一銅貨単位まできっちり記録する。
「エレノアちゃん、すご……家計簿ピッタリじゃん。掃除もピカピカだし」
「普通です。正しく生活するためには当然のことですから」
元婚約者のロンなら「相覚えず息が詰まる」「もっと適当にしろ」と言うはずだ。
けれど、バンプは違った。
「俺、こういうの全然ダメだから本当に尊敬する。このシチューもうまっ! 毎日こんな美味いもの一人で作ってたの? すごすぎない?」
「……そんなことで?」
褒められ慣れていない私は、戸惑うしかなかった。
正しくあることは「窮屈で可愛げのないこと」ではなかったのだろうか。
――同居二日目。
買い出しに出かけた時。
重い食材の袋を持とうとすると、バンプがひょいと横から手を伸ばして奪っていく。
「それ、俺が持つよ」
「子供扱いしないでください。これくらい自分で持てます」
「知ってるよ。エレノアちゃんが何でも一人でできちゃうすごい人なのは知ってる。でも、俺が『やりたいから』やってるの。ダメ?」
断る隙も与えてくれない彼に呆れつつ、二人で並んで歩き出す。
その時、私はふと自分の足元と彼の足元に目を向けて――小さく息を飲んだ。
(……あ)
バンプは私より頭一つ分以上背が高く、脚だってずっと長い。
普通に歩けば、絶対に彼の方が早くなってしまうはずだった。
なのに彼は、私の小さな歩幅にぴったりと合わせて、ゆっくりと隣を歩いてくれていたのだ。
私が気づいたことにすら、本人は全く無頓着な様子で朗らかに笑っている。
――その時だった。
バシャアッ! と、横の車道を猛スピードで駆け抜けていく馬車が、大きな水たまりの泥水を跳ね上げた。
「……っ!?」
反射的に目を瞑った瞬間――ぐい、と強い力で腕を引かれ、視界がぐるりと回った。
気がつけば、私はバンプの胸の中にすっぽりと包み込まれていた。
バシャ、と嫌な音が彼の背後で響く。
「あらら……」
バンプが苦笑しながら自分の背中を振り返る。
彼の高価そうな上着の裾には、汚い泥水がべったりと跳ね飛んでいた。
「あ、ありがとうございます……! 服が、大変なことに……!」
「あはは、洗えば大丈夫だよ。よかった〜、エレノアちゃんにかからなくてさ」
自分の服が汚れたことなんて微塵も気にしていない様子で、バンプは心底ホッとしたように「怪我はない?」と私を覗き込んできた。
……また、だ。
どうしてだろう。胸の鼓動が、うるさいほどに早くなっていく。
(……彼は、ラブラではないのに)
叱られてもしおれる姿に、最初は愛犬の面影を重ねていただけだったはずだ。
けれど、目の前にいるのは、大きな体で私を泥から守り、歩幅を合わせ、眩しい笑顔を向けてくる――一人の『男性』なのだと、否応なしに突きつけられる。
「……待って。外、少し冷え込んできたね。これ巻いて?」
動転する私をよそに、バンプは自分の首から外したあたたかいマフラーを、私の首元にふんわりと巻き直してくれた。彼の体温と、甘く爽やかな香水のような匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
「……私は、誰かの役に立たなければ愛されないと思っていました」
「え?」
「何でも一人で完璧にこなして、正しくいて、誰かの負担を減らさなければ……私には価値がないのだと」
ぽつりと漏らした言葉に、バンプは歩みを止め、私の顔をじっと覗き込んできた。
「何言ってんの。分かってないなぁ。俺はね、エレノアちゃんが何もしなくても、いてくれるだけで嬉しいんだよ。だから、頼むから俺に優しくさせてよ」
――いてくれるだけで、嬉しい。
そんな言葉、生まれて初めて言われた。
ドクン、と胸が跳ね上がった。
顔が一気に熱くなり、心臓がうるさいほど拍動を刻み始める。
昔、ロン様と一緒にいた時は……こんな風に心が乱れることなんて一度もなかった。ただ「正しくお支えしなければ」という義務感だけだった。
なのに、なぜ……? 彼の言葉ひとつで、こんなにも胸が痛いほど高鳴るのだろう。自分でもこの感情の正体が分からず、私はギュッとマントを抱きしめることしかできなかった。
その日の夜の出来事。
「あ、そういえばエレノアちゃん。浴室の魔導給水管、ちょっと詰まりかけてなかった? 俺、魔導士だからさ。ついでに水魔法で通りを良くしておいたよ」
「本当ですか? ありがとうございます、バンプさん」
「ううん、お礼代わりにこれくらいはお安い御用――っと、わっ!?」
魔法の余剰魔力が暴発したのか、一瞬バンプの輪郭が揺らめいたかと思うと、彼の腕から肩にかけてがバシャリと透明な「水」そのものに変化した。
水滴となって床に散らばる直前、彼は慌てて魔力を抑え込み、なんとか元の人の姿へと戻る。
「あはは……ごめんごめん。俺、水魔法を使うとたまに身体の一部が水になっちゃう特異体質なんだよね……」
バンプは気まずそうに髪を掻き、どこか怯えたよ
うな眼差しで私を見つめてきた。
「……引いた? 不気味……だよねぇ」
「いいえ? 少し驚きましたが、そんなことはないです。困っていたのを助けてくださったのですから。ありがとうございます、バンプさん」
「……っ。そんなこと言われたの、初めてだ。今までの女の子からは気味悪がられて、距離をとられたこともあったし……」
自分の体質をすんなり受け入れられて、心底ホッとしたように微笑むバンプ。
――けれど、私の頭には別の言葉が引っかかっていた。
「女性と」
「えっ?」
「随分、仲がよかったのですね」
自分でも驚くほど、声のトーンが一段低く、固くなっていた。
『ちゃんとした私』なら、こんな邪推をして相手を追及するような真似は決してしないはずなのに。胸の奥がチクチクと痛み、言葉を制御できない。
バンプは一瞬きょとんとしたあと、ニヤリと嬉しそうな笑みを深めた。
「もしかして……やきもち?」
「断じて、違います」
「ふーん? 顔、すごく真面目で怖いけど?」
「正しく事実を確認しようとしているだけです!」
「あはは、可愛いなあ、エレノアちゃんは」
* * *
約束の、三日目。
バンプの顔色はすっかり良くなり、身体を満たす魔力も完全に回復していた。
私はきっちりと彼の荷物を整え、玄関の扉を開ける。
「もう大丈夫ですね。魔力も戻りましたし……では、お元気で」
「…………」
「バンプさん?」
「……俺、帰らないとダメ?」
「当然でしょう。三日間の約束ですから」
「…………そっか」
バンプはいつものように明るく笑ってみせた。
けれど、その肩はあからさまにしおれ、ラブラが叱られた時と同じように、とてもしょんぼりしていた。
「拾ってくれてありがとうね、エレノアちゃん。楽しかった」
バンプが去り、パタンと扉が閉まる。
静まり返る部屋。
一人で暮らすために借りた家なのだから、静かなのは当たり前だ。
それなのに――部屋が、妙に広く感じられた。
テーブルの上には、昨日まで二人で使っていた木製のカップ。
窓際の椅子は、いつもバンプが陽だまりの中で丸くなっていた場所だ。
(……うるさいと思っていたのに)
あんなにチャラチャラして、軽薄で、ペースを乱してくる男だったのに。
胸の奥にぽっかりと大きな穴が開いたみたいに、寂しくてたまらなかった。
翌朝。
六時ちょうどに目を覚まし、一人分の朝食を作る。寂しさを振り払うように掃除をしていると――
コン、コン。
控えめなノック音が響いた。
「……? どなたですか」
扉を開ける。
「おはよ、エレノアちゃん!」
「…………」
「街のパン屋で焼き立てのクロワッサン買ってきた!」
「帰ったのでは!?」
「帰ったよ! 一晩!」
満面の笑みで焼きたてパンの袋を掲げるバンプに、私は眩暈を覚えた。
「なぜまた来るのですか!?」
「だって『仕事場が近かったから』!」
翌日。
「限定のお菓子見つけたから持ってきてあげた!」
さらに翌日。
「雨降りそうだったから傘持ってきた!」
「毎日毎日、理由を作って来ないでください!」
「だって会いたいんだもん!!」
「〜〜〜〜ッ!?」
ストレートすぎる言葉に顔が跳ね上がるように熱くなる。
押し掛けてくる犬のような彼に振り回されながらも、私の毎日はあたたかな熱を帯びていった。
* * *
押し掛け生活が始まって一ヶ月が経った頃。
バンプと街へ食材の買い出しに出ていた時のことだ。
「あら、このお肉安くなっていますね。今日の晩御飯は煮込み料理にしましょうか」
「いいねぇ、エレノアちゃんの煮込み料理大好きなんだよね!」
仲良く歩いていると、前方の高級服飾店の門から、見覚えのある男女が出てきた。
――ロンだ。
ロンは庶民的なカゴを抱えた私と、その隣で荷物を持つバンプを見ると、心底蔑むような笑みを浮かべて近づいてきた。
「ハッ、相変わらず冴えない格好だなエレノア。そんな平民同然の暮らしに落ちぶれるとは……意地を張らずに家に頭を下げて戻ればいい。少しは反省しただろう?」
「ロン様……」
「それに……」ロンは嫌悪感を露わにしてバンプを睨みつけた。
「そんな軽薄そうな男と付き合っているのか? 男を見る目がないな」
一瞬、昔の自分が顔を出しかけた。
『私が正しくないから』『私が可愛げがないから』――そんな思考の渦に飲み込まれそうになる。
バンプの顔色が変わるのが分かった。彼が私の前に立ちはだかり、ロンを怒鳴り散らそうと口を開かけた――その瞬間。
私はバンプの服の袖をギュッと掴み、ロンの正面へ一歩踏み出した。
「いいえ。私は反省しておりません」
「何だと……?」
「私は、真面目で、完璧を目指そうと努力する自分を……もう嫌いではありませんから」
はっきりと、声が高らかに響いた。
「貴方に『窮屈だ』と言われた私の生き方を、素晴らしいと褒めてくれる人がいます。私の作る料理を、私の淹れるお茶を、心から喜んでくれる人がいます。私はもう、自分を殺してまで誰かに合わせる『ちゃんとした令嬢』には戻りません!」
ロンは言葉を失い、開いた口が塞がらないようだった。
胸の中のつかえが、すうっと消えていく。私は元婚約者に一礼すると、一度も振り返らずに歩き出した。
後ろからついてくるバンプが、青い目をキラキラと輝かせて囁く。
「……エレノアちゃん、今のめちゃくちゃかっこよかった……!」
「……バンプさんが、私を肯定してくれたからです」
家に帰り着き、荷物を降ろした室内。
静かな夕暮れの時間、私は温かいお茶を淹れてバンプの前に置いた。
「……バンプさん」
「ん?」
「貴方を路地裏で拾った、あの夜のことを覚えていますか?」
「もちろん。忘れるわけないじゃん」
「私はあの日……自暴自棄になって、惨めで、困っている貴方を助けたつもりでいました」
カップから立ち上る湯気を見つめながら、私は言葉を紡ぐ。
「でも……助けられていたのは、本当は私の方だったのかもしれません」
「……え?」
「私は、完璧でなくてもいいのだと。誰かに甘えてもいいのだと……真面目な自分を好きになっていいのだと、貴方が教えてくれました。私を、救ってくれました」
胸の奥で暴れるような熱い高鳴り。ずっと分からなかったこの恋心の正体を、今ならはっきりと言葉にできる。
「……認めましょう。ロン様といた頃には、知る由もなかった感情です。貴方が側にいてくれたから――私はこの『好き』というトキメキを知ることができました」
「っ……!」
バンプの肩が大きく跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた彼の青い瞳には、溢れんばかりの感情が波打っていた。
「……俺ね、誰とでも仲良くできるんだよ」
ポツリと、バンプの口から静かな告白が零れ落ちる。
「でもさ……『いなくなったら困る』なんて言われたこと、一度もなかった」
「バンプさん……?」
「魔物を倒せるから呼ばれる。盛り上げ役が欲しいから呼ばれる。女の子だって、俺が器用で楽しい間は一緒にいてくれる。……でも、俺じゃなきゃダメなんて人、誰もいなかった。『お前はいなくても困らない』って言われてるみたいでさ。だから軽薄な振りをして、誰も好きにならないようにしてたんだ」
握りしめたバンプの手が、かすかに震えている。
「なのにエレノアちゃんは、魔力も尽きて何の役にも立てなかった俺を……こんな気味悪い身体を見ても、嫌がらなかった。『必要だ』って……言ってくれた」
バンプの瞳からぽろりと涙が溢れ出た。
と同時に――ぽたり、と透明な音を立てて、彼の手指が水滴となって木製のテーブルを濡らした。あまりの動揺と歓喜に、魔法の制御が崩れてしまっているのだ。
「……ごめん、手が……嬉しすぎて、うまく制御できなくて……」
バンプが情けなさそうに眉を下げて手を引こうとする。
私は迷わず、その「水になりかけている冷たい手」を、両手でギュッと包み込んだ。
形を保てずに崩れそうな指先も、ひんやりとした感触も、すべてが愛おしい。
「構いません。水でも、バンプさんはバンプさんです」
「……っ!」
「私じゃなきゃ駄目だと言ってくれたのは、貴方です。……私も貴方じゃないと駄目なのです」
「あーー……もう、だめだ……っ」
ポタリ、ポタリと水滴を零しながら、バンプは私の身体を狂おしいほどの力で引き寄せ、抱きしめた。
胸元に顔を埋め、子供のように肩を揺らして泣く彼。
「俺のほうが……エレノアちゃんに救われっぱなしなんだよ……っ! 毎日来るだけじゃ足りない! 俺を、エレノアちゃんの恋人にしてよ……っ!」
「……ふふ。はい。喜んで」
水になって解けてしまいそうな彼を、私は強く、しっかりと抱き返したのだった。
* * *
数週間後の、二人で過ごす夜。
部屋のベッドに腰掛けながら私は思考を巡らせていた。伯爵家の長女としての教養の中に、一通りの「知識」は入っている。
男女が真に結ばれる時、何が行われるのか。頭では理解しているつもりだった。
でも、いざその時を迎えるとなると――話は全く別だった。
お風呂も綺麗に入った。シーツも洗いたての清潔なものに敷き直した。準備した大きめのバスローブの帯を、何度も確かめるようにギュッと結び直す。
(完璧に……バンプさんをもてなさなければ……っ)
「なに張り切ってるの、エレノアちゃん」
湯気とともに現れたバンプが、苦笑しながらソファーで縮こまる私の隣へ腰を下ろした。濡れた金髪から、甘い香りが漂う。
「当たり前です。貴方に満足していただけるよう、『恋人』としての役割を完璧に――」
「はい、ストップ」
バンプの大きな手が、私の口元を優しく塞いだ。
彼はそのまま、愛おしさに満ちた青い瞳で私をじっと覗き込んでくる。
「今日はね、何もしなくていいんだよ」
「え……? でも、私も何かお役に立たないと――」
「違うよ」
バンプは首を横に振ると、私の首元へ優しく額を押し当ててきた。
「何かをしてくれるエレノアちゃんが欲しいんじゃない。俺はただ、エレノアちゃんが欲しいの。何もしないで、俺の腕の中で甘えててほしい」
「……あ」
――何もしなくていい。
完璧な役目を果たさなくても、ただここにいるだけで、愛してもらえる。
その言葉が胸の奥にストンと落ちた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
「……あっ。バンプさん……」
「はっきり見える距離にいるから大丈夫。 ……めちゃくちゃ可愛い」
カチャリと静かに眼鏡が外され、視界がやわらかくぼやける。
至近距離で重なる、熱い唇。愛おしさを確かめ合うように何度も紡がれる口づけに、頭が甘く痺れていく。
重なる影。こうして、夜は更けていった。
* * *
数ヶ月後。
ヴァルハイト家からは「会計処理が破綻した、頼むから戻ってきて帳簿を整理してくれ」という泣きつきの手紙が何度も届いた。
けれど私は、それに一切返事をせず、事務的に一枚の書類だけを送り返した。
『正式な公認会計魔導士としての依頼であればお引き受けします。ただし、規定の三倍の特急手当と正規報酬を前払いで頂戴いたします』
それ以来、身勝手な手紙はピタリと止まった。
家のために無償で完璧に働く「ちゃんとした令嬢」は、もうどこにもいないのだから。
小さな借家は、二人の家に変わっていた。
明るい朝の光が差し込む寝室。
ジリリリ、と六時に目覚まし時計が鳴り響く。
私が起き上がろうとすると、後ろから太い腕がぬっと伸びてきて、腰をしっかりと抱き寄せられた。
「ん……エレノアちゃん。今日はお休みなんでしょ? もうちょっと寝ようよぉ……」
背中に顔をうずめ、すり寄ってくるバンプ。
「駄目です。朝食の時間です。六時半には食べ始めないと、一日の計画がズレてしまいます」
「え〜……いいじゃん、たまにはさぁ」
「駄目なものは駄目です。……ですが」
私は少しだけ躊躇い、壁の掛け時計を見上げた。
「……あと、五分だけなら」
「……!」
バンプがガバッと顔を上げた。その青い瞳が、信じられないものを見たように輝いている。
「なぜそんなに嬉しそうな顔をするのですか」
「だって! あのエレノアちゃんが自分の予定を崩して俺に甘えてくれた!!」
「ご、五分だけです! ほら、抱きつくなら早くしてください!」
「はーい! エレノアちゃん大好き!!」
ぎゅっと強く抱きしめられ、胸に顔を寄せる彼の体温を感じる。
ふと視線を向けると、時計の針が、六時五分を指していた。
以前の私なら、たった五分予定が狂うだけでも落ち着かなかっただろう。
けれど今は、背中に回された大きな腕の温もりに身を預けながら、そっと目を閉じる。
「……あと一分だけですからね」
「さっき五分って言ったじゃん!」
「もう四分経ちました」
「エレノアちゃん厳しい〜!」
抱きついてくる彼の頭を撫でながら、思わず、クスリと笑ってしまった。
六時五分。
生まれて初めて私は、予定が狂うことを幸せだと思った。?
ここまで読んでいただきありがとうございます!
「よかったね、エレノア……」だと思っていただけたら、ブクマや、リアクション、☆☆☆☆☆で応援していただけると、とても励みになります(TT)(手間かもしれませんが……あると嬉しいです!)
そして、バンプ視点も書きました!
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「浮気、してたんだ……サイッテーー!」
「いや、ちがっ……」
バチンッ!
頬を叩く乾いた音が、人混みの町中で虚しく響いた。
「もう! 知らない!」
吐き捨てるように言い捨て、振り返りもせず走り去っていく元彼女の背中を、俺はただ見送るしかなかった。
(……誤解、なんだけどなぁ……)
じんじんと赤く痛む頬を手で押さえながら、俺はトボトボと歩き始める。
さっきの泥沼劇の一部始終を見ていた、すれ違う人々の刺さるような視線が痛い。
「はぁ……」
重い溜め息が口から漏れた。
正直、顔や愛想の良さのおかげで、これまで恋人に困ったことは一度もなかった。
誘われれば付き合ったし、一緒に行動しているときはそれなりに楽しかった。今まで付き合ってきた子の数だって、片手じゃ到底足りない。
だけど――誰も、本当の俺を見てくれたことはなかった。
俺には、水魔法を使うと身体が「水」になってしまう特異体質がある。
どれだけ仲良くなっても、うっかりそれを見せてしまった瞬間、みんな手のひらを返したように離れていった。
『ひっ……! 来ないで、化け物……っ!』
『不気味……触らないでよ!』
『……』
過去の彼女たちの悲鳴と、蔑むような冷たい目。
思い出すたび、ぎゅっと唇を噛み締めてしまう。好きでこんな体質に生まれたわけじゃないのに。
顔や雰囲気が好きなだけで、俺という人間そのものを見てくれる子なんていない。
「どうせ誰かと居ても、いつか離れていくんだ」
そう諦めて、自分から深く踏み込むのをやめるようになった。軽薄な態度で誰とでも付き合うようになったのは、傷つくのが怖かったからだ。
そんな日に限って、大物の魔物討伐が入った。
どうにでもなれという投げやりな気分のまま魔力を使いすぎ、仲間と別れた頃には一歩歩くのもやっとだった。
あの日、路地裏で力尽きていたのは、魔力が底をついたから――そして、少しくらいどうなってもいいと思っていたからだ。
なのに――
「立ち上がれますか? 私の家まで、肩を貸します」
真っ直ぐな目でそう言って、見ず知らずの俺を助けてくれたエレノアちゃん。
最初は単に、「今までに出会ったことがないタイプの女の子だな、新鮮だな」くらいにしか思っていなかった。
真面目で几帳面が、そのまま服を着て歩いているような女の子。
魔法の反動で手が水になってしまった時、またあの嫌な言葉が来るのだと恐怖で身体が強張った。
『引いた? 不気味……だよねぇ』と、引きつった笑顔で誤魔化すしかなかったのに。
「少し驚きましたが、そんなことはないです。困っていたのを助けてくださったのですから。ありがとうございます、バンプさん」
悲鳴も侮蔑もなく、ごく普通に、感謝の言葉が返ってきた。
俺の体質を「不気味」だと言わなかった人間なんて、人生で彼女が初めてだった。
介抱してもらった3日間は、本当に楽しかった。
いつもあんなに真面目なくせに、過去の女性に少し嫉妬して「断じて違います」なんて顔を真っ赤にしている姿はたまらなく愛おしかったし――何より、ふとした瞬間に見せてくれる、眼鏡の奥のやわらかな微笑みに、俺の心はすっかり奪われてしまっていた。
誰かにこんなにも「ずっと笑っていてほしい」と思ったのは、生まれて初めてだったんだ。
……けれど、約束の3日間はあっという間に過ぎてしまった。
彼女の家をあとにし、自分の家に戻ってぽつんと一人になった瞬間。
「……さみしいなぁ……」
ぽろりと溢れた独り言に、自分でも驚いた。
今まで誰と別れても感じたことのなかった、胸が削りとられるような猛烈な寂しさ。
もう、我慢なんてできるわけがなかった。
それからの俺は、毎日のように理由を作っては彼女の家へと走った。
「仕事場が近かったから」「限定のお菓子が手に入ったから」――呆れ顔でドアを開けてくれるエレノアちゃんの顔を見た瞬間、自分でも尻尾を振っているのが分かるくらい、嬉しくてたまらなかった。
「また来たんですか」なんて言われながらも追い出さないでいてくれる優しさに甘えて、俺はどんどん彼女無しじゃ生きていけない身体になっていったんだ。
『ちゃんとした私』を守ろうとして傷ついて、それでも困っている人を放っておけない、優しくて真っ直ぐなエレノアちゃん。
誰にも愛されないと思って生きてきた俺のヒーローは、あの日、俺を拾ってくれた彼女だけだ。
「……絶対に、大事にするからね」
ベッドで俺の腕の中にすっぽり収まって、幸せそうに眠る愛しい恋人。
そのやわらかな頬にそっと触れ、小さな身体を壊さないように、でも二度と離れないように強く抱きしめ直す。
俺の心と身体を丸ごと救ってくれた彼女へ、溢れる愛おしさを込めて、俺は心からそう誓ったのだった。




