『おかえりって、言って欲しかっただけなのに』
この物語には、
派手な事件も、劇的な奇跡もありません。
ただ、
「言えなかったこと」と
「聞けなかったこと」があります。
最後まで読んだあと、
少しだけ、胸が重くなるかもしれません。
それでもよろしければ、
お付き合いください。
孤児院の門は、子どもには少し重い。
両手で押すと、きい、と木が鳴る。その音を聞くたび、胸の奥がほどける気がした。玄関の床は古くて、必ず一枚だけきしむ板がある。そこを踏むと、誰かが顔を上げる。私が帰ってきたことが、分かってもらえる。
だから私は、あの場所が好きだった。
「ただいま」を言う勇気はなかったけれど、
「おかえり」を聞ける場所だったから。
彼と出会ったのは、同い年で、同じ背の高さで、同じくらい不安そうな顔をしていた春の日だった。新しく来た子がいると聞いて廊下に並ばされ、彼は職員さんの後ろに隠れるように立っていた。名前を呼ばれて、小さな声で答えて、すぐに視線を落とす。その様子を見た瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
ここは、慣れるまでがいちばん怖い。
私はなぜか前に出て言った。
「一緒の部屋だよ」
職員さんが驚いた顔をして、それから私たちを見比べて、静かにうなずいた。その日から、私と彼は同じ部屋になった。
最初の夜、消灯後の暗闇で、彼は布団の中で小さく震えていた。泣いてはいなかった。泣くのを我慢している震えだった。
「こわい?」
そう聞くと、彼は少しだけうなずいた。
私は布団の端から手を伸ばした。彼の手は冷たくて、細かった。
「だいじょうぶ」
根拠なんてなかった。でも、誰かがそう言ってくれるだけで、夜は短くなる。彼は、ぎゅっと握り返した。その力が弱くて必死で、私は胸の奥が熱くなった。
それから、彼は「おかえり」を言うようになった。
私が外の手伝いから戻ると、部屋の入口で待っていて、当たり前みたいに言う。
「おかえり」
たった四文字。それだけで、私はここにいていいと思えた。だから私は、その言葉を聞くたび、胸の奥で小さな何かが膨らむのを感じていた。
事故の日のことを、私は何度も思い出す。
あの日、年下の子がふらついて、私は反射的に声を上げた。彼が振り返って、足を止めて、その次の瞬間、世界がひっくり返った。道路の真ん中に落ちていた、彼の靴を、私はずっと忘れられない。
彼は戻ってきた。
でも、何かが決定的に違っていた。
彼は「おかえり」を言わなくなった。
私が門を押して入ってきても、
床がきしんでも、
顔は上げるのに、言葉がない。
最初は、気のせいだと思った。
次は、疲れているのだと思った。
その次は――腹が立った。
どうして何も言わないの。
どうして、あんなに当たり前だったことを、しなくなったの。
私は、彼が冷たくなったと思った。
事故で、私のことが嫌になったんだと思った。
彼は、代わりに私の手を握った。
笑った。
隣に座った。
それが、余計に腹立たしかった。
続きはKindle版にて
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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