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『おかえりって、言って欲しかっただけなのに』

作者: くろめがね
掲載日:2026/01/31

この物語には、

派手な事件も、劇的な奇跡もありません。


ただ、

「言えなかったこと」と

「聞けなかったこと」があります。


最後まで読んだあと、

少しだけ、胸が重くなるかもしれません。


それでもよろしければ、

お付き合いください。


孤児院の門は、子どもには少し重い。

両手で押すと、きい、と木が鳴る。その音を聞くたび、胸の奥がほどける気がした。玄関の床は古くて、必ず一枚だけきしむ板がある。そこを踏むと、誰かが顔を上げる。私が帰ってきたことが、分かってもらえる。


だから私は、あの場所が好きだった。


「ただいま」を言う勇気はなかったけれど、

「おかえり」を聞ける場所だったから。


彼と出会ったのは、同い年で、同じ背の高さで、同じくらい不安そうな顔をしていた春の日だった。新しく来た子がいると聞いて廊下に並ばされ、彼は職員さんの後ろに隠れるように立っていた。名前を呼ばれて、小さな声で答えて、すぐに視線を落とす。その様子を見た瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。


ここは、慣れるまでがいちばん怖い。


私はなぜか前に出て言った。


「一緒の部屋だよ」


職員さんが驚いた顔をして、それから私たちを見比べて、静かにうなずいた。その日から、私と彼は同じ部屋になった。


最初の夜、消灯後の暗闇で、彼は布団の中で小さく震えていた。泣いてはいなかった。泣くのを我慢している震えだった。


「こわい?」


そう聞くと、彼は少しだけうなずいた。

私は布団の端から手を伸ばした。彼の手は冷たくて、細かった。


「だいじょうぶ」


根拠なんてなかった。でも、誰かがそう言ってくれるだけで、夜は短くなる。彼は、ぎゅっと握り返した。その力が弱くて必死で、私は胸の奥が熱くなった。


それから、彼は「おかえり」を言うようになった。


私が外の手伝いから戻ると、部屋の入口で待っていて、当たり前みたいに言う。


「おかえり」


たった四文字。それだけで、私はここにいていいと思えた。だから私は、その言葉を聞くたび、胸の奥で小さな何かが膨らむのを感じていた。


事故の日のことを、私は何度も思い出す。


あの日、年下の子がふらついて、私は反射的に声を上げた。彼が振り返って、足を止めて、その次の瞬間、世界がひっくり返った。道路の真ん中に落ちていた、彼の靴を、私はずっと忘れられない。


彼は戻ってきた。

でも、何かが決定的に違っていた。


彼は「おかえり」を言わなくなった。


私が門を押して入ってきても、

床がきしんでも、

顔は上げるのに、言葉がない。


最初は、気のせいだと思った。

次は、疲れているのだと思った。

その次は――腹が立った。


どうして何も言わないの。

どうして、あんなに当たり前だったことを、しなくなったの。


私は、彼が冷たくなったと思った。

事故で、私のことが嫌になったんだと思った。


彼は、代わりに私の手を握った。

笑った。

隣に座った。


それが、余計に腹立たしかった。


「言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない」


そう言うと、彼は困った顔をして、視線を落とす。

私は、その沈黙を「拒絶」だと思った。


私は、怒った。

彼は、何も言わなかった。


そのすれ違いは、長く続いた。


孤児院を出るころには、

私たちはほとんど話さなくなっていた。


私は、大人になった。

結婚を控えて、幸せなはずだった。


そんなある日、一通の手紙が届いた。


震える字で、ゆっくりと書かれていた。


事故のこと。

原因が、私だったこと。

あのときから、言葉がうまく出なくなったこと。

「おかえり」を言えなくなった理由。

それを言えば、私が自分を責めて壊れてしまうと思ったこと。


そして最後に、こう書いてあった。


――言えなかっただけなんだ。

――言わなかったわけじゃない。


私は、床に座り込んだ。


すぐに会いに行こうと立ち上がった、そのとき、

もう一枚のはがきが落ちた。


喪中。


彼の名前。


息が、できなかった。


おかえりって、言って欲しかっただけなのに。


それだけの言葉が、

どうして、こんなにも遠かったのだろう。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この話は、

誰かを責めるための物語ではありません。


幼さゆえに、

思い込みゆえに、

守ろうとして、すれ違ってしまった二人の話です。


「言わなかった」のではなく、

「言えなかった」ことが、

どれほど残酷か。


もし、

何か一つでも心に残るものがあれば、

それだけで、この物語は救われます。

そんな思い出ありませんか?

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