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第六話 供物

朝の逆さ滝は、白い。


空へ落ちていく水が光を抱え、谷の壁をやわらかく照らす。その光は美しいのに、沈殿区へ降りるほど温度を失っていく。

レオンはその冷えた光の下で、胸ポケットの「試験運用の許可」を指で確かめた。紙は硬く、乾いている。昨日の夕方のままだ。


石壁に埋まった鉄の箱――区画弁。

蓋の弁の意匠が朝露を舐めて、鈍い銀になっていた。


「一段目。……間違えるなよ」


ノアが腕を組み、口元だけで言った。頬の傷はまだ赤い。赤いのに、本人は気にしていないふりをする。

ミレイユは箱の前に膝をつき、帳面を開いている。今日の彼女は“監査官”じゃない。“操作官”の顔だ。数字より先に、街の息を読む顔。


「レオン。目的は?」


「沈殿区の診療所。今朝の洗浄と、薬剤の煮沸用。……それと共同水場の圧を少しだけ上げる」


「“少し”は数字で言いなさい」


淡々とした声。淡々だからこそ、逃げ道がない。


レオンは刻印を指でなぞり、レバーに指を置いた。

金属の冷たさが指先を刺す。刺すのに、どこか蛇口の口に触れたときと似ている。金属じゃなく、“境界”に触れている感覚。


――重い。


昨日、ミレイユが倒した時より、ほんの少しだけ。

気のせいにできる程度の抵抗が、指の腹に返ってきた。


ノアが眉を寄せる。


「……渋くねぇ?」


レオンは答えず、息を殺して押し込んだ。


きし。


遠くで弁が鳴った。

鳴り方が一拍、遅れた気がした。


次の瞬間、沈殿区の路地の石畳の縁が薄く濡れた。水が落ちるのではない。下から、ゆっくりと這い上がる。

それは“水が来た”というより、“街が呼吸を戻した”みたいに見えた。


診療所の前で、古い桶がひとつ鳴った。

水が桶の底を叩く音。誰かが息を吐く音。泣き声――ではなく、咳。


「熱いの、頼む!」


中から声が飛ぶ。湯が必要だ。消毒が必要だ。沈殿区の病は、水の不足で増える。


レオンはレバーをその位置で止め、耳を澄ませた。

管の声。硬いか、柔らかいか。硬いなら危ない。柔らかいなら余裕がある。


(……まだ、柔らかい)


「ノア、診療所の裏。漏れ、見て」


「はいはい、職人の耳の代わりね」


ノアは言いながら、もう走っていた。路地の角へ溶ける足取りが軽い。軽さが、沈殿区では強さになる。


ミレイユは帳面に線を引く。


「操作開始、時刻、圧、流量。……抵抗は?」


「……少し重かった」


ミレイユのペン先が一度だけ止まり、すぐ動く。


「記録。次回と比較する」


診療所の窓が開き、白い布が揺れた。

看護の女が顔を出し、こちらを見つける。目が丸くなり、次に、ほっと細くなる。


「……水、来てる」


その声があまりにも静かで、レオンの胸の奥がざらついた。

喜びのはずなのに、尖りがない。声が“鎮まって”いる。


女は両手で桶を抱え、何度も頷いた。


「ありがとう。……ありがとうね」


言い方が、祈りみたいだった。


レオンは考えるのをやめ、レバーから指を離した。

いまは成果を積む。成果がなければ弁は開かない。弁が開かなければ、沈殿区はまたゼロになる。


ノアが戻ってきた。


「裏、漏れなし。……でもさ」


「何だ」


ノアが診療所の壁に掌を当てる。


「ぬるい。前よりぬるい」


ぬるい。

女神の息。

喉に、同じ言葉が引っかかった。


ミレイユが帳面を閉じ、立ち上がる。


「ここまで。戻すわ」


レオンがレバーを戻す。


きし。


水の膜が薄れ、路地が乾いていく。

乾くのに、空気だけが少し重く残った。


ミレイユが短く言う。


「初運用としては、合格」


褒め言葉じゃない。判定だ。

そして判定の次に、彼女は言葉を落とした。


「……ただし、これからが面倒になる」


ノアが顔をしかめる。


「面倒?」


ミレイユは天盤区の方角――弁塔の影を一度だけ見た。


「“続ける”には、手順が増える」


その言い方は、昨日までの“許可”より硬かった。

まるで、ここから先は現場じゃなく帳簿の戦いだ、と言っているみたいに。


昼前、三人は水路区の外れに呼び出された。


神殿だった。

正確には、神殿と役所がくっついた建物だ。


白い石の列柱、逆さ滝を模した彫刻、香の匂い。

その横に、掲示板。貼られているのは祈りの文句じゃない。受付時間と提出書類の一覧。


——献水票

——区画弁使用報告書

——弁印更新申請

——違反時処分規定


ノアが鼻で笑った。


「寺か、局か、どっちだよ」


ミレイユは答えず、受付へ向かった。


白い布で仕切られた窓口。

そこから現れたのは、若い女だった。


淡い灰色の装束。胸元に小さな蛇口の飾り。髪は長いのに、邪魔にならない。

笑うと空気が少し軽くなる――その軽さが、逆に怖い。


「お待ちしていました」


声が柔らかい。柔らかいのに、句読点がきっちりしている。

彼女は名乗る前に、こちらの役割をもう把握している顔をした。


「水務神殿・奉納課のリリスです。監査官ミレイユ。……そして、現場の方」


リリスの視線がレオンへ滑る。

好奇心に見えて、測定器みたいな目。


「今日から区画弁の試験運用。おめでとうございます」


「おめでとうで済む話ではないわ」


ミレイユが淡々と言う。

リリスは笑顔のまま頷く。


「ええ。ですから、手続きが必要です。……祈りは流量ですから」


祈りは流量。

可愛い言葉の形で、鎖を言う。


リリスが差し出した紙束は整っていた。罫線は細く、欄は多い。

最後の欄だけ、妙に大きい。


——奉納量(当日)

——奉納不足時の対応


ノアが覗き込み、眉を吊り上げる。


「……供物いるのかよ」


「供物、という言い方は少し古いですね」


リリスは首を傾げる。可愛い仕草なのに、反論の隙がない角度。


「いまは“奉納”です。街の均衡を保つためのもの」


「均衡?」


レオンが思わず聞き返すと、リリスはうなずいた。


「区画弁は便利です。便利すぎます。だから段階がある。段階があるから、街は壊れない」


ミレイユが口を挟む。


「安全のための段階制。……それは局の理屈よ」


ミレイユの指先が、紙の端をほんの少し強く押さえた。

抑制された怒りが、紙越しに伝わる。


リリスは笑顔のまま返す。


「局の理屈であり、女神の理屈でもあります」


女神。

その言葉が出た瞬間、空気が少しだけ整う。人が反射で納得してしまう種類の言葉だ。


リリスは小さな木箱を開け、中から銀色の札を取り出した。

蛇口の形の意匠。弁印とは違う。もっと薄く、軽い。


「奉納札です。区画弁の箱に添付してください」


「札ひとつで何が変わる」


ノアが鼻で笑う。


リリスは困ったように笑い、それでも言葉は引かない。


「今日の奉納が満ちていれば、弁は軽くなります。足りなければ、重くなります」


――今朝の“重い”が、脳裏で冷たく鳴った。


ミレイユが紙束に目を走らせる。


「奉納量は、何を測るの」


リリスは声をほんの少し落とした。

窓口の向こうの暗がりに、誰かがいる気配。聞かれてはいけない話の落とし方。


「沈殿区と水路区から上がる“祈り”の量です。……正確には、祈りの“質”」


質。

レオンの背筋が冷えた。工房の男の、平らな声。怒れない、泣けない。


リリスは笑顔のまま続ける。


「最近、沈殿区は鎮まりすぎています」


「鎮まりが、悪いのか」


レオンが問うと、リリスは優しく言った。


「鎮まりは良いことです。荒ぶりが減る。争いが減る。ですが――奉納が減る」


優しい声で、鎖の話をする。


「減るとどうなる」


「弁が、開きません」


ノアが一歩踏み出した。


「脅しかよ」


リリスは首を振る。真顔にもならず、ただ笑顔のまま。


「現実です。弁は段階式。段階を上げるには、成果と、承認と――奉納が要る」


ミレイユが紙束を受け取り、短く言った。


「……分かった。必要書類は揃える」


「ありがとうございます」


リリスは微笑み、レオンを見る。


「現場の方。あなたが街を救えば救うほど、奉納は変わります。……どうか、女神のために」


女神のために。

その言葉が、背中に冷たい汗を浮かせた。


窓口を離れる瞬間、レオンはふと奥を見る。


祭壇の向こう。布の奥。

そこに、管が走っていた。石の柱の影に圧力計。数字の針。

その横に、見慣れない刻印。


——奉納率


ノアが鼻で笑った。


「寺でも局でもねぇな。……ただの装置だ」


ミレイユは何も言わなかった。

言えないのか、言わないのか。

ただ、歩幅が少しだけ速くなった。


夕方。


沈殿区へ戻る道すがら、広場で白髪の女が蛇口に手を当てて祈っていた。


「鎮まりたまえ」


その声は穏やかで、優しい。

優しすぎて、怖い。


レオンは胸ポケットの許可証を指でなぞった。

朝は乾いていたのに、紙がほんのり湿っている気がした。


光の角度で、薄い水紋が浮かぶ。

蛇口の形に見える――見えない、と言い聞かせたくなる薄さで。


区画弁の箱の前に、紙が一枚貼られていた。

誰の手でも届く位置。なのに紙は整っていて、角が揃っている。上の紙だ。


——奉納不足のため、試験運用は再審査となります。

——本日の不足分は、明朝までに補填してください。


ノアが紙を見て、低く笑った。


「……取り立て、来るの早ぇな」


そのとき、遠くで、きし、と鳴った。


区画弁の箱の音じゃない。

弁塔の方角から響く、もっと硬い歯ぎしり。


ミレイユの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

そして何事もなかったように言う。


「……明日からが本番よ」


レオンは紙を握り潰さないように、拳を握った。

成果で弁が開く。奉納で弁が軽くなる。

なら、街を救うことと、街を縛ることは――同じ線で繋がっている。


蛇口の向こうに、女神がいる。


その言葉が今夜は祈りじゃない。

請求書みたいに聞こえた。

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