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第五話 区画

黒い水は、音を立てずに這い上がってくる。


沈殿区の水門の隙間から滲んだそれは、落ちない。落ちないまま鉄を舐め、石を濡らし、匂いだけを先に運んでくる。

下水の匂い。沈殿区の死の匂い。


レオンは工具箱を開けたまま、指が止まっていた。

板、布、樹脂。直す道具しかない。

いま必要なのは“直す前に止める”ことだ。


「下がって」


ミレイユの声が、闇を一度整えた。


彼女はレオンもノアも見ない。見る必要がないみたいに水門へ向き合い、左手の印を掲げた。

銀。臨時の薄い銀じゃない。重い銀だ。


掌の上に、揺れない光が宿る。青白い明滅ではない。呼吸を持ったまま、真っすぐ立つ光。


きし。


弁が鳴った。第三話、第四話で聞いた硬い歯ぎしり。

だが今度の音は乱暴じゃない。精密だった。歯が噛み合い、段を一つずつ下りていくような音。


黒い水が、止まった。


止まったというより、押し戻された。

這い上がろうとしていたものが見えない壁に額を当てて引き返す。水門の隙間に残った黒い滲みだけが、粘ついて闇に残った。


「拘束」


ミレイユの言葉は短い。制服の男が二人、影から現れる。いつの間にいたのか分からない動きで、偽印の男と塗布役の腕を捻り上げた。


見張りはノアの髪を掴んだまま、短剣を構えて固まっていた。

ノアの唇の端が切れ、血が光る。それでも目は死んでいない。沈殿区の目だ。


レオンが踏み出しかけた瞬間、ミレイユの声が飛ぶ。


「動かないで。——いま、最悪を避けたばかりよ」


最悪。沈殿区が下水に沈むこと。

それを彼女は“避けたばかり”と言った。書類を閉じるみたいに。


ミレイユは水門の縁に残った白い泡へ視線を落とし、手袋のまま布で拭った。匂いを嗅ぐ。ほんの一瞬。

それから布を折り畳んで鞄にしまう。証拠を“形”にする手つきだった。


「レオン」


名を呼ばれ、背筋が無意識に伸びる。


「あなたの報告がなければ、私はここへ来なかった。……よくやったわ」


褒め言葉は短い。短いほど重い人間が言うと、重い。


ノアが咳き込みながら笑った。


「聞いたか、職人。上の人間も褒めるんだな」


ミレイユはノアを見て、怪我の程度を目だけで測る。立てるか、歩けるか、息は通っているか。

そして淡々に戻る。


「あなたも。生きていて良かった」


ノアが一瞬だけ目を見開き、すぐそっぽを向いた。


「……礼はいらねぇ」


沈殿区の礼は、照れ隠しになる。


翌朝。


逆さ滝は変わらず上へ落ちていた。

白い水が空へ吸われていく光景は美しいのに不気味で、見慣れるほど怖くなる。


水路区で、火が上がった。


工房区。油と木材と布が集まる場所。風が悪く、炎が走りやすい。

朝の薄い光の中で、黒い煙が天盤区へ伸びた。上層は煙に敏感だ。権威は汚れを嫌う。


「……来た」


ノアが頬の傷を押さえたまま呟く。昨夜の血は乾き切っていない。痛みが顔に残っている。


レオンは煙の色を見た。油の黒。布の灰。木の苦さ。

それに混じる、ほんのわずかな酸っぱさ——気のせいにできる程度の違和感。


火事は火で起きる。

でも火事を“広げる”のは水の不足だ。

ここは水路区。管が複雑で弁が多い。つまり、勝負できる。


ミレイユはすでに歩き出していた。濃紺の外套が朝の風を割る。

迷いのない歩幅。地図が頭に入っている歩き方。


「区画弁の制御が必要ね」


レオンの喉が鳴った。


区画弁。

街を切り分けて、水圧と流量を動かす“指先”。

触れれば救える。同じだけ殺せる。


工房区へ向かう途中、石壁に埋まった鉄の箱がある。蓋には弁の意匠。沈殿区の人間は触れない場所だ。

ミレイユが印を当てると、錠が小さく鳴って蓋が開いた。


中に並ぶのは、短いレバーがいくつも。

それぞれに区画の刻印。細い線で結ばれ、街が分解されている。


「一段目」


ミレイユが言った。


「いま開けられるのは、ここまで。だから間違えない」


説教じゃない。手順だ。

彼女はレバーに指を置き、レオンを見る。


「燃えやすいのはどこ」


レオンは煙の流れを読む。風。屋根の高さ。路地幅。

火が走るのは空気の道だ。


「北の路地。屋根が低い。——あそこを水で切れないと、走る」


ミレイユは二つのレバーを倒した。


きし。


遠くで弁が鳴る。

次の瞬間、工房区へ続く側溝が“盛り上がった”。落ちる水じゃない。這い上がってくる水が、石の縁を越えて路地へ薄く広がる。


水が壁になる。


「ノア、上!」


レオンが叫ぶと、ノアは迷いなく走った。

ロープを投げ、屋根の縁に引っかけ、壁を蹴って登る。火事場の動きは沈殿区の生存術そのものだ。


工房区では職人たちが桶で水を運び、布を濡らし、炎を叩いていた。

だが火は速い。速い火は、仕事みたいに増える。


「こっちだ! 油が——!」


炎が油を舐め、ぱっと跳ねる。火の色が一段明るくなる。

建物の奥から人影が飛び出した。服に火が移っている。


ノアが屋根から降りる。ロープで身体を預け、燃える人を抱えて引き上げる。

速い。躊躇がない。

それでも、彼女は一度だけ梁を見上げた。黒ずんだ木のたわみ。落ちる前兆。


「梁、落ちるぞ!」


叫びが先に出る。判断が早い。沈殿区の現場眼。


レオンは地上で分岐を探した。区画弁が開いたことで圧が上がっている。だが古い継ぎ目が鳴っている。硬い鳴りは、限界の鳴りだ。


「圧、かけすぎるな……!」


ミレイユがレバーへ指を戻す。


きし。


水の膜が薄くなり、別の路地が厚くなる。火の進行方向にだけ、水の壁が立つ。

ただかけるんじゃない。囲って、切って、逃げ道を作る。


レオンの息が止まった。


「……街を編んでる」


ミレイユは淡々と言った。


「編まれているのよ。あなたが見てきた管で」


梁が、ぎし、と鳴った。

落ちる。


「南の通り、薄く! 重くすると崩れる!」


レオンの声に、ミレイユが一瞬だけ目を細める。測る目。

そして頷き、レバーを半分戻す。


きし。


水が軽くなり、避難路が生きる。

次の瞬間、梁が落ちた。火花が散り、煙が膨らむ。だが避難路は塞がらない。薄い水が落ちた梁の火を噛み殺す。


炎は縮み、縮み、最後に油の匂いだけを残して消えた。


工房区に広がったのは歓声じゃない。

吐き出す息。咳。泣き声。

生きている音だ。


レオンは膝に手をつき、汗を拭った。水の匂いが久しぶりに“命の匂い”に感じる。


燃え残った工房の前で、ひとりの男が立っていた。

拳を握りしめ、震えている。失ったものの前の震えだ。


レオンは覚悟して近づいた。怒鳴られる。殴られる。

沈殿区なら、それが普通だ。


だが男は、薄く笑った。


「……助かった。助かったよ」


声が、妙に平らだった。

怒りが見当たらない。絶望も、どこか遠い。


男は自分の胸を押さえ、首を傾げる。


「燃えたのに……怒れねぇな。変だな」


レオンの背筋が冷えた。


(まただ)


第一話の祈り。第二話の沈殿区の静けさ。

水が戻るほど、何かが“鎮まって”いく。


ミレイユは遠くから男を見て、視線を一瞬だけ落とした。見たくないのか、知っているのか。

その揺れはすぐ淡々に戻った。


夕方。


水道局の小さな詰所で、ミレイユは帳面を閉じた。

机の上にはレオンの地図。炭の線。×印。矢印。

その上に、今日の火の経路が赤で重ねられている。


「あなたの判断は正しかった」


ミレイユが言った。


「上げすぎれば崩れた。下げすぎれば燃え広がった。……区画弁は匙加減。あなたは匙を持てる」


レオンは息を吸って、紙の匂いを感じた。汗と煤の匂いの中に、上層の匂いが混じる。


ミレイユは一枚の紙を机に置いた。整った紙。硬い白。


「試験運用の許可。一段目の範囲で。条件付き」


条件。鎖の言葉。

だが鎖は、時に命綱になる。


「流量、圧、逆流兆候、すべて記録。逸脱したら即停止。責任は——あなた」


レオンは紙を受け取った。

重い。これ一枚で、沈殿区の水を“続ける形”に変えられる。


ノアが壁にもたれ、鼻で笑った。


「上の紙切れ、初めて役に立ったな」


ミレイユがノアを見る。


「紙はいつでも役に立つ。……役に立たなくするのは、紙を使う人間よ」


ノアが一瞬だけ黙り、すぐにそっぽを向いた。


レオンは許可証を見下ろした。

白い紙の地に、薄い水紋が入っている。光の角度で、蛇口の形にも見える——気のせいだ、と言い聞かせる程度の薄さで。


そのとき、遠くで、きし、と鳴った。


弁の音だ。

一段目の箱ではない。もっと高いところ——弁塔の方角から響く、硬い歯ぎしり。


ミレイユの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

そして何事もなかったように言う。


「……今日はここまで。明日からが本番よ」


詰所を出ると、夕焼けが逆さ滝の白を赤く染めていた。

上へ落ちる水が、空へ血を流しているみたいに見えた。


沈殿区へ戻る道すがら、広場で白髪の女が蛇口に手を当てて祈っていた。


「鎮まりたまえ」


その声は、昨日より少しだけ深い。

蛇口の落ちる音が、ぽ、……ぽ、と鳴る。


一拍だけ“合わない”気がした。


ノアが小さく言った。


「職人。弁が開いた。……だから次が来る」


レオンは許可証を握りしめた。

守れる。強くなる。

だから奪いに来る。


逆さ滝の轟きが遠くで胸を叩く。

その轟きが今夜だけは、誰かの呼吸みたいに聞こえた。


水は戻った。

弁も開いた。


——それでも、蛇口の向こうは、まだ見えない。

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