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第四話 水門

沈殿区の夜は、音が少ない。

咳と、逆さ滝の轟きと、蛇口の水が落ちる音――それだけが残る。


だからこそ、異常はすぐ骨に刺さる。


ぽ、……ぽ。


噴水台の蛇口の音が、いま一瞬だけ細った。

列に並ぶ人々が、反射で息を止める。誰かが喉を鳴らし、誰かが祈り始める。


「……来たな」


ノアが暗がりで短く言った。目が水路区へ続く階段を見ている。

レオンは噴水台の裏、点検口に手をかけたまま動けなかった。応急の継ぎ目は持っている。なのに水が細る。

原因はここじゃない。


上流――この街では、その言葉の向きが歪む。

だが、答えの位置は変わらない。


水門。


昨日から地図に重ねた線が、頭の中で硬く光った。

沈殿区の蛇口を支えているのは、結局、水門だ。そこが揺れれば、ここはゼロになる。


「……行くぞ」


レオンが言うと、ノアは即座に頷いた。迷いが短い。沈殿区の人間の迷いは、命取りになる。


二人は噴水台の裏から滑り出し、路地へ溶けた。

石壁に背を擦り、息を殺して走る。灯りは落としたまま。沈殿区の闇は、味方でもある。


路地の角を曲がる直前、広場の影で囁き声がした。


「……水門へ。ここは放っとけ」

「蛇口は後でいい。今夜は水門だ」


乾いた靴音。沈殿区の布靴じゃない。仕事の歩き方だ。急いでいるのに、焦りの匂いがない。

ノアが唇だけ動かして言う。


「局じゃない」


「何で分かる」


「局は急がない。……急ぐのは、盗る側だ」


盗る。

水を。命を。


二人は路地を抜け、メンテ坑道の扉へ。ノアが針金を鍵穴に滑り込ませる。数秒。錆びた扉が小さく鳴って開いた。


「入れない扉は、沈殿区にはない」


「胸張る話じゃない」


「胸張れる話が少ないだけだ」


ノアは先に暗闇へ消えた。レオンは油灯の芯を指で潰し、火を作らずに追う。

暗闇に目が馴染むまでの数歩が、いつも一番怖い。


坑道の奥は冷え、空気が重い。

逆さ滝の轟きが遠くなるほど、街は“裏側”になる。


分岐を二つ抜けたところで、匂いが変わった。

生臭さ。湿った鉄。――下水。


「近い」


レオンが囁くと、ノアが指を立てた。


止まれ。


前方に、青白い光が揺れている。火じゃない。印の光――だが整っていない。粗く、息が切れるみたいに明滅する。


「偽印か」


「真似だな。最近多い」


最近。

水利権は価値になる。価値は偽物を呼ぶ。偽物は戦争を呼ぶ。


二人は影に伏せ、光の先を覗いた。


巨大な水門がそこにあった。


鉄と石で作られた扉。古い溝が水の記憶を残し、いまは乾いて錆びている。それでも沈殿区の背骨みたいに、そこに立っている。

その水門の継ぎ目に、男が何かを塗っていた。白い泡。酸の匂い。

別の男が偽印の光を手のひらに灯し、水門に押し当てている。

三人目が見張り。短剣を握り、周囲の闇に目を走らせていた。


役割が分かれている。慣れている。

仕事だ。これも。


「溶かす気だ」


レオンが唇を噛む。

門を溶かせば、下水は“上へ”来る。逆さ滝の街で、下から来る水は――死だ。


ノアが腰のロープを握った。

だがレオンが肩を押さえる。


「突っ込むな」


「じゃあどうする」


「門を守るんじゃない。……溶かしてる“場所”を殺す」


レオンは工具箱から薄い金属板と布と樹脂を取り出した。昨日の応急セット。

門そのものは巨きすぎる。だが、薬品の入口だけ塞げればいい。


問題は距離。

近づけば見張りに切られる。


ノアが息を吐いて言った。


「囮、やる」


「無理だ」


「沈殿区の囮は“生き残るため”にやる。死ぬためじゃない」


言いながら、ノアは水門の構造を一瞥した。足元の排水溝、壁の段差、逃げ道の角度。

逃げる線をすでに引いている目だった。


「三十秒。……三十秒だけくれ」


レオンが言うと、ノアは頷いた。


次の瞬間、ノアが石を蹴った。


――カン!


音が坑道に跳ね、男たちが一斉に振り返る。


「誰だ!」


見張りが短剣を構え、偽印の男が光を強める。青白い明滅が壁を舐め、影が暴かれる。


ノアは影から影へ走り、わざと足音を立てた。雑に見せる。怒って見せる。沈殿区の走り方だ。

見張りが食いつく。


「鼠だ!」


見張りが追う。ノアはわざと足を滑らせ、転んで、立つ。距離を伸ばす。追わせる。


その隙に、レオンは水門へ走った。


酸の匂いが、喉の奥を刺す。目が痛い。

塗布役の男が気づき、こちらへ向いた。


「おい――!」


遅い。


レオンは布を継ぎ目に叩きつけ、金属板を押し当て、樹脂を流し込んだ。

白い泡が反発し、煙が上がる。熱い。皮膚が薄いところが痛い。

樹脂が泡立ち、白い煙が立った。


塗布役がレオンの肩を掴もうとする。

レオンは工具箱をぶつけて腕を弾き、体重を板にかけた。


「止まれ……!」


樹脂が固まり始める。布が貼りつく。泡の呼吸が鈍る。

――封じた。


だが、その瞬間。


きし。


水門の奥、もっと深い場所で、硬い歯ぎしりが鳴った。

第三話で聞いた音。弁の音。


レオンの背筋が凍る。


偽印の男が、水門に手を押し当てたまま、笑った。


「間に合ったな。……“向こう”が起きる」


向こう。

ノアが使った言葉。沈殿区の老人が祈る言葉。タイトルの言葉。


レオンは男の手元を見る。光は粗い。だが水門の溝に沿って、蛇口の形の筋が薄く浮かび上がっていた。


「おまえら、何を――」


答えは来ない。


見張りが戻ってきた。ノアの髪を掴み、引きずっている。ノアの唇の端が切れ、血が光る。

それでも目は死んでいない。怒りが、まだ燃えている。


「レオン!」


ノアが叫ぶ。


「下がれ! 今――」


見張りがノアの腹を蹴った。声が潰れる。

偽印の男が笑い、塗布役が新しい薬品を取り出す。次の継ぎ目へ移る気だ。


レオンの中で、何かが切れた。


直せ。

直して、生かせ。


それだけが武器だったはずなのに。


レオンは弁印を掲げた。銀が闇で冷たく光る。


「水道局の臨時印だ。ここから先は――」


偽印の男が肩を揺らして笑う。


「臨時? 紙切れで止まると思うな」


男は指で蛇口の筋をなぞった。筋が、脈打つように見える。

そして――


水門の隙間から、黒い水が滲んだ。


匂いが、来る。

下水の匂い。沈殿区の死の匂い。


「……逆流だ!」


レオンが叫ぶ。

黒い水は、落ちない。這い上がってくる。逆さ滝の街の最悪の挙動。


ノアが血の混じった息で笑った。


「言ったろ……沈殿区の時間は短い……」


レオンは工具箱を開けた。もう一枚の板、布、樹脂。

間に合うか。間に合わせる。間に合わせなければ、沈殿区はゼロになる。


――そのとき。


頭上で、別の靴音がした。


急がない足音。整った靴音。沈殿区の闇に場違いな、冷たい音。


レオンが顔を上げた瞬間、濃紺の外套が視界に落ちる。


ミレイユだ。


彼女は暗闇の中で迷いなく水門を見た。黒い水、偽印の光、蛇口の筋、ノアの血。

全部を一度に理解した顔をする。


そして、淡々と言った。


「――報告は受け取ったわ」


その声が、沈殿区の闇を一瞬だけ整えた。


ミレイユの手に銀がある。臨時ではない。もっと重い印。

整った光が、静かに点る。


きし。


弁が、もう一度鳴った。


黒い水が、勢いを増す。

偽印の男の笑いが、闇に溶ける。


ミレイユはレオンを見ずに言った。


「下がって。……いまからは局の仕事」


その言葉が命令なのか、救いなのか。

判断する前に、印が光り、蛇口の筋が水門の上で淡く浮かび上がった。


そして沈殿区の誰もが信じている言葉が、祈りではなく合図として喉の奥で鳴る。


蛇口の向こうが、いま開きかけていた。

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