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第三話 巡回

今夜まで。


ミレイユが置いていった言葉が、レオンの頭の奥で硬い音を立てていた。

弁印は掌の中で冷たい。銀の小片。弁の意匠。これがある間だけ、彼が触れる水は“許可された水”になる。切れた瞬間、同じ手は“犯罪の手”に戻る。


沈殿区の広場は、静かだった。

騒がしくなる前の静けさ。器を抱えた人々が列を作り、蛇口の落ちる音だけが遠くまで届く。水があるのに、誰も笑わない。笑った瞬間、失う気がするから。


レオンは噴水台の石に膝を当て、紙切れを広げた。裏が白い荷札、切れた帳面の端。沈殿区では紙は高い。捨てられた紙はもっと高い。


炭の欠片で、丸を打つ。

水場。蛇口。路地。

矢印――この街では“下”が“上”へ流れる。


「おじちゃん、絵?」


昨日の子どもが覗き込んだ。指が黒くなるのも気にしない目だ。


「絵じゃない。……道だ。水の道」


子どもは丸をなぞって、うっかり線を伸ばした。

レオンは怒らなかった。怒る余裕がない。


「ここから先の路地、ぬるいって言ってたな」


「うん。冬でも。だから“女神の息”って――」


「案内できるか」


子どもが頷きかけた、その瞬間。


「やめとけ」


低い声が割り込んだ。


広場の縁、影の濃い路地口に、ひとりの女が立っていた。煤けた外套。腰に細いロープ。短く切った髪。目だけが不思議に澄んでいる。


女は子どもに顎で合図した。


「帰れ。水があるうちに母ちゃんと並べ。――ここから先は、子どもが落ちる」


落ちる、という言葉が沈殿区の空気を冷やした。

子どもは頬を膨らませたが、列へ戻っていった。


女はレオンを見る。工具箱、紙切れ、弁印――その順に見て、口元だけで笑った。


「現場の人間が紙を持ってる。上が焦ってるの、久しぶりに見た」


「誰だ」


「ノア」


女は肩をすくめる。


「沈殿区の道を知ってる。それだけで食ってる」


「案内役か」


「鼠でもガイドでも好きに呼べ。……巡回だろ? ひとりで回ったら、迷って時間を溶かす」


レオンは迷った。

ひとりでもできる。だが今は“今夜まで”だ。昨日の弁板の欠け方が頭をよぎる。地図どおりにいかない街の裏側が、確かにある。


「報酬は」


ノアは鼻で笑った。


「金はない。……水を止めないこと。それでいい」


素っ気ない。なのに目だけは真面目だった。

この街で「水を止めない」は、祈りより重い。


「行くぞ」


「遅れたら置いてく」


ノアは路地口へ滑り込み、振り返らずに言った。


「沈殿区の時間は短いからな」


“女神の息”の路地は、噴水台から三つ目の角を曲がった先にあった。


壁が湿っている。石の継ぎ目から水がじわりと滲み、触れると温かい。指先が濡れて、すぐ乾く。

温度があるのに、命の匂いがしない。


「昔からこうだ」


ノアが言う。


「だからみんな、ありがたがる。……ぬるい水は優しいってな」


レオンは壁際の石を外し、配管の腹を覗いた。

白い筋。水垢じゃない。薬品が乾いたような、尖った結晶。

継ぎ目の金属が、妙に滑らかだった。


鼻を刺す。薄い酸の匂い。


「……ここも、やられてる」


レオンが呟くと、ノアは短く舌打ちした。


「事故じゃないって顔だな」


「事故なら、こうは残らない」


レオンは炭で×を付け、線を引く。

漏れ。温度。匂い。

ミレイユに渡すためではなく、“街の裏側”を自分の頭に刻むために。


「近道がある」


ノアが壁の低い位置にある鉄の扉を指で叩いた。錆びた鍵穴。

彼女は針金を取り出し、鍵穴に滑り込ませる。手元が見えないほど速い。


数秒で、扉が小さく鳴って開いた。


「入れない扉は、沈殿区にはない」


「胸張る話じゃない」


「胸張れる話なんて、ここには少ない」


ノアは先に暗闇へ入った。

レオンは油灯を掲げ、後を追う。


メンテ坑道は、街の裏側だった。


石壁に管が何本も走っている。太いもの、細いもの。新しいもの、古いもの。

水が通るはずの管は低い海鳴りの声を出している――はずなのに、ここは音が途切れ途切れだった。


ぽた、ぽた。

落ちるはずの水滴が、壁を伝って“上へ”這い上がっていく。


逆さ滝の街だ。

異常に慣れるのが、この街の生存術になる。


ノアが急に立ち止まり、壁の石を指で叩いた。


「……鳴ってる」


「何が」


「石。水が来てないのに」


レオンも耳を寄せる。

硬い振動。金属が擦れるような、乾いた歯ぎしり。


「……弁だ」


小さな弁が、どこかで開閉している。

手動域のはずの沈殿区で。


ノアが目を細める。


「上の連中、ここまで触るのか」


「触るなら、印が要る」


レオンが弁印を握ると、銀が掌の熱を奪った。


匂いが濃くなった。

酸。昨日より新しい。喉の奥がきしむ。


曲がり角の先で、それは“形”になっていた。


管の一本が、腹を裂かれている。

裂け目は滑らかで、刃で切ったみたいに整っている。縁が白く泡立ち、薬品がまだ生きている。


「……やられた」


レオンが近づこうとすると、ノアが腕を掴んだ。


「触るな。まだ噛む」


言葉どおりだった。近づくだけで目が痛い。

甘酸っぱい匂いが、皮膚の薄いところを刺す。


そのとき――奥で、靴音。


沈殿区の靴音じゃない。乾いた革の音。

衣擦れ。硬い布。


レオンは油灯を壁の陰へ寄せ、息を止めた。


暗闇の向こうに、人影がひとつ。

胸元に、銀が――光った気がした。徽章か、反射か、ただの幻か。


次の瞬間、影は踵を返して消えた。


「待て!」


ノアが一歩踏み出す。


「追うな!」


レオンが声を張った。自分でも驚くほど、切羽詰まった声だった。


ノアが振り返る。怒りが目に宿る。沈殿区の怒りだ。すぐ刃になる怒り。


「今追わなきゃ――!」


「今止めなきゃ!」


レオンは裂けた管を指差した。


「ここから逆流したら、沈殿区は昨日より早く死ぬ!」


ノアは歯を噛み、舌打ちした。


「……クソ」


それでも彼女は走らなかった。

代わりにロープを解き、裂け目の上下を一瞬で見て、最も効く角度で巻きつけた。


「どっちから来る」


「いまは……こっち」


レオンが指で示す。

ノアが引く。管がきしみ、裂け目の滲みが一瞬だけ止まる。


「いま!」


レオンは布を当て、薄い板を押し付け、樹脂を流し込む。

熱。匂い。目の奥が焼ける。

油灯を寄せると、樹脂が泡立ち、白い煙が立った。


「熱い!」


ノアが呻く。手袋越しでも焼ける。

レオンは歯を食いしばった。


「一分でいい!」


一分。沈殿区の一分は命の単位だ。

樹脂が固まり、布が張りつき、板が噛む。ノアのロープが、最後まで締め続ける。


――持て。


持ってくれ。


レオンは裂け目の縁を指先でなぞった。

白い泡の下に、規則的な短い傷がある。下書きみたいな整い方。


ノアが低い声で言った。


「……見えるか」


「何が」


ノアは裂け目の奥を指した。油灯の光が管の内側を舐める。


そこに――


蛇口の形の筋が、確かに刻まれていた。


昨日、熱の揺らぎの中で見えたもの。幻だと言い聞かせたもの。

ここには“最初から”ある。


レオンの喉が鳴った。


「……誰が、これを」


ノアは笑わなかった。

代わりに、弁印を見て言った。


「それに似た銀、上の連中が持ってる。……沈殿区の人間は持てない」


断定ではない。

でも十分だった。


遠くで、また“きし”と音がした。

さっきと同じ。弁が開閉する、乾いた歯ぎしり。


レオンは弁印を握りしめ、地図を取り出して炭で印を打った。

裂けた管。酸の匂い。蛇口の筋。

そして――弁の音が聞こえた場所。


今夜まで。

今夜までに、これを“上が動く形”にしなければ、沈殿区はまたゼロになる。


ノアが暗闇の奥を見た。

その目が、獣みたいに鋭くなる。


「職人」


「なんだ」


「次は、もっとでかいのが来る。こういうのは――試し撃ちだ」


レオンは返事をしなかった。

言葉で震える暇があるなら、直せ。


直して、生かせ。


油灯の炎が揺れる。逆さ滝の轟きが、遠い壁を叩く。

そしてその轟きが、今夜だけは――誰かの呼吸みたいに聞こえた。


蛇口の向こうに、女神がいる。


沈殿区が信じるその言葉が、

いまは祈りじゃなく、合図に思えてならなかった。

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