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第二話 帳簿

水が戻った沈殿区は、騒がしいはずなのに静かだった。


誰もが声をひそめ、器を抱えて並んでいる。桶、壺、鍋、革袋――命を入れる入れ物が、胸の前で大事そうに抱かれていた。

噴水台の蛇口から落ちる水は細い。なのに音だけは遠くまで届く。乾いた石が一晩で水を吸い、広場の空気はひんやり湿っている。


レオンは噴水台の裏、点検口の前にしゃがみ込んでいた。

昨夜の応急修理は、今のところ持ちこたえている。樹脂の継ぎ目に滲みはない。布の巻きも外れていない。


それでも目を離せなかった。沈殿区では「いま大丈夫」は、次の瞬間に死ぬ。


「おじちゃん」


昨日、油灯を持ってきた子が、そっと近づいてきた。片手に薄いパンの欠片。もう片手に、汲みたての水を少しだけ入れた小さなコップ。


「これ……」


施しのつもりだ。胸が痛むほど真面目な顔をしている。


レオンはパンだけ受け取って、水は押し返した。


「飲まないの?」


「飲む。……あとで、ちゃんと」


水は最後に飲む。現場の人間は、最後に飲む。

そう言いかけて、やめた。子どもに理屈を背負わせたくない。


そのとき、広場の端で空気が変わった。


真新しい靴が、沈殿区の石畳を踏む乾いた音。

制服の男が二人、胸に銀の徽章――弁の意匠を付けて進んでくる。その後ろに、ひとりの女。


濃紺の外套、白い手袋。腰に揺れる革の書類鞄。髪はきっちりまとめられ、歩幅に無駄がない。

彼女だけが、この湿り気に足を取られない。


女は蛇口の前で立ち止まり、流れる水を一瞥しただけで噴水台の裏を見た。視線が、レオンの手元に刺さる。


「あなたが直したのね」


問いかけの形をした断定だった。


レオンは立ち上がった。工具箱の取っ手を握り直す。制服の男たちが左右に立ち、沈殿区の空気が硬くなる。


「そうだ」


「氏名と所属」


「レオン。所属は――今はない」


女の眉が、ほんの少しだけ動いた。表情は変わらないのに、不満が伝わってくる。


「水道局監査室、監査官ミレイユ。あなたの行為は、本来なら処罰対象です」


列に並ぶ人々が息を呑んだ。

昨日の歓喜が、今日の恐怖へ畳み直される。沈殿区では、その切り替えが早い。早くないと生き残れない。


レオンは言い返しかけて、飲み込んだ。

ここで声を荒げたら、水が止まる未来が見える。


「処罰するなら、してくれ。だが水が止まれば――」


「知っています」


ミレイユの返事は速かった。怒りではない。仕事の速度だ。


「水が止まれば、人が死ぬ。だからこそ、勝手に触らせない」


彼女は噴水台の点検口を覗き、手袋のまま弁の周囲を撫でた。職人の触り方じゃない。痕跡を拾う触り方。

一瞬だけ、鼻先がわずかに動いた。匂いを嗅いだのだと、レオンは気づく。


「応急修理……よく持たせたわね。粗いけど、筋はいい」


褒め言葉の形をしているのに、温度がない。


「でも“粗い”で済むのは、ここがまだ手動域だから。区画弁のラインなら、今ごろ沈殿区は下水の海よ」


制服の男が低く唸った。

レオンの背筋が冷えた。区画弁――上の水路区をいくつも切り分けて制御する弁。触れれば便利で、間違えれば都市が死ぬ。


ミレイユは弁板の破片が入っていた布袋を見つけ、男に顎で示した。


「回収。封入して持ち帰る」


男が布袋を丁寧にしまう。

レオンは反射的に口を開いた。


「何か分かるのか」


ミレイユは答えず、噴水台の表へ回った。

蛇口の前の列――器の数、咳をする回数、子どもの顔色。視線が滑るだけで、それらを数えているのが分かった。彼女は書類鞄から小さな帳面を取り出し、迷いなく記す。


「聞くわ。共同水場は何箇所。蛇口は何本。昨日から今朝まで、流量はどれくらい」


「……測ってない」


「測りなさい」


言い切りは冷たい。けれど、ここで水を止めるための言葉ではない。

水を“続ける”ための言葉だ。


「直すだけじゃ足りない。水は通すだけなら誰でもできる。でも街を動かすのは、流れと量と時間。――帳簿がない水は、暴力になる」


その言葉に、沈殿区の誰かが肩をすくめた。

暴力。ここでは日常だ。だからこそ、否定できない。


レオンは歯を噛んだ。


「いま必要なのは紙じゃない。水だ」


「いま水が出ているのは、紙が後ろで支えているから」


ミレイユは蛇口を見た。流れる水に朝日が差し、銀の筋が走る。その美しさと、彼女の硬さが噛み合わない。


「上層は、数字でしか動かない。沈殿区が何人倒れようと、“被害がどれだけ増えるか”が書類に落ちない限り、弁は開かない。現場のまま、上を動かせる形にして」


彼女の口調は、命令ではなく指示だった。

“できる”前提で話している。だから腹が立つ。だから信用もできる。


ミレイユは手袋を外し、鎖についた小さな金属片を取り出した。弁の意匠が刻まれた、薄い“印”。

その銀は、沈殿区の湿り気の中で異様に冷たく光った。


「臨時の弁印。二十四時間だけ、ここに手を入れることを許可する」


「……許可?」


レオンが問い返すと、ミレイユは頷いた。


「これがある間、あなたが触ったという事実を“上に通せる”。ないまま触れば、あなたは犯罪者で終わる。水も、終わる」


言葉の刃が研がれている。研ぎ澄ましているのは彼女自身だ。


「条件は二つ」


ミレイユは指を二本立てた。


「ひとつ。沈殿区の水場を全部回って、漏れと逆流の危険箇所を目で見て記録して。図でいい。

ふたつ。夕方までに、あなたが“何をしたか”を私に報告する。嘘はいらない。できたことと、できなかったことを、そのまま」


レオンは弁印を受け取らず、ミレイユの目を見返した。


「報告したら、次は?」


ミレイユは一拍置いた。沈殿区のざわめきの中で、その間だけが妙に澄んだ。


「次は、上へ申請する。区画弁の試験運用。……沈殿区だけじゃなく、街全体を守るために」


“試験運用”という言葉が喉に引っかかった。

人の命で試験をする気か――と。だが言えば、そこで話は終わる。終われば、水も終わる。


「……あんた、沈殿区の水なんて興味ないと思ってた」


レオンが言うと、ミレイユはほんの少し首を傾げた。


「興味はあるわ。ここが止まれば、上も止まる」


慈悲じゃない。合理だ。

でも合理は、ときに慈悲より信じられる。


そのとき、子どもがミレイユの前へ出て、コップを差し出した。さっきレオンが断った水だ。


「おねえちゃんも、飲んで」


ミレイユの目が、一瞬だけ揺れた。

笑わない。沈殿区で笑うのは余裕の証だから。余裕は敵意を呼ぶ。


「ありがとう。でも私は……勤務中は飲まないの」


言い訳みたいに聞こえた。子どもが唇を尖らせる。


ミレイユは鞄の中を探り、小さな紙包みを取り出した。甘い匂い。沈殿区には滅多に届かない香り。


「代わりに。喉が渇いたら、舐めなさい」


子どもの目が丸くなる。

ミレイユはその反応を見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。見落とせる程度の、小さな人間味。


レオンはその瞬間を見てしまい、彼女を“ただ冷たい人間”だと決めつけられなくなった。


ミレイユは弁印をレオンの掌に置いた。銀がひやりとする。


「最後に、ひとつだけ」


彼女は噴水台のそばで祈っていた白髪の女に視線を向けた。


「沈殿区は、いつもそう祈るの?」


女は当然のように頷いた。


「昔からさ。水は荒ぶる。鎮めて、通してもらうんだよ」


ミレイユはそれ以上聞かなかった。

聞きたくないのか、知りすぎているのか。


背を向けて歩き出す。制服の男たちが続く。

去り際、ミレイユは振り返らずに、淡々と言った。


「今夜まで。――それまでに“数字”にして」


それは猶予だ。

猶予であり、宣告だ。


レオンは弁印を握りしめ、工具箱を肩にかけ直した。

水場を全部回る。漏れを探す。図を描く。数字にする。上へ通す。


広場の端で、蛇口の水がふっと細くなった。

列がざわめく。誰かが祈り始める。


レオンは噴水台の裏へ駆け、点検口に手をかけた。

暗い管の奥へ油灯の光を滑り込ませる。


そこで、昨日と同じ場所――弁座の内側に、ほんの一瞬だけ“蛇口の形の筋”が浮かんだ気がした。


(……見間違いじゃない)


次の瞬間、筋は水垢に溶けて消えた。

まるで、見られていた痕跡だけを残して。


レオンは舌打ちし、レンチを握り直す。


見る暇があるなら、直せ。

直して、生かせ。


今夜までに。

この街の水を、“続ける形”に変えるために。

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