第一話 蛇口
この街では、滝が上へ落ちる。
そして――水が止まると、人が死ぬ。
谷の底から天へ向けて、白い水が逆流していく。岩肌を噛み砕く轟きは、上から降るのではない。胸の内側を下から叩き上げるみたいに響き、息の芯を震わせる。
人々はそれを、ただ「逆さ滝」と呼ぶ。
谷は三層に切り分けられている。
天盤区――光と権威。弁塔がそびえ、許可と印が飛び交う。
水路区――運河と工房、市場。水が仕事を生む場所。
沈殿区――湿り気と錆、そして病が沈む場所。
沈殿区には、今、水がない。
レオンは峡谷の壁面にへばりつくように続く螺旋階段を下った。肩にかけた工具箱が骨に食い込み、息が石に擦れる。手すりは冷たい。鉄が汗をかいている。
階段の途中、岩に埋め込まれた古い管が、ところどころ剥き出しになって脈打っている――はずだった。今日に限って、その脈が弱い。心音が掠れたみたいに。
沈殿区の小広場には、人だかりができていた。
石造りの噴水台の中央で、蛇口が乾いた口を開けている。口の縁に白い水垢が粉になって貼りつき、光を吸っていた。
怒鳴る声、咳、赤ん坊の泣き声。
それらが絡み合って、ひとつの焦りになっている。
「水道局の人間か!」
先に飛び出してきた男は、頬に煤の筋を引いていた。怒りが先に走り、言葉が追いついていない。
レオンは工具箱を下ろし、手のひらを見せた。腰を低くして媚びない。代わりに、声だけを落ち着かせる。
「局じゃない。……今は現場の人間だ。レオン。水が細りはじめたのは、いつ?」
「昨日の夜だ! 最初は糸みたいに細くなって、今朝――ゼロだ!」
ゼロ。
この街で、その一語は剣より重い。
レオンは蛇口の口を覗き込んだ。乾いた水垢が、指先にぱらりと落ちる。匂いは悪くない。むしろ、匂いがしない。それが怖い。
「詰まりじゃないな……」
「じゃあ何だよ!」
男が詰め寄る。背後の群衆の視線が、一斉にレオンの手に集まる。
レオンは噴水台の裏へ回り、石の腹にある点検口を探した。蓋のボルトは錆びているが、完全に固着していない。レンチを噛ませ、じり、と回す。
途中で嫌な手応えが来た。
「……灯りを」
すぐに子どもが駆けていき、油灯を抱えて戻ってきた。小さな腕が震えているのに、目だけは真っ直ぐだ。
「おじちゃん、なおせる?」
その問いは、沈殿区の全員が心の中でしている問いだった。
レオンは笑わなかった。笑えば安心させられる。けれど嘘になる。
「なおす。出す」
子どもがほっと息を吐く。その小さな音すら、今は命の音に聞こえた。
レオンは蓋を外し、暗い内部を油灯で照らす。
石の匂いと金属の匂い。水の匂いがない。乾いた配管は、喉の奥を見せられているみたいに生々しい。
管はここで二股に分かれている。片方は共同水場、もう片方は下水へ向かう排水ライン。
本来なら、逆流防止弁が沈殿区を守る場所だ。
レオンは耳を寄せた。
――しん。
水があるとき、管は必ず音を立てる。遠い海鳴りみたいな、低く柔らかな圧の声。
それがない。代わりに、かすかな金属の擦れがする。乾いた歯ぎしりみたいな音。
「……弁座が削れてる」
口に出すと、言葉が現実の重さを持つ。
レオンは弁を分解した。錆びたボルトを回す。指の腹に刺さる錆を無視して、手順だけを追う。
弁板が見えた瞬間、息が止まった。
端が欠けている。
そして欠けた破片が、ちょうど逆流防止の要に引っかかっていた。
つまり――水は上から来ない。下から来た。
沈殿区の下水から。
街の汚れが、飲み水の喉元まで来ていた。
「誰が……」
老朽化にしては、欠け方が妙に綺麗だった。摩耗の丸さがない。刃物で割ったような、乾いた断面。
さらに、鼻を刺す。油ではない。酸っぱい、金属を溶かす匂いが、ごく薄く残っている。
細工か。
工作か。
今は答えを拾う暇はない。水を出さないと、今日は終わる。
レオンは工具箱を開け、薄い金属板、布、樹脂の小瓶を取り出した。緊急用の補修材。
欠けた部分に“仮の歯”を作る。布で巻き、樹脂を流し込み、固定する。
――待つ時間がない。
レオンは油灯の炎を樹脂に寄せた。泡が立ち、匂いが強まる。硬化が早まる代わりに、強度は落ちる。だが一日もてばいい。一日もてば、次の手が打てる。
そのときだった。
樹脂が熱に反応して薄く光り、弁座の内側に、見覚えのない筋が一瞬だけ浮かび上がった。
円を描く線。そこから伸びる短い突起――まるで、蛇口の形。
(……最初から?)
熱の揺らぎが見せた幻かもしれない。だが、確かに“印”はあった。
レオンが指で触れた瞬間、印は消えた。水垢の粉だけが、指紋にまとわりつく。
気のせいだ。今はそう言い聞かせるしかない。
固定。締結。気密確認。
最後に、弁の開閉を手で試す。
――動く。
レオンは点検口を閉じ、蛇口の前へ戻った。
「離れて」
短い命令に、人々が半歩下がった。
子どもだけが蛇口のそばで油灯を抱え、炎を揺らしている。光が蛇口の口を舐めるたび、乾いた金属が少しだけ濡れて見えた。
レオンは蛇口の根元にある小さな手動弁を握った。ここはまだ、沈殿区が自分で触れられる範囲だ。
上層の弁塔みたいに、許可も印も要らない。
ただし――開けるとき、街の息が変わる。
レオンは回した。
最初は重い。次に、急に軽くなる。
空気が通る。
そして――
ぽ、と。
透明な粒が落ちた。石に当たって弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
もう一度。
ぽ、ぽ。
やがて細い線になり、糸になり、流れになる。
水が、出た。
沈殿区の広場に、息を呑む音が広がった。誰もが喉を鳴らし、誰もが一歩を踏み出しかけて、止まる。
水は命だ。だからこそ、最初の一口は祈りと同じ慎重さになる。
先に手を伸ばしたのは、怒鳴っていた男ではない。
白髪の女だった。皺の深い手。働き者の指先。女は蛇口に掌を当て、額を軽く寄せる。
祈りの言葉が、唇からこぼれた。
「……鎮まりたまえ」
感謝じゃない。歓喜でもない。
何かを静かに封じるような、鎮魂の響きだった。
レオンがその違和感を言葉にする前に、女は顔を上げ、子どもの頭を撫でた。
そして蛇口から落ちる水滴を見つめながら、昔話を語るように言う。
「蛇口の向こうに、女神がいるんだよ」
人々がうなずく。
その言葉が沈殿区の空気を整える。怒りが祈りの形に畳まれていく。
レオンは蛇口を見た。
水は澄んでいる。匂いも悪くない。
――なのに。
水音が、ほんの一拍だけ“合わない”気がした。
耳の問題じゃない。街の呼吸と、水の呼吸が、どこかで噛み合っていない。
気のせいだ、とレオンは自分に言い聞かせた。
今は沈殿区に水が戻った。それだけで十分だ。
だが彼は知らない。
さっき弁座に浮かんだ蛇口の印が、ただの幻ではなかったことを。
そして、「蛇口の向こう」という言葉が――
救いの比喩ではなく、別の何かの“入口”だったことを。
逆さ滝の女神は、蛇口の向こう。




