第3-13 能天気な令嬢
「こういうところに来るの、初めて!」
ドルシーは嫌な気分を振り払うように、弾む足取りで酒場の扉を押し開けた。
ガヤガヤと喧しい酒場の中。
入った途端、鼻を突くタバコと酒、それに男たちの汗の匂いが混ざり合った空気に、ドルシーは一瞬だけ顔をしかめた。
揺れるランプの煤で黒ずんだ木壁、足元にはこぼれたエールの染みが乾ききらずに残っている。
ぐらつく木製テーブルの一つには、なぜかナイフの先端が突き刺さっていた。
その周囲では、骨付き肉を素手でかじりながらカードを配る男たちが賭け事に興じている。カードが肉の脂でべとべとになるのもお構いなしのようだ。
男ばかりの店内には、女の姿もある。
だが彼女たちは肌をあらわにし、濃い化粧に艶やかな笑みを浮かべ、夜の商売の交渉中であることが一目でわかる。
客の大半は平民。ドルシーが普段出入りする上流階級の社交場とは、雰囲気もにおいもすべてが違っていた。
ここには冒険者――時にならず者ともなる者たち――が集まり、店全体に荒くれた空気が満ちている。
普段は酒など飲まないし、こうした場所に足を踏み入れることもない。
だが今日は違った。うるさい家族に反発する気持ちと、自由の空気に浮かされ、あえて「近づくな」と言われていた場所へと足を運んだのだ。
ドルシーは生粋の令嬢だ。
だから知らなかった。いつも自分ひとりで出歩いていると思っていたが、実は常に護衛が背後から見守っていたことを。
けれど今夜は違う。トリーシャたちの家から抜け出したために、ついてきたのは、彼女が気づいていない気の利く猫一匹だけだった。
普段ならば馬車を降りる先も上品な場所ばかり選んでいた。
だが今回は、身を隠すために途中で馬車を乗り換え、わざわざ平民の多くいる区域までやって来たのだ。
「ふーん……子どもみたいなのもいるじゃない」
ふと視線を向けると、年下に見える少年が店の隅で一人、黙々と杯を傾けていた。
冒険者風の装いだが、暗がりでもわかる上質な生地が目を引く。銀髪も珍しいが、帝国の血を引く者には稀にいる。
――もしかして、自分と同じような家出中の貴族なのかもしれない。
そう思うと、ドルシーの口元にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
空いた席に軽やかに腰を下ろし、片手を上げて店員を呼ぶ。
「んー……何を頼めばいいのかしら。隣の席の人と同じのでいいわ」
「はいよ」
無愛想な店員が、ほどなくして大きな木のジョッキを運んできた。
その無骨な器に、ドルシーはにやりと唇をつり上げる。
「ふふ……こんなの、家じゃまずお目にかかれないわ。いいじゃない」
小さな両手でジョッキを持ち、喉を鳴らしてごくごくと飲み干す。
アルコールがまわる前に、彼女の心はすでに解放感でふわふわと浮かんでいた。
そんな無防備な世間知らずの令嬢に、ゆっくりと影が忍び寄る。
「お嬢ちゃん、いい飲みっぷりだね」
若く、しかも美しい少女が、たった一人で陽気に果実酒をあおっている。
目立たないはずがなかった。男たちは、誰が先に声をかけるか、視線で牽制し合っていた。
だがドルシーは、そうした視線に気づくような人生を歩んでこなかった。
「ん? そうかしら?」
素直な性格の彼女は、褒め言葉をそのまま受け取り、花のように笑った。
その場違いな純真さに、男は一瞬たじろぐが、すぐに下卑た笑みで応じる。
許可も取らず、男は向かいの席にドカリと腰を下ろした。
しかし、酒が回りはじめていたドルシーは、それを咎める気も起きなかった。
普段なら「はしたない」と小言を言われ、甘めの酒しか飲ませてもらえなかった。
だが今日は違う。酒場の男たちのようにジョッキを傾けてみたら、褒められた。それだけで、嬉しくなってしまった。
「いいね。奢ってやるよ」
「ほんと? ありがとう!」
男の笑みの裏にある意図に気づかないまま、ドルシーは次々とジョッキを空けていく。
そして、その様子を別のテーブルから静かに見つめる視線があった。
クロが誰にも気づかれぬよう、店の隅でじっと様子をうかがっていた。
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