闇路~序~
序
薄暗い――。
空には月もかかり、店先にも赤い提灯が揺れているというのに。
それなのに、薄暗い――。
そう思うのは、この場に漂う淀んだ空気のせいだろうか。この辺り一帯は、まるでこの都中の淀みや薄汚さをかき集めて形作ったかのようだ。表通りの安っぽく下品な喧騒も、路地裏に蹲る貧しさと飢えも、どちらも等しく薄汚れて、絞り粕のように放置されている。酒場の灯りが明るければ明るいほど空々しく、やはりこの街には薄暗い汚れた闇が似合うのだと思い知らされる。
真の闇とは、実は艶やかで美しいものなのだ。それを知るだけに、ここにあるのは光とも闇ともつかぬ灰色のすすぼけた薄暗さだけなのだと、彼は自分の内側まで侵食しそうなその気配に大きく息を吐いた。
昔はこの薄闇に骨の髄まで浸かっていたのだ。あの頃の感覚が手足の先に戻ってくるような気がする。吐き気がする程気持ちが悪い。
それを押し殺しながら、彼は黙々と歩いた。
時折、提灯の灯りに照らし出される顔は、常の彼を知る者であれば、別人だとしか思えなかっただろう。そんな、心の芯から冷え固まりそうな顔つきをしていた。伸び放題になっている黒茶の髪を綾紐でくくり、着崩された着物の上から濃い灰色の羽織。それだけはいつもと変わらないが、のほほんと惚けた色を浮かべている筈の目は、まるで奈落の底のように暗く、鋭い。
だが、かつての彼を知る者、そして今も裏の顔を知る者であれば、言うことだろう。これが、本来のヤツだと。
―――猫目の柳。
猫の皮を被った、危険な獣。闇の中で輝くその目から、逃れる者はいないとまで謳われた情報屋でるある。
〈雅堂〉店主という表の顔をかなぐり捨てて、彼は今、二度とは戻らないと誓ったかつての古巣に戻ってきていた。
葦河原と呼ばれる、都の中でももっとも貧しく汚い街―――吹き溜まりである。都のきらびやかな喧騒から、川一本隔てた湿地に蹲るように存在する街。表の秩序はもちろんのこと、裏の世界の秩序すら、ここにはない。裏を取り仕切る大物たちはもっと街中に住んでいる。ここは、裏からも見捨てられたごみ捨て場なのである。男たちは堂々と強請りたかり盗みを生業とし、女は昼夜を問わず路傍で客をとる。腹をすかせて泣く子供は容赦なく殴り飛ばされ、弱いものから順に死んでいく。誰もが地人に無関心で、貧しく、荒んでいる。ここはそんな街だ。
(こんな所に、あの名高い〈桂木の呉丈〉が住んでいたとは、誰も思わないだろうな)
ふとその名を思い出してしまったことを後悔するように、彼は眉を寄せた。
柳にとっては、苦い思い出しか産まない名だ。もっとも、向こうにしてみれば、もっと明確に殺意くらいは抱いているだろうが……。
ここは、都中を網羅している彼の情報網の中で、唯一、目の届かない場所である。いや、目を届かせないのだ、意図的に。
その気になれば、この街ほど柳が情報を入手しやすい場所もないのに。なにせ古巣なのだから。
今までそれをやらなかったのは、単に自分の感情の問題。
ここにはもう戻らない。
この街とは無関係になりたい。
(甘いな、俺も)
柳らしくもない、酷薄な自嘲が口元に浮かんだ。
そんなくだらない感傷を引きずっているから、こんなことになるのだ。最初から、網の目程の穴もなく、都中に糸を張り巡らせていれば、こんな後手にまわるなどという屈辱的な状況に陥らずに済んだというのに。
柳は、通りを外れて、川辺へと足を向けた。街の名の由来となっている大量の葦が、ざわざわと夜風に揺れている。
欲していた情報は、この街に入って、いとも簡単に手に入った。探し人の特徴を告げただけで、大勢の情報屋崩れから垂れ込みがあった。実に十数年ぶり訪れた柳を、誰もが忘れていなかったのだ。
聞いた通りの場所に、微かな灯りが灯っている。土手から垂れ下がる木の枝と葦とに埋もれるようにして、小さな掘っ立て小屋が建っていた。
「見つけた……」
感情の起伏のない声で呟き、柳はその灯りをまっすぐに見つめた。