Epilogue ー終わりと始まりー
“SHOW ME THE WAY" ー宮城県・菅生ー
ボクはちょっとテレ臭かった。自分がこんな所に立っているのが、自分でも信じられなかった。でもその分、かなり良い気分だった事も確かだ。
ボクの事を知っている連中の、あの驚いた顔。
『ザマーミロ』
ボクは思った。中には、ボクの事を良く思っていない人間がいる事はわかっていた。
『ガキのくせに…』
『親のスネかじって…』
まあそんなところだろう。
選手紹介のアナウンスに、控え目に左手を上げたボクは高校三年生。
学校の連中は、教師も同級生も、「レーシング・カート」など、見た事も聞いた事も無い連中ばかり。まあ「日本」の名が冠されない「F―1 グランプリ」が、初めて開催された頃だから仕方ない。
(だいたいボクは、ボクの住む街で二番目に「JAFカート・ライセンス」を手にした人間なのだ)。
そういった連中は完璧に無視。ボクは学校での部活など、初めから眼中に無かった。だいたいボクに言わせれば、「甲子園だ」「国体だ」と言っても、しょせん「子供の運動会」。
「ボクは中学の時から、大人に混じって戦ってきた」
そういう自負があった。
合図がかかり、「押し掛け」の態勢に入る。いよいよだ。
『JAF全日本レーシング・カート選手権 第2戦・菅生大会』 「全日本Sクラス」決勝。
ボクのスターティング・グリッドは、前から3列目のイン側。5番グリッド。決勝進出は30台だから、ボクの後方には25台のマシンが控えている事になる。
メカニック役の父親と共に、力強くマシンを押し出し、勢いがついたところで素早くカートに飛び乗る。
(カートのスタートは「ローリング・スタート」方式だ。クラッチ無しのカートは、押し掛けから隊列を組んで走り出し、スタート・ラインを横切ったところでスタートとなる)。
エンジンはうまく始動した。タイヤを温めるため、軽くカートを左右に振りながら、隊列を組む。
ボクの緊張感はいつでも、ローリングが続いている間中、最高潮に達している。あの頃は、今ほど点火系やキャブが良くなかったし、高度にチューニングされたエンジンや、レース用コールド・タイプの点火プラグは居神経質で、すぐにカブッてしまうのだ。ローリング中にプラグをカブらせてストップでもしようものなら、スタートもできずに、そのレースを終える事になる。
実際、それまでエンジン付きの乗り物と言えば、遊園地のゴーカートくらいにしか乗った事のなかったボクは、中学一年でカートに乗り始めた頃、エンジンが掛けられなくて四苦八苦。父と二人、夕暮れ近くなるまでコースを押して回り、「エンジンが掛かって走れれば満足」程度だった。そういった意識が残っていたから、人一倍「ローリング」にプレッシャーを感じていたのだろう。
そんなボクだったが、今年から「全日本Sクラス」に出場するようになって二戦目。静岡の「清水サーキット」で開催された開幕戦は、予選ヒートだけで敗退。そして迎えたこのレースだった。
でもはっきり言ってボクには、大した「実績」は無かった。あの頃は、「公認レース」等に規定数以上「参加」しただけで、上級のライセンスを発行してもらえた時代だ。
(これは四輪のレースでも似たようなものだ)。
前年、数戦出場した全日本併催の「ナショナル・カップ」でも、結果を残せていない。でも、マシン・トラブルでリタイアするまで上位を走れた事もあり、それなりの感触はつかんでいた。
(だいたいボクもオヤジも、メカの事はサッパリだった。すぐ近くに教えてもらえるような人もいなかった。だからボクは、本を読んだり、雑誌から情報を得たり…これとて、今とはくらべ物にならないくらい貧弱なものだったけど…何かの機会があれば「見よう見マネ」で、自分で覚えていくしかなかった。今にして思えば、笑ってしまうような失敗も沢山ある。だいたいこの時ですら、「全日本に出場する」というのに、新品タイヤも持っていなかった。決勝当日の朝。父がフンパツして、フロント・タイヤだけ1セット、買ってくれたのだ…両の手に一本ずつ、ビニール・カバーのかかった新品タイヤを持ってやって来るオヤジの姿…ナゼだかその光景は、今でも憶えてる)。
でも「若さ」の特権か、あの頃は、その中に入ってもまれているうちに、自然と「それなり」になってしまえたものだ。それで「全日本クラス」参戦を決意したのだ。
数周のローリングの後、日章旗が振り下ろされる。1台に先行されてしまったが、ボクは6位をキープ。
ここのコースはタイトなコーナーが少ないから、身体の大きなボクでもハンディは少ない。
(ここ「菅生」は数年前にオープンしたばかり。オートバイ・メーカーの「ヤマハ発動機」が造ったサーキットだ。その中にあるカート専用コース。従来の狭苦しいコースと違い、各種設備の整った、国内初の本格的カート・コース)。
この頃の最低重量は、ドライバーとカートを合わせて120キロだった。でもボクは、その規定を10キロ以上オーバーしていた。しかし、特別デブというわけでもない成長期のボクに、10キロの減量は無理だった。たった100ccのエンジンに120キロの重量。その中で、10数キロの重量オーバーでは、ヘアピン・コーナーの立ち上がりなどでかなり不利となる。
ここにもヘアピンはあったが、コース幅が広いので、それほどタイトではないし、全体的には中・高速コース。
(平均速度で約80km/h。鋼管だけの剥き出しの車体の上に乗り、ストレートでは100キロ超のスピードで走り回る事になる)。
それに、ここのコースには、ボクの得意中の得意とするコーナーがあった。
「菅生の第3コーナー」
四輪ドリフトを決めれば、ギリギリ全開キープのまま抜けられるコーナーだ。
『ここだけは誰にも負けない!』
ボクはそのコーナーだけは、『神様の次に速く走れる』くらいに思っていた。
「菅生の第3コーナー」
そこは、左回りに、直角以上の角度で折れ曲がっている。長いストレートから続く1・2コーナーは、コース幅も広いし、コーナー半径も大きいので、問題無く全開のまま駆け抜けられる。でもここは…。
それまでボクは、「アクセル チョイ戻し」で、そのコーナーを回っていた。
まだできたてのコース。誰もが、ライン取りやセッティングなど、煮詰まっていなかった頃。でもある瞬間、フトひらめいた。
『もしかしたら、全開のまま行けるんじゃないか?』
何周も何周も、走り込んだ後だった。
『「アクセル チョイ戻し」をガマンすればいいだけだ』
確信があった訳じゃない。そう思った次の周。ボクはそれが可能かどうかを見極めるため、そういった観点から3コーナーを眺めてみた。次の周は、全開で回った時の事をイメージしながら…。
『行けそうだ』
そう判断した。そして…
『次はイク』
そう決断を下した。
翌周、ボクは3コーナーに全神経を集中して、自分の感性を実証するため、「フル・スロットル」を実行に移した。いつもなら「アクセル チョイ戻し」のポイントをガマンし、アウト側いっぱいからイン目掛けて、ステアリングを切り込んで行く。速度はとっくに「フル・スピード」。
「…!」
コーナーの頂点が迫って来る。
ボクの乗ったカートは、四つのタイヤが勢いよく滑り出し、一気に横を向く。リアのほうが大きく振れる。思わずカウンター・ステア…逆ハンを当てる。
「…?」
クリッピング・ポイントは過ぎたが、コーナー立ち上がり。アウト側のグリーンが、みるみる大きくなる。
『ヤバイ!』
一瞬チラリと、そちらに目が行ってしまう。と、次の瞬間…
「ガツン! ガタガタガタ…」
コース・アウトだ。
『しまった!』
ボクはわずかだが、ビビッて一瞬アクセルを緩めてしまったのだ。
「チックショ~」
ボクは「遠心力」との戦いに敗れたのだ。敗因は、おそらく「恐怖心」。
レースをやっていれば、誰もが一度はブチ当たる。「恐怖心の克服」という問題に…。たとえば、こういう話がある。
「地上でなら、1メーターの距離を飛び越すのは簡単だ。でもそれが、何十メーターの高さでできるか」
つまり「恐怖心の克服」という命題は、多分に精神的・心理的色合いの濃い領域なわけだ。
「極限の状況下では、簡単にできる事もできなくなる」
多くのレーサーたちは、ひとつひとつ体験して、それらを自分自身の中で噛み砕き、ツジツマを合わせているのだ。それも肉体や、時には命を賭けたギリギリのところで…。
「チックショ~」
でも、手応えはあった。失敗した原因もわかっている。もう一度チャレンジだ。最終コーナーを立ち上がり、全開・全開。
「ここだ!」
3コーナー入口で、ボクは自ら積極的に「フェイント・ステア」…一瞬、進行方向とは逆にハンドルを切って、キッカケを作る動作の事だ…を当て、カートをドリフト状態に持って行く。
『…』
あとは、前に進もうとする「推進力」と、外へ押し出そうとする「遠心力」とのバランスだ。
『!』
再び、アウト側のグリーンが大きく迫って来る。そこでボクは、進行方向に視線を移し、「全開」をキープしたままガマンした。身体は力んで硬直していたけど…
『ここでアクセルを戻したら、コース・アウトする』
そう思ってフンバッた。
「…!」
アウト側ギリギリまで、はらんで行った。
『もうダメだ!』
そう思った時だった。
『?』
スウッと力が抜けて行き、コースから外れる事なく、第3コーナーを立ち上がっていた。
『終わった』
ボクは「遠心力」との戦いに、打ち勝ったのだ。「ホッ」とすると同時に、『ヤッタ!』という思いで気分爽快だ。
“Fear will not kill you” ー「恐れ」(だけ)で、死ぬことはないー
「蛮勇」ではなく、理論に裏付けされた「勇気」があれば、モーター・スポーツで命を落とす確率は減るだろう。そして、これなくして「成功」はおぼつかない。
『ヤッター!』
あの日・あの時、ボクは何かをつかんだような気がした。
「開眼」という言葉がある。
あのコーナーがあったから…何かを突き詰めていると、そんな瞬間があるものだ…ボクは「ナショナル・カップ」や「全日本」に出ても、そこそこ遜色無く走れるようになったのだ。
あのコーナーを全開ドリフトで抜けられた瞬間、ボクの走りは、そして気分までもが…変わったのだ。
決勝のレース展開は、ボクの前を走るクルマのペースが上がらず、5位以下が数珠つなぎのダンゴ状態。ボクには多少の余裕があったけど、でも前のクルマを抜ききれない。
(ボクのすぐ前を走るのは、その後「カートの神様」と呼ばれるようになる某選手だ。つい数年前までは、まさに「雲の上の存在」だった)。
そうこうしているうちに、後ろのクルマに差されてしまい、ひとつポジション・ダウン。しかしレース後半になって、業を煮やした前車が強引に仕掛けて、ボクの目の前で2台が絡む。
その間隙をついて、一気に集団から抜け出したボクは、単独5位。後ろはけっこう離れている。
アスファルトの上でのコンマ数秒の差は、間違いなくコンマ数秒の差なのだ。マシン・トラブルでもない限り、縮めるのは難しい。それに、残り周回数も、あとわずかのはずだ。
『?』
ピット前を通過する。ボクのピットは沸き立っていた。
ボクの親父…バイク屋のオジサン…その他、そこに居合わせた数名。
でも「落とし穴」は、意外なところにあった。マシン・トラブルと同じくらい怖いもの…。
奥のスプーン型のコーナーを立ち上がった所だった。
『トップはどこだろ?』
追い上げようというわけではなかった。前のクルマだって、はるか先を行っている。
初めての全日本・決勝。
ずっと続いていた接近戦。
ボクは疲れていた。早く終わってほしかった。
『あと何周だろ?』
ボクは、コントロール・ライン脇に表示されている、残り周回数を見落としていた。
『…』
ボクはほんの一瞬だったが、そこからだと、ちょうど真横に見えるコントロール・タワーの方に視線を移す。
本当に、ほんの一瞬だったのだ。
でも、正面に視線を戻すと、そこにコースの姿は映っていなかった。
『しまった!』
でももう、あとの祭り。そこを立ち上がった所は、完全な直線ではなく、わずかに左にカーブしたストレートだった。
アウト側いっぱいに立ち上がったボクは、コースの湾曲からズレて、まっすぐ進んでいたのだ。
『…!』
『スピン・アウトしなかったのが幸いだ』
ボクはいつも、あの時の記憶を、そこで打ち切る事にしている。
スピンしたり、エンジン停止する事だけは避けられたが、コースに戻り、残り1周半を走り切ってゴールした時には、大きくポジションを落とし11位。総合成績では8位となった。
とにかく、二戦目にして選手権ポイント「3ポイント」を獲得したのだから、それを良しとするかどうか…。
たぶんボクは、すっかり疲れ切っていた。
それまで大切に積み重ね、築き上げてきたものが、一瞬にして消え去る、あの感触。
ある意味ではしぶといが、ある点では潔すぎるボクの性格は、長年、そんな光芒を、自分の身を持って経験してきたからかもしれない。
それからしばらくボクは、ボーッとしたような、ダルイような日々を送っていた。
その年は、もう一戦全日本に出場したが13位でノーポイント。
その後は…とりあえずは受験生だ。
でもボクは、何ら具体的な目標を持っていなかった。だいたい、それ以前に…
『ボクって何者なの?』
高校を出たくらいで、進路を決めろなんて…
『ちょっと待ってくれよ』
ボクは世の中の事なんて、何も知らないんだ。
浪人している間も、ボクは地元にできたカート・コースで、ローカル・レースに参戦した。
あいかわらず「高速コーナー」には自信があったけど、ボロボロのマシンで、ボクはエンジンを壊しまくった。
『エンジンが壊れちゃうんじゃ、仕方ないよ』
ボクはそう思っていた。
『もうこれ以上、速く走れないよ』
そう思い込んでいた。
それに、ボクと同い年の男…後にF―1パイロットまで登りつめた…が、四輪レースにステップ・アップするのを、間近で見ていて気がついた。
『ボクは、お金に縁がないし、それを作る才能もない』
それは、速く走る才能と同じくらい大切な事だった。
モーター・スポーツはお金がかかる。
(カートとは次元が違った。エンジン・タイヤレスの中古のF―3マシンを買うのに、当時の「上級」乗用車一台分の資金が必要だった)。
でもまず、スタート・ラインに並ばなくては、何も始まらないのだ。
(大きなお金が動く四輪レース。海千山千の怪しげな連中も多いが、たとえば、生まれながらに人を魅きつける魅力を持った人がいるように、大きな額のお金を動かせる人間というのもいるものだ)。
それにあの頃はまだ、今みたいに、四輪界とカート界は太いパイプで結ばれていなかった。まったくの別世界だった。
どちらにしろ、ボクにそんな才能…「速く走る才能」すら、あったかどうか…?
『ボクの夢は、たんなる夢にすぎなかったのか?』
「情熱」が足りなかったと言えば、それまでだけど…。
その後、勝手気ままにバイクに乗り出したボクは、22で、ライダーとしてサーキットに戻る決心をするまで、車の免許を持っていなかった。バイクにこだわり続け、むしろかたくなに、車を拒否しているようなところがあった。
『本当に速い奴は、速く走ってもマシンを壊さない』
そう思えるようになったのは、やっと最近になってからだ。
(エンジン・ブローやクラッシュをして、『限界まで攻めた』と満足している奴なんて、いくらでもいる。そういう奴等は、結局「そこまで」なのだ)。
でも、もし…
(スポーツ界で、何度も繰り返される陳腐なセリフ。「この世界に『もし』は無い」と言うけれど…)。
でももし、あのまま続けていたら…もっと違った人生が待っていて、違った自分がいたかもしれない。
“SHOW ME THE WAY”
「教えてくれよ。ボクはどうしたらいい?」
あいかわらずボクは、何かを求めて走り続けている…。
(参考楽曲∶PETER FRAMPTON “SHOW ME THE WAY” )