AT RANDOM
“rice paddy” ー埼玉県・川島町ー
“in the Air”
“circus”
“TEST RIDER”
“Flying W” ーLA County・CA・USAー
“BELL”
“Satisfaction” ―GOLD COAST・QL・AUS―
“SPIRITUAL THING”
“Photograph” ー青森県・恐山ー
“voice” ー鹿児島県・与論島ー
“wired” ー埼玉県・某市ー
“meet again” ―北海道・大沼―
“INN” ー草花荘ー
“manfulness”
“sign board” ー群馬県・片品村ー
“rice paddy” ー埼玉県・川島町ー
「捨てレンズ」の右下に、ほんのわずかの視界が残っていた。
そこから見える、コース右端に張られた黄色いコース・ロープを頼りに、右・第一コーナーへのアプローチに入る。
浮かせていた腰をシートに落とし、体勢が安定したところで、左手で一番上のティアオフを投げ捨てる。
『やった!』
一気に視界の開けたその先には、たった二台のマシンしか映らない。
予選の順位が悪かった事が、逆に功を奏したのだ。
『イケル!』
1コーナーを立ち上がった僕は、心の中でそう叫んで、大きくアクセルを捻る。
頭のてっぺんまでビリビリッと来て、鳥肌が立つほどの武者震いが走る。
あとはひたすらゴールまで、力の限り走り続けるだけだ。
その前日。三月末の、どんよりと曇った寒い日。
「全日本モトクロス選手権 第一戦・関東大会」予選当日。
しかしコースは、昨日降った季節はずれの大雪で、一面、田植えを前にした田んぼのようだった。
僕はその日、先に行われた「ジュニア(現在の国内A級)125cc」で、あえなく予選落ちしていた。
残すは「ジュニア250ccクラス」。僕は予選の最終組。もう後が無い。
モトクロスの予選は、タイム・トライアルではなく、レース形式で行われる。
参加台数により、予選の組数が決まり…1クラス30台前後だ。予選の組数によって、予選通過順位がきまる…決勝に進出できるのは30台弱だ。
この日のレース、予選は4組。予選通過は7位まで。
(当時のジュニア・クラスには、「全日本選手権」のタイトルがかけられていた。その年ジュニアに昇格した僕は、先に2戦行われた「関東選手権」で、予選は通過するものの、2戦続きでノー・ポイントに終わっていた。予選は通過するので、それなりの手応えはあったけど、僕たちは「キッズ・モトクロス」の盛り上がりに飲み込まれている、最初の第一波だった。彼等は16歳になって「ノービス」…現在の「国内B級」…デビューする時点で、遅れてやって来た僕たち以上のレース・キャリアを持っていた。乾いた路面では、まともに渡り合えるような相手ではなかった。ただ彼等の多くは、体格や体力的にはまだまだで…中には抜群のバランス感覚とテクニックで、駆け抜ける奴もいたけど…泥んこのレースでなら、僕たち「大人」にもチャンスが残されていた)。
ゴーグルの内側が、うっすらと曇り出した。僕は右手でアクセルを煽りながら、左手でゴーグルを浮かせて外気を入れる。
悪条件の中、タイム・スケジュールは大幅に遅れ、「ジュニア250ccクラス」予選最終組がスタートを切ったのは、薄暗くなり始めた頃だった。
スタートから第1ターンを回る所までは良かった。3番手くらいにつけていた。
しかし、第1ターンを回ってすぐのテーブルトップ・ジャンプの登り斜面で、前を行くバイクが横滑りを始めたのだ。
ジャンプを登り切った所で、僕は完全に行く手を阻まれていた。止まるしかない。そこに、後ろからやって来た数台のバイクが、覆い被さるように突っ込んで来る。一番下になってしまった僕は、他の全員がそこを立ち去るまで、なす術がなかった。やっとの思いで立ち上がった時、他のライダーは遥か彼方。僕はたったひとり、取り残された形となっていた。
立ち上がった僕は、たまたまそこのコース・サイドにいた友人と目が合う。たいていいつも、僕のレースに付いて来て、サイン・ボードを出したりと、僕を手伝ってくれている奴だ。奴の目には、「絶望」の色が見えた。
『何も言うなよ』
そんな顔をしていた。でも僕は、別段なにも感じていなかった。こうなったからには玉砕だ。
『失う物など何もない』
そんな気分だ。
再スタートを切った僕は、完全にキレていた。そんな事は、めったにあるものではないのだが、完全にキレていた。スロットルを開け続け、次のコーナーに飛び込む。コースには、きれいに一本、ラインができていた。でも、そのラインに乗るには、明らかにオーバーペースだ。僕はそのラインのアウト側に、飛び出してしまう。本来なら、ここで終わりのはずだ。転ぶか、モタついてラインに乗り直すか…。
『!』
でも僕の予想は、まったく正反対の、良い方にハズレた。
タイヤがグッとグリップする。軽く横滑りしながら、何の苦も無く2コーナーを立ち上がる。
『?』
大雪が降ったのは、レースのためにコース整備がなされた後だ。つまり…ドロドロの泥水に隠されて、誰も気づかなかったのだが、その下にはきれいな路面が広がっていたのだ。おまけに、たっぷりと水分を含んだ泥が、適度な抵抗となっている。ツルツルになったラインを走るより、はるかにグリップが良かったのだ。
その事に気づいた僕は、わざとラインをアウト側に外す。そしてたぶん、他の連中とはまったく正反対。泥の抵抗に負けてスピード・ダウンしないよう、早め早めにアクセル・オンだ。
その後、コーナーを二つ・三つやり過ごせば、もうゴール前の直線部分。悪コンディションのため、大幅にコース・カットされていたからだ。
そこには、端から端まで、凹凸の大海原が広がっている。
『どうせ、どこを通っても同じだ!』
僕はその、荒れた大海のようなデコボコの波に、ハンドルにブラ下がるように腰を引き、アクセル・ワイドオープンで突っ込んで行く。
でも、転んだ時に泥が付いた軍手は、ヌルヌルとよく滑る。
(日本のモトクロスの場合、雨の日はほとんど全員が、裏返しにした軍手を使う。皮のグローブは、雨に濡れると滑りやすくなるからだ。軍手という物が存在しない海外のライダーは、たぶん布製のグローブを使うのだと思う)。
『ヤベッ!』
思わず、アクセル側の右手が放れてしまう。
かろうじてシートに座り、アクセルを握り直す。転倒はまぬがれた。でももう、皆が通って轍になったコース左サイドのラインには入れない。
『行っちゃえ!』
僕は構わずまっすぐ進み、他の選手とはまったく正反対、コース右側の、通常ならコース・サイドの堤となっている部分でジャンプ。
『ラッキ~!』
着地後も、きれいにまっ平らな路面が広がっている。ここで一気に3台パスだ。
別に、狙ったラインではなかった。自分の意思とは関係なく、偶然そこに行ってしまっただけだ。たぶん、「運までを味方にする」というのは、こういう事だ。
僕は、ツルツルの一本ラインをビクビク連なっている連中を、あっさりオーバーテイク。まったく違ったラインを走っているのだから、何の苦も無い。
前車の巻き上げる泥をかぶる事も無く、次々と前を行く選手をパスし、4周を走り切ってゴール・イン。
でも、ゴール・ラインを過ぎた所で、僕のマシンは「ブスン!」と音を立てて止まってしまう。電気系統に水が入ったのだ。
『今日のレースは最低だぜ!』
僕は唸る。まだ走り足りない気分だ。頭の中は、完全にトリップ状態。気合いの入ったレースの前後は、はっきり言って、通常の社会生活を営めないような、そんな興奮状態になっている事がある。
そこに、先ほどの友人がやって来る。僕はフッと我に帰る。
とにかく、予選ヒートは終わったのだ。結果は…「?」。でも、気分は最高だ。納得のいく…たぶん生涯最高の…走りができたのだから。
二人でバイクを押して、パドックに戻る。途中、奴はボソッと言う。
「もしかしたら、通ってるかもしれない…」
でも、自信なさそうな表情だ。ゼッケン・プレートも判別できないような、混沌とした泥んこレース。順位を数える方も大変なのだ。
『そんな事、あるわけないよ』
僕は黙ってバイクを押していた。そこここで、泥まみれになったマシンを洗うエンジン・ポンプが唸りを上げている。
「スゲー速かったよ!」
そこにやって来た仲間が言う。僕が出場しているので、わざわざ予選の日にも観戦にやって来ていたのだ。
たしかに僕は、他の連中がモタモタ・ヨタヨタしている中、たったひとり「みずすまし」のように走った自信がある。でも…
『絶対ダメだよ』
そう思っていた。しかし結果は7位。
悪コンディションのため短縮されたコースの、たったの4周で、僕は20台前後のバイクをブチ抜いたのだ。ゴール直後のプラグ・リークをも考えると、まさに「薄氷を踏む」予選通過だ。
だいたい、あんな精神状態で最後まで走り切れた事の方が、不思議なくらいだ。普通なら、もう一発転んで完全自滅。そこでフト我に帰って、残りの距離を消化するだけ…が関の山なのに。
(「怒り」や「気合い」だけで速く走れるほど、モーター・スポーツは単純じゃない。モトクロスの場合、「○十馬力」に「時速○十キロ」くらいだから、死ぬ事はめったにないけど…そんなものに任せて走っていると、いずれ痛い目に遭う事になる)。
でも、「幸運の女神」のウインク一発(?)。とにかく僕は、ぎりぎり最下位で決勝進出だ。
『予選なんて、通ればいい』
いつも僕はそう思っていた。
モトクロスは横一線でスタートする。予選の順位は、スタート・ラインに並ぶ順番が早いか遅いかだけの違いだ。だいたい、予選のスターティング・グリッドはクジ引きなのだ。他のモーター・スポーツのカテゴリーとくらべ、予選の順位はそう大きく影響しない。参加台数が圧倒的に多いので、まず、予選を通過する事が大切なのだ。モトクロスの予選は、「スターティング・グリッドを決めるためのもの」と言うより、「ふるいにかける」意味合いが強い。
それに僕は、どちらかと言えば「スロー・スターター」。一発目は、気合いも集中力も欠けている。125ccの予選で失敗する事が多いのは、そのためだ。僕は一度身体中に血を回し、テンションを上げてやらないとダメなのだ。
その晩は、片道約二時間。いったん自分のアパートに戻り、水が入ってビチャビチャになっていたプラグ・キャップをよく乾かし、熱いフロに入ってからサーキットに戻った。
翌日。決勝当日は、うって変わって快晴。
『予選なんて、通ればいい?』
一番最後にスタート・ラインについた僕は、心の中に広がる絶望的な感情を押し殺し、いたって平静を装っていた。
『なんてこったい!』
本当は、そうグチりたい気分だ。何しろ、僕の目の前には一面、湖のような水溜りが広がっていたのだから…。スターティング・バーが倒れたら、コイツを越えて行かなくてはならないのだから…。
でもその頃の僕は、自分の感情をコントロールする術を多少は身につけていた。それに、ゲートの右端から二番目。
(僕の前にゲート・インしたライダーは、間に挟まれる事を嫌ってか、一番右端のグリッドに着いた)。
左に寄せて行く余裕はない。どちらにしろ、この水溜りを突破するしかなさそうだ。
「スタート30秒前」のボードが掲げられる。
覚悟は決まった。グチグチ作戦を練っていたって仕方ない。勝負には、フンギリをつける瞬間も必要なのだ。
それに今日は、全日本開幕戦・決勝当日。前座の前座とはいえ、こんなに大勢の観衆の前で走れるなんて、悪い気はしない。
「スタート10秒前」
大きく息を吸う。そしてゆっくり息を吐きながら、「10秒前」のボードが倒れたところでギヤを入れる。排気音が高まる。あと10秒以内で、戦いの幕が切って落とされる。
僕はスターティング・バーを睨みつけ、ゆっくりと前傾姿勢を取る。息を止め、バーが倒れるのを待つ。僕は「最初の一歩」と、軟質路面のスタートには自信があった。
「…」
スターティン・バーが、グッと前に傾き始める。倒れ切るのを待つ必要はない。ここで一気に飛び出すんだ。
「!」
バーを越えた僕は、湖の手前で顔を前に傾ける。
モトクロス用ヘルメットの長い「日差し」で、少しでも泥をかぶらないようにするためだ。どちらにしろ目の前の水溜りは、フロント・タイヤを上げ切ったまま通過できるような距離ではない。
「バシャン!」
その水溜りに入った瞬間、自分と周りのバイクが撒き散らす泥水を、四方八方・上下左右から浴びる。
でも、「捨てレンズ」の右下に、ほんのわずかの視界が残っていた。そこから見える、コース右端に張られた黄色いコース・ロープを頼りに、右・第一コーナーへのアプローチに入る。浮かせていた腰をシートに落とし、体勢が安定したところで、左手で一番上のティアオフを投げ捨てる。
『やった!』
一気に視界の開けたその先には、たった二台のマシンしか映らない。
後で聞いた話だが、僕より左側の中央付近で、集団クラッシュがあったそうだ。きっと水溜りを避けようと、コース左側へ選手が殺到した末のクラッシュだろう。予選の順位が悪かった事が、逆に功を奏したのだ。長いことレースをやっていると、そんな時もたまにはあるものだ。
それにだいたい、ここのコースは僕のホーム・グラウンド。はっきり言ってノービスの頃から、『このコースで雨さえ降れば、予選通過はもちろん、ポイント獲得くらい当たり前』と思っていた。
(でも、乾いてカチカチになった時はまったく正反対。予選を通過できれば上出来だった。粘土質の土は、固まるとアスファルト以上に硬くなる。土のくせに、タイヤのブラック・マークが付くほどなのだ)。
『コンチクショ~!』
僕はコースと格闘していた。それは他の選手も同じだろう。
今日は昨日と違い、本来のフル・コース。でも、一面、大きく波打った凹凸と、深くえぐれた轍で覆われている。
それに、河川敷の粘土質の土は、乾き始めると粘り気がでて、とても重くなる。
多少は腕に覚えのあるライダーでも、オフロードの経験が無ければ1周もできないだろう。泥んこのモトクロス・コースは、それほどに過酷な条件となるのだ。
『コンチクショ~!』
心の中で何度もそう叫びながら、半クラッチを使いまくって走り続ける。
最初に前に出られたので有利なレース展開となったが、やがて周回遅れに追い付いてしまう。
「おお~い!」
大声を張り上げて、自分の存在をアピール。
ラインの限られた今日みたいなコンディションでは、こうしてラインを譲ってもらうしかない。
「おい、お~い!」
次々と周遅れに向かい、叫び続ける。ティアオフの切れたゴーグルなんて、とっくの昔に投げ捨てていた。
でも昨日の好調は、今日も続いていた。それにある意味きょうは、「体力勝負」のレースだ。たぶん泥人形のようになっていた僕は、「大魔神」のような形相で走っていたはずだ。
そんな僕に向かい、コースのあちこちで、腕を振り、声をからして叫んでいる連中がいる。全日本・決勝当日という事もあって、昨日より多くのモトクロ仲間が来ていた。
「MFJのレースなんて、絶対無理だよ」
彼等は皆、口を揃えたようにそう言っていたものだ。
「MFJ」とは『日本モーターサイクル連盟』の略。日本の二輪レースを統括するメジャー団体だ。
(ただし、ギャンブルの「オートレース」とは関係無い。プロ・ギャンブルのオートレース選手は、参加する事すら認められていない)。
皆、はなから決めつけたように、こう言っていた。「予選だって通らないよ」と…。
でも僕は、その前年、彼等にしてみれば無謀と思える挑戦をして「ジュニア」に昇格。そして今、『全日本選手権』で上位を走っている。彼等にしてみれば『空前絶後』の「信じられない光景」だったはずだ。
そもそもの始まりは、ちょうど一年前。やはり『全日本』開幕戦の「ノービス・クラス」に選抜された事だ。
「ノービス」のレースは『関東選手権』の一戦で、全日本のタイトルこそかけられていないが、全日本と併催という事で参加者が多い。それで、先に行われる指定された公認レースで、125・250cc各上位六60名ずつが選抜される制度になっている。
僕はその二戦に出場し、二戦目の「125ccB決勝」で5位に入った。
(「A決勝」に残れなかった選手の、おまけのレースだ。でも、その「B決」にも残れなかった人間は、予選だけで帰る事になる)。
入賞者の中には、ダブって入っている者もいる。そのレースの数日後、電話で僕までが選抜された事を知る。
僕はそのレース、ポイントこそ獲れなかったものの決勝に残り、全日本という檜舞台で走れた事に大満足だった。
そして『きっとイケル』と思い、『関東選手権』や公認レースなど、ポイント対象となるレースは、はるばる長野・新潟まで出かけて行き、「ジュニア」昇格を果たした。
(『関東選手権』とは、正確には『関東・甲信越選手権』なのだ)。
僕は一時3位を走っていたが5位まで後退。しかし、そのポジションをキープしたまま「15分+2周」を走り切る。初の『全日本』で入賞だ。
きっとあの日の僕は…自己満足かもしれないが…仲間たちの目には、最高に輝いて見えたはずだ。
僕はその年、全10戦中5戦の『全日本選手権』に出場。
最終戦の「日本グランプリ」にも選抜され、「全日本ジュニア250ccクラス」ランキング22位となった。
“in the Air”
一番奥のコーナーを立ち上がり、両側を雑木林に囲まれた緩いS字を抜けると、一気に視界が開ける。
『!』
もう何回も通っているのに、ここに来ると僕の身体には、いっそうの緊張感が走る。だって目の前には、そそり立つ山…。
コース最後に設けられた、巨大な「台形ジャンプ」だ。
『ここでもう少し加速して…』
ジャンプ台が迫って来る。向こう側なんて、まったく見えない。「成功」するには、「度胸」だけでは不十分。「慣れ」と「カン」が頼りだ。
「あそこの山がさ…」
『やま…?…ああ、あそこのジャンプのことか…』
僕がジャンプと呼ぶ所は、彼にしてみれば「山」。
彼が「ジャンプ」と呼ぶ所は、僕にしてみれば、「ギャップ」とまでは言わないが、せいぜい「コブ」。
モトクロス初心者と話をしていると、そんな事がある。
『ここで一速シフトアップして…』
でも、いま僕が対面しているジャンプは、「山」と呼んでもおかしくない。高さにして、平屋の屋根ほど。長さも十数メーター前後はある。ここを飛び越すとなると…地面からの相対的な位置関係で見ると…そのへんで売っている、二階建て「建て売り住宅」なら、軽く飛び越せるほどの「高さ」と「飛距離」が必要だ。
でも…
放物線を描き、向こう側の斜面に沿うよう、フロントからきれいに着地すれば、ショックはほとんど無い。むしろ下り斜面を利用して、一気に加速がつけられる。
でも…
『失敗したら…』
現実の場面では、そんな考えは頭から追い払わなくてはならない。実際、僕は割りと慎重派だから、失敗ジャンプによるケガは、アゴを数針縫ったことと胸の脱臼、肋骨のヒビと、あとは捻挫に打撲程度だ。
(これだけあれば、十分キケン?)。
「行く」決心をするまでに、何度も繰り返し通過しては、いざ「行く」時の速度感や距離感をつかんでおくのだ。最初から、ただ闇雲に「行く」なんてマネはしない。
『!』
登り斜面に入ると、「カクン」と力の方向が変わる。斜面に押し付けられる力だ。この力を維持しておけば、飛び出す瞬間に、サスペンションの反力を利用できる。
一気に斜面を駆け上がる。ジャンプのヘリで、横一線に区切られた青空。もうすぐ“take off”.
『いったいその時ボクは、どんな行動をとっているのか?』
フトンの中でそんな事を考え始めると、眠れなくなる時がある。
はっきり言って僕は、モトクロスに特別な興味があったわけじゃない。泥んこまみれのモトクロスなんかより、ロードレースの方が、はるかにカッコ良く、華麗に見えた。
ただ、「基本はオフロード」なんて、よく「ものの本」に書いてあったし、ロードレースよりお金がかからないと思ったから、まず手始めに、モトクロスを始めただけだった。
(でも、実は案外、お金がかかる。モトクロスの場合、大半の人が…上のクラスに昇格を狙うなら…125と250ダブルでエントリーする。二台のバイクを揃えれば、もう125のロードレーサー一台分。おまけに全日本に出ようと思えば、本当に北は北海道から、南は九州まで回らなければならない。移動の費用や日数だって、相当なものだ。当時はサーキットの少なかったロードレース。走りたくても予約待ち。全日本と言っても、仙台から鈴鹿まで。「モトクロスはお金がかかり過ぎる」という理由で、主体がロードレースに移った某メーカー系クラブもあったくらいだ)。
だから、『いずれはロードレース』という考えが、初めからあった。
でも…ちょうどその頃、「スーパークロス」が日本初上陸。陽の暮れた満員のスタジアム。まばゆいカクテル・ライトとフラッシュの閃光の中、バイクが次々と飛んで行く。「跳ぶ」なんてものじゃない。本当に「飛ぶ」って感じだ。
「あそこ飛べるかな…?」
いきなり「スーパークロス」の洗礼を受けた僕は、連続ジャンプにウォッシュボード、飛べる所は『飛ぶのが当たり前』と思ってモトクロスの練習を始めたわけだ。
「気持ちイイ〜!」
ロードレースには無い縦の動き。僕はジャンプに「病みつき」だった。『いずれはロードレース』なんて考えは、微塵もなく消し飛んでいた。
それにモトクロスは、まさに「男のスポーツ」。「心」「技」「体」。そして、男性に特有のメカに対する興味や知識が必要だ。
「ゴルフなんて、男のやるもんじゃない」
「水割りなんて、男の飲むもんじゃない」
そう公言してはばからない僕。かと言って、相手を倒すのが目的の「格闘技」みたいに野蛮じゃない。
そんな僕のおすすめは、まさに「モトクロス」。僕に言わせれば「これぞ男のスポーツ」なのだ。
でも結局、「スーパークロス」にはほど遠いレベルにしか達し得なかった僕だけど…
(実際にスーパークロス・コースを走ると、山と谷とカーブの連続で、ジャンプを飛ぶどころの騒ぎではない。短い助走でジャンプを飛び越えられるテクがなくては、そして飛んでいる間に「息つぎ」できるほどジャンプがうまくなくては、本当に息をつく暇も無いのだ)。
「犬の立ちション」程度の“One Foot Off”と、軽くリアをひねるくらいのアクションしかできないけれど…
滞空時間の長いジャンプでなら、多少の「よそ見」をするくらいの余裕はある。そんな時は…
『ザマーミロ! コンチクショ~』
最高の気分だ。僕はジャンプに「病みつき」だった。
『ここでもう少し加速して…』
『ここで一速シフトアップして…』
『でも失敗したら…』
実際、寝汗をかいて、夜中にハッと目が覚める事もある。
『いったいその時ボクは、どんな行動をとっているのか?』
でも…
「もう遅いよ」
夢の中でなら、そこで止める事もできるけど、「行く」決心をして、「飛び切れるスピード」をつけた今となっては手遅れだ。「ビビリ」は禁物。ここまできたら、ゴチャゴチャ考えたって始まらない。
“get them in the Air” ―そんなことは、どうでもいい―
覚悟を決めて、「行く」だけだ。
「ブオン!…」
地面から離れた後輪が、一瞬大きくカラ回り。
「!」
そして今日も、僕は空を飛ぶ。
“circus”
高度にプロフェッショナル化された最近では、まったく使われなくなってしまったけど、「F―1サーカス」とか「グランプリ・サーカス」なんて言葉があった。
『競技用車両』と家財道具を背負って、北へ南へ東へ西へ…みなが同じ目的・同じ目的地を目指して、ドサ回りする。
旅がレースに、レースが旅に…そんな彼等の姿を指して、「サーカス」という言葉が使われていたのだ。
旅とレースが生活の一部になっているような、そんな響きのある言葉。子供の頃から僕は、そんな生活にとっても憧れていたものだ…。
「ゴールデン・ウィーク」や「お盆休み」の時。テレビのニュース番組で流される、混雑したオート・キャンプ場の光景を見ると、『冗談じゃないぜ』と思ってしまう。
今みたいにオート・キャンプが盛んになる前。まだ数少なかった、海水浴場の近くにできたオート・キャンプ場に、わざわざ海水浴も兼ねて出かけて行った事もある。
でも、レースを追いかけてあちこち回っていた頃は、毎回がオート・キャンプだった。
僕はモトクロスをやっており、数年間、「地方選手権」や「全日本選手権」を追いかけ、北海道から九州まで、走り回っていた時期がある。
モトクロスは、時には「全日本選手権」ですら、辺鄙な所が会場になっていたりする。近くに宿なんて無いような所もあったし、どっちにしたって余計な出費を抑えるために、必然的に「トランポ」…正確には「トランスポーター」。つまり、ナンバー無しの競技用バイクを運ぶための車だ…の中で寝泊りする事になる。
たまには宿に泊まった事もあるが、やがて「快適さ」を求めて…でも、なるべくお金をかけないように…トランポは進化していくのだ。
最初は寝袋くらいだったものが、冬などは、家の中でも必要無いくらいの寝具を布団袋に詰め込んで…車は床が吹き抜けているから、底冷えがするのだ…出かけて行くようになった。
安物の小型のラジカセに、もらい物の白黒テレビ。
車内や屋外での作業用蛍光電灯の電源には、古くなって能力は落ちていたが、明りを取るくらいなら十分な機能が残っていた、使い古しのカー・バッテリー。
冬にはでかいストーブを持って行ったし、買い出しやパドックの移動用に、スクーターを載せて行った事もある。
車内の改造…サイドの窓埋めや、備え付けのテーブルや棚、カーテンやオーバーヘッド・コンソールなど…には、もらった物や拾い集めた廃材を使って。
(新しい物を買うとなると、たかだか数百円の金具にも、頭を悩ませたものだ)。
最初はカセット・コンロだったものが、はては小型のプロパンのガス・ボンベに、コンロにもなるガス炊飯器まで。
発電機は持っていなかったけど、雨の日には泥がつきもののモトクロスゆえに、エンジン駆動のポンプを洗車機として持っていた。
運動会などの時に使うテントは持っていなかったけど、ブルー・シート…工事現場などでよく見かける、別名「ドカタ・シート」。略して「ドカシー」…を、トランポの屋根から回してポールで立てて、タープ代わりに使っていた。
泥やホコリのひどいモトクロス場なので、車の外観には気を遣わなかった。ワックスなんて掛けた事は一度しかない。だいたいワンボックス車をすっかり綺麗にしようと思ったら、かなりの時間と労力が必要だ。そんな時間があったらバイクの整備をしていたし、そんな労力が残っていたら体力トレーニングをしていた。しかし室内だけは、こまめに掃除していた。だってそこは、寝泊りもする「生活の場」だからだ。
その他、窓に貼る虫侵入防止用の網戸の網や、蚊取り線香に防虫剤。
(ハエにはほとんど効き目の無い殺虫剤だが、たぶん免疫のできていないアブやブヨには効果てきめんだった。面白いようにバタバタとおちる)。
ただし、芳香剤だけは禁物だ。キケンなハチが寄って来る。胸にとまっていたハチに気が付かず、不用意にそこを触ってしまい刺された事がある。
出かけて行った先々で、近くの温泉を探しては、旅のアカや、レース後の泥やホコリを落としに行ったりもした。でも、どちらかと言えば、いったん現地に入ってしまうと、そこから出るのが億劫になってしまう僕は、ポリ・タンクに汲んでいった水を浴びる方が好きだった。
二つのクラスにエントリーしていた僕なので、二台のバイクと工具やパーツ、タイヤ付きのスペア・ホイール。
(タイヤだって、晴れ用・雨用の二種類は必要だ)。
それらを積んだうえに、家財道具を積むとなると、準備だけでもたいそうな仕事量となる。はっきり言って、『ここまでやるくらいなら、宿に泊まった方がよっぽど楽』と思った事もたびたびだ。
でもプライベーターはどこでも、似たようなものだった。基本的に、まずバイクが積めなくてはならないから、大型のトランポならともかく、普通のワンボックスでは、備え付けのベッドや流しなんて物は無理な話なのだ。
(プライベーターでも、ちょっと裕福なところは、テレビ・ゲームまで備えたマイクロ・バス改に乗っていたし、大きなチームになると、大型トラックを改造した物に温水シャワーや洗濯機まで備えていた)。
でもあの頃は、パワーがあった。だいたい「レース」なんて、やらなくてもいい事を始めるくらいだから、エネルギーはあり余っていたのだろう。
普通の人なら泊まりがけで行く距離を走って…普通の人ならノンビリ観光する所の近くでハードなレースを走って…そして「とんぼ帰り」するのだ。
今となっては、走り出すまでの手間を考えただけで、『まあいいか』と思いとどまってしまうだろう。
僕はそんな生活を、数年間続けた。
「ほら、あそこ!」
僕は隣りに座る友人と、後部座席でうつらうつらしている僕の彼女に声をかける。僕はよほど疲れていないかぎり、彼等にハンドルを握らせた事はない。
『信用してないから…』
たしかにそれもある。でも僕は、バイクに限らずクルマだって、根っから運転するのが好きなのだ。公道をバイクで走る事はすっかりなくなっていたけど、レースとキャンプなら毎週末みたいなものだった。まあ、旅好きだった僕にしてみれば、「一石二鳥」というところだ。
「F―1」や「グランプリ」には、足元にもおよばないレベルだったし、それで収入を得ていたわけじゃないけど…僕のささやかな夢はまたひとつ、実現したことになる。
「今日はここで、花火やってるよ」
遠くの低い位置で、花火が花開く。夏の日曜の晩。高速を走っていると、たいていどこかで花火を見る事ができた。
あのころ僕たちは、毎週のように「関越」を走っていた。
“TEST RIDER”
「テスト・ライダー」という表現は、職業記入欄に用いる言葉としては、適切ではない。
一般的な用語としては「技術者」という言葉を使い、業務内容は「研究・開発業務」だ。
「テスト・ライダー」なんて言葉を使ったら、「公営ギャンブルの選手」や「競争自動車運転手」、「スタントマン」や「サーカス団員」のように、生命保険に入る時や住宅ローンを組む時、不利になる。
『…!!!…』
もの凄い勢いで、「南バンク」が迫って来る。
試作段階のスクリーンは、透明度が悪く、画面も歪んで見える。
それで僕は、スクリーンの上から前方を見るため、カウルに潜り込ませていた頭を、少しだけ出す。
『!』
今度は、強烈な風圧が首に掛かり、額にヘルメットが押し付けられる。気流の乱れで頭がグラつき、目線が乱される。
スピード・メーターの針は、時速「270キロ」を指したまま、ピクリとも動かない。実測では、「256キロ」くらいのはずだ。
スロットルにはまだ余裕があったが、これが指定された速度だ。実際、リミッター・カットされたこのマシンの潜在能力は、実測でも「300キロ」強までは上がるはずだった。
でも特に、「縦G」の荷かるバンクといった特殊な構造を持ったここでは、その速度に耐えられる市街地走行用タイヤは無い。
「300キロ」近い速度で「縦G」が荷かると、発熱でタイヤの層と層が剥がれ、そこに空気が溜り、ボコボコに変形してしまうのだ。
全開でバンク走行をすると、せいぜい2~3周が限界だ。
ノー・ブレーキ&スロットル・キープのまま、ジワッとハンドル操作を行い、バンクに入って行く。
設計速度「180キロ」のバンク最上段は、時速「180キロ」前後なら、何の操作も無しに入って行ける。
(バンクの角度は30度前後。このくらいの傾斜になると、這ってでも登れない。コース脇から眺めると、ほとんど「壁」だ)。
でも、メーター読み「270キロ」ともなると、まさに「コーナーリングする」という感じだ。
プロのレーサーでも、さすがにこの速度になると、最初はアクセルを緩めてしまうと言う。
『!』
バンクに入ると、一気に強烈な「縦G」が加わる。
普通の平らなカーブでなら、遠心力によって生じる「横G」が、バンクの中では縦の力に取って代わる訳だ。
ノン・カウルのバイクでなら、バンクに入った方が楽な場合もある。風圧によって発生する揚力で、浮き上がりそうになっていた身体を押し付けてくれるからだ。
(もっともノン・カウルでは、タンクにベッタリ張り付く前傾姿勢を取っていても、せいぜい「220キロ」あたりが、肉体の限界だ…ただしこのあたり、体格による個人差が大きい。概して小柄な方が、限界点が高い)。
フル・カウルのバイクなら、カウルの中に潜り込んでいれば、風圧は避けられる。
(しかし、時速「270キロ」での「縦G」を受け、おまけに極端な前傾姿勢をとっているので、長時間のライディングをすると、かなり腰にくる)。
視界の片隅に、ガードレールの流れをやり過ごす。
バンクに入る時とは逆の動作でバイクを起こし始める頃、すぐ脇を流れていたガードレールは一気に遠のき、反対側の直線に出る。
チョットひと息だ。
(でも、たった1キロちょいの直線。ノンビリ構えている暇など無い。モタモタしていると、アッと言う間にもう一つのバンクが迫って来る)。
その直線の中間地点で、1速シフト・ダウン。回転計を見る。
「耐久テスト」とは言っても、常に同じ速度で走っているわけではない。次に指定された条件になった事を確認したら、後は指定された周回数、その速度をキープ。それ以外の事は、考えない。
はっきり言って、高速走行中には、余計な事は考えたくない。
スピードと思考能力は反比例する。「200キロ」を越えたら、もう「ふたけた」の足し算はゴメンだ…つまりは、それだけの「集中力」が要求されるという事だ。
(モーター・スポーツで、一見おそまつとも思えるミスで、勝負が着く事がある。ほんのわずかの「判断ミス」。ほんのチョットの「思考力不足」。高速走行中なら、それももっともな話なのだ)。
そしてこの速度になると、頭の中は真っ白だ。半端な悩み事なら、完全に忘れられる。
「ムシャクシャした時、クルマやバイクを飛ばすとスッキリする」なんて人がいる。
(まあ僕に言わせれば、そんな輩は、スピードの本当の怖さを知らない、自分で自分をコントロールできない…つまりは、スピード競技向きでない、高速耐久向きでない…愚かな連中という事になるのだが)。
それはつまりは、こういう理由なのだと思う。
(それでも頭を離れない事があるなら、スピードを出すのは危険だ。ひとり勝手に「自爆」するのは結構だが、他人を巻き込みたくなかったら、止めておいてくれ。そういう時は、自分の足で走ったり泳いだり、単調な動きの繰り返しの中に身を置いて、ユックリ・ジックリ考えたほうが良い。もっとも、それだけの体力と忍耐力があればの話だが…)。
でも、人間の「慣れ」というものは、なかなかにすごい。
最初の「世界の変わり目」は、時速「200キロ」くらいだ。普通の人でも、テスト・コースでの「180キロ」くらいまでなら、すぐ出せるだろう。でも「200キロ」を越えると、世界が変わってくる。最初はちょっと怖いが、慣れてくると快適だ。
もう一つの変化点は「250キロ」。いきなり入ると「別世界」だ。
ちょっと想像してみて欲しい。圧倒的なパワーを持った機械の上に跨っただけで、空気を切り裂き、自分の身体が弾丸のように飛んで行くのだ。
(ここまでくると、恐怖はサディスティックなまでの快感に変わる…なんて、ゴチャゴチャ考えてる暇は無い。単純に「凄くて」、やがて「快感」なのだ。矢のように飛び去る自分の姿を想像しただけでも、もうたまらない)。
そして、いちど「250キロ」に慣れてしまうと、最初は怖いと思っていた「200キロ」が、今度は遅すぎて、フラフラしてしまう。
高速道路などでも、いったん速度を「10キロ」上げ、その後、前に走っていた速度まで落とすと、すごくカッタルく感じる。あれと同じだ。
「速度」というものは、「慣れ」で結構なんとかなるものだ。
一時間弱の走行を終えて、減速レーンを降りて来る。超高速走行後の通常走行は、要注意だ。
止まり切れずに、自分のピットを通過してしまう四輪レーサー。
無理矢理止まろうとして、ピット前で転倒する二輪のレーサー。
みな「速さ」に対する感覚が、大幅に狂っているからだ。
ヘルメットを脱いだ僕は、大きくユックリ深呼吸。そして前髪をかき上げながら、両耳に着けていた耳栓を外す。
高速走行をする時には、耳栓は必需品だ。「150キロ」を越えるスピードになると、エンジン音などのメカ・ノイズばかりでなく、市販車レベルでは、排気音すら聞こえなくなる。耳に入って来るのは、強烈な風きり音だけだ。
イヤー・プラグを装着するのを忘れて走ってしまうと…走り出せば、即、否が応でも思い出すが、我慢して一回乗車分を走ってしまうと…その日一日、聴力障害を抱えたまま、過ごさなくてはならないハメになる。
でも、考えてみれば凄いものだ。たったの一時間で、200キロ以上の距離を移動しているのだ。
『でも僕は、まだここにいる』
とても無駄な事をしている…そんな気になる時がある。
でも、バイクは「大人のオモチャ」。僕はこの仕事が気に入っていたし、僕はナチュラル・ライダーではないから、『かえって、この仕事に向いている』と思っていた。
感性だけで、何も考えなくても上手に、あるいは速く走る事ができる奴もいる。「天賦の才」あるいは「天性の速さ」ってやつだ。
しかし必ずしも、そういった人間がテスト・ライダーに向いているとは思えない。
もちろん、技量不足では論外だが、オートバイは『関与性』の乗り物であると同時に、『感受性』の乗り物でもあるのだ。
「ふう…」
僕は軽く溜め息をつく。
今回も、無事帰って来られた。一歩間違えば、アッサリ「あの世」に行ける「スピード」。
今では「一発破壊」なんてめったにないけど、何が起こるかわからない試作車。
かなりのプレッシャーがかかる事も事実だ。「速度」には慣れても、「仕事」に慣れ切ってしまってはいけない。
(もっとも、極度の「集中」を要求される「試験」の場合、事故が起こる確率は少ない。一度「事」が起これば、大事故になる可能性は大きいが、テスト中の事故で一番多いのは、「居眠り」「不注意」。そして退屈さのあまり、ちょっとした「遊び心」が原因で起こる事故の順だ。「テスト業務」とは言っても、いたって単調・退屈な仕事のほうが、はるかに多い。本当に「好き」でなくては勤まらない)。
でも僕は、数ある「テスト業務」の中でも、この「仕事」が気に入っていた。
なぜって…世間一般の、大多数の人では、まず一生経験できないであろう「別の世界」がのぞける…そして、もっとも「テスト・ライダー」っぽい仕事。
「高速耐久テスト」が…。
“Flying W” ーLA County・CA・USAー
『アレ?』
僕は思った。予想していた動きと、チョット違う。
『シマッタ!』
バイクのフロントが、下がり過ぎている。オーバーハングのジャンプで、ほんの少し、アクセルを戻すのが早かったのだ。
『マズイな…』
絶対にダメな事は、空中に飛び出した瞬間にわかっていた。即座に判断を下さなければならない。「放す」か、最後の瞬間まで「しがみ付いている」か…。
両手を伸ばし切ってもダメなくらい、フロントが落ちている。このままバイクといっしょになっていたら、前転したバイクの下敷きになってしまう。
『仕方ない…』
僕は、バイクを「放す」決断をした。
たぶん放物線のてっぺんあたり。空中の高い所で、僕は「|モトクロス競技用バイク《モトクロッサー》」を前に押し出した。
モトクロスに限らず、ジャンプは、「踏み切り」の瞬間までにすべてが決まる。だから失敗ジャンプの原因は、「踏み切り」の瞬間の操作ミスだ。
そして、バイクの失敗ジャンプのパターンは、大きく分けてふた通りある。フロントが上がり過ぎてしまった場合と、逆に下がりすぎてしまった場合だ。
(細かく分析すると、様々なパターンがあり、長くなるので省くが…)。
空中とはいえ、アクセルやブレーキ操作の反力で、多少の姿勢制御は可能だ。
でも、大きく体勢が崩れてしまった場合、その対処法はふたつ。「放す」か「しがみ付く」かだ。
しがみ付いていられるなら、その方が良い場合もある。着地の衝撃を、バイクがワン・クッション吸収してくれるからだ。
でも、着地後、バイクと絡みそうな体勢なら、放してしまった方が安全だ…と言っても、生身で、着地のショックを受け止める事になるのだが…。
「アウッ!」
肺に入っていた空気を、最後まで絞り出すような自分のうめき声と共に、青と灰色がグルグルと、交互に渦巻く。
カリフォルニアの青い空と灰色の砂。
僕は地面に叩きつけられた。でもまだ、慣性が残っている。僕は地面の上を転がり回る。
カリフォルニアの砂漠の砂は、とても硬くしまっている。一般的な、サラサラのイメージとはほど遠い。
(「砂漠」と言うより「土漠」だ)。
「…! …!」
砂ボコリの中、視線が一定しても、僕は喘いでいた。
スポーツをやっていた人なら、背中を激しく打ち付けた時、すぐには呼吸できない経験を持つ人も多いと思う。あれだ。
(ここでひとつ、ためになる話をすれば、痙攣するほどに身体を打った場合、舌が巻き上がって、喉を塞いでしまう事があるそうだ。それで窒息死したモトクロス・ライダーがいる。そういった時には、まず気道を確保する処置が大切だ)。
呼吸を取り戻すまで僕には、他の痛みなんて感じている暇もなかった。それに痛すぎると、「痛い」とも感じないものだ。
駆け寄って来たアメリカ人が、何か言っている。でもこんな状況では、相手が何人で、何語で話しかけられても同じだ。聞いている余裕なんて無い。
『ちょっと気持ち悪いよ…』
僕はその場にヘタリこむ。
『軽い貧血だよ。すぐに治るよ…』
時間にすれば、わずか数分の出来事だろう。その間に、とても沢山の事が起きているのだ。
落ちた角度が良かったのか悪かったのか? 僕の鎖骨は折れなかった。
(僕たち…バイクのレースをやっているものは、「鎖骨骨折」なんて慣れっこだ。「鎖骨は、ショックを吸収して折れるためにある」くらいにしか思っていない)。
でも「胸鎖関節脱臼」。胸骨と鎖骨がズレていた。僕のコイツは一生ものだ。
一ヶ月の予定のLA滞在。僕は一週間、ロングビーチの病院に通ってから帰国した。
ちなみに“Flying W”とは、バイクと泣き別れ寸前の、カエルのような格好になったライダーの姿を指す言葉だ。
“BELL”
バイクは危険な乗り物
正しい技術を身につけ
走り過ぎには注意しましょう
僕達は、少し休憩する事にした。混雑する都内を抜け、ここまでかなりの時間、走り続けていたから…。
それに、急いだところで、もうどうにもならない。済んでしまった事・過ぎてしまった事だ。ここでアセッて、僕達にまで何かあったら、それこそ…。
「ホントかよ?」
早朝。僕がヤツのアパートを訪れた時、ヤツは『連絡もしないで、こんな時間にいきなり何だよ』という顔をした。ちょうど、大学に出かける準備をしているところだったようだ。
僕が最初のひと言を告げた時、一瞬、『何を冗談を…』といった顔になりかけた。でも、完全にそんな顔になる前に、ヤツの表情は固まった。僕が告げた事は、「冗談」で言える事じゃない。
それにわざわざ、こんな早朝にやって来たのだ。たぶん、引っ越して間もなくの頃だったのだろう。ヤツの部屋には電話が無かった。
「わかった。すぐに準備するよ」
ヤツはそう言って、奥に引っ込む。
「でも、なに持ってけばいいんだ?」
『そんなこと知るか!』
僕はおもてで待っていた。僕のバイクのタンデム・シートには、スーツ用のソフト・ケースが縛りつけてあった。中には、紺色のブレザーが入っている。あのころ僕は、まだちゃんとしたスーツや礼服を、持っていなかった。
「でも何でだよ?」
僕も、昨晩遅く聞いた話だ。詳しい状況はわからない。
僕達はコンビニの横に座りこみ、缶コーヒーか何かを飲んでいたはずだ。
僕には、特に何の感情も湧いてこない。僕は無言で、焦点の定まらない目で、遠くを見ていたはずだ。特に代わり映えのしない、あのとき見ていた国道の景色を憶えているのだから…。
「でも何でだよ?」
ヤツの口からは、その言葉しか出てこない。普段はよく喋るヤツも、途切れ途切れだ。
ただひとつ、はっきりしている事は、アイツとの思い出は“Read Only Memory”.
『読み出し専用』
もうこれ以上、「書き込み不可能」だという事。
数時間のライディングの後、僕達ふたりは、僕の実家に着く。そこで着替えを済ませ、オフクロのクルマを借り、アイツの家へ向かう。
「バイクじゃまずいよな」
スーツを着ているからじゃない。とてもバイクで乗り付ける気に、なれなかっただけだ。
(でも二人とも、「電車で帰ろう」なんて気は、最初からまったく起きなかった。今にして思えば不思議な話だが、『バイクで帰るのが当然』と思っていた)。
「こんなに友達がいたなんて、知りませんでした…」
アイツのお父さんは、そう言った。意外だったようだが…アイツは、なかなかの人気者だった。
アイツは高校の同級生。二浪仲間。そして僕達は、それぞれ別の所だったが、三人揃って大学へ進んだ。
よく一緒にボウリングに行ったけど、妙なステップを踏むアイツの投げ方はとっても変わっていて、はっきり言って「ヘン」だった。
僕の家で見た『ルパン三世・カリオストロの城』。アイツは『どうしてそんなに笑えるの?』というほど、喜んで見ていた。
「あの娘は知ってるのか?」
ヤツが言う。アイツの彼女…本人は否定してたけど…はっきり言って、あの娘の方がアイツに夢中なのには、驚かされた。度の強いメガネに長いアゴ。「歯なんて磨かない」なんて言っていたアイツは、とても女にモテるタイプじゃない…はずだ。
そんなアイツだったけど、僕とふたりっきりの時、話してくれた事がある。「施設に入れられる寸前だったんだ…」と。
中学の時は、手のつけられない乱暴者。その話を聞くまで、全然知らなかった。そんな風には見えなかった。見掛けも態度も雰囲気も…。
家庭の事情?
駅ビルの美容室で働いてるアイツの妹に、アイツと一緒に会った事がある。完全に血の継ながった兄妹なのに、苗字と住む家が違っていて…妹の方がずっと大人びていたけど、でもとっても、妹思いの兄だった。
「きれいな死に顔だったんですよ。でも、あのヘルメットをかぶっていれば…もしかして…」
アイツは僕達みたいに、生粋のライダーではなかったけど、原付バイクに乗っていた。
まだ、ヘルメット装着義務になる前だった。
小雨の降る晩。アイツは、違法路上駐車中のダンプのリアに突っ込んだ。
フザケた話だ。
アイツの部屋の机の上には、白いヘルメットが置かれてあった。
『どうしてだよ?』
それを見た僕は思った。今でも忘れられない。
『なんでだよ?』
それは、僕がレーシング・カートの全日本選手権を戦っていた頃、かぶっていた物。
『高かったんだぜ…』
僕がアイツにやった“BELL STAR”だ。
“Satisfaction” ―GOLD COAST・QL・AUS―
僕はとっても満足だった。
僕はベンチに腰掛け、海を見ていた。右前方にはヨット・ハーバーが見え、さらにその先には、ポツンポツンと背の高いビルが見える。
そこに、子犬を連れたおばさんが通りかかる。ニコッとほほ笑んで、こう言う。
「こんにちは。ご機嫌いかが?」
僕は答える。
「少し疲れてます」
上を向き、少し陽射しに目を細め、笑みを返しながら。
「あら、どうして?」
「今、マラソンを走り終えたばかりなので」
「あらそうなの。大変だったわね」
『それほど大した事じゃない』
僕は心の中で返事する。好きでやっている事だし、まだハーフ・マラソンだ。
「良い一日を」
おばさんはそう言って、子犬のヒモを引く。
まあ、日本語に訳せば、そんなところだ。
僕の良い気分は、そのおばさんとの会話で、さらに膨らむ。
僕はクルマやバイクに限らず、自分の足で走る事だって、大好きなのだ。走るばかりではない。歩いたり、泳いだり、滑ったり。自分の身体が「空間移動」するようなものなら何だって、好きなのだ。
“Run Like The Wind Blows”
―風のように走り―
“Swim Like The Stream Flows”
―流れるように泳ぐ―
そして007「ジェームス・ボンド」のように、世界をまたにかけて遊び回りたい。
きっと僕は、独りそんな人生を送って行くのが、一番似合ってる。
“SPIRITUAL THING"
『あれ?』
僕は視界の右横に、ふたつの人影が映ったような気がした。ひとりは赤っぽい服。もうひとりは青っぽい服。ふたりとも男で、向き合い、何かを喋っているような位置関係に映った。
僕は、赤になった信号のため、止まりかけたところだった。ピタリと停止線の所で止まった僕は、人影が見えたような気がした右後方を、軽く首を傾けて振り仰ぐ。
『?』
右後方。少し高台になった所。周りには、黒い鉄柵が張り廻らされている。でもそこに、向き合うように立っていたのは、黒く輝く墓石だった。
『そろそろ、そういう時期だよな』
僕は別段、「驚き」も「恐れ」も感じなかった。
僕の経験から言うと、霊魂は、何も無い所にフワフワと漂っているのではなく…もちろん「流しの霊魂」もいるけど…多くの場合、何か実体のある物に憑くと思う。
(あるいは、物などの、何か実体のある物に反射して、その姿を見せる)。
そして霊的なものは、電気的なものと関係がある…そう思っている。
僕は電気にはあまり詳しくないけど、電気の伝導率は温度に左右されたりする。たとえば、氷点下の気温の中では、突然電気系統が働かなくなり、エンジンの点火に必要な火花が飛ばなくなる事がある。極寒地に慣れた人なら、あちこちイヂクリ回す前に、点火を制御するユニットを温めてみる。すると、ただそれだけで、症状が回復するのだ。それがナゼなのか、僕には理由がわからないのだが…。
だからたぶん、夏は波長が合うのだろう。
そしてちょうど「お盆」の頃は、気温や湿度(おそらくこれも大切な要素だ)が最適なのだ。
特に、風の無い、ジトッと蒸し暑い晩…まさに彼等にとってはベスト・コンディションなのだろう。
きもだめしや怪談話。
夏に多いのは、背筋をゾッとさせる納涼のためばかりではない。『きっと何か理由があって、そうなったのだ』と僕はそう思っている。
前に向き直る。
信号は青になっていた。後ろには誰もいない。僕は軽くアクセルを吹かし、走り出す。
夏はもう間近だ。
“Photograph” ー青森県・恐山ー
そこは「いたこ」で有名な、かの北の霊場。
成人式を迎えた年の夏。当時大学生だった僕は、北の大地へ向かう途中、そこに立ち寄った。
その日は朝から曇っていたが、しばらく雨は降りそうになかった。
前の晩。鉞の形をした半島の、太平洋に面した浜で野宿した僕は、朝一番で、その地を目指した。
途中、すぐ手前にある湖をバックに写真を撮ってから、その霊場に入る。朝まだ早い時間だというのに、すでに結構な数の観光客がいる。僕もその人達と共に、あたりを一周する。
茶褐色の土に、クルクル回る風車。
こういった場所には、曇り空がお似合いだ。でも、その時そこで、特に変わった事があったわけではない。
そこを出て山を下る途中、チョット近道しようと思い林道に入る。しかし先に進むにしたがい、道幅は狭くなるし、おまけに雨まで降り出した。
僕は心細くなった。場所も場所だし、多少の薄気味悪さも手伝って、アセリが入る。
生い茂った夏草が道を覆い、そいつを掻き分けながら走らなくてはいけない所もあり、麓の集落にたどり着くまで、けっこう手間がかかった。
人家が見えるアスファルトの道に出て、ひと安心。でも…
『アレ?』
ふと目を落としたスピード・メーター。でも、針が動いていない。メーター・ケーブルが切れていたのだ。
単なる偶然かもしれない。でも長い間、何台ものバイクを乗り継いだが、後にも先にも、メーター・ケーブルが切れたなんて事はその時だけだ。
『アレ?』
その旅行が終り写真を現像してみると、カメラ手持ちで敷地内を撮った数枚の写真は、すべて手ブレをしたように写っていた。
単なる偶然かもしれない。でも長い事、続けて何枚も、そんな失敗をした事はなかったし、その後もそうだ。
昔、こんな事があった。
僕がまだ小学生だった頃。
母方の祖母が、郊外にできた霊園に墓地を買った。新しくできた霊園墓地だったし、まだそこには誰も入っていなかった。そこで、そのとき居合わせた一族全員が揃って、二枚ほど写真を撮った事がある。
でもその後で、そのフィルムを現像してみると、その時そこで撮った二枚の写真だけが、まるで二重撮りでもしたように写っていた。
僕は当時まだ子供で、心霊現象なんてものには興味も関心も無かったが、そんな写真があった事だけは憶えていたものだ。
そして僕が中学生になり、映画『エクソシスト』や「五島勉」氏の著作『ノストラダムスの大予言』などの「オカルト・ブーム」のさなか、記憶の隅に残っていた「あの写真」の事を思い出し、母に尋ねてみた。もうずいぶん前の事なのに、母もよほど気味が悪かったのだろう、ちゃんと憶えていた。
そして母が言うには、「気味が悪いので処分した」との事だった。
そこは確かに、ある意味、得も言われぬような雰囲気が漂っていた…が、しかし、ある意味では、妙に懐かしいような、安堵感を覚える場所でもあった。
“voice” ー鹿児島県・与論島ー
そこは沖縄が返還されるまで、「日本最南端の地」だった島だ。
春三月。浪人していた僕は、入学試験がすべて終了した後、発表も見ずに沖縄旅行に出かけ、帰路、その島に立ち寄ったのだった。
あの日は、宿側の好意で酒が振る舞われた晩だった。
(そこは若者向けの安価な宿で、僕は一週間ほど、そこに滞在した)。
当時、酒などほとんど飲んだ事のなかった僕は、軽く舐めた程度で床に就く。
その部屋は、二段ベッドが四つある八人部屋で、僕の下には、しこたま飲んで酔い潰れ、先に寝かされた大学生が眠っていた。
皆が寝静まった真夜中の頃。
僕は暗闇の中、入口の引き戸を開けて、誰かが入って来る気配で目を覚ます。
でも、目は閉じたままウツラウツラしていた。
その足音はピチャピチャと、濡れているような雰囲気だ。その人物は、僕のベッドの所まで来て立ち止まる。
「…」
しばらく無言で、僕の下のベッドの様子をうかがっているようだった。
やがて…「誰か寝てるよ」と、小声で呟く。
僕ははっきり、その声を聞いたのだが…『誰か、夜中に泳ぎに行ったんだろう』くらいに思っていた。そう思わせるくらいはっきりと、その声を聞いたのだ。
その声の主はすぐに…「寒いよー。寒いよー」と言いながら部屋を出て行ってしまい、その姿を確認する事はできなかった。
翌朝。僕は、下のベッドに寝ていた人物に、その話をしてみた。
彼は、一度も目を覚ます事なく寝ていたと言う。たしかに、昨晩寝かされた時と同じ格好をしていた。どちらにしろ二日酔いの彼は、その時ですら泳ぎになど行けそうもない状態だった。
ベッドの部屋は三部屋。両隣りの部屋の人間が、部屋を間違ったのではないかと確かめてみたが、片方は空きベッドだったし、もう一人も、そんな事はしていないと言う。
冷静に考えれば、いくら小さな島とはいえ、浜まではかなりの距離があった。
島のまん中近くに位置するその宿からでは、昼間だって、歩いて行こうなどという気になれない場所だったし、そんなビショビショのまま戻って来る事など、あり得なかった。
宿の手伝いをしている人にその話をしても、彼は別段、驚きもしなかった。
その島は元々、「風葬」を行っていた土地で、骸骨のある風葬跡の洞窟を見にも行った。
そしてあの頃は土葬だと、彼から聞いた。こんな小さな島に、火葬場など無いのだろう。
そのせいかどうかはわからないが、心霊現象も多いと言っていた。
そしてずっと以前、その宿の宿泊客で、台風が接近して高い波がある日に泳ぎに行って、溺れ死んだ人がいるとも言っていた。
しかし、その溺れ死んだ人がどのベッドを使っていたかまでは確認できなかった。
でも僕は、間違いなく「あの声」を聞いたのだ。
“wired” ー埼玉県・某市ー
あれは数年前。ある大きな街道沿いのビジネス・ホテルに宿泊した時の事。
高校生の頃をピークに、酒・煙草・女と覚えるにしたがい、心霊現象を体験する回数がめっきり減ってきた僕は、ここ何年かの間、平穏な日々を送っていた。
そこは大きな街道に面しているせいか、ちょっとホコリっぽい感じのするホテルだった。
僕にあてがわれた部屋は、三階だったか四階だったか? とにかく、ホテルの正面側にあるエレベーターを降りて、通路をグルッと回った一番奥の、非常階段の手前の部屋だった。
『ヘンな感じだな』
僕は思った。その建物は、正面から両側に向かって「コの字型」に伸びた建物だった。
『?』
部屋に入ってみると、部屋の内部もチョット変な造りになっていた。入ってすぐ右側に、バス・トイレ。これは当たり前の構造だが、入って正面・奥の左角に、1メーター四方・2メーターほどの高さで、部屋の一角を占めている四角い部分がある。しかし柱という訳ではない。それが証拠に、天井まで突き抜けておらず、壁際には明り取り用の天窓がついている。だから通風路等でもない。かと言って、物を載せる棚にしては高すぎる。上をのぞくとホコリが溜まっていて、いかにも「なにもの」かが棲みつきそうな空間があった。その右側にベッドやテーブルがあり、その邪魔な部分が無ければ、けっこう広い部屋だ。
『まあいいか』
夕食を済ませてあったし、もうとっくに夜と言える時間。ユニット・バスでシャワーを浴び、サッサと寝る準備。早めに床に就く。
「?」
何時頃だったのだろう? 時計を見たわけではないので、定かではないが…つまり、時計を見られる状態ではなかったのだ。
眠りに就いていた僕は、鈴の音で目を覚ます。その晩は、風呂上りにビールを一本飲んだだけなので、酔っていたという事はない。目覚めてみると、完全な「金縛り」状態だった。
『久々だな』
僕はこういった事に慣れていた。昔は頻繁に経験したものだ。たとえば…
あれは僕が高校二年生の、二月の事だ。
その日はどんよりと曇った、底冷えのするような日だった。学校から帰った僕は、特別な用事があった訳ではないが、祖父母の家に行くため、自転車で家を出た。
そのころ僕は、祖父母の家から自転車で3~40分かかる、郊外の団地に住んでいた。しかし祖父母の家は、もともと僕が育った所だし、市街地にあったため、街中に遊びに行く時など、頻繁に訪れていた。だから僕にとって、祖父母の家を訪ねるのは、特に変わった行為ではなかった。
でも、その日は特別だった。なぜか祖父に会わなくてはいけないような気がして、今にも雨が降り出しそうな寒い日だったが、家を出たのだ。しかし家を出て間もなく、雨が降り出した。合羽も傘も持っていなかったし、冬の寒い日だったので、僕は家に引き返す。
だが、後ろ髪引かれる思いが強かったせいか、田んぼのまん中を通っている道で思案していた時の情景を、僕ははっきりと憶えている。
そして、その日の晩だった。たぶん、もう翌日になっていた時間だと思う。床に就いていた僕は、雨戸のガタガタいう音で目を覚ます。僕の部屋は、北に面した二階の部屋で、ベッドのすぐ脇にあった北側の窓の雨戸が、ガタガタ鳴っていたのだ。
目を覚ました僕の身体は、完全な「金縛り」状態だった。そのころ僕は、頻繁に「金縛り」に遭い、時には足元に白い物体を見た事もあった。そういった経験の無い人間は、あれこれと反論を展開してくれたが、どれ一つとして、僕を納得させてくれるような答えは無かった。
でも、その日の「金縛り」は、いつもと違っていた。いつもは「金縛り」状態になると、恐怖心で一杯なのに、妙に落ち着いていられたし、安堵感さえあった。それに…
「コンコン・コンコン…」
最初は、北風で雨戸がガタガタ揺れているのだと思っていたが、よく聞いていると、「コンコン・コンコン」と一定のリズムで、まるでノックでもしているような調子だった。
『誰かが来てる』
僕にはそう思えた。そして、それが誰なのかもわかっていた。僕はいつものように「金縛り」を解く努力もせずに、再び眠りに落ちて行った…。
僕には、何となく予感めいたものがあった。
だから夜も明けやらぬ早朝、母が僕の部屋に入って来て、祖父の死を告げられた時も、さして驚かず、むしろ納得した気分になっただけだった。
(僕は、おじいちゃんからすれば初の「内孫」で男の子。僕はおじいちゃんにとても可愛がられていたし、アテにもされていた。小学校も高学年の頃になると、その頃にはかなり足腰の弱っていたおじいちゃんのお供をして、よく「病院のハシゴ」に付き合わされたものだ。おじいちゃんは「生」に対して、かなり執着があったのだろう…と今ではそう思う)。
祖父は特に大きな病を患っていた訳ではなく、老衰による自然死だった。後で思い返すと、『あれが「虫の知らせ」だったんだ』と、そう思えた。
しばらくすると、「シャン・シャン・シャン」という鈴の音と共に、身体が臍のあたりを中心に、左右に円弧を描くように揺れているのがわかった。
若かりし頃の僕なら、「金縛り」を解こうと努力したかもしれない。でも疲れのせいか、さして抵抗する気力も湧かなかったし、危険な状態にあるようには思えなかった。
(つまり、「アブナイ相手ではない」という意味だ)。
「シャン・シャン・シャン」という、心地好い鈴の音に合わせて繰り返される揺れに身を任せ、鈴の音の遠のきと共に、再び眠りに就いていた。
ハタチまでに見なければ、一生経験しないと言われている。あの頃、僕の周りの人間は、そういった類いの人達ばかりだったので、その時の経験も、真剣に語ったりはしなかった。
「酔っ払ってたんだろう」
その一言で片づけられるのがオチだったからだ。
だが、そういう事は確かにある。
でも、経験してない人間、ましてや社会に出て、夢を見る事も無く、長い年月を過ごしてしまった人達に、それを理解させる事は難しい。
しかし向こうにだって、それを否定する事など、できないはずだ。
“meet again” ―北海道・大沼―
偶然の再会というものは、あるものだ。
たとえば、こんな事があった。
「小京都」と呼ばれる旧い街並で有名な、中部地方の都市を訪れた時の事。バイパスを走っていた僕は、旧市街に入ろうと、適当な所で、前を走っていた軽のワンボックスに付いて右折車線に入る。
「なんだよ! こんな日に…」
右ウインカーを点滅させ、右折しようとしている軽自動車。そのテールに貼ってある「てるてる坊主」のステッカーを見て、僕はそう呟いた。
その日は、あいにくの雨模様だった。その時だ。
「おい! おーい!」と叫び声がする。
タンク・バッグのマップ・ケースに入れてある地図を見ようと視線を落としていた僕は、その声で面を上げる。声の方に目を向けると、前の車の運転席からドライバーが顔を出し、こっちに向かって何か叫んでいる。
『アレ…?』
その声の主を凝視すると、そこには見覚えのある顔があった。
アフロ頭の彼は、昨年の夏、最果ての北の島で、宿のアルバイトをしていた男だ。そこに数週間に渡って滞在していた僕は、当然その男と顔見知りだった。そして彼が、この地の生まれだという事も聞いたはずだ。
しかし…こんなタイミングで彼に出くわすとは、夢にも思わなかった。それに僕はオープン・フェイス、いわゆるジェット・タイプだったがヘルメットをかぶっていたし、バイクだって、あの時とは全然違うヤツに乗っていたのに…。
僕はベンチに座って、近くの屋台で買ったトウモロコシを食べていた。
今日は休日でもあり、あちこちに散乱したゴミなどの汚れ具合から察すると、昼間はかなり混雑していた様子だ。でも、夕方近くになったこの時間、人の波は引き始めていた。
遠くに、形の良い山が見える。沼の周りに広がったこの公園は、観光地であるとともに、地元の人達の「憩いの場」的な場所でもあるのだろう。
広場の向かいのベンチに、同年代の男が一人座っている。その格好からすると、バイク乗りである事は一目瞭然だ。最初僕は、彼にまったく気を留めずに、手にしていた物をパクついていた。
『?』
でも僕が顔を上げ、その男の方を向くたびに、その男と目が合う。
どうも、こちらの様子をうかがっているようだ。それは単なる「バイク乗り同士」という域を越えた雰囲気だ。見知らぬ土地での、見知らぬ者同士の最初の出会い…という雰囲気でもない。
やがて彼は僕の所にやって来て、あれこれと話を始める。どうも彼は、僕がどこからやって来て、どんなバイクに乗っているのかに興味があるらしい。
でも彼は、僕の返答に困惑しているようだ。表情でわかる。
「日光の湯元で、会ったことなかったかな?」
たぶん、そんな風に言われたのだと思う。僕はベンチに腰掛けたまま、下から彼の顔を凝視する。
「あっ!」
僕は思い出した。まだ、ほんの数ヶ月前の事。僕の地元で一番の、全国的にも有名な観光地で、彼に会った事を…。ほんの短いものだったけど、会話を交わした事を…。
僕は学業の都合で、まったく違った所に住んでいたけど、あの時は、イナカに帰ったついでに、走りに行っていたのだ。
彼は静岡の出身だけど、僕が生まれ育った地の国立大学に通っていた。
僕が旅先で知り合った連中の中には、こんな奴等がいた。彼等はとある場所で知り合いになったそうだ。でもその後、まったく違った所で撮った集合写真の端と端に、お互いが写っている事に気づいた。初めて知り合ったと思っていた人間同士。実はその何年か前に、すでに出会っていたのだ。
まあそれに、春に沖縄で出会った人とは、夏の北海道で…あるいは夏の北海道で知り合った人と、春の沖縄で…再会する確率が高いのも事実だ。
僕は彼と再会したあの時、いま現在、僕が住んでいる所の地名を挙げたし、バイクも、あのころ持っていた二台のバイクの、もう片方で旅に出ていた。それで、話の「つじつま」が多少あわなかったのだ。
『なるほど』
僕達は、こんな偶然に驚き、再会を喜びあった。そしてその晩、僕達は、その沼のほとりにあるキャンプ場で、キャンプを張る事にした。
すぐ隣りでは、こちらの某大学の某サークルの男女十数人も、キャンプを張っている。いつの間にか打ち解けた僕達は、彼等の輪に加わり、大いに盛り上がり、最後は彼のテントに泊めてもらった。四人用テントだったので、二人で寝ても十分な広さだ。
翌日。全員で記念撮影をした後、反対方向に向かう彼とは次の再会を約して、そこで別れた。
戦い終わった戦場のような観光地。黒く煤けた顔に、妙に目ばかり光らせて、こちらを見ていた彼の顔が印象に残っている。
でも僕は、本当に逢いたい人には、決して遭えない運命のようだ。
“INN” ―草花荘―
“INN”というのは英語で、“HOTEL”より格の落ちる宿の事だ。
けっこう寒い時期だった。
暗くなった頃、バイトから戻って来た僕は、その先に自分のアパートがある路地を右折しようとしていた。
「○! ○! ○! ○!」
まさにその角を曲がっている時。とある場所でつけられた僕のアダ名を、叫ぶ声がする。
『?』
僕はその路地に入った所で、バイクを止める。振り向くと、薄暗がりの中から、見知った顔が現れる。でもこんな所で、その姿を見るような奴ではないはずだった…。
「帰って来るまで、ここで待たせてもらってたんだ」
奴はそう言った。
その男は、道を尋ねた角の酒屋で、僕が戻って来るまで待っていたそうだ。彼とは、その前の夏、北の島で知り合った。
(でも、何の連絡もせず、僕が今晩帰って来る保証だってないはずだ。まあ「チャリンコ日本一周野郎」の彼の事。この寒空の下だって、何とかしただろう)。
僕は、そこから数百メーター先にある僕のアパートまで、ゆっくりバイクを走らせ、彼を先導する。
彼は僕の住所だけを頼りに、せっせとペダルを漕いで、ここまでやって来たのだ。もちろん「一夜の宿」をアテにしている事は、言われなくてもわかってる。
とある場所で出会った、ヒッチ・ハイクの男が語っていた。
「その人に、今は恩返しは出来ないけど」…貧乏旅行しているくらいだから、当たり前だ…「いつか自分が逆の立場になったら、同じ事をするよ。そうするのが俺の責任だと思ってるし、それが、そのとき親切にしてくれた人に対する恩返しだと思っているよ」と。
僕は「タダ乗り」は無かったけど…もちろんこれには、二つの意味が含まれている…タダ酒・タダ飯・タダ宿は、何度も経験した事がある。それは偶然の場合もあるし、今回のように、ある程度意図的なものもある。
突然、旅先で知り合った友達のアパートを訪れた事があった。
旅が終わった後、待ち合わせをして、一緒に酒を飲みに行った事もある。
後になって、一緒にツーリングに行く仲間になった奴もいる。
僕は俗世を捨てたような、町外れにあるアパートに住んでいて…
(冒頭の名前を見れば想像がつくだろう)。
隣りはモーテル。向かいにはお寺の墓地。裏には「〇〇自然丘陵」なんて山林が広がっていて…
割りと人間嫌いなところがあったが、こういった来客なら大歓迎だ。
ロクな暖房器具のなかった僕の部屋は、けっこう寒い。僕達はジャンパーを羽織ってコタツに入り、近況や旅の思い出を語り合った。しかし…
翌日、僕が学校から戻ってみると、ソイツはわざわざ食料を調達して、カレーを作ってくれていた。
『これじゃ何にもならない』
僕は後悔した。
だいたい僕は、気が利かない。別に悪気は無いし、普段はそんな事も無いと思うのだが、時々ポッカリ抜けたように、気が利かない時がある。
以前いつだったか、友達がケーキ持参で、彼女と共に遊びに来た事がある。僕は彼が気まずそうに催促するまで、冷蔵庫に入れたケーキの事をすっかり忘れていた事があった。
彼は結局二泊した後、旅立って行った。
その後も、そんな友達が何人か、僕のアパートを訪れた。あの頃は皆、そういった友達の家を、そいつの名前やアダ名、地名などに由来する名称で呼び合ったものだが…。
とある夏の日の夕方近く。僕は銀行のキャッシュ・コーナーにいた。現金を引き出すためだ。
ATMの前で「お引き出し」のボタンを押そうと思っていると、左隣りからいきなり「エクスキューズ・ミー」と来たもんだ。
『?』
横を向くと、なんと外人さんじゃありませんか。おまけに、二十代ほどの女の子。
『!』
夕方近くまでゴロゴロして、『今日も何も起きないで、一日が終わっちゃう』と思ってボケーッとしていたのに、いきなり目が覚めた。
後で聞いた話だが、21歳のドイツ人の女の子。でも名前は“YOKO”ちゃん。お母さんが日本人との事。ドイツ人だけど、英語はまあオーケー。でも、お母さんが日本人なのに、日本語は「少しだけ」。
(これが、彼女が喋った唯一の日本語。そして僕は、「唯一知っているドイツ語は“Ich Liebe Dich”だ」と言ったら、笑ってた。「イッヒ リーベ ディッヒ」とは、「愛してるよ!」って事)。
色が白くて小柄な娘。ブラウンの髪はショート・カットで、たとえて言うならプロ・テニス・プレイヤー「マルチナ・ヒンギス」風。パーカッションを叩いていて、あちこちのイベントに参加するため、来日しているそう。
(でも、プロなのかどうかは?)。
「トラベラーズ・チェック」は持っているのだが、窓口業務が終っていて、現金に替えられない。近くの町に住む親戚のおばさんの所に、帰りたくても帰れない。それで困っていると言う。裏口に回って聞いてあげたが、答えは“NO”.
(アメリカあたりではどこでも使えるが、日本では「小切手」は不便だ。ましてや、「マルク」の小切手ではなおさらだ。両替のレートもサッパリわからん)。
でも仕方ない。日本男児の名にかけて、このまま見捨てるわけにはいかない。
(別に女の子じゃなくても)。
そこで僕は、一番簡単な方法でケリをつけた。「トレイン・チケット」を「プレゼント」する事にしたのだ。
(金で何でもカタがつく…と思うのが日本人の悪いところ? そんな事はない。それはあくまで政治的・国際的レベルでの話だ。個人レベルでは、日本人はマシな方だ。僕は何の見返りも要求していない)。
おまけに雨まで降り出したので、傘を持っていなかった彼女を、駅まで「エスコート」。
(でも相手が男なら、ここまではやらなかっただろう)。
電車賃は「七百数十円」。僕は彼女に千円札を渡し、「おつりでコーヒーでも飲みなよ」と言い、改札の前で握手をして別れた。
あの頃から長い年月が経ち、やっと僕にも、人に恩返しできる番が回ってきたのだ。
その後、彼女からは一枚のファックスが届いた。しかもインターナショナルな事に“From Germany”だ!
“manfulness”
「男の逸品」なんて言葉がある。
「グルメ」とはまったく縁の無い、「美食」なんてものにはほど遠い僕だけど、けっこう自慢できる「一品」が、本当に一つだけある。
「うへ~! マジ~」
僕は、ひとくち口にしたソイツを、すべて吐き出した。
「食べ物を粗末にしない」ことにかけては自信のあった僕だけど…
「お前が食わない物は犬も食わない」なんて言われてた僕だけど…
「なんだよコレ~」
僕は口をゆがめ、渋い顔をする。さすがにコイツは食べられない。
夏の早朝。東北の、とある有名な湖の近く。国道脇の広い駐車スペース。特に駐車場の指定も、区画も区分された場所ではなかったけど、僕はそこの端にバイクを止め、何の予備知識も予行演習も無く、生まれて初めての自炊…つまり「ゴハンを炊く」行為…を敢行していたのだ。でも…
林間学校での飯盒炊爨。
職場等の親睦会でのバーベキュー。
そういった場合、だいたい二つのグループに分かれる。積極的にやる「奉行組」…「鍋奉行」なんて言葉を御存知だろう。ようするに、「仕切りたがり」のことだ…と、それを囲む「取り巻き組」だ。
僕は後者の方に属するタイプだったから、火でゴハンを炊いた事など、その時まで一度も無かった。単に旅の食費を浮かすため、僕は実家の台所から大量に頂いた米をとぎ、新品のガソリン・コンロの火にかけた。
(本当は「ホワイト・ガソリン」という専用の燃料を使うのだが、バイクのガソリン・タンクから抜いたレギュラー・ガスを使えば、持ち物が一つ減る事になる)。
「料理」なんてものにはまったく興味が無かった僕なので、事前の練習は無し。完璧な自己流で、水の量も火加減も、まったく適当・当てずっぽう。
(だいたい、食べたら無くなってしまう物に手間・暇かけるなんて、僕にはいたって無駄な行為に思えるのだ)。
『こんなもんだろ』
そう思って火を止めたのだが…
「仕方ないよな…」
芯の残ったボソボソのゴハン。僕はソイツをすべて捨て去った。僕の初めての「自炊」は、散々な結果に終わってしまった。
初の「自炊付き」旅行に出た、二日目の朝の事だった。
でも僕はその旅の途中、すぐにコツをつかんだ。「おコゲが好き」なんて人もいるようだが、僕はコゲひとつ作らず、ゴハンを炊き上げる事ができるようになった。
大した事ではないのだ。相変わらず水の量は適当だったが、芯が残っていればもう少し水を足し、ビチャビチャ軟らか目なら更にそこから、ちょうど食べ頃になるまで炊き込めばいいだけだ。
『はじめチョロチョロ、なかパッパ』
薪などでは難しいだろうが、簡単に火力を調節できる道具で炊くのなら、もう完璧だ。
ただ、常に炊け具合に気を遣っていなくてはならない。でも、手持ち無沙汰な夕方のキャンプ地。ゴハンのデキを見ながら、空の色が変わっていくのをボ~ッと眺めているのも悪くない。
(でもオカズの方は、予算の関係もあったし、「口に入る物なら何でもオッケー」の僕だったので、相変わらずだった。だいたい貧乏旅行していた頃は、「きょうはフンパツして、ソーセージ買っちゃおう」なんてレベルだった。ソーセージは贅沢品。いつも、98円が相場の「さんまの蒲焼」の缶詰を探しては、オカズにしていた。もっと安い「さばの水煮」は、めったに手に入らなかった。100円前後の「イシイのハンバーグ」は贅沢品。50円前後の「マルシン・ハンバーグ」がいつもの定番。インスタント・ラーメンの2~3倍の値段のカップ・ラーメンは、贅沢品の部類だ。それに、燃料代の節約と手間を省くため、レトルト食品は温める前に水洗いして、レトルト・パックを温めたお湯は、スープやコーヒー用に使うのだ)。
「停電だよ!」
冬の大雪の晩。僕のアパートのあたり一帯は、かなりの長時間に渡って、停電となった。ちょうど夕餉の時間の頃だった。
「どうしよう?」
暗がりの中、困った顔をする。僕の部屋には、ちょうど彼女が来ていた。彼女は僕が、「料理」はおろか、「外食」もあまり好きではない事は、重々承知していた。
だいたい辺鄙な所に住んでいた僕だし、こんな大雪の晩、わざわざ食事に出かける気にもなれない。それに、出て行ったところで、この停電だ。はたして、営業している所があるのかどうか、定かではない。
「どうしよう?」
食材は、彼女が用意してくれてあった。つまり彼女の「どうしよう?」は、主食のゴハンが用意できないという意味だ。
だいたいどこでも、「炊飯器」という物は電気式がメインだ。「料理が得意」とまではいかなくても、「料理が好き」なんて人だって、わざわざ家のガス・コンロで『ゴハンを炊いてみよう』なんて思わないはずだ。
「仕方ね~な」
そこで僕は、さももったいぶって、重々と腰を上げたのだ。
そして懐中電灯片手に、サッサと二人分のゴハンを炊き上げる。そんな僕の姿に、彼女は感心する事しきり。
そしてロウソクと懐中電灯の明かりの下、最高の…あるいは最低の…晩餐となったわけだ。
『男と筋肉は、必要な時だけ硬ければよい』
僕はそう思っている。一流スポーツマンの上質な筋肉は、「マシュマロのように」柔らかいそうだ。焼肉やステーキだってそうだ。上等な肉は柔らかい。いつもいつも、年がら年中「硬ければ良い」というものではない。そして…
『男のアソコは必要な時だけ硬…』
じゃなかった。
『男はイザという時、メシが炊ければよい』
僕はそう思っている。
『調理にはまったく無頓着』と思われていた僕は、その一件で、かなり「男を上げたのだ」…と思う。
“sign board” ー群馬県・片品村ー
高原の空気は澄んでいて、下界とはくらべものにならないくらい、爽やかだ。
真夏のまっ最中。ちょうど「お盆」の頃。「群馬県・片品村」。有名な「尾瀬」への入口に位置する街。
でも僕は、観光に来ていたわけではない。山々に響き渡る爆音。ここ数年、この時期の日曜には、僕は必ずここにいた…。
『関東選手権第15戦・群馬大会』ジュニア125cc決勝。
僕はそのスタート・ラインに、誰ひとりの応援もヘルプもなく着いていた。今日は、この一発で終わりだ。
『今日はひとりだし、決勝はひとつだけの方が集中できるさ』
僕はクラッチを切りギヤを入れ、全開キープでバーが倒れるのを待つ。
『ちょっとした勘違いさ。運が悪かっただけさ』
でも250ccの方を、そしてこのコースを得意としていた僕にしてみれば、手痛い勘違いだった。
「…!…!…!…」
フロント・ブレーキを握り、クラッチ・ミートすれすれをキープ。リアがグイグイと持ち上がる。クラッチ板が膨らみ、軽い振動が出ているのだ。長く続けていると、クラッチ・プレートが焼けてしまう。
『早く倒れろよ』
スターティング・バーが「ゴクン!」と動く。
『?』
急いた奴が、フロント・タイヤで突いた動きとは違う。ロックが解除されたのだ。
『!』
ブレーキ・レバーを放すと同時に、クラッチを継ぐ。
“It❜s Show Time !”
爆音と土ボコリ。戦いの幕は切って落とされた。あとは好きにやってくれ!
『なんだって!』
その日の午前中。
僕は、貼り出された「ジュニア250cc」の予選結果を見て、唖然とした。
『…』
次の言葉が出て来ない。僕は思い返す。
『予選は通過できればいいから、無理に仕掛ける事もない』
あのとき僕は、そう思って走っていた。
『その気になれば、抜けたはずだ!』
あの時、僕の前には数台が数珠つなぎになっていた。後ろには誰もいない。
『仕掛けるチャンスはいくらでもあった…』
前を走っているライダーに出されていたサイン・ボードでは、僕までが予選クリアーのはずだった。
『前のクルマのピット・クルーが、順位を数え間違えていたのだろうか? それともハメられたのか?』
とにかく僕は「ジュニア250cc」、ひとつ違いで予選落ちだ。
『!』
たぶん僕は憮然とした表情で、自分のトランポに戻って来たはずだ。
『チクショ〜!』
今回、僕にサイン・ボードを出してくれる人は、誰ひとりいなかった。皆、都合が悪かったのだ。でもそんな事で、『関東選手権』を棄権するわけにはいかない。大切な「国際B級」昇格への、ポイント獲得のチャンスが減ってしまうからだ。それで僕は、たったひとりでレースに来ていた。
『ケガをして帰れなくなったら…』
そんな事は、怪我をした後で考えればいい。
それに僕は、基本的に、サーキットではなるべく友達を作らない主義だった。僕はそれほど世渡り上手じゃないし、頭の切り替えも早くない。
「きのうの敵は今日の友」
引退した後なら、それも良いだろう。でも現役の僕には、とうてい無理な話だ。
『125でガンバレばいいさ』
僕はそう思って頭を切り替える。幸い、「ジュニア125cc」の方は、予選を通過していた。僕は、その決勝ヒートに向けて、準備を始める。
『?』
その時フト、隣りのクルマに目がとまる。お隣りさんは、ノービス・クラスに出場しているライダーだ。
男二人はうなだれて、気の抜けた顔をして座り込んでいる。たぶん、上半身裸の方がライダーなのだろう。そのうつろな目を見れば、予選落ちは一目瞭然だ。
そして…放心状態の二人の男の傍らに、女性が一人、二人を見下ろすように立っている。どちらかの彼女なのか、ただの友達か、彼等は三人で、このレースに来ていた。
『!』
僕の方に顔を向けたその女性と、目が合う。黒いキャップに黒のTシャツ。そしてたぶん、ジーンズだったと思う。晴れればホコリ・降れば泥んこのMX場に来るには、もっともな格好だ。
僕は軽く目で会釈してから、自分の仕事には取り掛かる。僕が今朝、トランポの中で目を覚ました時、彼等の車が隣りに並んでいた。僕は昨晩、割りと早目に眠りに就いたので、彼等のパドック入りに気がつかなかった。
「ひとりで来てるんですか?」
セミ・ロングの髪に白い歯。その女性とは、今朝、その程度の会話を交わしたはずだ。僕は背中に彼等の視線を感じながら、独り、スタート・ラインに向かう。
『今、何番手くらいだろう?』
僕は思った。スタートはうまくいった。けっこう上位につけている。
『まあいいさ。とにかく走り続けるだけだ。ここのコースでなら、ソコソコいけそうだ』
僕には、そんな感触があった。
僕はどういう訳か、アスファルトの上では左回り、オフロードの場合は右回りのコースが得意だった。
(唯一の例外が、「鈴鹿」のモトクロス・コースだ。あそこは大嫌いだ。ナゼかと言うと、いつも成績が悪いからだ。この年、唯二のダブル予選落ちを喫したひとつが、右回りであるスズカのコースだ。『わざわざあんなトコまで、出かけて行ったのに…』。だから、これこれこうだからと言うはっきりした理由は無いけど、大嫌いなのだ)。
どういう理由なのかはわからないが、アスファルト舗装のサーキットは右回りが多いが、モトクロス・コースの場合、圧倒的に左回りが多い。ここはその数少ない、右回りのコースだ。
1周目のコース後半。そこを登り切ればパドックが裏手にある、長くて急な登り坂。僕は下から加速をつけ、一気に頂上を目指す。
その登り坂の2/3ほどに到達した時だ。
「P6」
僕の右前方に、サイン・ボードが出る。「P6」とは「ポジション6」。つまり「6位」という意味だ。
『?』
僕は通り過ぎざま、チラリとそちらに目を走らす。先ほどの彼女だ。わざわざ僕に、サイン・ボードを出しに来てくれたのだ。こぶしを振る彼女に、コクンと頷き返し通り過ぎる。
「P6」
「10分」…10分経過。
「P6」
「5分」…残り5分。
「P6」
「L2」…「ラップ2」=残り2周
レースは、特に大きな波乱も無く、淡々と進行した。最後に「L1」…残り1周…のサインを見てゴールだ。
パドックに戻った僕は、疲れてはいたが、気分は上々。苦手な125ccでポイント・ゲット。6位なら賞品ももらえる。
(順位に応じ、15位までポイントが出る)。
僕は戻って来た彼女にお礼を述べる。彼女もニコニコと嬉しそうだ。
『さて!』
気分が良いところで、サッサと帰り支度。ジュニア250ccなんて、どうでもいい。僕は自分の事にしか関心が無い。他人のレースなんて興味が無いし、誰が何位になろうと、僕には関係無い事だ。
『?』
帰りの上りの高速道路。その頃、全日本選手権なども転戦していた僕は、少しはマシなワンボックスに乗っていた。
追い越し車線を走っていると、今日のお隣りさんの車に追い付く。
追い越しざま、僕はチラリと振り返る。後部座席に座っていた先ほどの彼女と、窓越しに目が合う。向こうもこっちに気がついた。
僕は軽く会釈して、手を上げる。
彼女は一瞬ハッとしたような顔をしてから、ニコニコと両手を窓にかざし、手を振ってくれた。
僕は前に向き直る。さらに良い気分だ。
たったひとりでジュニア・クラスを戦ってポイント・ゲット。
きっとあの日の僕は…自己満足かもしれないが…彼女の目には、最高にカッコ良く映ったはずだ。
でもその後、МXコースで彼等に会う事はなかった。
(一回こっきりで姿を消すノービス・ライダーは、けっこう多いものだ)。