To South ―南へ―
“SUN TAN”
“Eisbahn” ー神奈川県・箱根ー
“atelier” ー静岡県・沼津ー
“HEADPHONE STEREO” ー岡山〜香川ー
“ALARM CLOCK” ー愛媛〜鹿児島ー
“Right Hand” ー沖縄ー
“JUKE BOX” ー沖縄ー
“Blue Lagoon” ー鹿児島県・与論島ー
“TELEPHON CALL” ーROUTE3・福岡ー
“tail light” ―ROUTE2 広島~神戸―
“FALLING RAIN” ー大阪市ー
“RearーView Mirror” ー奈良県 名阪国道ー
“SUN TAN”
まさか三月のこの時期、泳げるなんて思っていなかったから、僕はもちろん、海パンなんて持っていなかった。
最初は、紀伊半島でも一周して帰ろうと思っていたから…。
初日に一日中、雨にたたられたものだから、晴れたらもっと南下しようと思っただけだ。
翌日の夜。国道から逸れると、四国行きの船があったから、それに乗っただけだ。
一日走って四国の西の端まで行くと、九州行きの船があった。そこにいた地元のライダーが、「宮崎まで行く」と言うので、僕もついて行く事にしただけだ。
宮崎に向かう途中、「鹿児島へ行く」と言うライダーに出会った。翌日僕は、けっきょく九州の南の端にいた。そして…
『ここまで来たんだから、ついでに沖縄まで足をのばそう』
そう思っても、不思議は無い(?)。
お金はそこそこ持っていた。
近場回りをあまりしない僕だったし、それに僕は当時浪人の身。アルバイトで貯めたお金は、そっくり残っていた。
おまけに、バイクは燃費が良い。クルマにしか乗った事がない人にすれば、バイクのそれは「驚異的」に違いない。
(僕がその旅に使った250ccのバイクの最高記録は、リッター48キロだ)。
さらに野宿とユースホステルに泊まり、一番お金のかかるフェリーだって、車の料金とくらべれば「月とスッポン」。
暖かい沖縄に下り立った僕は、もっと南へ下りたくなって、「八重山諸島」行きの船に乗った。
その船でいっしょになった「原チャリ」二人組が、「いりおもて」に行くと言うので、僕も行ってみたくなった…。
僕は彼の地で、白と紺の縦縞の海パンと、安物の二眼の水中メガネを買った。勢い良く潜ると、片方のレンズが外れてしまうような代物だったけど…。
夏まだはるかに遠い都会に戻った僕は、その日焼けの色が褪せるまで、銭湯で、皆の奇異の視線を感じ続けた。
例のしましまの海パンが、くっきりしましまの日焼けになって残っていたからだ。
そして、その翌年の四月の某日。
大学に合格した僕は、入学式を済ませ、キャンパスをブラついていた。僕の元には、スキーのサークルからの勧誘が多かった。でも…
『勘違いしないでくれ!』
あの頃の僕はスキーなんて、毎年、年に一回くらいしかやった事がなかった。
僕のそれは、「逆パンダ」のような「雪焼け」じゃない。僕のそれは、純粋な日焼けだ。
その日は、再び沖縄の地を訪れた後だった。
“Eisbahn” ー神奈川県・箱根ー
そこに差し掛かったのは、もう深夜だった。
ここは「天下の剣」。二月の末では、まだまだ真冬のまっ最中だ。
僕は峠近くの、照明の無いまっ暗な駐車場に、バイクを乗り入れる。
霜でも降りているのだろうか、星明かりに照らされた路面は、キラキラと光っている。
始動したままのエンジンのシリンダーに、手を当てる。ライディング・グローブを通して、じんわりと熱が伝わって来る。
素手では触れないほどの熱さだけど、真冬にこうすれば、ちょうど良い具合なのだ。信号待ちなどの時には、毎回この手を使う。
冬のバイク・ライダーにとって一番辛いのは、手や足の指先の「冷え」だ。
グローブを脱いでも…すぐに脱げればの話だが…かじかんだ指先は、ハンドル・グリップを握ったままの格好になっている事がある。そういう時は、腕などに指を当てて、ゆっくりと押し戻してやる事になる。
そしてこんな時期に雨でも降られようものなら、凍傷寸前ではないかと思われるくらいに、指先の感覚がまったく無くなってしまう事がある。
やがて血が通い出し、ジンジンとたまらない痛みが指先を襲う。その、もどかしいような強烈な痛みは、手をプンプンと振ってやらなくては我慢できないほどだ。
「ふ~!」
指先の正常な感覚を取り戻し、一息ついた僕は、バイクから跨り降りる。
そして、グローブを脱いだ手で、タバコに火を着けた。火の着いたタバコの先を両手で覆うようにして、大きく息を吸い込む。両手の指の間から、ポッと大きくなった赤い光が漏れる。
このくらいの寒さになると、タバコの火でも、とても暖かく感じるものだ。
タバコを一本吸い終えた僕は、キラキラと光る路面に用心しながら、再び国道にバイクを乗り入れた。
“atelier” ー静岡県・沼津ー
「なんてこったい!」
グチる元気も残っていなかった僕は、身の不運を嘆いた。ボタンを押しても、ソイツは「ウン」とも「スン」とも言わなかった。
「新品のはずなのに?」
たしかにソイツは、今回の旅行のために用意したもので、まだ一回も使っていなかった。
「おっかしいな~?」
僕は合点がいかなかった。
もう真夜中に近い時間の頃。凍てつくような寒さの峠を、やっとの思いで下って来たというのに、ツイてない事に、リア・タイヤのパンクに見舞われたのだ。
「ガッカリだ!」
深夜、それも真冬の寒さの中でのパンク修理なんて、まっぴら御免だった。そこで僕は、手持ちの「瞬間パンク修理剤」を取り出したのだけど…
タイヤのバルブにノズルをつなぎ、ボンベの先端のボタンを押す。手順は間違っていないはずだ。以前に何度も使った事がある。だいたい、そんなに面倒な作業ではないはずだ。
なのにタイヤは、いっこうに膨らまない。バルブからノズルを外し、ボタンを押してみるが…「?」。まったく反応しない。ガスが抜けてしまったのだろうか? 原因は、まったくわからない。
「さて、どうしよう…」
僕は思案していた。幸い峠を下り終え、平坦な直線路に出た所だった。でも、もよりの街までは、まだかなりありそうだ。それに僕の身体は、完全に冷え切っていた。
しかし残された道は、この暗さと寒さの中、パンク修理をする事だけだ。
「仕方ないよな」
そう決心しかけたところに、一台のバイクが通り掛かる。
僕の姿を見かけた…そして僕が難儀している事に気づいたそのライダーは、急停止して、わざわざ引き返して来てくれる。
僕と同型のバイクに乗る彼は、少し年上、東京の大学に通う大学生だ。この時期、大学はすでに休みに入っていたし、この先の街が、彼の故郷だと言う。
(もちろん、その場でそんな話をしたわけではないが)。
僕達は二人で思案した。そして…寒さで、「瞬間パンク修理剤」のガスが気化しないのだ…という結論に達した。
(みなさんも、おぼえておくと良い)。
「あそこで温めてもらおうよ」
彼がそう言って指し示した方角には、わずかばかりの人工の明りが漏れている場所があった。地元の人間でない僕には、暗さでよくわからなかったのだけど、多分そのあたりは、松林か何かが続いていたのだ。
僕達は、その明りの光源に向かう。バイクを押し行っても、すぐの距離だった。
僕は全然気づかなかったのだけど、そこにあったのは一軒の喫茶店。
『アトリエ』
どんな文字だったかは忘れてしまったけど、その喫茶店は、「工房」を意味するフランス語が語源の単語に、漢字で当て字をふった名前だった。
夜中の正午に近い時間だったけど、まだ店は営業していた。僕達は、その店に入って行く。
彼は先に立って、あれこれと事情を説明してくれ、お湯で「瞬間パンク修理剤」のボンベを温めてもらえる事になった。
その店は、喫茶店のマスターというにはちょっと無骨で、ゴツイ面構えの、割りと無口な人が一人でやっている店だった。歳の頃は、二十代後半から三十代半ばくらいか? あまりはっきりと、年齢を特定できるようなタイプの人ではなかった。
でも、南紀出身の某有名作家を彷彿とさせる風貌で、僕は氏の作品を何冊か読んだ事もあり、妙な親近感を覚えたりもした。
僕達はまず、パンク修理を済ませる。案の定、お湯で温めたボンベは、本来の機能を取り戻し、凹んでいたタイヤは見事に再生した。
その後で、僕達は改めて飲物を注文した。一息ついたところで、話が僕の身の上話に移る。
どこから来て、どこに向かうのか?
大学受験が終わり、発表待ちの身であること…。
この寒さの中のこんな時間に、今晩の宿のアテも無いこと…。
店はもう間もなく、閉店の時間だ。客は僕達くらいなので、マスターも話に加わっている。
そして僕は、パンク修理を手伝ってもらったうえに、その大学生にコーヒーまで御馳走になってしまい、挙句の果てに、そのマスターの自宅に泊めてもらう事になったのだ。
だいたい僕は、「オゴられ上手」だ。別に狙ったわけではないのだが、いつの間にか自然と、そういう事になる。よほど貧相に見えるのか、人の憐れみを誘うらしい。
とにかく、得な奴なのだ。目先を変えて、ヒモにでもなった方が良かったのかもしれない。実際、年下の奴や、女性にオゴられたりもする。
だから僕は、たとえ『マッチ売りの少年』に生まれ変わっても、寂しい結末を迎える事はないだろう。僕はいつも、首の皮一枚で難を逃れ、決して「食いっぱぐれ」は無い。たぶん僕は、そういう星の下に生まれてきたのだ。
僕たち…僕とマスターは、バイクの彼を見送ってから、マスターの家に向かう。僕は自分のバイクで、マスターの車を追う。
やがて…郊外の田んぼの中に、まとまって数軒建った住宅の一軒。マスターはそこに、年老いたお父さんと二人暮らし。
マスターのお父さんは、突然の来客に、嫌な顔ひとつせず…むしろ喜んでいたようだ…お茶を入れてくれたりあれこれと、僕を歓迎してくれる。
コタツに入って少々。でももう、夜も遅い時間だ。いつまでもウロウロしていたのでは、かえって迷惑をかけてしまう。必要な事をすませたら、サッサと寝床に入った方が良い。
僕は、二階の一室を貸してもらった。障子で廊下と仕切られた和室。でも、寝るタイミングを逸してしまった時間。なかなか寝つけない。
そんな僕の頭の上で、スーッと静かに、障子が開く。僕はドキッとしてしまった。
「沖縄ってのはさ、米兵なんかがいたせいか、そっちの方は進んでるんだよ、きっと」
とある宿で出会ったその男は、そう推論していた。
彼は、沖縄のフェリー・ターミナルで知り合った男の話をしていた。
彼はその男に気前良く、酒や食事を振る舞ってもらい、最後は、その男の家に泊めてもらう事になったのだそうだ。でも深夜、その男に「夜這い」をかけられ、あわてて逃げ出したそうだ。
その話を聞かされたのは、その後、その旅の途中でだった。
「寒くないかい?」
頭の上で声がする。マスターのお父さんだ。僕の事を気遣ってくれたのだろうが、やっとウトウトし始めていた僕は、それでまた一気に目が覚めてしまう。
それに、まだ旅に出た初日。興奮と緊張もあったのだろう。僕はその後、いつ眠りに就いたのか判然としないまま、夢の世界へ…。
翌朝。午前の太陽は、もうかなり高く昇り、暖かい陽射しを落としている時間。僕は二人にお礼を言い、そこを後にした。
僕はその旅の途中、一枚のお礼状を書き送った。
僕はその旅の途中、大学合格の知らせを聞いた。
“HEADPHONE STEREO” ー岡山〜香川ー
「~つらい旅だぜ~」
僕は、窓に映る自分の顔を見詰めながら、ヘッドフォン・ステレオで、好きな曲ばかりを録音したテープを聴いていた。
室内の照明はそれほど明るくなかったけど、外は一つの明りも無い、漆黒の闇で満たされている。窓に映るのは、反射された船内の風景のみだ。
乗客もまばらな、夜の時間の船。
「~わかってくれるかい~」
僕はヘッドフォンから流れる曲を聴きながら、目を閉じる。眠くはなかったけど、瞼を閉じると、乾いた眼球がヒリヒリする。ずっと走り続けた後は、いつもこうだ。
僕は一時期、テレビをまったく見ない時期があった。僕の部屋には小型ポータブル・テレビがあったけど、そんな物は押入れの奥深くにしまわれていた。
レコードやテープばかり聴いていた。ラジオもほとんど聞かず、僕は世間から、かなり隔離された生活を送っていたけど、そんなものは全然苦にならなかった。むしろそれが『自分らしさだ』と思っていたくらいだ。
絶え間ない振動と騒音が、船全体に満ちていた。ちょっと古そうな船で、クッションの悪い木製椅子は、背もたれが直角に立った、座り心地の悪い物だった。
前年僕は、そのヘッドフォン・ステレオを、旅先で知り合った名古屋の大学生が通う、学校の生協で買った。
ヘッドフォン・ステレオ第一号。とても人気が出て、東京あたりでは半年待ちだった。なのに何気なく、ひとつだけ、その学生生協に置いてあったのだ。
旅も残すところ、あと一日。僕はサイフの中身と相談して、旅が終わった後の生活の事も考えず…
『なんとかなるさ』
そう答えを出した。
「WALK MAN」というのは、もともと和製英語で…つまり、文法的に正しくないそうだ…海外での発売には、別の名前が用意されていたらしい。
でも、かの有名なクラシック指揮者「フェルベルト・フォン・カラヤン」氏が来日した際、それを購入して帰り、発売前から話題となったため「WALK MAN」になったという話を聞いた事がある。
とにかくソイツは、その頃の僕にとっては、バイクと同等の、なくてはならない相棒だった。
僕はジャックから先の部分を改造して、バイクに乗りながらでも音楽が聴けるようにしていた。ヘルメットに埋め込まれたヘッドフォンは…本当は、道交法違反になるそうだが…音響効果抜群だった。
でも、乾電池は寒さに弱い。冬の深夜など、寒い時間に使っていると、すぐにバッテリーが弱ってしまう。それで僕は、ソイツにストラップを掛け、首から吊るして、その上から防寒着を羽織って走っていた。
(電池代節約のため、充電式の電池を買い、充電器とセットで持ち歩いていた)。
窓に映った僕の顔は、黒っぽく薄汚れている。
目的地はまだずっと先で、この船を下りた後、さらに走って、また船に乗らなければならない。
続いて、南国のリズムが流れて来る。
僕は、防寒着をはいたままの膝小僧を、軽く指先で叩きリズムを取る。
『早く帰りたい』
そのリズムと共に、前年の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
その曲が似合うような季節ではなかったけど、僕が目指す地では、もう、そんな気候になっているはずだ。
一年前も、こんな風に…船窓に映る自分の顔を見詰めて…船に乗っていた。
去年の今頃…。
“ALARM CLOCK” ー愛媛〜鹿児島ー
「ジリジリジリジリ…」
けたたましいベルの音。
『ん?』
僕は目を開けるが、暗くて何も見えない。
『なんだよ、いったい?』
でも、「非常ベル」だったりしたら大変だ。僕はハッと飛び起きる。あたりを見回すが、薄暗くて、状況が良くわからない。
ほかの皆も、ゴソゴソと起き出した気配だ。
『…?』
音の出どころの方に目を向けると、暗がりの中でコソコソと動き回る影。
音がやむのと同時くらい。誰かが部屋の明りを灯す。と、そこには…
『なあ~んだよ!』
そこには…デッカイ目覚まし時計を手にした男。
『またかよ…』
僕は思った。まったく人騒がせな奴だ。
二日前。
愛媛の宇和島から大分に渡る夜の船で、僕は彼と知り合った。
その港街が故郷の彼は、この春、高校を卒業し、「卒業旅行に九州に行く」と語った。
彼はヨンヒャクのホンダに乗っている。
「よろしくお願いします」
見送りに来ていた彼の両親は、何か勘違いをしているようだ。僕達は、たった今、出会ったばかりなのだ。
『まあいいさ』
特別アテのなかった僕は、九州の「日南」を南下する彼と、いっしょに走る事になった。
二等船室のハズレあたり。船はけっこう混んでいる。
角刈りの彼は、「野球をやっていた」と語ったが、細くて色が白かった。
「高防水性」を「売り物」に、最近発売されたばかりの、合成皮革製のま新しいライディング・ブーツを履いていた。
夜半に四国を発った船は、明け方ごろ、九州に到着する。
早朝の「大分港」は、ぼんやりと薄暗い。でもそれが、早朝だからという理由ばかりでない事は、すぐにわかった。今日は曇り空だ。それも、今にも降り出しそうな、低く垂れ込めた厚い雲に覆われている。
でも仕方ない。九州に上陸した僕達は、薄暗い「大分」の街へと走り出す。
夜もすっかり明けた頃。
最初にひと休みしたドライブ・イン。
そこで僕達は、僕達と同世代、「岡山から来た」と言うバイク乗りに出会う。
「旅は道連れ」
僕達はひとまず、「岡山の彼」が目指している「阿蘇」に同行する事にした。
「柔道をやっていた」と言う彼は、ガタイが良くて、荷物満載のヤマハの250が小さく見える。
でも間もなく、雨が降り出した。僕達は合羽を着込むため、道端に、縦に並べてバイクを止める。でも…
『あれ?』
僕と「岡山の彼」は、目を合わせて、首をかしげる。僕達の視線の先には、「愛媛の彼」がいるのだけど…
『?』
「愛媛の彼」は、「ヤッケ」…それも上着だけ…を羽織っただけ。
「どうしたの?」
僕達のそんな問いに、彼は…
「これしか持ってない」
絶句!
なんと彼は、バイクでツーリングに出るというのに、合羽を持っていなかったのだ。「ヤッケ」なんて物は、アッと言う間に水を通してしまう。それに、三月とはいえ、この寒空だ。
『あきれたぜ』
でもまあ仕方ない。無い物は無いのだ。僕達は再び走り出す。
首にタオルを巻き、ヤッケをバタつかせ、「愛媛の彼」は走る。防水のブーツが泣かせるぜ。ビショビショになったGパンを伝って雨水がしたたり落ち、きっとブーツの中はグショグショだろう。
途中、「愛媛の彼」は、ビニール製の「レイン・コート」を買った。ペラペラの物だけど、無いよりはマシだ。
他人の事とはいえ、これで一同ひと安心。でも…
『この時期、九州まで来て雪に降られるなんて…』
思ってもみなかった。
「阿蘇」を目指して高度が上がるにつれ、雨は雪へと姿を変えていった。
けっきょく有料道路にチェーン規制が出てしまい、僕達は取って返す事になる。
やがて・やがて…
『やれやれ』
雨水が乾いてまっ白になった排気管。
いちおう雨が上がった頃、僕達は本日の宿泊地…宮崎の「青島」のユースホステルにたどり着いた。
ここは、巨人軍がキャンプを張る事で有名だった場所。たしかに「愛媛の彼」は、ここの「日の出」を見に行くと言っていた。でも…
『あきれたぜ!』
あいにく、その日も雨模様。僕達はブツブツ言いながら、再びベッドにもぐり込む。
「ギャハハハハ…」
「カッパも持ってないくせに、ブーツは“アルファ・レイン”なんだよ」
「ワアッハハハ…」
「おまけにさ…」
その日の夜。鹿児島県は「桜島」のユース。
「岡山の彼」はまくしたてる。
僕達と、そしてそこで同宿となったライダーたちの間では、「愛媛の彼」の話題で持ちきりだ。
最後のオチで、みな大笑い。
なんと彼は、合羽も持っていないくせに、デッカイ「目覚まし時計」を持参しては、夜も空けやらぬ時間にセットしていたのだ。
『まったく、人騒がせなヤツだったよ…』
目的地が違った「愛媛の彼」とは、今朝、別れた。でも…
『あんなんで、ちゃんとたどり着けただろうか…?』
僕は彼の事が、少々気がかりだ。
“Right Hand” ー沖縄ー
『ヤベッ!』
予期せぬ出来事に、僕は心の中で叫んだ。
一般公道にしてはかなりキツイ、グルッと回り込んだ右ヘアピン・カーブ。リア・タイヤが砂にでも載ったように、ズルッと滑る。
僕は「キック一発」路面を蹴って、何とかバイクを立て直す。半径の小さなコーナーなので、スピードがかなり落ちていたのが幸いした。僕は「冷や汗」をかく暇もなく、そこを通過していた。
(もっとも「冷や汗」とは、後から出てくるものだ)。
「ここの道路はさ、右側通行用に作られてるから、転びやすいんだってさ。左側通行に切り替わる時、本土から応援に来た白バイが、バタバタ転んだって話だぜ」
本当に「右側通行用」と「左側通行用」の道路があるのかどうか? 事の真偽は定かではないが、僕はその日の晩、そんな話を聞いた。
まだ、「車は左」なんて冗談のような標識が、いたる所に立っていた頃だ。反対方向を向いて駐車している車も多かったし、『こんな車まで輸出用があったんだ』と思ってしまう国産のLハン…左ハンドルの事だ…もたくさん走っていた。
(ただし、そういった車は年式も古く、みな廃車寸前のポンコツばかりだった。でもこちらでは、そういった車がたくさん走っていた。床が抜け落ちているなんて車が、当たり前のように走っていたし…離島に赴いたりすると、ナンバーはおろか、ドアの一枚もない車が走っていたりする。どこに行っても海が近く、どこにいても強い陽射しと潮風に晒されてしまうのだ。だからこちらでは、新車より中古車の需要が多いそうだ)。
日本は、世界的に見れば少数派の、「左側通行」の国だ。文明開化の時、イギリスの交通制度に倣ったのだろうか?
(単に「ヘソ曲がり」「皆が右なら左にしよう」なんて理由だったら、大したものだ)。
ではナゼ、英国が「左側通行」になったのか?
(もっとも「陸続き」だったら、事情はずい分と変わっていただろう)。
正確なところはわからないそうだが、「紳士の国だから」という説があるそうだ。
「右手で戦い、左手で愛する者を守る」
それはたとえば、男女の服装の、前面の合わせ方の違いにも見る事ができると言う。
男の服は左側が上に来る。それは「懐から武器を取り出しやすいよう、そうなっている」との説があるそうだ。一方、女性のそれが、男性と逆になっているのは「子供に乳を与えやすいように」との事だ。
でもそれは、日本の着物だって同じだ。
「だから必然的に「左側通行」になった?」
僕は正確なところはしらないが、海外に出ると、どうせなら「万国共通」にしてほしかったと思ってしまう。
ウインカーのつもりでワイパーを作動させてしまう…なんて事は日常茶飯事。
(ここでチョット、想像してみて欲しい。もし彼女、あるいは彼氏と並んで歩くなら、あなたはどちら側に立ちたいですか? 僕は右側。そして彼女には、左側にいてもらいたい。右側通行の国の人がどう思うかはわからないけど、これは案外、左側通行の国に生まれ育ったからではないかと思うのですが…それとも僕が「右利き」だから?…もちろん今時、「女は半歩下がって」なんて人はいないと思うけど…)。
道路脇から道に出るため「右・左・右」と安全確認をした後、『さて、どっちだっけ?』。いざ道に出るとなると、自分がどちらの車線に入ったらよいのか、我を見失ってしまう…等々。
(ここでひとつ、注意しておきたいのは…右側通行の国の人と、左側通行の国の人が、狭い道路で相い対したら…「正面衝突の可能性が大きい」という点。ナゼなら…向こうは右側に除けようとして・こちらは左側に除けようとするからだそうだ)。
深夜、誰も通らないのを見計らって、僕はわざと右側の車線に出る。そして対向車のライトが見えるまで、右車線をキープ。
残念ながら僕は、「右側通行」だった頃にその土地を訪れた事がなかったし、その頃はまだ、海外を経験した事もなかった。
だからあの頃の僕は、「右側通行」にとても憧れていたのだ。
(ここで、さらにもう一つ提案しておこう。もしも本気で『内需拡大』を望むなら、「左側通行」から、世界の趨勢「右側通行」にスイッチすると良い。きっとこれ以上の『経済効果』)はないはずだ。かなりの混乱を招くだろうが、それは「生みの苦しみ」。それ自体、ひとつの『経済効果』になる)。
“JUKE BOX” ー沖縄ー
「ウワッ!」
僕が頼んだ「天丼」には、海老が二尾のほか、その他、野菜の天ぷらなどが山盛りだった。
値段は内地のそれと変わらなかったけど、その具の量の多さに、僕は感嘆してしまったのだ。
もう、ちょっと遅い時間だった。
「食堂」と言うより「ドライブ・イン」といった造りの店で、僕は遅い夕食を取っていた。
沖縄の食べ物は、珍しい物があるという以外に、量が多い所が多かった。
当時の沖縄は、返還後、段階的に税が引き上げられている途中という事で、食べ物は安かったし、表示がすべて英語なんてお菓子も、たくさん見掛けた頃だ。
ちょっとマシなリゾート・ホテルのレストランなどに行くと、いかにも輸入物っぽい、冷凍食品風の料理が出てきて、味は良くなかったが、それはそれでアメリカっぽいような気がして新鮮だった。
「洋式便座用・使い捨て紙カバー」を初めて見たのも、基地の街のマクドナルドでだった。
その店の隅に、ジューク・ボックスが一台、置いてあった。
その天丼をすべて平らげた僕は、そのジューク・ボックスに向かい、どんな曲が入っているのかのぞき込む。
僕は、自分がその当時一人暮らししていた街を思い出し、懐かしくなった。
そこは「学生の街」と言われる所の一つだった。
当時浪人していた僕は、予備校をサボッては、駅の近くにある、ボウリング場やフィットネス・クラブ、スタジオや、その他色々な店が入っているビルで、独り、ひがな一日過ごす事が多かった。
そこの一階・中央付近には噴水があり、それを取り巻くように、ファースト・フードの店や、レストラン、軽食屋や喫茶店の並ぶスペースがあった。
そしてその噴水の周りには、ベンチと、ヘッドフォンが三つ付いたジューク・ボックスが数台置かれてあった。
僕はよく、そのジューク・ボックスに小銭を落としては、暇を潰していたものだ。
曲名を追って行く。
最新からはちょっとズレていたが、好きな曲が入っていた。
僕は、日本の硬貨を入れるには大き過ぎるスロットに、百円玉を落とした。
“Blue Lagoon” ー鹿児島県・与論島ー
「バイクの後ろに乗せてよ!」
『え?』
僕が右横を向くと、そこには三人の女の子が立っていた。
雨上がりの、午後も早い時間だった。僕もいい加減、トランプなんて「暇潰し」にウンザリしているところだった。他の連中の嫉妬の視線を感じながら、トランプはお開きとなった…。
『日本にも、こんな所があったんだ』
その半月前の事だった。僕は、初めて見るサンゴ礁の海に見とれていた。
『たった一日、船に揺られただけなのに…』
まだ内地の方では、冬も終わっていないというのに、こちらはすっかり初夏の香りと潮の匂いが漂っていた。
『カラーのフィルムにしておけばよかった』
僕は船上から、その海を撮る。僕のカメラには、白黒のフィルムが入っていた。僕は気取って、あえてそうしていたのだ。けど、ここから先は、カラー・フィルムに変更だ。
『ふ〜ん…』
船は乗客や荷の積み降ろしの間、しばらくそこに停泊する。僕は港に降り立ち、あたりを見回す。
『…』
僕は九州の南の外れから船に乗ったわけで、そこまで来るだけでずい分と気候の違いがあったけど、ここまで来ると海の色からして全然違う。
でも僕は、もう一つ先の、終点まで切符を買ってあった。僕がそこにいられたのは、わずか一時間にも満たない時間だった。
僕はその頃、「大学浪人」をしていた。とりあえず、入試はすべて済んでいたので、旅に出る事にした。
(もっとも、まったく勉強していなかった僕は、受かる見込みはまったく無かった。もう一年浪人するか、それとも…何のアテも無かった)。
まだ春遠い時期だったので、南を目指したわけだ。
でも元々、こんな所まで来るつもりなどなかった。本当は、もっとずっと・ずっと手前が、漠然とした目的地だったはずだ。
そして、その島よりもずっと先まで行った僕は、帰り道に、その島に寄ってみる事にした。往復で買った、復路の切符を無駄にしてまで…。
(「払い戻し」は、発行した所でなければ出来ないと言われたのだ)。
たぶん、初めて見たバスクリン色の海に魅かれて…。
「バイクの後ろに乗せてよ!」
どんよりと曇った日が続き、今日も午前中は雨が降っていた。南国とはいえ、まだ春三月。天気が悪ければ、少々肌寒い。
その雨が上がり、明るい太陽が顔を見せた午後だった。
宿の食堂のテーブルで、男ばかりでトランプをしていた僕の所に、女の子が三人やって来ては、そう言われたのだ。
『ヨシ!』
話は即決まった。向かいの自転車屋さんで、レンタル・バイク用の白いドカヘルを借りて来る。
僕は一人ずつ順番に、その子達をバイクの後ろに乗せては、島を一周する。周囲で30キロほどの小さな島だ。一周するのに大した時間はかからない。
最初は東京から来たという女の子。次は大阪から来たという子。最後は、前に乗せた子と一緒に来たという、ちっちゃくて可愛い娘。
「どっか行きたいトコある?」
僕は尋ねる。この娘で最後なので、特別サービスだ。
「寺崎に行ってみたいな」
その娘は僕の耳元で、そう返事する。
僕はすでに、その浜に泳ぎに行った事があった。両側に張り出した岩場に囲まれた、白い砂浜があるだけの、特にどうと言う事もない静かな浜辺だ。半日いても、他に訪れる人はめったにいない。
さとうきび畑の中、アスファルトの切れた白い地道を走って、浜と海が見える所まで出る。まっ白な浜辺が眩しい。
僕は「こちらの浜辺の砂が白いのは、死んだサンゴのかけらのせい」という事を、次に訪れる時まで知らなかった。
僕は両足を着いて、バイクを支える。その娘は僕の両肩に手を掛け、バイクから降りる。
僕は砂に埋まってバイクが倒れないよう、慎重にサイド・スタンドの接地面を確かめる。
「ウワーッ!」
僕が隣りに並ぶと、ヘルメットを取ったその娘は、小さく感嘆の声を漏らす。
海には横一線、サンゴ礁の切れ目で砕けた波の白い線が走っていた。遠くには、北隣りの島の島影が見える。風は向い風。彼女の黒くて長い髪が、なびいている。
「ここは初めて?」
僕は尋ねる。
「うん」
ここは、ちょうど島の反対側だ。小さな島とはいえ、歩いたり、レンタル・サイクルで来るにはちょっと距離がある。
それに、この島には大した交通機関は無い。なにしろ、島の子供達が島外に出た時、「信号の使い方を知らないと困る」というので、わざわざ小学校の前に「押しボタン式信号機」を設置したくらいなのだ。
僕達は、白い砂浜を一回りしてから帰って来た。
僕はその日の晩、「お礼に」と言って三人から何かもらったのだが、それが何だったのか、全然思い出せない。
とにかくそれで僕達は、それまで一言も言葉を交わした事が無かったのに、急に仲良くなった。特に最後に乗せた娘と…。
みんなで泳ぎに行った。
みんなで近くの神社まで歩いた。
みんなで近くの喫茶店に「赤ちゃんミルク」…つまり「粉ミルク」だ…を飲みに行った。
みんなで空港や港へ見送りに行った。
三人は学年で言うと、僕より一つ下。三人とも、この春から短大に通うそうだ。
でも、あの娘だけは特別だった。
僕は彼女の肩に手を回し、一緒に写真を撮った。
僕は彼女だけを後ろに乗せて、茶花の街にお土産を買いに行った。
とっても・とっても楽しい数日が、流れて行った…。
でも、いつかは旅立たねばならない。
僕は、あの娘が双発の飛行機に乗るという日の午前中の船で、先に島を出る事にした。
カフェオレ色に日焼けしたあの娘は、走りながら手を振ってくれた。
遠のく島影。
僕はそれが見えなくなるまで、一番上のデッキの手すりに持たれ掛かっていた。
こんなにセンチな気分になるのは、生まれて初めてだった。
今でも、あのころ流れていた“Blue Lagoon”を聴くと、あの日の出来事が鮮明に思い出される。
それほど僕にとっては、強烈な思い出になっているわけだ。
(参考楽曲:高中正義 “Blue Lagoon”)
“TELEPHON CALL” ーROUTE3・福岡ー
「今どこにいるんだよ?」
「九州」
「~、~」
ヤツは何かゴチャゴチャ言ったのだが、よく聞き取れない。僕も、どうでもいいような話をしているだけだ。
百円玉は、どんどん落ちる。
『何で俺は、こんな所からアイツに電話してるんだろう?』
ちょっと会話が途切れた時に、そう思う。たしかにそうなんだ。きっと僕は…
『ただ誰かと話をしたかっただけなんだ。結局、コイツのトコくらいしか、アテがなかっただけなんだ』
僕は一桁国道沿いの電話ボックスから、電話をかけていた。深夜という時間ではなかったけど、陽はとっくの昔に沈んでいた。
まだ寒い時期だった。僕は帰路に就いていたのだけれど、先はまだまだ長かった。僕はちょっとばかり、人恋しくなっていただけだ。
「~! ~!」
電話の向こうのヤツの声は、面倒臭そうで、不機嫌そうだ。お互い、二浪が確定したばかりだ。
僕とソイツは、高校三年の時に、同じクラスになった。それまでは、お互いその存在すら知らなかったけど、新学期最初のめいめいの自己紹介の時、ヤツはバイクの話をしていた。それが妙に印象に残った。
最初は「族かぶれ」程度のヤツかと思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。僕達は、僕達が住んでいる街のむこうとこっちに住んでいたけど、バイクを通じて親交を深める事になった。
近隣をあちこち走り回ったり、当時は豊富にあった団地造成予定地などの広大な空地にバイクを乗り入れては、「モトクロスごっこ」なんてものをやっていた。
高校を卒業してからも、唯一、ソイツとだけは付き合いがあった。とてもそんなヤツには見えなかったけど、その後二浪した末に大学に入り、大学院にまで進んだ。モトクロスのレースを、いっしょに走っていた事もある。ヤツは自分でレースを走らなくなってからも、僕のピット・クルーとして、「関東選手権」や「全日本選手権」について来た。
『やれる時に、やっておかなくちゃ』
あんな日々は、もう二度とないのかもしれない。でも僕は、ずっとそう思って生きている。だから、楽しい思い出はいっぱいだ。
「帰ったら遊びに行くよ」
僕は最後にそう言って、受話器を掛けた。
ヤツに言わせれば、僕達は「クサレ縁」なのだそうだが、ここ三年ほど、音沙汰が無い。
“tail light” ―ROUTE2 広島~神戸―
眠いというわけじゃなかったけど、僕の意識は散漫になっていて、かえって一点だけを見詰めている方が楽だった。
初めて走る道なのに、街灯の少ない夜道は暗くて、僕は前を走るバイクの、赤いテール・ライトだけを頼りに走っていた。
国産では唯一の、縦置きV型2気筒のバイクに乗る男。年の頃は、僕より十歳前後は上だろうか。細いフレームのメガネに、整えられた髪。色が白くて、チョット神経質なインテリっぽい。
国道から、綺麗なコンビナートの夜景を見下ろすパーキング・エリア。そこで彼に出くわした僕は、大阪まで帰るという彼のあとに、着いて行く事になったのだ。
「…」
どうせ、周りの景色など見えない。僕は引きずられるように、着かず離れず、黙って彼の赤いテール・ライトを追っていた。
「赤」という色は、そちらに引き込まれる心理的作用が働くそうだ。
(特に夜間、事故処理や工事区間に突っ込む事故というのは、けっこう多いらしい)。
だから、昔は「赤」だったアメリカのパトカーや救急車の回転灯は、今ではすべて「青」になっている。
(ちなみに日本では、「青」は「駐車灯」だ)。
そういった意味で日本は、かなり立ち遅れているのだろう。
途中・途中、適当な所で、深夜営業の店を見つけては小休止。関西人だけあってか、僕とは対照的に、彼はよく喋る。
彼のバイクのサイド・カバーには、幻となってしまった「ポール・マッカートニー&ウイングス」日本公演のステッカーが貼ってあった。
空が白み始めた頃、雨が降り出した。合羽を着込んだ僕達は、走り続ける。
視界が悪い事もあって、二人ともライト・オン。昼間の時間では、自分が見るためというより、他車から見られるようにだ。
「昼間でも、バイクはライト・オン」運動が盛んだった頃。
(だいたい日本車でも、アメリカ輸出向けのバイクには、そもそもライトの「オン・オフ」スイッチが付いていない。エンジンを始動すれば、常に点灯しっぱなしなのだ)。
でも結局、アメリカのように法制度化される事はなかった。
〈注∶1980年代の頃の話です〉
水煙に霞んだ赤いテール・ライトを追いかけて、僕は走る。一日雨の中を走って、いい加減、そんな走りにも疲れた頃、そしてほんの一時だが、青い空が顔をのぞかせた頃、僕達は神戸のはずれに着く。
大渋滞の高架の上。彼とはそこで別れた。ここからは、また僕ひとり。
でもかえって、こっちの方が僕らしい。
“FALLiNG RAIN” ―大阪市―
僕は切なかった。
あても無く彷徨っていた。
はっきりと彼女が住んでいる所すら聞かないで立ち去った事を、後悔していた。
街には雨が降り続いていた。
彼の地を去って、此の地に近づくにつれ、僕の想いは募るばかりだった。
『たぶん、このあたりのはずだ』
でも、何のアテも無かった。
『近くにいるはずなんだ』
雨は無情にも降り続いていた。
『近くまで来ているのに…』
僕は諦めの気持ちでいっぱいだった。
まだ陽の短い季節だった。雨で煙った灰色の空は、夕暮れの時間をいっそう早めていた。
『いったい俺は、何をやっているんだ』
こんな広い都市で彼女とスレ違うなんて、ありっこ無かった。
こうなったからには、早くここから立ち去りたかった。僕は意を決した。アクセルを捻る。
雨は夜中になっても止まなかった。
僕はまだ走っていた。
“RearーView Mirror” ー奈良県 名阪国道ー
後ろから、トラックの大群が押し寄せて来た。何台いるのか、見当もつかないくらいの数だ。
僕は難を逃れようと、広い路肩に入る。追い越されざま、大型トラックの巻き上げる風圧でフラつく。でもその数は、たったの二台だった。
そこは、無料の自動車専用道路だった。路面は荒れていたが、高速道路みたいな造りをした道だった。
深夜という事もあって、夜行便のトラックは、制限速度をはるかに超えた、高速道路並のペースで走っていた。
それにつられたという訳でなく、モタモタ走っていたのではかえって危険なので、僕もそこそこのスピードを出してはいた。
でも、僕の250cc単気筒のオフロード・タイプのバイクにとっては、実力の80パーセントほどのペースだ。巡航するのはけっこう辛い。
『きょねんは雨だった…』
昨年の、ちょうど同じ時期の同じ時刻の頃。雨の中、切ない気持ちでバイクを走らせていた僕は、この自動車道の終点の街で野宿した。
翌朝は快晴。でも僕のバイクは、昼近くまでキックを繰り返しても、エンジンがいっこうに目を覚まさない。前夜のドシャ降りで、電気系統がヤラレてしまったのだ。
『確かこの先に…』
来る時も通った道だ。
『バイク屋さんがあったはずだ』
幸い駅も近く。相棒を預け、電車に揺られ、那覇で貸しのあった名古屋の友人宅へ。
その後二日間。僕は名古屋の街を見物して歩いた。でも…
『ことしはツイてない…』
海さえ荒れていなければ…そして
あの船にさえ乗れていれば…間違いなく
思い出のあの島で、あの娘と再会できたのに…
「運命の女神様」は、僕に微笑んではくれなかった。
ホントに…ホントに一日違いだった。
でもきっと、それで正解だった…
「じゃ、さよなら」
僕はケリをつけた。
「うん」
それでお終い。二ヶ月ほど前。わざわざ関西まで来たのに、再会する事もなく、その電話でお終い…。
『仕方ない。いつものことだよ…』
いつも僕は、普通の人から見れば、いたって「クダラナイ」、でも僕にとっては、とても大切な目的があって事を起こす。
『関西の大学に行こう!』
「事の真相」を知ったら、僕の両親は腰を抜かすだろうけど、昨年の春、僕はそう決心し、半年間、それこそ寝る間も惜しんで受験勉強に打ち込んだ。
でも結局、関西の学校とは縁が無かった。
でも、それで正解だった。
そして昨年同様、今年も道草を食い過ぎてしまった僕は、帰路に就いていた。仮眠をちょっと取っただけで、もう丸一日以上、走り続けている。
夜の闇も手伝って、チョット意識が朦朧としていた事も確かだ。それに、振動も多いエンジン回転域だった。
ミラーがブレて、後方の状況が良くわからない。それで二台の車のヘッド・ライトが、数台分にも見えた訳だ。
けっこう疲れてる。
あの都市からも十分遠ざかったし…
そろそろちょっと、休憩しよう!