選ばなかったのは君だろう?
ハンネス様が優しく微笑む。感動で胸が大きく震えた。
今すぐ駆け寄りたい気持ちを抑え込み、こちらへ歩み寄るハンネス様をじっと待つ。胸がドキドキして、ソワソワして、落ち着かない。それは、すごくすごく長い数秒間だった。
「陛下、この度は私のワガママを叶えていただき、ありがとうございます」
「ワガママだなんてとんでもない。我が国にとっても素晴らしい話だ。エラは私にとって娘も同然。貴国と縁が結べるとは光栄の極み――――もちろん、エラの気持ち次第ではあるが」
陛下はそう言って目を細める。具体的な話の内容は分からずとも、期待に胸が躍る。ハンネス様は私に向かって跪くと、そっと手を握った。
「私は将来、エラ嬢を妃として迎え入れたいと思っています」
想像以上――――あまりの嬉しさに、目頭がグッと熱くなる。心臓が早鐘を打ち、全身が熱くて堪らない。喜びに身体が打ち震え、今にも飛び上がりそうな心地がした。
「出会ったばかりで変に思われるかもしれません。けれど私は――――俺は、初めて会ったその時から、あなたのことが好きでした。エラ嬢の側に居たい。君の笑顔が見たい。幸せにしたいと心から思いました」
ずっとずっと欲しかった言葉。こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。ダンスに誘ってくださったあの時からずっと、ハンネス様は私に幸せをくださっている。失っていた自信や、希望を与えてくださっている。
この気持ちは絶対一生変わらない。ハンネス様以外の人は考えられない。
「もちろん、すぐに婚約とはいかないぞ。表向きは交換留学という形をとる。そこからお前は殿下と共に国を渡り、あちらで女官としての実績を残すのだ。他国の、それも一伯爵家の娘を妃に迎えるなど、俄かには考えづらいこと。恐らくは険しい道のりになるだろう。皆に祝福され、望まれる妃になる――――その覚悟が、お前にあるのか?」
父が尋ねる。私の行く末が心配なのだろう。
調べることを禁じられた時点で想像は付いていたけれど――――ハンネス様は王族だった。我が国の数倍の国土を誇る、隣国の王太子。そのミドルネームが“ハンネス”だった。陛下や両親の様子からも、我が国にとって、彼の国がどれ程重要なのかがよく分かる。
きっと、女官として実績を残す提案をしたのは両親だろう。すぐに婚約を結び、上手くいかなかった時の、我が国への影響を考えたのだ。
(覚悟……)
父の言葉を反芻する。不安が無いと言ったら嘘になる。国を離れること。女官として実績を残すこと。そもそも、私はハンネス様の妃に相応しいのだろうか――――。
そっとハンネス様を覗き見る。すると、彼はいつもの様に微笑んでいた。私のことを信じ、一ミリだって疑っていない。胸が燃えるように熱くなった。
「あります。私も、ハンネス様と共に生きて行きたいです」
言えば、ハンネス様は嬉しそうに微笑んだ。彼の笑顔は何度も見ている。何なら、出会ってから今まで、ずっと笑顔だ。
だけど今の彼は、これまでで一番幸せそうな表情をしている。嬉しくない筈がない。涙がポロポロと零れ落ちた。
「お待ちください、父上!」
けれど、祝福ムードに包まれた広間に、不似合いな声が響き渡る。ハンネス様と共に振り返れば、そこには顔を真っ青にしたヨナス様が居た。
「エラは僕の女官なんです! 勝手に話を進めないでください!」
陛下に向かって勢いよく詰め寄り、ヨナス様は声を荒げる。息子のあまりの取り乱しように、国王陛下も皇后陛下も困惑しきりだ。ハンネス様を振り返りつつ、眉間にグッと皺を寄せた。
「確かにエラはお前付きの女官だ。けれど、彼女の結婚についてとやかく言える立場ではない。分かったらこの話は終わりに――」
「いいえ、父上! エラが居なくなることは我が国の損失です! 彼女ほど優秀な女官を、こんなに簡単に手放して良いのですか!?」
駄々を捏ねる子どものように、ヨナス様が地団太を踏む。見ているこちらが恥ずかしくなる有様だ。両陛下も同じ気持ちらしく、恥ずかしそうに頬を染めた。
「その点はご心配なく。我が国から優秀な女官を一人お連れしますよ。エラ嬢に負けず劣らず、優秀な女官です。母親が貴国出身ですし、以前から留学を希望していましたから、今回の決定にとても喜んでいます。それに、エラ嬢はあなたにとって乳姉弟ですから、俺達の結婚で国同士の絆が深まります。決して損失にはならないかと」
ハンネス様が穏やかに微笑む。興奮し、取り乱しているヨナス様とは対照的だ。
「いい加減にしなさい、ヨナス。殿下に対してあまりにも失礼だろう」
「しかし僕は……! エラは僕のものなのに」
消え入りそうな程、小さな囁き。けれどそれは、ここに居る誰の耳にも届いたようだ。両陛下はワナワナと唇を震わせ、怒りが爆発するのを必死に堪えている。私の両親も驚きに目を見開き、明らかに困惑した様子だ。この状況下でそんなことを口にするとは――――。
「悪いけど、エラ嬢は君のものじゃない」
ハンネス様がそう言って、私のことを抱き寄せる。ヨナス様みたいに強引に腕を引くことも、捩じり上げることも無い。労わるような触れ方だった。ここ数日、ピンと張り詰めていた心が一気に弛緩していく。私はハンネス様の腕に、そっと身体を預けた。
「俺は夫として、エラ嬢を幸せにする。彼女を選ばなかったのは他でもない。君自身だろう?」
ヨナス様が目を見開く。口を何度かハクハクと開閉するも、返す言葉がないらしい。当然だろう。彼が私を選ばなかったのは紛れもない事実だもの。
もしもヨナス様がハンネス様よりも先に、両陛下や私の両親に話を通していたなら、話は違っていたかもしれない。彼の愛妾として尽くすよう、私は全員から説得を受けていただろう。
けれど、そうはならなかった。
ハンネス様は、真正面から私を迎えに来てくれた。選んでくれた。
どこまでも誠実で、温かい人。ハンネス様の側に居たい。一緒に歩んでいきたいと思う。
「だっ……だけど、エラとは出会ったばかりだろう? 本当に上手くいくのか? 幸せにできるのか? そもそも、いきなり国を離れさせるなんてあんまりじゃないか。逃げ場もなく、頼る相手もいないエラの身にもなってほしい。王族に――しかも他国の王族に嫁ぐことが、どれ程大変なことか! きっとたくさんの好奇の視線や批判に晒される。そんなの酷だ。エラはずっとここに居ればいい。僕の側に――――」
「貴族なら、顔すら合わせることなく、結婚当日を迎えることだって普通にありますよ。エラ嬢は美しく聡明で、素晴らしい女性ですから、我が国の皆から快く受け入れられるでしょう。もちろん、彼女のことは俺が全力で守ります。御心配には及びません。……大体、俺だって元々は、段階を踏んでエラ嬢との距離を縮めるつもりでした。それなのに、手紙も面会も全て退けられた。――――俺の邪魔したのは、何処の誰です?」
ハンネス様が、私の向こう側へと視線を遣る。すると、数人の騎士達が息を呑んでたじろいだ。私に付けられた騎士達だ。
両陛下は驚きに目を見開き、ヨナス様を睨みつける。これ以上恥を晒すなと、表情が物語っていた。ヨナス様はワナワナと唇を震わせながら顔を背ける。奇妙な沈黙が流れた。
(信じられない)
改めて、ハンネス様を見上げる。少しずつだけど、実感が湧いてきた。
(私、ハンネス様の妃になれるの?)
本当に彼に選ばれたんだ――――ハンネス様の手のぬくもりが、これは夢じゃないんだって教えてくれる。嬉しくて、幸せで、胸がドキドキと鳴り響く。
だけど、この時のわたしは気づかなかった。ヨナス様が私を狂気に満ちた瞳で見ていたことに――――。