狂気 6
浅い海のような色の部屋だった。
驚愕。
再会は偽りだった。
そのことに気づいたフィルハリーは凍り付く。
知らない部屋で目覚め、その隣室で出会った同志。
帝王の如き鬣を持つレッベルテウスほどではないにしても、身体能力は高い。
牡鹿の角、そしてしなやかな体躯を持つ魔怪獣だった。
そのヘミオーは返事をしない、いや、返事をすることが出来ないということが……それだけはわかった。
奴は、呼びかけに答えるどころか……。
「……?」
瞳孔が開いている。
瞳が全く動かず、表情筋が停止している。
何を感じているのか、何も感じていないのか。
笑みも怒りもなしに沈黙のみが続いていた。
牡鹿のその表情にこびり付いているものは過去に対する―――しいて挙げれば、驚愕。
その状態で床を睨んでいる。―――数日ぶりの対面をした、俺を見ていたわけではないと気づいた。
なんだ……?
白いものが、その毛皮について……お前……そんなに白かったか?
「ああぁ、そこ入っちゃったかあ……」
意図せぬ会話相手の消失を受けて、言葉を失うフィルハリーに会話を持ちかける。
ブルーの、装飾されたドレスを纏った少女が部屋の敷居を跨いで、歩いてきた。
両手をゆるりと広げる。
例によって、討伐はないとアピールする少女。
「初めはね、鎖でほらぁ、―――やっていたんだよ。キミみたいに捕らえようとした。でも暴れるよね……だから」
「お、お前……!」
臨戦態勢のままに叫ぶ。
「ヘミオーに何を! こ、殺しやがった!殺しやがったな!」
俺は吠えていた。
部屋中に響き渡るように吠えていたが、言っていることが違うことは心のどこかでわかっていた。
―――違う。
殺したんじゃあない。
殺しただけじゃない。
ヘミオーが生きていないのは直感でわかった。
だが、どういう……状態でこんなことになった。
自分にはわからない。
身体全体が硬度を持っている―――牡鹿の角の様なその硬直が、身体全体へと伝わったかのようだ。
だが、何だ―――何をした。
何をしたんだ、何を考えて……こんな。
何が……何者……?
形だけは姿勢だけはと、臨戦態勢のまま、俺は背後へ歩を進める。
引き下がる。
部屋の後方へと後ずさり、青い少女は両手を広げて歩み寄ってくる。
何度も武器を持っていないか確認した。
持っていない、確かに小刀の一つも持っていないまま―――無造作に近づいてくる。
少女。
そうだ―――女は若かった。
人間の年齢判断にはおぼつかないところがある魔怪獣ではあるが、それでも無視できないほどにつややかな顔色。
青白い、しかし皺ひとつない肌をしている。
精密に作られたかのような白い顔が、獣を見下ろす。
「ヘミオー……ああ、確かにそんなことを言っていた。魔怪獣は名前もあるけどなかなか教えてもらえない。 でも、何とかして調べたくて……」
牡鹿の彫像の横に並び立つ少女。
感慨深そうに眺める。
「急速冷凍だよ。やっと何とかなった。本当に大変で……もう……ね?」
どうやら同意を求めているらしい。
理解ができない。
少女は目を瞬き、感極まってのことか。
情は豊かな方らしく、天井を仰ぐ。
「最初期の連中はみんな粉々になってしまって、肩を落としたよ」
言ってから確かに肩を下げた。
ぶつぶつと、過去の労苦を呟いているらしい。
「まるで剥製だね! 今気づいたよ……普通の鹿でやるよりは相当に手間だろうけど」
「死体……!を、そこまでして、何故」
その口ぶりからすれば牡鹿が最初ではないということだった。
失敗を経験したことがある……この敵。
今までに、一度や二度ではない?
何度もこういうことをしている……?
「何故って」
少女と目を合わせると、フィルハリーは努めて音を立てずに後退した。
右方に丸机があった。
透明な液体と、水色な液体の入った容器だけが乗っていた。
それをじっくり眺める余裕はない。
見ずに下げた後ろ足が何かにぶつかる。
家具だ。
それに危険性などない、通常の机だった―――。
その上からなだれ落ちる。
電気鉗子、内視鏡用鉗子、鑷子、電気手術電極、レトラクタ、吸引カニューレ、ゲル癒着防止フィルム、骨片打込器。
それらの用途を、一介の魔怪獣であるフィルハリーが知る由もない。
ただ全くの説明なしにカシャカシャと騒がしく雪崩落ちた、異様に細い金属。
それが視界の端に映っているのみである。
彼は声を絞り出す……出さねば。
「な、何をしている……何を」
「キミねぇ……、ワタシ、知りたいと言ったじゃあないか」
奴は歩み寄ってくる。
手術器具を連想させるような痩躯の少女。
彼女の歩みが、停止する。
高圧的に映ったのは、ただ視点がフィルハリーよりも高いからか。
本当に困ったような表情で、少女は言う。
「敵のことをもっと知りたいと思うことが―――そんなにおかしいかな?」
こいつは。
この、正体不明の敵は。
「……な、何者だ!」
「『ピュアマッドネス』―――そう呼ばれている、魔法少女だよ」