66. 無力
「……ナシェア様?」
人気のない廊下を歩きながら、少女は不安げにその名を呼んだ。ずっと付き添ってくれていた女は、どうしても自ら始末をつけなければならない事が出来たと言って、随分前から側にいない。初めは自分ばかりにかまけていられないほど忙しいのかと納得したが、時間が経つにつれて孤独感が増していった。
思えば、少女にとって身の回りに人がいないというのは、あまり記憶にない。修道院では誰かと何かをやる事は多かったし、院長やアーレンデュラは会いに行けばいつでも会えた。
ふと、自分によく似たエスタの事を思い出す。
悲しそうな顔をさせたのは、どうやら自分のせいだった。実の妹だと名乗りもしなかった彼女は、植木の陰で出会ったあの日、何を思って泣いていたのだろうかと思うと胸が痛くなる。
「どうか無事で」
会いたいと口にしてしまいそうで、言えば余計にむなしいと解っていた。
城の中が何だか物々しい雰囲気が増したのもあるかもしれない。兵が慌ただしく行き交う様子は時折見られたが、少女に何が起きているのかを教えてくれる者はいない。ひたひたと忍び寄る不安が、一層恐ろしく感じた。
「誰か……」
誰かいないか。心細さに呟きかけた言葉は、慌てて飲み込んだ。それでも部屋でじっとしていられなくて、そっと廊下を覗き込む。
いつもであれば、ナシェアが側に居なくなってから立つようになった兵がいて、本当に少しだけだが会話をしてくれる。私語は厳罰されるからと聞いていたので、少女も無理は言えなかった。だが本日に限っては、その兵もいなかった。
思わず肩を落としてその場で呆然としていたら、通路の先に連れ立った姿を見た。
「オーランド様」
確かそう呼ばれていたと思って口にしたら、静かな場所では思った以上に声が響いて慌てた。呼び止める意図は無かったものの、ふと足を止めてこちらに目を向けられたので、慌ててお辞儀をして扉を閉めた。
すぐに、失礼なことをしてしまったかもしれないとハッとしたが、やってしまったと頭を抱えた。いくら寂しいからと言って、安易だったと反省せざるを得ない。
酷く不躾な奴だと思われただろう。そんな失態に頭を抱えていたら、ゆったりと扉が叩かれた。
「え……」
「失礼いたします。オーランド様がお話になられたいとお越しです。扉を開けてもよろしいでしょうか」
「は、はい!」
付き人である小姓のリンデの声が、仕方がないと言わんばかりだったので、慌てて扉を開けた。
もっと不服そうにされるかと思っていたが、思いのほか表情を変えていない付き人にホッとする。もしかしたら、以前の事で主に怒られてしまったのかもしれない。わからないなりに、出来る限り礼を尽くそうと少女は慌てて頭を下げた。
「あ、あの、不躾にお呼びしてしまって申し訳ありません! どなたも居なくて、どうしたのだろうと思っていたところにいらっしゃったので、つい……」
しどろもどろになりながら少女が話すと、リンデは主人を伺っていた。
「オーランド様に代わりお答えさせて頂きます。ただ今城内は急ぎの対応に追われており、人員配置の変更を余儀なくされております」
「急ぎの、対応……?」
「はい。貴女が記憶をなくす原因になった者たちへの対応や、主犯格である第三王子への捕縛に向けた準備に追われております。今まで貴女の身の回りの世話はキググリアが請け負っておりましたが、どうやら手配に漏れがあったようです」
「そう、ですか……」
少しばかり落ち込んだ様子を見せた少女に、付き人は慌てた。じとりとした目を主人に向けられたせいでしかないが、「もしよろしければ」 と提案した。
「これから我々は、王へ謁見予定です。現状確認も兼ねて同行されませんか」
「お邪魔になりませんか……?」
「貴女が邪魔になる事などありえないでしょう」
きっぱりと言い切られて、少女は付き人と、その主人の間を何度か見た。問題ないと励ますように頷かれたので、おずおずと「お願いします」 と頭を下げた。
「ああ、貴殿も来たのか黒姫」
軽いノックの後にオーランドの小姓が扉を開けると、そこには、この地を統べる第一王子が護衛もつけずに待ち構えていた。入って来た姿を威圧するように冷ややかな視線を向けるので、少女は思わず尻込みした。
「……あの、ご迷惑でしたら、やっぱり私はここで……」
部屋で待ち構えていた男は組んだ足を解くと、カツカツと硬質な足音を立てて窓辺に立った。
「ふん、構わん。貴殿も知っておけ。白姫は死んだ」
「え……」
前置き無く突然告げられ、一瞬、何を言われたのか解らなかった。聞き間違えかと思った。否、聞き間違えでありたかった。
「どういうこと……?」
突きつけられたものが、理解できなかった。
「言葉のままだ」
「ウソよ!」
「信じる信じないは貴殿の自由だ。白姫の奪還の為にキググリアを向かわせたが、奴らは逃走の邪魔になると判断したのだろう。白姫を殺し、止めようと奮闘したキググリアもまた、奴らによって殺された」
「嘘よ、そんな……」
信じられない気持ちが強いのに、まさかという思いが止められない。どれほど辺りを見回しても、嘘であるという事実はどこにも見つけられない。
「冗談でしょう?」
「何のための?」
問いかけに問いかけられ、真っ直ぐに伺った表情はそんな質問が煩わしいと言わんばかりだった。
「っ…………!」
突きつけられた事実に、もう、立っていられなかった。膝から崩れるように座り込んだ姿に、オーランドは膝をついてその肩を支えた。
縋るように抱きついた姿をオーランドは受け止めてから、少しばかり非難するような目を兄へと向けた。
「なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」
素気なく告げられ、オーランドはただゆるく首を振り返す。その反応に不満そうにふんと鼻を鳴らすと、冷酷な王は踵を返した。
「貴重な人材を失ったのは惜しいが、彼女らの無念を無駄にはしない。やはり空は統括するべきだ。奴らの寄り木をすぐにでも手折ってくれる」
吐き捨てるように告げた男は、カツカツと神経質そうな足音を伴って去っていく。
「っ……ぅ、うあああ! そんな、ウソよ!」
その足音すら聞きたくないと、少女はただただ身を竦めて頭を抱えて震えた。どうしてという嗚咽に、答えるものはいない。同情だろうか、そっと背中を撫でる手は思いのほか優しかった。
オーランドを呼ぶ戸惑った様子の従者の声は、主人に一瞥されて深く腰を折ってその場を辞した。しばらく誰もここに寄せるなという意図を、正確に読み取った為だった。
嗚咽だけが、静かな部屋に響く。
何が起きているというのか。ただ自分はもう一度、彼女に会いたかっただけなのに。
大切な何かを忘れた自分がいけないのか。
無力な自分がいけないのか。
あの時エスタを引き止められなかった自分がいけないのか。
それともそもそも、修道院を出たことが間違っていたのか。
きっと院長もアーレンデュラも、呆れながらも仕方がないなと言ってくれると甘えたことがいけなかったか。
浅はかな事をしてしまっていたのかもしれないと、初めて己の行動を酷く後悔した。
そして思うのは、何故という疑問。どうしてそんな無情な事が出来るのか。あの時隣にいた者たちは、彼女の仲間ではなかったのか。とても脅されてるようには見えなかったのに。
無知で、無力をこれ程呪いたい気持ちは初めてだった。
嗚咽が止まらない。
最早何に泣いているのかわからなかった。
自分の記憶さえあれば、何かがすべて変わったのか。
何故、自分は忘れてしまったのか。
腹が立つのか、悲しいのか。ボロボロとこぼれる涙が、何が何だか解らない。
吐き気がする。頭が痛い。
言われるままに、流されて。甘えていた。自分の無力をたった今知った。
動かなければ、大切なものは、この手からすべてこぼれてしまう。
迎えてくれたナシェアももういない。
叱ってくれた院長も、面倒くさそうにお喋りしてくれたアーレンデュラももういない。
もう一度会いたいと思ったエスタも、もういない。
何も残っていない。
ただ、どうしようもない自分だけが残ってしまった。
その事実に、ただただ胸が痛かった。
どれほどそうして蹲っていただろうか。
背中をさする手の存在に、今になって漸く気がついた。
そっと顔を上げようとして、酷い顔をしているのではとハッとした。ふと、あの時泣いていたエスタと自分が重なったせいもある。
少女の嗚咽が、少し落ち着いた事に気がついたのだろう。ふと相手が息をついたのがわかった。
「……ごめんなさい」
ガラガラになった声で呟けば、とんとんと軽く背中を叩かれる。あやされているのかと思うと、いたたまれなかった。
沈黙が気まずくて離れようとしたが、強くない力で引き留められて、少女はその腕の中でどうにか涙を止めようとした。
「もう、大丈夫なので……」
そっと押し返すと、触れていた手が離れていく。頭に視線を感じるので、少女は顔を上げられなかった。
布手袋に包まれた指が、少女の頬を撫でていく。涙を拭っているのだと言う事実と申し訳なさに、唇が震えた。
「悔しいかい?」
不意に頭上からかかった低い声に、少女は驚かされた。思わず目を見開いて声をたどると、目の前にあった姿と視線が重なった。
「オーランド、様……?」
「お声が」 と思わず呟くと、漆黒の瞳はわずかに細められただけだった。
「己の無力はしんどいな」
「っ…………はい……」
「私も同じだ」
自嘲するような笑みに誘われて少女が頷くと、オーランドは窓の外へと目を向けた。
「口を閉ざす事でしか、守ることが出来ない」
何をとは言わなかった。
ただ彼にもそう思うものがあるのか。遣る瀬無く微笑まれて、心臓が掴まれたかと錯覚するほど切なかった。
「それでも。まだやれる事があるならば、君は動くか?」
静かに告げられて、少女は戸惑った。自然と視線は手元に落ちる。何が出来るのか考えようにも、泣き腫らして熱っぽくなった頭では、何も浮かんでこなかった。
「……まだ、そんなもの、あるのでしょうか」
「いくらでも」
はっきりと頷いたオーランドは、そっと手を差し伸べた。
「この悲劇しかない戦地から逃げ出すのもいい。だがもし、立ち上がるなら手を貸そう」
取るか取らないかは君の自由だ。そんな言葉に、少女は自分の心を決めた。
その目はもう、泣き腫らしたものではない。強い光を宿していた。
「オーランド様、お取り込み中大変失礼いたします」
不意に部屋の扉が叩かれて、小姓である付き人のリンデが慌てた様子で入ってきた。主と目が合い頷かれたので、そのまま一度礼を取ってから告げた。
「リーステン第三王子殿が登城されました。すぐに審問を始めるそうです。同席願います」
そんな言葉にオーランドは再び口を閉ざし、ただはっきりと頷くと、少女に手を差し伸べ立ち上がった。




