44. 幻鳥
心配した様子の小鳥が数羽、近くに降り立つ。ぴいぴいと囀り互いに見合わせるが、今のアーレンデュラには構っていられなかった。
震える手を、強く握る。膝から崩れ落ちそうになる痛みは、意識的に無視をした。
行ってくれと、囁いた言葉を聞きつけた数羽は、温室の出入り口を目指す。常に僅かに開けられたそこから、建物内を偵察してくれる事だろう。
だがすぐに、ちちちと警戒した様子の声が聞こえて、アレンはふらりと立ち上がり顔を上げた。今度は一体誰かと訝しんだのも束の間、現れた姿に驚かずにはいられない。
くぐもった足音は建物の中ではよく聞く慣れ親しんだものだ。たが、その者が過去に温室に踏み入った事があっただろうかと聞かれれば、アーレンデュラの記憶にはない。
「っ……君は……」
姿を現したのは、一人の修道士だった。
この院内であればどこにでも見かける姿は、当然ながらかっちりとベールを纏っている。一般には修道士たちの区別をつける事は困難であるが、その者のベールの淵には白いラインが縫い付けられている。
だからこそ、何故という疑問でいっぱいだった。
同時に嫌な予感が核心に近づく。
「院長付きの筈の君がどうしてここに――――」
「我々は中立でなくてはなりません」
感情の込められていない女性の声が、淡々と告げる。低くも高くもない、だが女性だと解る声が、抑揚も感情も込められていない様子で告げていた。
こちらの問いかけに応えるつもりはないのだろう。黒いベールは表情を隠して、相手がどんな顔をしているのかすら伺えない。だが、アーレンデュラよりも頭一つ以上低い目線が、真っ直ぐにこちらを捉えているのは間違いなかった。
小柄ながらも、どことなく醸し出す雰囲気には圧力が込められているのは気のせいではない。
今この時に、突然何なんだと思わずにはいられない。否、理解したくないというのが正しかった。
「……君が何について言いたいのか知りたくもないけど、ただ中立である事だけがこの場所の意義ではない事は、院長付きの君も解っている筈だろう?」
「勿論。ですが、院長は有ろうことか、私欲のためにあの者に肩入れしました」
発された言葉は疑問でしかない。ただ誰のことを話しているのか、確認するまでなかった。
「私欲? 馬鹿な。救いを求められたから、院長が代表して手を差し伸べただけだ。そういう場所だからね。違うかい?」
「あの地の者に恩を売っておこうとする行為なんて、私欲以外何物でもありません。その結果が、あの地の者たちへ付け入る隙を与えました」
付け入る隙。その言葉には、明らかに棘が含まれていた。
アーレンデュラの目が座る。
「……何が言いたいんだ」
「彼の地の者たちの物事は、彼の地の者たちで解決させるべきでしょう? あなたとて彼の地の者に手を貸したのですから、同罪とみなすのは当然でしょう。私はあるべき形になるように手を貸した、それだけです」
ちらと、目の前の姿が天上を見上げたのは、アーレンデュラの気のせいではない。表情が見えなくても、言わんとしたことに合点がいった。
やはりか、と。内部の協力者がこれほど内側に食い込んでいたのかと、思わずにはいられない。
「院長に責任を擦り付けるな。今回のことは間違いなく、君の行いが招いた災いだ。最悪の一手を選んだのは他の誰でもなく、君自身。君の行いで、国や世界が荒れる事になる。その自覚はあるのかい?」
「荒れる? まさか、関係ありませんよ。むしろ彼の国以外は落ち着くくらいでしょう。彼の国とは、我々が協力する事で和平を結びましたから。下の者たちも皆賛同しております。後は貴方さえ大人しくしてくだされば、わたしたちは元の安寧を取り戻せます」
「和平? 巫山戯たことを! それが通じる相手だと思っているのか?!」
「少なくとも、ナシェア様は裏切り者のフォルビア殿や貴殿よりかは話の解る相手です」
「……っ、そうか」
アーレンデュラは、ベールに隠された狂気を垣間見た気がした。とても話し合いで解決出来る状態ではない。彼女もまた、あの女に良いようにしてやられた後なのだと思い知る。
同時に、得体の知れない恐怖を感じた。
目の前の彼女は、確かに院長であるフォルビアを慕っていた。少なくとも、アーレンデュラにはそう見えていた。それが覆っていたのは一体いつからだと言うのだろうか。
「そうか」
同じ事を、再び呟く。
アーレンデュラとしては、ただ自分を納得させる為だけに呟いたに過ぎなかった。
だが、修道士の女はそうは捉えなかったらしい。アレンが諦めたとでも思ったのだろう。心配いりませんと、どこか嬉しそうに告げた。
「貴殿が我々とともに来て下さるのでしたら、ナシェア様も喜びます。貴方の情報網の広さは群を抜いていますから、きっと役に立てますから」
「………………は」
不意に可笑しさが込み上げた。ふふふと笑わずにいられなかったアレンを、一帯の小鳥たちだけが不安げに飛び立った。
さわさわと風が無いのに枝葉が鳴ったのは、それだけの鳥が慌てて飛び立ったからだ。いくつかは別の枝に、いくつかは修道院の中へと逃げ出した。
「――――エリルに伝えろ」
アーレンデュラが低く告げると、残った鳥達がざわめく。動揺したように見えたのは、一瞬だ。
刹那的に、音が消える。直後、わっと温室にいた全ての鳥が一斉に飛び立った。
「なっ?!」
何を、と。動揺した修道士に冷ややかな視線を向ける。
「――――行け」
つとアーレンデュラが目線で示した対象に、鳥達が殺到する。一斉に向かってくる様々な鳥の姿に、流石の修道士も怯んだ様子だった。
同時にアレンもゆるりと辺りを見回した。身体の痛みは先と比べると随分と軽くなり、やらなければならない事を思えば痛みも大した事はない。
「っ、止めなさい!!」
払いのけようと修道士の女ももがくが、鋭い嘴が、爪が、油断すると目や肉のやわらかい急所をえぐろうとしてきた。
彼女が怯んだのを確認するまでもなく、アーレンデュラは東屋に目を向ける。
「もう、ここも不要か」
最早構っている時間も無駄に思えた。それは今までに蓄えた地図にも言えた事で、積み上げていた地図の山を躊躇いなく崩す。備え付けのランタンにオイルライターで火を灯してから、それを地図の広がる床に躊躇いなく叩きつけた。
未練は微塵もなくなり、炎と燃料がじわりと広がって行く様を一瞥してから、温室の外へ向かう。
――――だが、それで諦める修道士でもなかった。
「誰か! アーレンデュラを止めなさい!」
叫んだと同時に、温室にある二つの入り口で動きがあった。
いつからそこに控えていたのだろうか。わらわらと幾人ばかりが通すまいと温室に踏み入って来たのだ。
もしかしたら、先に使いに出した鳥たちも彼らによって掴まってしまったかもしれない。しかし、そんな事も今のアーレンデュラには些細な事に過ぎなかった。
「邪魔だ」
アレンが冷ややかに告ぐと、共にしていた鳥たちが加速する。低空飛行で向かってくるそれらは、入り口に立ち塞がろうとした修道士らしきものたちを怯ませるには十分だった。その隙に間を縫い、手を伸ばしてきた誰かを乱雑に突き飛ばす。
それでも追って来ようとしていた者には、大柄な鳥が襲いかかった。
誰の悲鳴なのかは、アーレンデュラは気にしない。攻撃された人間のものかもしれないし、抵抗されて羽をむしられた鳥のものかもしれない。
「――――院長の場所か院内の様子を教えろ」
それでもついて来た数羽の鳥に指示を出し、急ぎ足を止める事無く、囀りに耳を傾ける。先行していた小鳥が忙しなく鳴くのを聞いて、アーレンデュラは眉を顰めた。
「……やはりそうか」
向かうのは、院長室だ。
渡り廊下を迅速に抜けると、屋外から戻れなくなっていた鳥たちの姿がちらほらと見受けられる事に気が付く。引き籠っていた代償かと、思わず舌打ちした。温室から少しでも出ていれば、日ごろの変化に気がつけたかもしれないと思わずにはいられなかった。
それも今は詮無い事だと首を振って、思考から振り落とす。
思いの外、人気が少ない事も幸いした。
あるいは、すでにそれだけ修道院そのものが、他人事だと息を顰めてしまっているのかもしれない。
今声を上げて、他人事で有る事はおかしいと動けば、何かが変わるのかもしれないと脳裏を過る。だがそれを行うほど、アレンもこの場所に未練はなかった。訴えかけるのは自分の役割でもない。
成すべきは。
「院長――――フォルビア!」
中の様子を伺うまでもなく、扉を蹴破る勢いで開け放った。
室内はまるで争った形跡もなく、また人気も伺えない。普段であれは院長であるフォルビアが座っている筈のデスクは、書類と並べられた茶器がそのままになっているだけだ。よく見れば、まるで急ぎ立ち去ったかのように、椅子が引けている。
もぬけの殻なのか、と。否、よく見たら案内を告げた小鳥は窓に留まりながら、デスクの裏へと頭を動かした。
慌てて、そちらに駆け寄る。
「フォルビア!」
デスクの影に、老婆は居た。否、倒れ込んでいた。
アレンの声に気が付いたのだろうか。微かに身じろぎした姿の脇に、アーレンデュラは慌てて膝をついた。
ぐったりとうつ伏せる身体を起こそうと触れて、ぎくりとする。ここに来てやっと血の匂いが鼻についた。そして、真っ黒なローブに気がつけなかったが、触れたそれは濡れていた。掌を見ると、わずかに触れた疑い様もない鮮血に、一瞬迷った。
「フォルビア、聞こえているか? 少し動かずぞ」
「……ぁ、レン……かい?」
「喋らなくていい」
反応があったことにホッとする。
声をかけながら、急ぎジャケットを脱いだ。僅かに身体を起こさせると、苦しそうに呻かれる。いつもの矍鑠とした様子はまるでない姿に、アーレンデュラも眉根を寄せた。腹を抱える姿に、自分の無力を知る。
「悪いけど応急処置なんて知らないし、もたもたしている時間もない。もう少しの間、どうにか持ち堪えてくれ」
わずかに頷いたのを確認して、フォルビアの胴にジャケットをきつく縛った。これで少しでも何かの足しになって欲しいと願うばかりだ。
「抱えるよ」
声をかけて、抱き上げる。身動きできない者を軽々担げるほどではなくて、傷に触らない事を願いつつ、肩に体重をかけるようにと囁いた。
老婆もまた、自身ではどうにも出来ない事を理解しているのだろう。
「すまないね……」
「情けない声出さないでくれるかい、貴女らしくもない」
そんなやり取りすら、時間が惜しい。廊下から聞こえてくる賑やかさを一瞥して、アーレンデュラは窓へと向かった。
開け放ったテラス窓から空を見上げると、晴れ渡る空にて太陽が瞬いた。空の色は穏やかで、まるで不穏さなんてない。常に薄暗い修道院の中とは大違いだと苦笑してしまう。
同時に、太陽の中にあった、次第に大きくなる姿にほっとした。
アレンは気を確かにするために一度視界を消すと、腕に抱えた姿に告げた。
「状況判断の為に後で何が起きたのか聞かせてもらうし、あんたの力はまだ必要だ。しっかりしてくれよ」
「……あ、あ」
ぶっきらぼうに告げると、溜め息とも、絞り出したとも聞こえる声を抱き上げた背中から受けて、アレンも気を引き締める。顔を上げると同時に、あまりにも大きな影が舞い降りた。
力強い羽ばたきが、風を生む。その勢いは辺り一体の窓ががたつくほどだ。アレンの長い髪は舞い上がり、気を抜けばフォルビアの重みと風圧とに吹き飛ばされるところだろう。
「……エリル、すまない。力を貸してくれ」
じっと見返す金色の瞳を、アーレンデュラはただ見返す。その大きく鋭い嘴は、その気になればアレンの頭を齧って丸のみにするのも容易いだろう。それほどまでに、その存在は大きい。
――――その鳥は、二翼飛行機の原形になったともいわれる鳥の種族であると、一体誰が知っていただろうか。
物言わぬその鵬はただ、器用に降り立つことなく、巨大な足を差し出した。意を得たアレンは欄干から乗り出して、その足に不安定ながらもしっかりと乗り込む。
同時にやって来た浮遊感があったのは、すぐの事だった。羽毛に埋もれる様にして引き上げられて、アレンの視界も狭くなる。足と共に羽毛に埋もれ、風すらも感じない。ただ浮かび、旋回してるのだろうかということが、体感で解るくらいだ。
あるいは誰かの追う声と驚く声と。そして腕の中で弱々しく呼吸を繰り返す老婆の様子を感じながら無事にあの場所を出られた安堵に、アーレンデュラはやっと肩の力を抜いた。
そういえば、殴られた腹と背中が痛い。
思い出した痛みに、溜め息を零した。
「……よかった」
呟いていたのは、無意識だ。
まだ、油断は出来ない。杞憂はむしろ増えている。けれども、煩わしさが一つ減ったように思えて、今この瞬間だけは、緊張感の抜けたせいでやってくる睡魔と戦うのに精一杯だった。
――――その日、見た事もない巨大な鳥が、沢山の鳥たちと炎を伴って修道院を襲った。そして鳥たちは小国アレイットから飛び立ったという噂は、しばらくアレイット一帯を騒がせることとなる。




