42. 不祥
薄い雲の浮かぶ天井に、エンジンの音が空気を震わす。一際大きくて目を引くその飛空挺は、悠々と雲海の向こうへと消えていった。
低く響く余韻が、市場の雑踏にすぐに負けていく。きっと意識的に見上げてなかったら、飛空挺が出入りしている事にさえも気がつかなかったかもしれない。
「親方……」
ぽつりと呟いたものの、やはり周りの声にかき消された。
自分の心配は要らないと、父は確かにそう言った。ならば今は嘆いても仕方ないと、ゆるく首を振って飛空挺の扉を開けた。
「イム、戻ったよ。リシュリオが飛ぶ準備してて欲しいって」
中に声をかけると、広場の奥にその姿はあった。薄暗い広場に立ち尽くす様は、エスタの白さも相まってオバケの様だと笑おうとした。
だが目が合った途端、そこにあった表情にぎょっとした。
「っ……セリオス……」
「え、どうしたの?!」
自分が悩んでいた事さえも、途端に吹き飛ぶ程だった。
今にも死んでしまいそうなほど、エスタの顔は青白い。泣きそうにも、倒れそうにも見えて狼狽えた。唇の色もとても悪く、心なしか震えていた。
ふらりとこちらにやって来ようとしたものの、足元すらおぼつかない。自分の足に躓いて転びそうになっている姿を、セリオスは慌てて支えに駆けた。
「ちょ、大丈――――」
「セリオス……どうしよう……私、どうしたら……」
声をかけようとして、押し黙る。抱き留めたと同時に消え入りそうなほど囁かれて、セリオスはわずかに首を傾げた。
ふとその手に握られていた小さな紙に目を止め、眉を顰める。やがて不意にあっと思い出した。
あの時そう、あのいけ好かない男はなんと言ったか。今頃黒姫のところにもお迎えが行っている――――そんな事を言っていなかったか。父は何といっていたか。白姫の伝手が無くなると言っていた。
何故、そんな大事なことを聞き逃していたのだろう。
「イム、まさか」
握っているのは、アーレンデュラからの火急の知らせなのではないか。考えるまでもないそんな事を、意味もなく尋ねていた。
不意に、ばさりと羽を広げた音がした。
いつからそこに居たのだろうか。まるでそうだと確信付けるように、ソファの背もたれには大きな鳥が羽を正して鎮座していた。いつか廃坑で見たファーロと言う名の鳥が、じっと用心深くこちらを見返している。
「黒姫の居場所が帝国に伝わって、もうすでに連れ去られた……って事?」
余りにも速いと思いながらも恐る恐る尋ねると、ゆるく首肯が返ってくる。
どうしよう、と。何度と呟いていたのは、最早無意識だろう。
「アジェイは……自分から迎えについていったって……」
「え?」
「先生に疑問を持って、アレンの静止も聞かずに行ってしまったって」
「そんな事――――いいや。アレンは無事なのかな。話でも聞ければいいんだけど……」
状況が解らない。何か少しでもないものかと、震える姿と大きな鳥とを見比べた。
アレンは、と。また囁く。
「アレンは無事みたい……だけど、重症の院長先生を連れてるから潜伏先から身動きが取れないって……」
そんな言葉にえっと声が漏れていた。
「院長先生が重症?! 一体何が?!」
だが、それ以上にエスタの方が音を上げた。
「解らない! 解らないわよ! 何が起きてるって言うのよ! 私はどうしたらいいの? 先生たちを頼る事は間違っていたの? こんな……こんな事になるなんて、私、わたしは、そんな……っ……」
巻き込むつもりなんて、と。消え入りそうな声には、ついには嗚咽が混じった。
そんな姿にかける声を迷って、セリオスは眉を寄せた。慰めの言葉を気休めに言おうとして、直ぐにやめる。
「エスタ、泣くな。泣いてても始まらないよ」
俯いたエスタは、喉の奥で空気を飲んでいた。
「っ………そんな事言われても……! 解ってるわよ……」
「解ってるなら、息をして。落ち着いて。ね?」
「落ち着いてなんて……!」
「解ってる。焦る気持ちは解ってるよ。でも、過ぎてしまった事は仕方ない。そうだろう? ならばやれることをやろう?」
ぽんぽんと、その背中にやさしく手を当ててセリオスは言い聞かせる。
「リシュリオたちももうすぐ戻ってくる。そしたら直ぐにでも動き始めるよ」
うつむく顔を上げさせて、真っすぐにその目を見た。
泣き腫らした表情は、きっと本当は見られたくないだろう。それでも構わず僅かに怯んだエスタに、セリオスは真剣に言葉を選んだ。
「僕は親方を取り戻したい。エスタはアジェイを、そうでしょう? 君がアジェイの設計図を握ってくれているから、脅威はまだ生まれない。時間はある。なら、今ならまだ、アジェイを取り戻す事だけに専念できる。そうだろ?」
「そう……ね」
震える声に、自信はまるでない。あえてセリオスは力強く頷いた。
「そうだよ。ね、アレンはなんて? リシュリオ達が戻ってきたら説明出来る?」
「大丈夫……多分」
「なら僕は、集翼所の人に離陸の声かけてくる。エスタは出来れば飛空挺の中の準備お願い」
「え……ええ、解ったわ」
恐々ながらも同じように頷いたエスタを確認して、セリオスは外へと向かった。飛空挺を出る前にもう一度エスタの様子を伺うと、やることを自分に言い聞かせながら奥へと向かう姿があった。
僅かに過った不安に、セリオスは空を仰ぐ。扉を開けた途端に押し寄せた雑踏の賑わいは、仮初めの平穏に思えて仕方なかった。
「大丈夫、か」
咄嗟とはいえ、よくもまあそんな事が言えたものだ、と。自分の言葉に呆れてしまう。
帝国の動きは速かった。それほどの事が動いているのだと、イヤでも思い知らされた。
それでも、と。セリオスは緩く首を振る。改めて先を見据えた表情に、迷いはない。
「……必ず、取り戻す」
まずは今やれることを。そんな決意に、集翼所を管理している人間を探しに出た。
――――そして時は戻る。
* * *
チルルルと、小鳥の囀ずりにアーレンデュラは目を開いた。
穏やかな空気の中でくつろいだ様子の鳥達は、暖かい日射しにまどろんでいるのだろう。彼らが足踏みをした拍子に、風もないのにさわさわと梢が囁いた。
固い地面に横たえていた身体を億劫げに起こすと、鈍色の長い髪は肩に落ちた。視界に落ちて来たものが邪魔だと適当にかき上げて後ろへと払う。
腹から落ちた地図に脇目を振って、通り道だけは確保しようと端に押しやる。寝ぼけ眼は今にも瞼を落としそうになって、眠気を追い払うように緩やかに首を振った。
少しでも目を覚まそうとして懐を探す。小汚い白衣に眉を顰めて、鬱陶しそうにそれを脱ぎ捨てた。地図の上に乗せなかったのは、神経質な彼女の性故だろう。
見つけた巻煙草にオイルライターで火をつけて、ゆっくりと煙を燻らせた。迷惑そうにする鳥たちの声は無視をして、ふうと深く息を吐く。吐いた煙はゆっくりと東屋の天井に揺蕩った。
聞こえてくる囀りは馴染みのものばかりで、数はいつもと比べて多くない。温暖なこの温室から出てすらいないのかと呆れてしまう。せめて近郊にくらい見回って出てくれてもいいものをと、思わずにはいられなかった。
アーレンデュラの苛立ちを感じ取ったのだろうか。どこか落ち着かない様子で、鳥たちはぴょんぴょんと跳んでは別の枝へと身を移す。
間もなく温室の入り口にて小鳥が騒いだのが聞こえた。
「アレン! また貴方ご飯の時間に寝過ごしていたでしょう!」
駆けこんで来た姿はアーレンデュラを見つけると、非難の声をぶつけた。
「ああ、アム。君か」
「君か、じゃないですよ、もうっ」
気怠そうに応えたアーレンデュラに、来訪者の少女は頬を膨らませた。手にしていたバスケットを重たそうに片手に持ち直して、開いた手を腰に当てて胸を張る。
寄って来た姿に気を使って、早々に巻煙草の火は床でもみ消した。手を差し伸べると、重たそうにしていたバスケットを手渡される。
「ありがとう」
「どういたしまして」
御礼を告げても、目の前の表情は未だに不服そうにしていた。
「お昼だけでも食事の時間はちゃんと顔を出してって、先生にも言われていた筈でしょう?」
「さあ……そうだったかな」
記憶にないなとアレンが遠くに目を向けたのも束の間、不服そうな表情に片眉をつり上げた。
「それよりアム、君ベールはどうしたんだい?」
指摘すると、可愛らしい表情を苦々しく歪めた。
「食事の時間だっていったじゃない。ちょっと忘れただけですー。揚げ足を取らないでくださらない?」
「はは、自覚が少しでもあるなら、君はもう少し意識するべきじゃないかな。それこそ、院長先生に叱られてしまうよ?」
「そもそもアーレンデュラが食堂にきちんと顔を出していれば、私がここに来る事もなかったんじゃない」
ぷっくりと頬を膨らませた姿に、違いないとアーレンデュラも肩で軽く笑った。むすと不服そうな少女は、不意に脇に寄せられた地図へと目を向けた。
「また地図を描いていたの?」
「…………ああ、そうだね」
興味深そうに眺める少女に、アーレンデュラは目を細める。仕方なく立ち上がって、彼女の見ていたものを共に見た。
「興味あるのかな?」
「うーん、そうね。あると言えばあるわ」
それはそうでしょう、と。当たり前に応えた姿は、こちらを見上げてひょいと肩を竦めた。
「だって、外の世界って窓の外しか見た事ないんだもの。本当にアーレンデュラが描いている場所があるのかしらって、気になるのは当然でしょう?」
それに、エスタが何処かにいるわ。と。どこか嬉しそうに呟かれた名前に、アーレンデュラは片眉をつり上げた。
「おや、エスタ嬢を知っていたのかい?」
「この前お友達になってもらったのよ。アーレンデュラも知ってたの?」
「それはそれは……」
お友達と言う響きに、アーレンデュラは苦笑せざるを得なかった。だが苦笑したことで目の前の少女に疑問を持たせるわけにはいかないと、ひょいと軽く肩を竦めた。
「もちろん、院長先生のお客様の中には地図を所望する人はいるからね。彼女もその一人だったってだけだよ」
「まあ! そうなのね」
なら、アレンの側に多くいれば色んな方とお近づきになれるかしら? わくわくとした様子でそう首を傾げた姿に、流石のアーレンデュラも呆れ顔で首を竦めた。
「ごジョーダンを。貴女に四六時中絡まれていたら、鳥たちが逃げしてしまって仕事にならないよ」
「ええー……そんな言い方しなくたっていいじゃない」
ぷっくりと頬を膨らませた少女に、何度となく苦笑する。そんなアレンをじっと見ていたアムは、不意に不思議そうに首を傾げた。
「でもアーレンデュラってどうやってお話しているの? 私には囀っているようにしか聞こえないわ」
「ふふふ、さて。持って来てもらった食事でも頂こうかな」
くるりと踵を返したアーレンデュラを、見逃す筈もない。
「もー! そうやって露骨に誤魔化すんだから!」
「やれやれ、簡単に方法を知られてしまっては、私の商売が成り立たなくなってしまうよ。そうだろう?」
首だけ振り返り諭すように告げるが、そうだけどとまた唇を尖らせている。
アーレンデュラに答える気がないとは解っているのだろう。そうだとしてもつまらないわと、ただ膨れる。膨れられた張本人は、仕方ないだろうとひょいと肩を竦めるばかりだ。
その時だった。
「――――なるほど、鳥使いの逃がし屋とはよく言ったものです」
不意に告げられた女の声に、一帯の鳥たちは一斉に飛び立った。
「きゃっ」
その音に驚いて身を竦ませていた少女を反射的に背中側に押しやって、アーレンデュラは声の方へと目を向ける。ぴりっと空気が戦慄した。
「……どちら様かな。迷子の来訪者であるなら、温室を出て右手に向かえば人のいる通りに出る。そちらで出口を聞いてもらおうか」
アレンのいつになく真剣な様子に、アムも自然と身体が強張った。
「いいえ、迷子ではありませんよ」
二人が伺った先に、その女が姿を現したのは、間もなくの事だ。プラチナブロンドの髪を後ろで高く結わえた女は、にっこりと不敵に笑っていた。真っ赤なルージュは、赤い三日月のようだ。
アーレンデュラには知らない顔であった。だが、どこか既視感を覚えた。
一目見たところでは、何処かの軍に仕える者なのではないかと容易に知れる。濃紺の制服は、恐らく空を飛ぶことを想定しているのだろう。身体にぴったりとしているにも関わらず、颯爽とこちらに向かう姿の歩行の邪魔にまるでなってない。
笑みを絶やさない顔つきは、どこか作り物めいている。それだけ整った容姿を持つ女性だとも、言えなくない。だが、何か違和感を覚えて不思議だった。
一際目を引かれたのが、彼女の珍しい色彩の瞳だった。一つは緑、一つはグレー。左右で異なる色合いに、記憶の中の情報と一人の人物が結び付いた。
はっ、と。アーレンデュラが気がついた時にはもう遅い。目の前の彼女は流れるような動作で片足を引き、優雅に礼を取っていた。
「間違いなく、わたくしはこちらに我が姫君を迎えに参ったに過ぎません」
「姫、君……?」
つい訝しんだアムの声に、アーレンデュラはぴくりと微かに眉を動かした。
それも本当に僅かで、内心を周りに気が付かせるような事はしない。ただひっそりと、どうしてこのような事が起きているのだと、周りに居る筈の鳥たちの様子を伺った。
一羽の小鳥が、アーレンデュラの様子を察して空へと飛び立った。羽ばたく音はすぐに天井へと吸い込まれるが、微かな囀りを残したきり、戻ってはこない。
アレンの様子から察したのだろう。ゆるやかにこちらにやって来るその女は、微笑みを崩すことなく告げた。
「ああ、そうでした。あなたが外部からの情報に驚くほど聡いと聞き及んでおりましたので、こちらに出入りしようとする鳥を全て捕え、少々内側から招いて頂きました」
「全て? 内側から招く……? ……ああ、道理で」
その一言に、酷く納得してしまった。
先程の小鳥が告げたのは、天に網の壁があるという事だった。いつの間にと、思わずにはいられない。
ちらりと温室の天井に目を向けると、何枚かの羽がふわりふわりと舞い落ちていた。まるで天井の向こうで、羽をむしられてしまったかのようだ。
「……ははあ、また随分と手の込んだことをされる」
「大した事でもありませんわ? そうでもしなければ、逃がし屋のあなたを出し抜いて、姫君をお迎えに上がれないでしょう? またどこぞへと連れていかれては、我々も困りますから」
「なるほど?」
内心で舌打ちしたアーレンデュラの様子に、女は艶やかな唇で弧を描いた。お解り頂けましたかと、勝ち誇った様子で微笑む。
「どういう事……? 貴女は……一体……」
戸惑っていたのは、アムだけだった。
アレンが余計なことを喋らせまいと背中に隠そうとするが、無意味だった。闖入者の女は少女に目を留め、安心させるようにふわりと笑う。
「申し出が遅れてしまい大変申し訳ございません、我らが姫君。わたくしはナシェア・キググリア。貴女様をお迎えに上がりました。どうぞナシェアとお呼びくださいませ」
「え……? 私、を?」
戸惑って、アムはアーレンデュラのジャケットを掴む。恐る恐るアレンを見上げ、眉間に皺を刻む姿とナシェアとを見た。
「アム、まともに取り合うな。この女は君に危害しか加えない」
アーレンデュラが告げた途端、女は大袈裟なくらいに表情を崩してよろめいた。
「ああ……! なんという事を。貴殿らは我々から姫君を連れ去っただけで飽き足らず、記憶も名前までも奪ったと言うことですか」
「え……?」
不思議そうにする少女の肩を、軽く掴んでいたのは無意識だ。アーレンデュラは鼻で笑う。
「は、何を馬鹿なことを。アム、君は向こうに行ってなさい」
「そうやってその方の真実を隠すおつもりですか? 彼の機関は、随分と姑息な手を使うのですね」
困ったように頬に手を添え、ふうと大袈裟に溜め息をつかれる。
わざとらしい女の言い種に、流石のアーレンデュラも柳眉を顰めた。
「隠す? それは違う。貴殿らの仕打ちから、こちらには彼女を守る義務がある」
「ふふふ! 可笑しな事を仰られる。記憶を隠し、このような粗末な場所で姫君を下女のように働かせる者に、そのような戯言を言われたくはありません」
「よく言う。そもそも追い詰めたのは貴殿らだろう! 暴挙から保護し、貴殿らの手の届かないように願われたからこそ、我々はそうしたに過ぎない」
どこか余裕のある女に向けて、アーレンデュラは表情を険しくして告げる。
その背中で、二人のやり取りに戸惑う姿は、恐らく自分の話をしているのだろうと理解すると、黙ってもいられなかった。
「ねえ、待ってアレン。二人の話が、よく解らないわ。……その、どういう事、なの……?」
恐る恐る訊ねられて、女だけが勝ち誇って笑みを深くする。
「アム、後で説明するから今は――――」
アーレンデュラが表情を僅かに歪めながら告げた言葉は、女によって遮られた。
「嗚呼! 説明もなく誠に申し訳ございませんでした。貴女は我らが姫君、メルエッタ・アジェイ様でございます」
「え?」
「北の帝国レイベンの知を司る姫君にして、メルエッタ・エスタ様の姉君でいらっしゃいます」
固まったのは、アーレンデュラだけではない。少女もまた、目を見開いて硬直した。
「…………………え?」




