40. 旧知
通りの向こうにセリオスの姿が完全に消えるのを待って、リシュリオは振り返った。
「ルーザ、お疲れ。悪いな」
「大したことないよ」
至って軽い調子で声をかけると、ルーザは飄々とした様子で肩を竦めていた。
「怪我してないか?」
「こいつが?」
「はは、まさか」
苦く笑ったリシュリオは、ふと息をつくと足元の男を見据えた。口を開くのも億劫に思えたのは、恐らく気のせいではない。
「良い眺めだな? ジュリアス。お前一人、取り残されたか」
わざとらしく言ってやると、不服そうな榛色の目がゆっくりと顔を上げてこちらを睨んでいた。そんな様子に、リシュリオも深く息を吐いた。
「言いたいことあるなら言ったらどうだ」
促したところで、足元の姿は小バカにして鼻で笑っただけだった。おおよそ通りの反応だと、リシュリオは肩を大袈裟に竦めて溜め息を吐いた。
「お前にかける時間が惜しい。あの時の約束を違えた以上、けじめはつけさせてもらうぞ」
「……ハッ、笑わせてくれる」
凄むように告げると、初めて低く唸るような声が足元から返って来た。
「けじめ? 好きにすればいい。相変わらずこんな下賎者を従えている奴になんて、どれほど説得の言葉を尽くしても時間の無――――――」
蔑んだ言葉も、一瞬で途切れる。ごっと鈍い音がしたのは、リシュリオが足元の頭を躊躇いなく踏みつけた音だった。
「誰が、下賎者だって?」
ゆっくりとした問いかけは、有無を言わせない圧力がひしひしと滲んでいた。
「なあ、言ってみろよ。誰が下賎だって? てめえは相変わらず、選民か何かでいるつもりか? なあ?」
「リオ」
咎めるように呼んだルーザの表情に変わりはなく、ただ苦笑をにじませていた。リシュリオはそれにちらりと目を向け舌打ちすると、忌々しそうにしながら足を退けてしゃがみこんだ。
覗き込んだ姿は、口の中でも切ったらしい。
「なあクソ野郎、空に貴賤なんて関係ねぇんだよ。空賊は空賊。それ以上でも以下でもない。お前とて法の下に生きていないクセに、よくそんな事が言えるな? そんな事より、今の自分の立場をよく考えな? へし折られるのは、てめえの高い鼻だけじゃ物足りなかったか?」
「ハッ! 下賎は下賎に変わりないさ! 脱走した奴隷なら尚更な」
「へえ?」
刹那、一帯の空気が冷えきったのは恐らく気のせいではない。
「死にたいらしいな?」
「リオ」
おもむろに足元の頭を掴んだリシュリオの腕を、流石に見かねたルーザが掴んで引き留めた。今にも目の前の姿を叩きのめすまで止まらなそうなリシュリオに、ルーザはただ困ったように眉を落として苦笑する。
「わざわざ君が手を汚す必要ないよ」
半分事実だしね、と。飄々とした様子で肩を竦めてルーザに、リシュリオはぎゅっと眉を寄せ溜め息をついた。
リシュリオが手を離すまで離す気がないらしく、痛みはないものの、引き留めるルーザの手に力が籠る。だからこそ、リシュリオは深く溜め息をついた。
「…………お前が笑うのかよ」
唸るように告げると、ルーザはふっと眉を開いて笑った。
「君が怒ってくれるから、他人に何を言われても気にならないだけだよ。そんな事より、これの為にリオが手を汚す方が嫌かな。まあ、こうなるだろうなって事は解っていたけどさ」
「解ってんならいいだろ。言わせっぱなしは俺が嫌だ」
不機嫌そうに告げるリシュリオに、ルーザは再三苦笑した。
「その様子じゃどうせ加減しないだろ。じゃあ、僕が縛って捨ててくる分にはいいだろう?」
「それじゃあ意味がねぇ。せめて何か搾らないと気がすまねぇ」
「大した情報も持ってないよ。侍らしていてもアルフェリオに見捨てられるような下っぱだもの、使い道もないさ。それより、さっさと元凶を追った方が有意義でしょう?」
違う? と。首を傾げて何度となく苦笑したルーザを、リシュリオはじっと見た。
上空では時折、飛空挺のエンジンの音が響いている。もしかしたらもう、既に手遅れかもしれない。追いかけるにしても、非常に不利な状況だ。
それでいて譲れない状況なのだと、リシュリオは眉間に深く皺を刻んでいた。そんな姿を、ルーザはただ仕方無さそうに見守る。
やがて、諦めたようにリシュリオは肩を落として、深く息を吐いた。
「こいつの所有物はどうした?」
「物騒なものはさっき蹴ってあそこにあるけど、それ以外は手をつけてないよ」
つと顎を向けられた日陰には、閉じられたままの折り畳み式ナイフと弾かれたらしいサングラスが転がっていた。その光景に、ああとリシュリオも大体を察してしまう。
「悪いルーザ、そいつ押さえたままちょっと身体起こせるか?」
「それなら構わないよ」
後ろ手に組み伏せた拘束を緩めてしまわないように気を付けつつ、ルーザは体制を変えて身体を起こせるようにした。
隙を見せれば噛みつかんばかりに睨み付ける男に、リシュリオは冷ややかな目を向けつつ、胸ぐらを掴むとその懐を漁った。
「っ……止めろ!」
取り押さえられた姿は懸命に身体を丸めてもがくが、リシュリオは構った様子もない。暴れられても意に介さず、身体がぶれることもなかった。
間もなく目当ての手帳を抜き取ると、躊躇いなく胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「ほんっと、相変わらずお前は図体ばっかの頭でっかちだよな?」
どっと胸から落ちようが気にしない。ぱらぱらと中身を確認しながら、わざと挑発する言葉を投げ掛けると、ぎらぎらと目尻を吊り上げた姿が悔しげに歯を食い縛っていた。
いくつかのページの情報と大切に挟まれていた通行許可証がある事を確認すると、リシュリオはそれらを胸ポケットにしまった。
「さ、て。これでお前が何処かに行くことも、帝国に入る事も出来やしねぇな」
精々あがいて、自分の行いでも反省してろ。コンバットパンツのポケットの一つから、躊躇いなく太いテグスを取り出したリシュリオに、ルーザはひょいと肩を竦めた。
「こんなとこ、あの二人には見せられないね」
「流石に始末まではしねぇよ。ちょっと手足の自由奪って、路地に転がすだけだ」
「ついでに崖から落としておこうか?」
「時間が勿体ねぇ」
お前達覚えておけよ、と。足元で唸っていた声は黙殺された。手早く手足それぞれを、簡単にはほどけないように食い込む程きっちりと縛り上げる。
そうしてもう用はないのだと、リシュリオはすくと立って見下ろした。
「こんな日が来るんだったら、あの時、お前を仲間に迎え入れるべきではなかったな」
すっと、過去を捨て去るように目を瞑ると、もう足元には目をくれなかった。何か悪態を吐いていたような気もするが、まるで聞こえない。
行くぞ、と。リシュリオは相棒と目配せすると、落ちていたナイフを拾ってその場を後にした。その隣に、まだ背後にわずかに気をやっているルーザが続く。
何となく、無言が続いた。それも束の間、大通りの賑わいが聞こえて来たところで、ルーザが溜め息をついていた。
「リオ」
「…………なんだよ」
「ありがとうね、怒ってくれて」
とんとん、と。ルーザに軽く叩かれた肩に、リシュリオも目をしたたいた。急に改まってなんだと驚いているリシュリオに、ルーザはただ肩を竦めた。
「だからさ、もう済んだことさ。リオがぴりついてたらセリがまた気を使うし、イムも不安がるだろ」
まさかそんな事を言われるとは思っていなくて、リシュリオは咄嗟の言葉を失った。やがて言われた言葉を遅れて理解すると、罰が悪そうに目を反らした。
「ああ…………その、悪い」
「きれいさっぱり忘れろとは言わないけどね、もう終わった事さ」
ああ、と。宥めるような言葉に促されて、深く溜め息をついた。切り換えたつもりがつもりでしかなく、いつまでも引きずっているのは自分なのかと思い知る。
「それにさ、あれに気をやっててどうにかなるほど、ゼルベジャン――――いや、帝国は一筋縄ではいかない。そうだろう?」
「…………そうだな」
かまけている場合ではない。確かにその通りだと、自分に言い聞かせる。戻ってきた通りの賑やかさが、雑念を溶かしてくれたかのようだった。
「悪い、ルーザ。それに、ありがとな」
苦笑が滲んだのは仕方ない。複雑な思いはルーザにも伝わっていたのだろう。にっと悪戯っぽく笑われた。
「お互い様さ」
「それでも、な」
「解ってるよ」
「じゃあもういいだろう? さ、急ごう」
「勿論」
軽く拳を突き合わせると、二人は人混みの向こうへと急いでいった。
そんな彼らを脇目に見送っていた姿があることを、ついぞ知らない。
* * *
こつこつと、神経質そうな音が人気の少ない路地に響く。人の多い通りから一つ離れたその場所は、恐らく更に奥の通りにでも用がない限り、誰かが通ることもないだろう。
踵のあるその靴を打ち鳴らしていた人物は止まる。物陰にてどうにか壁に寄りかかっていた姿を見つけると、わざとらしく溜め息をついた。
「勝手して満足しましたか?」
苛立ちよりも呆れを表に出した女性の声に吊られて、縛られていた大男も顔を上げる。その声の主に、嫌そうに眉を顰めた。
「なんであんたが居る」
「何故? 可笑しな事を言いますね。貴方は感謝するべきなのですよ、アルフェリオ様に」
元々好いていない女に鼻で笑われて、しかめ面を一層渋くした。
「感謝? まさか、わざわざあんたを迎えによこしたとでも?」
「それ以外に、私がここに居る理由があるとでもお思いですか」
「…………そうか」
確かに、目の前の姿が自主的に動いたとは思えなかった。その事実に、納得と認識を改めざるを得ないと感じた。
「それは、感謝する」
「全く、都合のいい男ですね。清濁すべてを飲み込もうとするアルフェリオ様の懐の深さに、せいぜい感謝して直接仰ってください」
「……ああ」
手早く男の自由を奪っていたものを断ち切ったその姿は、自身の手足の感覚を確かめている男に胡乱な目を向けつつハンカチを差し出した。
「それと、その見苦しい様をどうにかしてください。みっともなく血で顔を汚したままアルフェリオ様の前に戻ろうだなんて、もっての外です」
「……言われずとも」
面倒だとは、助けられた手前さすがの男も言えなかった。ただ、不意に疑問が口を突いていた。
「あんたはずっと、アルフェリオの旦那一筋だな。何があんたをそうさせるんだ、ユーイ」
問いはただ、鼻で笑われた。
「貴方のような忠義のかけらもないような者に、理解されようとも思ってませんし、話すこともありません」
無駄口叩くなら置いていきますよ、と。冷ややかに告げられて大男も閉口した。
今ここで、これ以上彼女の不況を買うのは悪手だ、と。見た目からは想像つかないほど頭脳労働を得意とする男は、さっさと歩き出した彼女のあとを追いながら、早速今後の算段に既に考えを巡らせ始めていた。
故に、相手が脇目で男の様子を伺っていた事に気がつくのが遅れた。
「それで、逆賊の汚名を負ってまで、貴方は一体シュテルに何を伝えたというのですか」
訊ねられて、顔を上げる。表情に感情の変化は出ていないものの、思いの外真剣な眼差しに射抜かれて、思わず目を座らせた。
わずかに男の口角が上がる。ここでもまた疑われているのかと思うと、愉快でならなかった。
「別に、あんたが心配しているような、旦那の不利益になるような事は一切、あの手帳に書いていないさ」
「へえ、では何を?」
「ありもしない管理情報だ。現時点でのシュテルの関与は邪魔だと、旦那からも聞いていたからな。精々遠回りして貰うための情報を、それらしく解りにくくして散りばめた、それだけだ」
「へえ。そうですか」
淡々と頷くと、ただ、と女は続けた。
「覚えておいてください。アルフェリオ様が貴方を是としても、目に余る様でしたら私が許しません。後悔しても仕切れない仕打ちを覚悟してください。いいですね?」
凄むような言葉は、恐らく本気であろう。まるで信じられていないのだと解り、大男は唇の端でただ嗤った。
「は、上等だ」
そんな姿達も、集翼所の人混みへと紛れて消えた。




