39. 不譲
「なーんか気に入らないなぁ」
不意にその笑みは消えて小さく呟くと、アルフェリオは襟足で揺れた五色の組み紐の飾りを鬱陶しそうに後ろに払っていた。
「まさか他でもない君に、侮られるとはねぇ」
躾が温かったかなぁ。すっと薄く開いた漆黒の瞳に射抜かれて、セリオスは思わず身震いした。
ひゅっと喉が鳴ったのは、アルフェリオのひやりとした空気に飲まれたせいだろうか。気温が下がったような気がしたのは、あくまで気のせいだと思いたい。
何にしても、セリオス自身で自分の首を絞めてしまったのは明白だった。
逃げ場を探して、自然と部屋の中に目を向ける。一人用のテーブル一式に、狭くはないベッドの側にはサイドテーブルのランプがついている。
入り口近くにある扉は、恐らく水回りが向こうにあるのだろう。
部屋を整えたばかりだったのだろうか。それともアズネロが抵抗しなかったせいか。部屋の使用感があまりにも感じられなかった。
だが余所見していられるのも、そこまでだった。目の前の男にわざとらしく深く溜め息をつかれて、セリオスの思考はそこで途切れた。
「ほんっとうにさあ、誰のためにこんな回りくどい事していると思っているんだかさあ。君がシュテルに居なかったら、話はもっと簡単だったのに」
工房で見かけたときに戻れるものなら、是非とも戻りたいね? 唇の端だけ吊り上げて笑う姿が、不穏で仕方がない。
「冗談じゃない。例えあの時リシュリオたちと出会ってなくても、あんたと行くことなんてなかった!」
「寂しい事言うなぁ。可能性のあった話でしょう? でもほら、意思は関係ないんだよ。君が必要だったら連れてくし、違うならそれはそれでいい。それだけの事だって解るかなぁ?」
「そんな自分勝手が許される訳ない!」
「そう言われてもねー。誰かに許しを乞おうなんて思った事ないからなぁ。そもそも気にする必要ある?」
「あるに決まってるだろ。そもそも僕は部外者で、一体何の関係があるっていうんだよ!」
「部外者かどうかは君が決める事じゃないでしょー。状況と、周りがそうさせるんだよー?」
面白い事言うねえ、と。不思議そうな様子すら見せるアルフェリオに、そもそも価値観が違い過ぎるのだと思い知らされた気がした。
そんなバカなことが、と。呟いたセリオスにも自信はない。
「さ、お喋りはもう十分でしょう? いい加減諦めて、リシュリオさんのとこに――――ぃっ……?! うわっ」
その時だ。
どんっと後ろから来た思いがけない衝撃に、アルフェリオはつんのめるように前に飛んだ。
「わ?!」
その飛んできた姿に、セリオスもまた飛び上がる程に驚いた。離れるように、逃げるように後退りして、密かに備え付けのテーブルにぶつかった。
「よお? なあにまた勝手してくれてるんだ、くそったれ」
きっと扉を強く蹴り出したのだろう。足を下し、冷ややかに告げたリシュリオが、そこにはいた。
「リシュリオ!」
「わりい、セリ。ちょっと手間取った」
怪我はないかと言われて、何度と頷く。こんなにもホッとしたのは、恐らく気のせいではない。
「いったたたた。びっくりするなあ、もう。乱暴過ぎるよ、リシュリオさん?」
「ハッ! てめぇがそこで余計な事をしていなければ良かった話だろ」
「酷い言い種だよ。あーあぁ、損な役回りだなぁ」
そんな二人の間で、アルフェリオは扉に打ち付けられた腰をさすって身体を起こした。心底げんなりした様子で溜め息をこぼすと、やれやれと首を振った。
「まあ、いいかあ。収穫もあって目的も果たしたし。十分、十分。それじゃあ面倒事になる前に、これで失礼するねぇ。そこ退いて、リシュリオさん?」
さっさとこの場を離れようと示唆する姿を、リシュリオとしても見逃す訳にもいかない。
「お前に用がなくても、こちらにはあってね」
「こちらにはないってば。あー、やっぱリシュリオさんには足止め係は必要だったかあ」
アルフェリオは眉を吊り上げて、どこか嫌そうに首を傾げていた。そんな姿をリシュリオは腕を組んで鼻で笑う。
「その足止め係っぽかったウチの元仲間なら、丁度今、ルーザが抑えてくれているさ」
「あれれ、それは困るなあ。置いて行くと回収が面倒だから、離してやってくれない?」
「はっ、意外だな? あいつでも、交渉材料になるとはな」
「え? 交渉材料?」
意外そうにしたリシュリオに、今度はアルフェリオが虚を突かれた様子で瞬きしていた。
「あは、その考えは無かったなあ」
やがてへらりと笑ったのは、本当に頭に欠片もなかった考えなのだろう。
「あれはさあ、自分の力でついて来るって言ったんだもの。ついて来られないと言うならね、それはそれまでなだけだよ? 足手まといは要らないからさー」
まあ放っておいてくれれば、その内戻って来るかな。少し先の計画に思い馳せてぼやいたアルフェリオは、絶句した様子のセリオスを見てふっと笑った。
「そんな、仲間でしょ……?」
「はは。ホント、フロリウスに守られた優しい世界で、大事に大事にされたんだねえ、セリオス。人質にし甲斐があるよ。そう思わない? リシュリオさん」
「はっ、思わねえよ。親方が弟子を可愛がるのは普通だろ」
「そーだね?」
くすくす笑ったアルフェリオは、不意にそれを収めた。余裕を持った笑みは変わらず、糸目を細めて口元に弧を描く。
「さ、本当にそこを退いてもらおうかな。リシュリオさん? 手粗っぽい事するのは、あんまり得意じゃないからさあ」
「どの口が言うんだか」
「リシュリオさんみたく、荒事は本業じゃないからねぇ。穏便に済むなら、勿論そうするよー?」
とんとん、と。軽く足元を踏み鳴らしたアルフェリオに、リシュリオも身構えた。
「穏便だなんてほざけよ。あんたほど、波風立てるのが好きな奴なんていねぇよ」
「あっはは! ほんとひっどい。こんな事ならちゃーんと、人質を人質らしく掴まえておけば良かったかなー」
ね? と。意味ありげに後方を気にした様子で視線を向けて、唇の端で笑ったアルフェリオに、リシュリオは眉を顰めた。
セリオスもまた捕まれるのはごめんだと慌てて身構えるが、果たして渡り合える自信はない。
「やっぱてめぇとは一度、きちんとけりを着けておかないといけないみたいだな?」
「えーやだなあ。痛い思いしたくないから、反撃するよ?」
余裕たっぷりに言ったアルフェリオは、不意にあっと声を上げていた。
「そうだ。リシュリオさんが負けたら、シュテルはゼルベジャンの下に入るのはどおー?」
「寝言は死んでから言え。冗談じゃねえ」
名案じゃない? と笑ったアルフェリオを、リシュリオは静かに睨む。セリオスもまた、息を呑んでいた。
自然と空気も張り詰める。
「駄目かー。じゃあ、リシュリオさん。さくっとそこ、退いてくれない?」
「退いて欲しいなら、アズネロ親方を解放してもらおうか」
「それはねえ、出来ない相談かなー。こちらにも色々、都合があるからねえ」
ならばと、御託もそこまでだ。
「覚悟しろよ」
「あっはは。そんなもん、するつもりないよ?」
「あんたに逃げ場はないからな」
「じゃあ、逃げ切れば勝ちって事かな? ……あーでも、それだと打ち負かした事にならない?」
くすりと笑みを溢して冗談めいて言う姿を、リシュリオは苛立った様子で眉を寄せた。
自然と、アルフェリオの動きに備えてリシュリオは身構える。睨み付けた姿は至って自然体で、それが一層余裕に見せた。
ぴんと空気が張り詰めた気がして、セリオスはごくりと生唾を飲み下していた。
刹那。短く息を吐いたのは誰か。
距離を詰めるように、一歩強く踏み込んだリシュリオが先制した。
床の木目に強く踏み込んだ音と小さなステップが軋む。
空を切るように振ったリシュリオの右腕は、半歩引いた拍子に揺れたアルフェリオの飾り紐を掠めただけだった。
もう一歩、踏み込む。胸ぐらを掴もうとした左手は、アルフェリオに軽く払われて後ろへと逃げられた。
「あっはは! リシュリオさんてばやさしーね! 捕まえようとしてくれるんだ?」
けらけらと笑いながら、アルフェリオは僅かに身体を反らすだけでそれらを避ける。
大の大人が取っ組み合うには少々手狭な部屋だと言うのに、まるで狭い室内だという事を感じさせない。
「チッ、ちょこまかと動くなよな」
「だーから、痛いのは嫌だよって言ったでしょう? よっと」
軽い掛け声と共に、アルフェリオがまた小さく身を引いた。かと思うと、リシュリオから距離を取るように、後方に宙返りしていた。
「え」
二人の意表を突くにはそれだけで十分だった。
不意に自分の側に着地した姿から、セリオスは咄嗟に次を想像する事が出来なかった。
そのせいだろうか。アルフェリオに腕を捕まれた事に気が付くのが、一瞬遅れた。その一瞬の事だった。
「はい、セリオス! あとお任せするねえ?」
「え?!」
アルフェリオはぐんと体重をかけながら、その腕を引いてバランスを崩した。
「え? え?!」
ぐるりと振り回し、遠心力でセリオスと場所を入れ替えた。
セリオスは辛うじて、よたよたと転ばないように足をもつれさせるが、何が起きているのかまるで解っていなかった。
「ちょっと?! 待っ――――?!」
「待たないよー」
「おいアルフェリオ!」
慌てて駆けつけたリシュリオでさえも、彼の行動はまるで読めなかったらしい。
すっかり慌てた姿たちに構った様子もなく、アルフェリオはただセリオスの腕を離していた。
「はい、いってらっしゃーい」
「うわああ?!」
「おい!」
振りまわされた上に手を離されたセリオスは、目を白黒させているうちに前に投げ出された。そんな事する?! と思っていても、不満は悲鳴にすらならない。
転ばないようにつんのめったものの、結局勢いに負けて、駆けつけたリシュリオと思い切りぶつかった。
「わっ」
「っ―――――!」
既視感と衝撃に、思わず絶句する。痛みが無かった事だけは幸いだろうか。ただ、そろそろ鼻がなくなるような気がしてならない。
セリオスがぶつかった勢いに巻き込まれたリシュリオもまた、バランスを崩してよろけていた。
先に状況を理解して立て直したのは、やはりリシュリオだった。
「と。セリ、大丈夫か?」
「う、うん。ごめん……!」
セリオスもまた、ばっと慌てて寄りかかった身体を起こして原因を振り返ると、既にアルフェリオは窓の側にいた。
アルフェリオは躊躇いなく、そこを開け放っていた。急峻な崖に面しているにも関わらず、するりと身を乗り出す。
まさかという思いは、あっけなく実現された。
「それじゃあお二人さん、またね?」
「待て! アルフェリオ!」
「あはは、やだよ?」
その姿は、そのまま軽快に飛び降りた。
「え?!」
セリオスが慌てて窓辺に駆け寄ると、真下に落ちたはずの姿はなかった。建物三階分は高さのある遥か下方の通りにて、軽やかな足取りで通りを去ってく姿があったばかりだ。
まるで彼の機嫌を表しているかのように、五色の組紐がリズム良く跳ねているのが、ここからでもよく見えた。
「チッ! 逃げ足の早い奴だな」
その後ろから同じように覗き込んだリシュリオも、腹立たしそうに舌打ちしていた。怪我をした様子すら無いことに、相手の身体能力の高さを認めざるを得ない。
「っ……そうだ、あの人さっき、仲間の女の人に足残してって言ってた!」
「なら、まだ集翼所に戻って来そうだな」
あいつもいるし、と。宿屋の入り口の方に目を向けながら、リシュリオはぼやいた。きっと、かつての仲間に思うところがあるのだろう。
「多分、あいつが一番、今の帝国の事も状況も知っている筈だ。ここで掴まえない手はない」
「うん……!」
間違いなく、情報を引き出さない手はないだろう。その為にと、リシュリオは思考を巡らせるように目を伏せた。
三つ数えるよりも先に、軽く組んでいた腕をほどいてこちらを捉える。
「セリ、悪い。エスタには飛空挺の準備を頼んでいるから、先にそっちと合流してくれ」
セリオスが後ろを見上げると、真剣な眼差しがそこにはあった。
「リシュリオは?」
「ルーザと一緒に、ちょっとな。昔馴染みをどうにかしたらすぐに合流するから、飛べるようにだけしてくれ」
連れていくつもりはないのだろう。何をするつもりなのか聞くのも憚れて、ぱちぱちと瞬きしてしまった。
「うん、解った」
ひやりとした空気は、恐らく気のせいではない。あまり手荒な事をして欲しくないと思いつつも、セリオスにそれを止める権利もないと感じてただ頷いた。
リシュリオと連れ立って階段を降りていくと、不安そうな表情でカウンターから夫人はこちらを見ていた。セリオスは申し訳なく思いつつも、お騒がせしましたと告げるリシュリオに促されて宿を後にした。
外に出ると、宿の出入り口から少し離れた人目に付きにくい場所にて、自分より大柄な男を涼しい顔で地に組み伏せたルーザがいた。こちらに気がつくと、空いている手を軽く上げている。
「セリ、行って」
「う、うん」
リシュリオ自身もセリオスを関わらせるつもりは無いのだろう。元の通りの方へとセリオスの背中を押した。それにただ、従う他にない。
後ろ髪引かれつつも、ただ、自分に出来ることをしようと大通りを目指して急ぐばかりだった。




