38. 急行
一本道をまっすぐに下って行くと、途中で何度か傾斜に足を取られそうになっていた。下手をすると転がり落ちそうだと思う度に、セリオスが肝を冷やしていたのは余談だ。
セリオスが人通りの多い市場まで戻って来るころには、すっかり息が上がっていた。
人混みに入るよりも先に、一度足を止める。荒く肩で何度も息をついて、どうにか呼吸を整えようとした。見える範囲にアズネロの姿を探して、一先ずそれがない事に安心した。
「っ……はあ、はあ!」
しかし、不安は拭えない。
市場の賑わい方は先程と何ら変わりはないというのにも関わらず、何処かよそよそしいものに感じたのは恐らく気のせいだろう。気のせいだと、思いたい。
賑やかなフリをして、市場全体がアズネロの行方を隠しているのではないか。そんな有りもしない考えに捕らわれそうになって、セリオスは慌てて首を振った。
何事も起きていないと願う事しか、今の時点では出来そうにない。願う時間すら無駄だと、リシュリオが追い付くよりも先に、また駆けだした。
集翼所のほど近くまで大通りを戻り、一つ通りを逸れて行く。喧騒が一気に遠退くその通りは、落ち着いた雰囲気があった。
立ち並ぶのは、表の通りと同じような家々に過ぎないが、時折、宿屋や食事処が間口を開けている。その雰囲気は、どことなくセリオスの居たベリジンの街に似ている気がした。
確か聞いていた宿屋は、この辺りだっただろうか。
セリオスは再び息を整えようと荒く肩で息をつきながら、辺りに出ている看板にきょろきょろと懸命に目を走らせた。
「セリ、四つ目の右手だ。階段の手前!」
後ろからかかった声に促されて、顔を上げる。見ると、通りの切れ目でもある下り階段の手前に、捜していた宿はあった。
落ち着いた風合いの石造りの建物は、よく手入れされているのが解る。見晴らしの良さと大通りや集翼所に近い便利さを売りにしているその宿は、自然と人の出入りも多い。
「あの、すみません! セリオスと言います。ここに泊まっているフロリウスに会いに来ました」
受付代わりのカウンターに座っていた中年の婦人に、セリオスは早速名乗った。アズネロに会いに来た旨を手短に伝えると、恐らく昨日の時点で話がされていたようで、快く奥に通された。
教えてもらった部屋に向けて扉の数を数えながら、可能な限り急ぐ。婦人の様子から、大事は起きていなさそうだと解っていても、顔を見るまで安心できそうにない。
セリオスはどきどきと早鐘の止まらない心臓に、小さく息をついた。
少し遅れて来ている筈のリシュリオも待っていられなくて、扉を叩こうと手を上げる。その時だ。
「――――今回はもう少し、慎重に動くべきだったねぇ?」
不意に中から聞こえたその声に、セリオスの手はぴたりと止まった。
そんなまさかと、思わずにはいられない。
「ねえ、フロリウス? 君が不用意に動くから、今頃黒姫のところにもお迎えが行っているよぉ? 通信機器を使わなかったところは良かったけどさー、不自然に痕跡を消しているんだもの。空も目を光らせている事くらいは、想像つかなかったのかなァ」
「うるせえよ」
軽薄な調子は、数度と聞いたに過ぎない声だ。しかし、そのたった数度で持った恐怖心からか、自然と身震いしてしまう。
ゼルベジャンを率いる、アルフェリオの声に聞き間違いない。
唯一、彼の言葉に不満を示して低く唸った声にホッとする。まだ、今の時点では中のアズネロは無事なのだと解った。
だが、どうしたらいいのか解らない。自分がこのまま突撃したところで状況を変えることが出来るだろうか。
中の会話に耳を傾ける余裕すらも、途端に失われた。
ここに来たのがセリオス一人なら難しかったかもしれない。幸いな事に、ここに居るのは自分一人ではないのだ。セリオスは助けを求めるように、元来た方を振り返った。
しかしそこで漸く、あれ? と焦った。
先程まで自分の後を追っていた筈のリシュリオの姿が、少し待っても現れなかったせいだ。
よく聞くと、下で誰かと揉めているような、そんな声が微かに聞こえる。一瞬停止していた考えが、ゆっくりと理解した途端にかっと頬が熱くなったような気がした。
少し考えれば解ることだ。きっと、扉向こうの、歓迎し難い訪問者の仲間がやって来たのだろう。
「………………っ」
他力本願な自分が恥ずかしい。しかしこの場を一人で切り抜けられると思えるほど、セリオスは自分の力を過信していない。
どうしようと、手が震える。何処かに逃げ出したい思いに駆られ、廊下をきょろきょろと伺った。
目に留まったのは、穏やかな空を映す窓。二階の高さなら、多少の怪我はあっても逃げ出すことくらいは出来るだろう。
セリオスはそこまで考えて、深く息をついた。
途端に冷静になったのかもしれない。
階下とはいえ、リシュリオが近くに居ない訳でもないし、きっとルーザも駆けつけようと動いてくれているだろう。
エスタはもしかしたら、捕まる訳にはいかないからと飛空挺の方に戻っているかもしれないが、直ぐにこの地を出ることになるなら、準備していてくれる事を願っておいた方が好都合に思えた。
あとは自分の奇襲で驚いてくれている内に、アズネロを連れ出せたら。そこさえ上手くいけば、逃げられるような気がした。即席の作戦に過ぎないが、それ以上に良案は思いつかない。
迷っている時間も、なさそうだ。
「……僕なら出来る」
中に聞こえてしまわないように。それでいて自分を奮い立たせるためにも呟いた。
心の中で三つ数えたら、体当たりしつつ扉を開く。心の中で自分自身と簡潔に打ち合わせして、ドアノブにそっと手を乗せた。
すっと深く息を吸う。緊張感に苦しかった胸が、少しだけ開いた気がした。
三、二、一……。
今ここだ、と、体重を勢いよくかけて扉を叩きつける勢いで開いた。
「親か……うわ?!」
――――つもりが、体重をかけた途端に扉の手応えすらなく、ただ勢いだけで前につんのめる形に投げ出された。
顔面から、黒い壁のような何かにぶつかっていく。
「わ……びっくりしたなあ。こそこそ誰が聞き耳立てているのかと思ったら君だったんだねぇ、セリオス?」
頭の上から降って来た声に、ぎくりと身体が強張った。
それは恐らく相手にも伝わったのだろう。喉の奥でくくくと笑ったアルフェリオは、嬉しいなあと愉悦を滲ませていた。
思わず見上げると、細めた目が獲物を見定めているかのように、一層細まる。黒い壁に見間違ったのは、アルフェリオのジャケットの色に他ならなかった。
「まさか君の方から来てくれるなんてなあ。こちらに来る気になった?」
「っ……そんな訳ない!」
大歓迎だよ、と。耳元でくすくすと嗤った姿を、セリオスは慌てて突き飛ばして距離を取った。
相手に気圧されているのが堪らなく悔しい。しかし、長居は自分の心臓によくない。そう感じたセリオスは、奥に目を向けた。
「親方、今の内に逃げて!」
こうなったら強行突破するしかない。そんな思いからセリオスはやぶれかぶれに相手の前に立ち塞がって、出入り口を確保しようとした。
せめて壁に押し付けられればと体当たりしてみるものの、効果があったかどうかは怪しい。
幸いな事に、アズネロは拘束された様子はない。今ならばと懸命に訴えるが、セリオスの登場に珍しく驚いていたらしいアズネロは、目をわずかに見開いて、咄嗟に動けないでいたようだった。何でここに、と僅かに動いた唇が呟いていたのは、恐らく気のせいではない。
「あー……リシュリオさんも来ちゃってるのか。何だか大騒ぎになっちゃったなー」
めんどくさいなあ、と。体当たりされようがアルフェリオは構った様子もなかった。
階下を気にしつつぼやいた姿は、どうしたものかと小首を傾げて頬を掻いていた。
「まあ……セリオスにはとりあえず、フロリウス連れてくまでの人質になってもらおうかなー?」
「っ……!」
不穏な言葉にちらと伺うと、細めた目とばっちり合った。今更ながら、自分の身の危険をひしひしと感じてならない。
セリオスが尻込みして、身を引こうとした一瞬の事だ。
「はい、確保ー」
相手を壁際に寄せていた筈なのに、右腕を捕まれ後ろに引かれたかと思うと、振り回すようにぐるりと視界が回った。気がつくと左半身に衝撃が来て、そこで漸くセリオスは自分が壁に押し付けられているのだと知った。
「っ……このっ……!」
振りほどこうとじたばたともがいてみるものの、右肩がみしりと小さな音を立てただけだった。それほど強い力で押さえつけられている訳でもないのに、まるで身動きが取れない事にただ焦る。
「離せよ!」
「やーだよー。人質だって、言ったでしょう?」
アルフェリオは残念な子供でも見ているかのように苦笑しているが、そんな様子から考えられないくらいがっちりと捕まれて動けない。
セリオスが自分の無力さに悔し紛れに暴れている間に、扉に立つ姿があった。
「アルフェリオ様」
セリオスの抵抗なんてまるでないものだと言わんばかりのアルフェリオは、涼しい顔でその姿を迎えた。
「お帰り、ユーイ。準備出来た?」
「裏手に」
「ありがとー」
にっこりと上機嫌な糸目の男は、侍従の女に視線で示す。
「それじゃ、彼を丁重にお連れして? 後で合流するから、とりあえず足を残して先に出ておいて」
「承知」
端的に答えて腰を折った女から、アルフェリオは奥へと目を向けた。
「それじゃあフロリウス? 彼女について行って。抵抗したらどうなるかって、解ってるよねえ?」
つと視線を下に向けたアルフェリオは、腕に捉えたセリオスを解りやすく示していた。
アズネロはじっとその様子を伺っていたかと思うと、どこか諦めた様子で深く息を吐いていた。やれやれと溢したのは、やる瀬ない思いからだろうか。
「お前の茶番に従うから、あんまりそいつをいじめないで貰おうか」
「いじめてないよ。面白がってるだけー」
「お前のそれは質がわりぃんだよ」
アズネロは舌打ちを一つ溢すと、大人しく立ちあがり、ユーイと呼ばれた女性の後についていく。
「っ……親方! どうして、逃げてよ!」
「あはは! セリオス? 君、立場を解ってる? 可愛い可愛い君がこんな所に一人で来るから、フロリウスは余計に逃げる機会を失ったんだよ?」
「っ…………!」
まあ、わざわざ迎えに来たんだもの。逃がす気もないけどねェ?
くすくすと笑った姿は、息を飲んだセリオスの反応を明らかに楽しんでいた。
迂闊な自分が悔しくて、無力な自分が腹立たしい。ぎりっと歯を食い縛ったセリオスに、アズネロは小さく溜め息を溢していた。
「そいつに少しだけいいか」
つとセリオスに顎を向けると、アズネロはこの場を支配する軽薄な男に訊ねた。
「うん。どうぞー?」
特別何かを気にした様子のないアルフェリオは、至って軽い調子で肩を竦めた。
そんな男を、アズネロは片眉を吊ってちらりと伺った後に、まっすぐにセリオスを見据えた。
「セリオス、よく聞け。俺の事よりも、お前はお嬢さんを支えてやれ」
「な、そんな事言われても!」
「いいから聞け。お嬢さんの伝手がもうじき無くなる可能性が高いのもそうだが、これから空が確実に荒れる。お前の目で見て、どうするのが最善か考え続けろ。考えた結果の行動なら、俺は何も言わない。今回みたいな考えなしに無謀な行動をするのは止めろ」
「そんな事言われても、親方! 僕は親方を助けたくて!」
見捨てるような事は出来ない。そう訴えても、アズネロが取り合う気配はまるでない。
「俺は兎に角いいから。こいつのところに行くくらい、心配いらねぇ」
「そんな……」
どうしてそこまで頑なに言われるのか。いっそアズネロ自身に何か、企みでもあるのではないかと思う程だった。
そうだとしたら、自分がするべき事は何だろうか。迷うように視線を泳がせつつも、動きを止めたセリオスに、アズネロは僅かに唇の端で笑っていた。
「それで行き詰まったら、そいつでも取っ捕まえて問い質しな」
「えー? そんなヘマしないよ?」
顎でしゃくられて、アルフェリオは少しばかり不満そうにしていた。未だ戸惑うセリオスに、アズネロは一度目を伏せ前を見据える。
「頼むぞ」
「っ……親方!」
去ろうとする背中を追い縋ろうとして、思いの外、力強い腕に押さえ込まれて阻まれる。
「親方!」
「ほーら、あんまり暴れると肩痛めるよー?」
懸命に首を捻ってそちらを伺おうとするも、扉から出ていってしまった姿はもう見られない。それでも、抵抗だけは止めてたまるかと懸命に暴れた。
「まーったく、君も往生際が悪いねぇ」
心底呆れたと言わんばかりのアルフェリオは、扉を足蹴にして閉じると、それ以上抑えているのも億劫だと手を離した。
セリオスは拘束が緩むと同時に、部屋の奥へと逃げ出し距離を取った。退路はどうせ断たれてしまっているのだ。対峙して相手を睨むほかに、成す術はない。
「親方を一体どうするつもりだよ」
セリオス自身も驚くほど、低く告げていた。
そんなセリオスを面白がっているのだろう。アルフェリオは唯一の出入口である扉に寄りかかると、くすくすと笑みを溢していた。
「どうなるだろうねぇ? 帝国に引き渡せば、いいお金と土産になるだろうね」
そんなものの為に、と。思わず息を飲む。
「あんたは一体、何のために帝国にそこまで肩入れするんだよ」
「あれぇ? 言わなかった? 空を統治するんだって。その為に利用出来るものは、何だって利用するよー?」
フロリウスも、帝国も。
ふふと無邪気に笑った姿に、セリオスはぞっとした。きっと目の前の男は、目的の為なら誰かを不幸にする事も厭わない。
「空を統治だなんて、そんなの……何のためにそんな事するんだよ」
「君も、知りたがりさんだねぇ? ボスが望んだから、それ以外に動く理由なんてないよ?」
珍しくふんわりと笑ったのは、それほどまでにボスと呼んだ上の存在を慕っているからだろうか。何にしても、下手に力や権限を持っているせいで、質が悪い事に変わりない。
「さ、お喋りはこの辺にしとこうかなぁ。ホントは君も、フロリウスと一緒に連れてってしまいたいとこだけどねぇ。リシュリオさん達と敵対するのは望んでないから、役には立って貰うよー」
おいで、と。人差し指だけで手招きするアルフェリオに、セリオスはただ身構える。何なら、飛び掛かって突破出来ないものか、真剣に考えていた。
そんなセリオスの思惑に、容易く気がついたのだろう。ぷっと吹き出したかと思うと、くすくす笑いを誤魔化すように拳を口許に当てていた。
「ねえ、あのね。君に選択肢はないんだよ、セリオス? 怪我しながら力づくでリシュリオさんの所に返されるのと、ただ無傷で帰るの、どちらが賢い選択か解るでしょー?」
出来の悪い子供でも宥めているような調子は、かえってセリオスの気を逆撫でた。
「それは違う。あんたをリシュリオ達と捕まえて、あんたを人質に、親方を取り戻してやる」
「君それ本気言ってるんだ?! ぷっ……ははははははは!」
大真面目に放った言葉は、ただただ吹き出されただけだった。腹を抱えてげらげらと笑う姿に、むっとしない訳がない。
「ああ、ここで君を引き留めてるつもりが、逆に引き留められてるって言いたいんだ? なるほどねぇ」
ふうんと腕を組んだアルフェリオは、僅かに小首を傾げて唇の端を吊り上げた。