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37. 転機

 

 山岳にあるクコルの街の朝は、霧と共にやってきた。

 朝もやは海のように波立って、朝焼けに照らされたために赤に橙にと、絶えず表情を変えて染まっていた。寒々しく見える山々も、この瞬間だけは燃えるような色合いをしている。


 下界の様子がまるで伺えないそこは、白い海に閉ざされた孤島に見間違う。裏腹に、空は夜明けとともに薄い水色へと色を変えて、雲一つないからりとした一日を予感させた。


 街の外れにはすでに家畜が放たれている様だ。岩肌の目立つ山ではあるが、うっすらと緑や黄色がかった開けた場所に、ぽつぽつと家畜動物のシルエットが見て取れた。



 早朝の山の冷え切った空気に混ざって、冴えるようなエンジンの音が響いている。夜通し空を駆けて来たのであろうどこぞの飛行挺は、やっとたどり着いたと言わんばかりにクコルの集翼所へと降り立っていた。

 集翼所の外れには朝市が立っていて、既に賑わい始めている。物流の中心が外からやって来る飛空挺にある街ならではの事だろう。


 頬を撫でるまだ冷たい空気に息を白くしながら、遠くから聞こえる賑わいにセリオスは耳を傾けテラスの手すりに寄りかかった。

「おはよう、セリ。具合はどう?」

「リシュリオ」

 声に吊られて振り返ると、湯気の立つマグカップを両手にした姿がそこにはあった。おはようと返すと、リシュリオは隣に並んで飲むだろと一つを差し出して来た。

 ミルクベースのポタージュスープが、優しく香る。カップの温かさが、少しばかり冷えていた指先には熱かった。

「ありがとう。おかげでもう平気だよ」

「そっか。ならよかったよ」

 いただきますと呟いてスープを口にすると、ミルクに融けたジャガイモの甘みとほのかに胡椒の香りがした。

 リシュリオは隣に寄りかかりながら口火を切った。

「昨日、お前が寝た後にさ。エスタとルーザと話したんだ」

「うん」

「エスタはさ、出来れば帝国の動向を探りつつ、このまま同じところにいない生活を続けたいって言ってくれた。シュテルの一員として、出来る事をしていきたいって」

「そっか」

「俺としてはそれは大歓迎であるし、俺らとしても、今までと同じような生活を続けていくつもりではある」

 リシュリオは口を湿らせるようにスープを啜った。ほうと短く吐いた息は、少しづつ温められてきている空気でもまだ白い。


 やがて、真面目くさった様子でセリオスに目を向けた。

「お前はどうしたい? 俺らとこのまま旅を続けるのと、アズネロ親方について行くのと」

「僕は……」

 尋ねられて、思わず手元に目を落とす。

 頭の片隅では、考えていない訳ではなかった。それでもセリオスは先を続ける事を思わず躊躇った。

「その、いっこ聞いてもいい?」

「ん? なんだ?」

「リシュリオは、ワーレットって名前に心当たりある?」

「ワーレット?」

 わずかに首を傾げた姿は、心当たりを探すように宙へと視線を泳がせた。やがてわずかに眉を寄せていた。

「悪い、心当たりないな。その人がどうかしたか?」

「そっか。ううん、有名な人じゃないなら大丈夫」

 気にしないでと眉を落として苦笑すると、納得し難そうなリシュリオは怪訝そうにしていた。

 そんなリシュリオの追及があるよりも先にセリオスは、僕さ、と続けた。

「僕の目的は、確かに親方に会った事で終わったよ。親方にやらないといけない事があるって解ったし、しばらく工房に戻る気がなさそうなのもよく解った」

 だからさ、と続ける。

「僕は僕で、リシュリオ達と色んなものを見てみたい。その気持ちに変わりないよ」

「そっか」

「だから一応、親方にはそれを伝えとこうと思うんだ。親方のやる事が終わって、また工房をやるって言うなら……そしたら手伝いたいけどね」

 少しだけ苦笑すると、ひょいと肩を竦めて隣を見上げた。

「だから、これからも一緒に空に行ってもいい?」

「もちろん。そう言ってくれて嬉しいよ」

 甘えるように伺った先の表情は、当たり前だと言わんばかりに笑っていた。


 ぐっとカップを煽ったリシュリオは、どこかほっとしたようにも見えた。

「実はさ、セリはアズネロ親方について行くんだと思っていたんだ」

「僕が?」

「ああ。気になることを解決出来るのも、安心感としても、アズネロ親方と一緒の方がいいのかなって思ってな」

「あはは。僕の意見を聞いてくれてありがとう」

 こうした方がいいと言われなかった事に感謝しつつ、セリオスはスープを口にした。おいしいと思わず口にしたセリオスに、リシュリオはわずかに口元に笑みを浮かべる。

「昨日さ、エスタに心配されて、実はちょっと嫌だったんだ」

「体調崩したから……って事じゃないよな」

「うん。昔の事思い出したのかってさ」

「詮索された事が嫌だったって感じか?」

「ううん、そうじゃなくて。僕が僕であるかどうか疑われたのが、なんだか複雑だなって」

 どういうことだと不思議そうにしたリシュリオを見て、セリオスは苦笑しながら手元のマグカップを回した。

「何というか、昔の事を覚えているなら可哀想って言われる覚えがないんだよね。僕自身が覚えていない昔に、何かとても大きなことに使われていたのだとしてもさ、今の僕には関係ないでしょう?」

 僕の事を勝手な言い分で、誰かに決めつけられるのは嫌だよ。

 そう告げると、隣もそれはそうだと肩を竦めていた。

「まあ、エスタも帝国絡みの事になると途端に空回りするしなあ」

 苦く笑ったのは、リシュリオにも心当たりがあるせいだろう。まあでも、と。なんてことないと言わんばかりに肩を竦めた。

「そういうところ含めて、面白いよな」

「面白い? 大物相手にしないといけないかもしれないのに?」

 セリオスがよく解らないと首を傾げると、リシュリオは手すりに体重を預けて遠くに視線をやっていた。

「確かにさ、エスタがどうこうしたいって思っている相手の規模がどういうものなのかって、俺もよく解っていないところあるよ。ただ、知ったところで、それが何の役に立つのかってところなんだよな」

「相手を知れば動きやすいとか、先回りしやすいとかあるんじゃないの?」

「それは勿論ある。けどさ、知った事で臆病になるくらいなら、必要最低限の情報で前に進めたらなって思うんだ」

「そんなもの?」

「多分な。俺らみたいな小さな集団なら尚更さ。何なら関係ない場所で遠回りしたからって、誰かに迷惑かける訳でもないしな」

 そっか、と。少し考えるように手すりにもたれかかった。遠くの眼下で行き交う人々は、誰も彼も生き生きとした様子でいる。


 山にある街だからだろうか。平坦な場所よりも坂道や階段を組み合わせた通りが圧倒的に多い。大通りが市場と兼用されているのは、この地ならではの光景だろう。

 あまりにも穏やかでありふれている光景を前に、自分の不満に思っていた事なんて小さなことの気がしてならなかった。

「僕、親方にもちゃんと話してくるよ。親方がこれから何をしようとしているのか、力になれる事はあるのか。ちゃんと聞いて、その上で好き勝手に空に出る」

「それでセリが納得できるならいいんじゃないかな」

 多少は何か言われそうだけどな。そんな悪戯めいた言葉に、セリオスもつられて笑ってしまった。

「そういえば、エスタやルーザは今何してるの?」

「ああ。二人とも買い出しに行ってくれているよ。ついでに街の外れにあるって言う花畑にも行っているんじゃないかな。今の雲海が広がる時期の朝だけらしいからな、花畑が広がるの」

「え、なにそれ。僕も見に行きたいんだけど!」

 そういうの誘ってよ! と慌ててマグカップの中身を煽ったセリオスは、まだ一息に飲むには少々熱いそれに身を竦ませた。

「ははは、そう慌てんなって。何なら、アズネロ親方の所に行くついでに花畑も行ってみようか。まだ知人を宿で待つって言っていたし、そんなに慌てなくても逃げたりしねえよ」

「花! 花は朝だけなんでしょ?」

「あー……じゃあまあ、行くか」

 ちらりと太陽の方に目を向けたリシュリオは、同じくマグカップを煽って空にするとセリオスから受け取った。

「出掛ける準備して、広場で待ってな。カンタンに戸締りしてくるよ」

「やった! すぐ準備してくる!」

 慌ててテラスを飛び出すと、背中から急ぎ過ぎて転ぶなよと笑う声がする。そんなリシュリオの声に構わず、セリオスは室内の洗面場に駆けこんだ。

 わくわくする気持ちに、陰りはない。まだ見ない景色に、胸が弾む。


 手早く身なりを整えて、鏡に映った寝癖は適当に撫でつけた。放り投げたままにしていたジャケットを羽織り、必要ないと解っていても、いつものボディバックを身に着けた。

 せめて通りがかりの場所くらいは戸締りを確認しようと、自室や廊下の窓に目を向ける。動く様子すらない窓からの穏やかな景色に、自然と口角も上がった。


 広場に向かうと、すでに戸締りをあらかた済ませたリシュリオがいた。

「思ってたより早かったな」

「もたもたしてたら昼になっちゃうだろう?」

「はは、それもそうだ」

 連れ立って飛空挺を出ると、上から見下ろしていた時よりも市場の賑わいが近く感じた。

「場所は大通りを登って行った先だって言ってたな」

「早く行こう!」

 最後にもう一度戸締りを行っていたリシュリオを急かして、セリオスは市場へと向かう。


 見知らぬ街だからと言って、市場の活気は大きく変わる事はあまりない。しかし、並ぶ品物は土地柄がよく出る。

 気が付くのは、毛織や植物染の自然な風合いの布、あるいは保存の為の様々な香辛料が見て取れる事だろうか。乾燥に強い瑞々しい果物は色鮮やかで、初めて見るものが多かった。

「セリ、あんまきょろきょろしてると迷子になるよ」

 人の流れを避けながら、並ぶ露店の品物に右へ左へと目を向けていると、苦笑したリシュリオの言葉にはっとした。

「わ、解ってるよ。マレスティナの市場も大きかったけど、ここも珍しいのが多くて、つい」

「そういや、セリのいたベリジンは露店って少なかったな」

「うん。確かに軽食売ってる屋台はあったけど、大体どこも、小さくてもお店を構えてたね。ここもそうだけど、マレスティナの露店通りはびっくりしたなあ……」

「ここらは言う程、石や木材の資源がある訳じゃねえからなあ。店を多く立てるよりも、少ない資源を街づくりに使った結果だろうな」

 そうなんだと頷きつつ、セリオスはまた辺りに目を向けた。


 言われてみると、自分の知っている街並みよりも随分と背の低い建物が多い。いつでも畳める露店とは違い、建物の大半は掘り下げて建ててあった。

 山に吹きつける強い風を避ける為なのだろうと、その時になってようやく理解した。


 不揃いの石で舗装された坂道をひたすら登っていくと、人が住む建物は途切れ、階段状に組まれた石垣があった。その向こうに、粗末な通りは続いている。

 石垣には膝丈程度の下草が生い茂り、家畜が時折のっそりと草を食んでいた。


 岩肌の目立つその山道は、うっすらと緑に色づく山に刻まれた一本の線のようだ。聞くと、年中膝丈程度の草だけが生えるこの地にとって、貴重な資源なのだという。

 木材なんて最も手に入らなく、街も石やレンガ造りが基本なのは納得だった。

「この先?」

「みたいだね」

 先導するように、セリオスは足早に向かって行く。少しばかり獣臭さの混ざった空気は、ここらが家畜の為にある場所なのだと、容易に知れる。


 だんだんと視界を遮っていた下草は背を低くして、ついには遥か下方に街並みを見る様になっていた。

 そこまで来ると景色はとても開けていて、雲海の切れ目から見えた地上は、霞んでほとんど見えなかった。

「すごい、ここ高いんだね」

「そうだな。多分、マレスティナより標高あるんじゃねえかな。そういやセリ、息苦しかったりはしねえか?」

「うーん、そうだね。今のところは大丈夫」

「ま、あんま無理すんなよ。お前が病み上がりには違いないからな」

「解ってるってば」

 つい唇を尖らせて告げると、リシュリオには苦笑された。

「気圧の違いに慣れたのかもな」

 そうかも? と、首を傾げながら告げると、いいことだと遠くに目を向けながらリシュリオは頷いた。

「おっと、ここだな」

 やがて雲の薄い水色の空が視界に広がると、山の景色は途端に色鮮やかなものに変わった。


 一帯には、足首に届くか届かないか程度の緑が、岩の影に身を寄せ合うように生えている。そんな緑を貫くように、粗末な石畳の道は山頂に向けてどこまでも細く線を描いた。


 小さなまん丸の白い花や星を落としたかのような紫の花、あるいは房飾りをつけた蝶のような黄色い花が、あちらこちら一面に散らばっていた。まるでそれらは無数の星のようにも見えて、寒々とした山頂に近い山を彩っている。

 一部だけ花が閉じかけているのは、もう本日の花盛りは終える頃合いだからだろうか。もう一時間もしないうちに、一面の星の海のような花園は、緑が多く目立つ草原へと変わるのだろう。

「きれいなとこ……」

「そうだな」

 そして遥か遠くに二つばかり姿が見えた。あれがルーザとエスタだろうか。

 リシュリオが大きく手を振ると、背の高い方が応えるように手を挙げたのが解った。


 穏やかな景色にいっそ、現実からかけ離れたような時間を感じる。同時に、時折街の方から聞こえるエンジンの音に、日常との繋がりを感じた。


 何気なくセリオスは振り返ると、眼下に広がる雲海から、大型の飛空挺が朝靄を纏って浮上していた。

 随分と昇った陽射しに輝いていて、いつぞや本で見た大型の海洋生物が、飛沫を巻き上げて海上に姿を現しているかのようだった。


「…………おいおい、嘘だろ」


 そんな景色に見惚れている横で、同じく眼下を伺っていたリシュリオは、低く唸るように告げていた。

 思わずセリオスが隣を伺うと、嫌な予感がすると苦く呟く。

「なんであいつらが来るんだよ」

 まさかと思って遠くの飛空挺に目を向けるが、既にそれは集翼所へと停泊しようとしているところだった。


 遠目の機体をよくよく見て、漸くハッと心当たりに気持ちが焦る。

「リシュリオ、あれって……」

「ああ、ゼルベジャンだ。まさか、アズネロ親方の居場所がバレたのか?」

「っ……すぐ知らせに戻ろう!」

「勿論だ。セリ、先に行け。ただ、無理はするなよ」

「解ってる!」

 果たして、後続は気がついているのだろうか。リシュリオは遥か後方を一度伺って、すぐにセリオスを追っていた。


 ぐっと、セリオスの喉が詰まる。心臓が嫌な風にどくりと音を立てたのは、果たして標高が高いせいだろうか。

 空気の塊を無理やり飲み込んで息をすると、少しでも早く街に戻ろうと、セリオスは半ば足元を滑らせながら下っていった。

 

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