34. 幻視
だんだんと窓いっぱいに、色んな景色が広がって行く。景色が山岳や大河から草原に変わったところで、空気の薄さに感じた息苦しさとは違う、妙に息が詰まった気がした。
見た事のない景色に胸が高鳴った時とは違う、冷や汗の滲む動悸がした気がした。
得体の知れない何かが、視界に映るぎりぎりに鎮座しているような気がした。勿論、辺りを伺ったところで、操縦室の景色が変わる事はない。
リシュリオがいて、ルーザがいて、エスタがいて。既に見慣れつつある光景に、セリオスはほっと息をついた。
筈だった。
草原に降り立った時、青さを含んだ少しだけ肌寒さを感じる風にドキリとした。本当にわずかに見える瓦礫の痕跡に、ぞくりと肌が粟立った。
「ここが、親方のいた場所……」
一度嫌な音を立てた心臓は、次第に早鐘のように肺を叩いている気がした。
刹那に見えた景色に息を呑む。つい先ほどまで草原に埋もれた瓦礫のあったその場所に、存在しない筈の見覚えのない建物があった。見覚えはない筈だと言うのに、不安に胸が引き絞られたように痛い。
『…………レイシェル、タレビオ、ワーレット、アズネロ……皆、どうか生きて』
不意に聞こえた声に、慌てて辺りを見回した。
「誰? …………あれ?」
問いかけた筈の言葉は、発した筈なのにまるで空気に溶けたかのように聞こえない。同時に気がつく。側に居た筈のリシュリオやエスタすらも、姿が見えなかった。それどころか、着陸した飛空挺すらなくなっていた。
「皆?」
そこで漸く、これが夢なのではないかと思い至った。
いつの間に、眠ってしまっていたのだろうか。そういえば飛空挺に乗ってる頃から身体が重く感じていたから、ずっと眠っていたのかもしれない。
ただ確信が持てなくて、何だか心細かった。何にこんなにも不安に思うのか。身体の中心が、緊張感からずっと握られたみたいに痛い。
早く目覚めたいと思うのに、足は彷徨うように何処かへと向かっていた。
気がつくと、入り口を通った覚えもないのに、室内に立っていた。
先程まで外から眺めていた建物の中に、いつの間にか紛れてしまったのだと一先ず理解した。
「ここは……?」
夢見心地でセリオスは呟いた。この場所に対して酷く不安に感じているのだと、嫌でも理解してしまう。
無機質で箱のようなその部屋は、兎に角飾り気はない。真っ白な壁は迷い込んだセリオスを他人事のように囲っていると錯覚した。
大きな窓はあるものの、その窓から入る光は人工的な明かりに過ぎないと、光の加減から容易に解る。この部屋は箱庭なのだと、不意に思い至った。
「え」
その部屋の真ん中に、大きな円卓があった。
つい先程までは何もない部屋だったと言うのに、いつからあったのだろうか。突如変化を示した部屋に、ますますこれは夢なんだという思いが増す。
一体何が起こるんだと戦々恐々していると、いつの間にかそのテーブルの正面に、座っている人物がいて驚いた。
テーブルに肘をついて空席の対面を、口元だけ緩めて眺めている人物は、まだ若い。稲穂のような色の髪は無造作に編まれていて、ハッとした。
「親方……?!」
信じられない思いだった。
セリオスには、彼が忍ぶように微笑む姿を見た覚えはかつてない。いつも何処か難しそうな顔をしていて、セリオスを誉める時でさえぶっきらぼうなのが常だった。
そのアズネロが、何か、とても大切なものでも見るかのような顔をしている。驚かずにはいられない。
『じゃあ、こっちの回路の用途は何なんスか?』
不意に聞こえた声に驚いていると、アズネロの見つめる対面に、人の姿が現れた。
空席を覗き込むようにして立つその青年は、きらきらと目を輝かせて、空席に対して熱心に語りかけていた。
否、空席だと思っていた場所には、小さな背中が座っていた。
『なるほどな! 流石、開闢のナイ。オレらの自慢!』
くしゃりと笑う様は屈託がなく、心底嬉しいのだとよく解る。
『ほーら、タレビオ! 片付けさせてって言ったでしょう?』
またどこからともなく、その姿は現れる。
『もうご飯だから終わり終わり! この上に皿並べてもいいの?』
仁王立ちしたその女性もまた、まだ若い。威勢の良い彼女に押されて、青年は慌てていた。
『だーっ! 待って、待つっス! レイシェルはこの人類の宝を、よもや鍋敷きにでもするつもりっスか?!』
『はあいはい、食事の時間は何よりも優先って不文律でしょ? あたしは先程、ちゃあんと片付けろと忠告しました』
『だからと言ってあんまり……アズネロ! あんたからも言い返してくれよ!』
彼女の容赦ない言葉に涙目になりながら青年は振り返ると、若いアズネロは鼻で笑ってひらりと手を振っただけだった。
『てめえの管理不足だ、タレビオ』
『ぐっ……。次は気を付けるっス』
反論を潰された青年は、誰かを捜すように彼女を振り返っていた。
『ワーレットは?』
『そろそろ来るんじゃない? またあいつらが結果を催促してたから』
『ええ? いーかげん、覚えてくれりゃいいっスのに』
青年は、うんざりした様子で窓を見ていた。
そこで漸く、窓の外で、沢山の者達が見ている事に気が付いた。この場が、本当の意味で箱庭のような場所なのだと気が付いた。
タレビオは、誰よりも誉めてくれる。ナイは優秀なのだから、自由に思い付くまま行動すればいいのだと言う。何に使うかなんて、アズネロに考えさせれば良いと言う。
レイシェルは、誰よりも心配してくれる。周りはあんたの発想に期待してる。けれど、健康面まで気にしていないから、あたしがあんたを守ってあげると言う。
アズネロは、誰よりも助言してくれる。知識と発想だけでは賄えない、豊富な経験を元にいつも支えてくれる。
ワーレットは、誰よりも守ってくれる。皆と比べれば接する時間は確かに短い。けれども、『外』に控える研究者達との間に入り、無茶な要求や催促をはね除けて守ってくれる。
「その方が、ボクがより頑張れると知ってるから」
声に出していただろうかと、ハッとする。
そうだ、そうだった、という思いの方が強かった。
部屋の外に出られる実験時間を利用して、ここがどんな場所かは理解していた。
世界の中心、ものの始まり。目に見えないものを形にして、線を引き、数と文字と図式に起こす。
周りがあっと驚く様に、興奮と優越感にただ浸る。
だが不意に、探求心のままに物を造る事へ疑問が湧いたのだった。こんな簡単な事さえも、自分を頼らなければ見ることも出来ないのか。考えることも出来ないのか。
そしてどうして、自分はこんなところに縛られて、愚かな彼らに解るように形にしないといけないのか。
不意に湧いた理不尽さと、怒りと。どうしようもない虚脱感と。全てが嫌になって、もうこんな場所がなければいいんだという思いに、恐ろしく納得した。
至高だどうだと言われていても、使われる惨めな存在なのだと気がつかないフリをしたまま終われるのだ。それはなんと甘美な事だろう。
設計図に人知れず爆発回路を組み込んでも、誰かに気がつかれる事はなかった。それらしい理由を添えて、試験実験に同席すれば、誰も不審を疑わない。
目の前の景色が崩れる。かつての地響きは、成功の音色だった。
そう、ここで全てが終わらせられるのだ。ずっと感じていた虚脱感と息苦しさが、ふっと和らいだのが解った。
ただ、願わくば。
「レイシェル、タレビオ、ワーレット、アズネロ……皆、どうか生きて」
ボクを大切にしてくれた彼らだけでも、生きて欲しい。そんな小さな願いだけはあった。
やっと終わる。涙が溢れる。安心した。もう、何もない。何もしなくていい。使われる事もない。
――――筈だった。
『その願いはボクのものであって、君のものじゃないよ。セリオス』
不意に小さな手に視界を遮られた。音も景色も、ついでにざわつく心も、急に壁をつくられたみたいに、全ての感覚が遠退いた。
「え……?」
突然に感情の蛇口を止められたような感覚に、酷く戸惑う。
辺りの景色は一変していて、抜けるような青空と、穏やかな草原が広がっていた。余りにも驚いて、思わずぱちりぱちりと瞬きした。
建物の面影はまるでなくて、一体今、自分はどこに居るのだと混乱した。
『それはボクの考えで、あの時さっぱり葬り去ったものだから。君が拾う必要も共感する必要も皆無』
むしろ、君に渡すつもりは微塵もない。そうきっぱりとした声に吊られて、セリオスは振り返った。そこにあった姿に、思わず目を見開く。
「君は一体……?」
そこには表情のない子供が居た。
身に纏っただぼだぼのシャツ一枚は、まるで身体に合っていない。中性的な顔立ちには全く表情が無い為、一層人形のようにも見えなくなかった。
灰色のまだらな髪は顎の位置で切りそろえられ、どこかエスタを彷彿とさせた。じっとこちらを見つめる色素の薄い瞳は、辛うじてセリオス自身と同じ金茶を薄くした色だと解る。
血の気のほとんどない薄い唇が、小さく開かれた。
「製造番号 三六五。もしくは被検体〇〇。アズネロ達は開闢のナイって呼んでた、ただの名無し。自分のことを創造主か世界の中心かって勘違いしていた、ただの大馬鹿者だよ」
まあ、ボクの事はどうせまた忘れてもらうから、聞いても仕方ないよ、と。くすりと笑う事なく自虐的に呟いた姿は、つまらなそうわずかに首を傾げた。
「折角余計なことを何も考えずに生活して、アズネロと親子出来ると思ったのに。うっかりこんな所にまで君に来られると、すんごい迷惑なんだけど」
「……え、どういう事?」
「ああ、そうだった。忘れてた。君は鈍いところがあるんだった。短慮というか」
わずかに目を細めた様子は、感情が乗っていなくても、面倒だと思っているのがはっきりと解った。
ただ、酷く馬鹿にされているような気がして、それでいて反論する気も起きなくて、困ったように眉を落とす事しか出来ない。
セリオスの表情の変化をずっと見上げていた幼い子供は、小さく吐息をついていた。
「セリオス、君が今見てるのは、ただの夢。深層心理。君の中にあるボクの墓場。ボクは君には不要な記憶の集まりみたいなもので、不要な残滓。ただ君が、楽しそうに過ごしているのを眺められれば十分なんだ。もうここに来なくていいから、早く目を覚ましなよ」
帰り道はあっち、と。全く変わらない表情で、セリオスの遥か後方を指さした。
「あんまり君に寝られると、アズネロが壊れるから困る。あれは責任感が強すぎて、あの時に忘れる事も狂う事も出来なかったから。あの時からずっと悩み続けてるし、ずっと戦い続けてる」
「え、ちょっと待って! 親方が壊れるって、それってどういう事なの?!」
さっさと追いやろうとする姿にまるで呼応するように、帰り道の方が近づいて来る感覚がしてセリオスは慌てた。対して、小さな姿は微かに眉を寄せただけだ。
「少し考えれば解ると思うけど。アズネロに大事にされてるだろ、セリオス。記憶のない孤児として、新たな人生を歩めてるだろ。タレビオもレイシェルも……ついでにワーレットも、優しかったけど、あの後に自分を顧みずに守ろうとしてくれたのは、他でもないアズネロだけ。だからこそ、君にこれ以上、アズネロの負担を増やして欲しくない」
「そんな、負担なんて。僕だってかけたい訳じゃない!」
「大丈夫、君が君であればいいだけの話だから。さっさとボクの事は忘れて、目を覚ませ。君も、今の仲間を手にかけられるのは、流石に心が痛むだろ。アズネロの為に彼らも居なかった事にして、忘れてもらってもいいけど。そもそも負担なんて、少ない方がいい」
とん、と。肩を押された感覚があった。恐らく幼い彼自身が押した訳ではないだろう。だが、これ以上ここに留まらせまいとする明確な意思に、押し出された気がした。
「ああ、そうだ。多分いつも通り裏で動いてるだろうから、ワーレットにまた会ったらよろしく」
最後に聞いたのはそれっきり。広がる草原も空も、途端に遠退いた。
落ちる、という感覚が正しいのだろうか。あるいは意識が浮上していると言うのかもしれない。どちらにしても、眠りから覚める予感があった。
問答無用に追いやられて、その流れに従う他にない。
「…………っ」
ふっと薄く目が明いた。
誰かが部屋の何処かで息を呑んだ気がした。
初めに視界に飛び込んで来たのは、ここ数日何度と見上げた飛空挺の天井だ。
意識がぼんやりとする。重たい身体と熱っぽさを感じて、初めて自分が体調を崩して眠っていたのだとセリオスは理解した。
何かとても大事な話をしていたような気がすると言うのに、波に攫われた砂の山の様に崩れ去って、まるで思い出せそうにない。ただ砂の山があった痕跡が、僅かに見られるだけだ。その痕跡もまた、時間が経つほど波にさらわれてしまうだろう。
その事実が、何だか息苦しかった。
「やっぱりてめえら、殺しておくか」
唸るような声に吊られて、初めて傍に立っていた姿に気が付いた。何故ここに、という疑問もあったものの、会えた喜びに心がざわめく。
だが同時に、殺伐とした不穏な様子に気が付かない訳がなかった。
一体どうしてと思うより先に、横たわったままだった身体の痛みを思い出して、わずかに身じろぎした。
その動きに、隣も気が付いたのだろう。見上げていた険しい表情が一瞬セリオスを捉えて、慌てた気がした。
何か、彼を引き留めなくては。そんな焦りに、急に駆られる。
「ぉ……かた……?」
「っ……セリオス! 気が付いたか?」
覗き込んで来た表情が、露骨にホッとしたのが解った。そこに殺伐とした空気も、誰かを直ちに害そうという退廃的な様子もない。
焦って額に触れた手はかさついていて、それでいて武骨で固い。その手が傍にある事に、セリオス自身も酷くほっとしていた。
「……よかった」
思わずセリオスの口を突いて零れた言葉は、恐らくセリオスのものではなかった。




