33. 襲来
明度を落とした明かりが、ぼんやりと部屋を照らしている。
疲れが出たのだろうね、と。未だに意識を取り戻していないセリオスの診察と最低限の処置を終えた医師は告げた。
「熱はあるみたいだが、倒れたのが地上なら、休んでいれば直に良くなるでしょう。薬も次期に効く。ただ、あまりにも長引く様なら、早めに下山させてあげなさい」
ここの街だと、身体が慣れていないとしんどいだろう。そんな話を、少しだけ眉を寄せて告げていた。
年老いた医師は片付けをしつつ、いくつか後から飲むための薬を移動鞄から取り出すとテーブルに並べた。
「少しでも意識が戻るなら、早めに飲ませてあげなさい」
「はい。先生、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げたエスタに、医師は目を細めて微笑む。
「心配しなくても大丈夫ですよ、お嬢さん。すぐに良くなりますからね」
「ええ、ひと安心です。彼にはゆっくりしてもらいます」
「先生、送りますね」
頷いたエスタは、隣に控えていたルーザを振り返った。
自分も見送るべきだろうかと思ったのだろう。腰を上げたエスタを、ルーザは手で制した。
「イムはここに居てあげて」
「ありがとう」
ひとまず大事なくて良かった、と。呟いてほっとしたエスタは、傍に寄せた椅子にふっと力を抜いて座っていた。
苦笑したルーザは、ぽんと軽くその背中に手を添え労う。
ルーザはそのまま医師の老人に入り口を示し、流れで鞄を預かると、連れ立って外に出た。
その背中を見送ってると、入れ違いに、食事の乗ったプレートを手にしたリシュリオが入ってきた。
「お疲れ、食べられるなら食べておきな。看病するにしても、流石に保たないぜ?」
「……ありがとう」
カップに入れられたスープを受け取ったエスタは、くるりとスプーンでかき混ぜた。暖かな湯気と共に数種類の野菜がごろりと顔を出し、トマトベースの酸味のある香りが匂い立った。
エスタはふうふうと冷ましてから、そっと口をつけた。とろみのあるスープが喉を伝う感覚に、自分の身体が冷えていたのだと漸く知る。
「おいしい」
「それは良かった。沢山あるからどんどん食べな」
「ええ、ありがとう」
一口、二口と食べ進め、エスタは不意に表情を曇らせる。同じようにかき込んでいたリシュリオは、不思議そうに首を傾げた。
「どうした、嫌いな野菜でもあったか?」
「……あは、違うわ」
わざとらしい話の振りにエスタが苦笑すると、リシュリオはただ片眉を吊り上げた。
「ただちょっと、考えてしまったの。セリオスを連れ出したのは、ほんとに正しかったのかなって」
「そうだなぁ。けど、それはセリが自分で判断した事だろ? イムが気にする事じゃないと思うけど?」
気にしすぎじゃないかと、リシュリオが肩を竦めていると、真剣な眼差しが彼を見上げた。
「でも、焚き付けたわ」
「そんなのきっかけに過ぎないさ」
「そうかしら……」
「セリがそう言ってたんだぞ? 自分自身が空に出るって決めたんだって」
「…………そう、よね」
確かにそうだ。そうだった、と。自分を納得させるように頷く。
うじうじと考えるのは性に合わない。それは解っていても、自分が見守ることしか出来ないもどかしさを、感じずにはいられなかった。
その時だった。
奥まで響いてくる程、強く飛空挺の入り口の扉を叩く音に、二人は驚いて振り返った。
「誰だ? 忙しないな」
先生の忘れ物か? と首を傾げるも、それならルーザが勝手に入って来るだろう。
だとしたら、来客か。今は迷惑だと思いつつ、リシュリオはテーブルにカップを置くと振り返った。
「イム、ここで待ってな。なんかヤバそうだったら廊下と部屋の扉を閉めて、鍵かけておけ」
「え、ええ」
リシュリオは警戒した様子で表情を引き締めると、念の為に広場と個室の並ぶ廊下の扉も半分閉めた。その後ろで、エスタがそっと広場の手前までついていく。
扉を開くと、段差があるにも関わらず、リシュリオより少しばかり目線が下の、高身長の姿があった。
しとしとと弱く降る雨避けの代わりだろう。外の薄暗さと、外套のフードをすっぽりと被っているせいで、表情ははっきりと伺えない。ただ体格からして、男だと言うことは一目で解った。
「何か御用ですか」
「夜分に失礼。空賊シュテルだな?」
男の言い捨てるような物言いに、リシュリオの警戒も強くなる。
「…………どちら様で?」
腕を組んで眉を寄せたリシュリオは、事と次第によっては力づくな荒事に発展するかもしれないと身構えた。だが、男はリシュリオの予想に反して、濡れるのも構わず淡々とフードを後ろに落とした。
暖かみのある色合いの明かりに照らされてなお、稲穂のような色だと解る頭髪は後ろで緩く編んでいる。射んばかりの目付きは厳しく、表情も決して穏やかとは言い難い。歴戦の戦士と言われても、それほど違和感はないだろう。
重々しい空気感を発している割には、恐らくまだそれほど年を老いている訳でもなさそうだ。もう数年もすれぱ、壮年と言える年頃だろうか。
ただリシュリオには、その男に見覚えはない。男はそれでも構った様子もなく、重々しい空気感を乗せた声で低く告げたのだった。
「愚息が世話になってるらしいな」
その言葉に、まさかと思い目を見開いた。
「アズネロさん……!」
そして、まるでリシュリオの予測を確信付けるように、後ろから驚いた様子の声が上がる。振り返ったリシュリオだけでなく、来訪者の男も奥に顔を向けていた。
「よお、お嬢さん。いつぞや振りだな?」
「お久しぶりです。貴方にもう一度会いたかったところだったんです」
リシュリオの隣に駆けつけたエスタは、帝国の事で……と、落とした声で切り出した。すぐそれも、アズネロの手で制される。
「言われなくとも解ってる。積もる話だ。中に入っても?」
「あっ、ああ。どうぞ」
一瞬戸惑ったリシュリオは、慌てて脇に寄り中に招いた。
雨よけの外套を脱いだアズネロは、腕にそれを抱えると、がしがしと頭をかいた。
「ウチの愚息は何してやがる」
「セリオスは……」
開口一番に言われて、エスタは表情を曇らせた。リシュリオを一瞬伺い、頷かれたので廊下方面の扉を開ける。
「今は、まだ眠っているので……」
こっちに居るけど静かに、と。伝えた途端にアズネロの表情は一層険しくなった。
リシュリオが止める間もなく大股でそちらに向かい、エスタを見下ろす。「何処だ」 と唸られて、流石のエスタも怯んだ。
「こっち、ですけど」
示した方に勢いよく向かって行くと、扉を叩きつける勢いで中に向かった。
「アズネロさん!」
非難するようにその背中を呼ぶが、駆けつけたリシュリオ共々、アズネロが気にした様子はない。
未だ熱に汗を浮かべているものの、先程よりもずっと穏やかになったセリオスを見おろして、アズネロは舌打ちしていた。
「チッ……! クソ馬鹿が」
汗に張り付いた前髪を上げ、思いの外優しく額に触れていた。テーブルの上に並んだ薬に視線を向けてまた舌打ちする。
やがて視線を伏せると、深く溜め息をついていた。心配そうなエスタや、怪訝なリシュリオの様子にうんざりした様子さえもあった。
「知らないからこそ、無理もないが」
そう切り出したアズネロは、苛立ちを誤魔化すように眉間を揉んでいた。
その仕草に、エスタは何処か既視感を覚えた。一体どこで見たのだろうかと考えて、そう言えばセリオスも似たような仕草をしていたと思い当たって納得した。
アズネロは表情を変えないまま淡々と告げた。
「こいつは発達障害を抱えていてね」
「発達障害……? セリオスが?」
恐る恐る尋ねたエスタに、顎をしゃくる。
「この様子じゃ見ただろう、こいつのひょろい身体をな。筋力もつきにくいし、身体も強くねえ。昔負った怪我のせいで手足にもそこまで力が入らない。環境の変わりやすい空になんか連れ出したら、倒れるくらい容易に想像つく話だ」
「そんな……」
そんな素振りを見せなかったから、全然気が付かなかった。傷ついた様子で眉と肩を落としたエスタを、来訪者の男は鼻で笑っただけだった。
エスタを庇うように、リシュリオはその肩に手をかけた。
「けれど、フロリウスさん。俺らとの同行は、セリオス自身が貴方を探したいからって望んだ事ですよ。知らなかった俺らにも責任は有りますが、エスタを責めるような言い方しないであげて下さい」
「別に責めちゃいねえさ。そう感じるのは、お嬢さんの中で気に病む事があったって話だろ。人を悪役にしないでもらおうか」
「それもそうです。けど、あえて気に病む言い方したでしょう?」
「そりゃな。わざわざ置いて来た馬鹿がこんな所まで追って来たら、文句の一つも言いたくなる」
わざとらしく肩を竦めた姿に、リシュリオは非難を込めて声色を強くした。
「セリオスやエスタを、俺の飛空挺に乗せて連れ出すと決めたのは俺の判断です。他にも気に入らない事があるなら、俺に言って下さい」
「はいはい、悪かったよ」
うんざりとした様子でがしがしと頭をかいたアズネロは、開き直った様子で肩を竦めた。
「んで? こうなった経緯くらいは聞かせてもらってもいいだろうな? これでもこいつの保護者としての心配はあってね」
「……そうですね。貴方の行方の話を先日、アレイットに訪れた時にとある方から聞きました」
「ああ」
アズネロが嫌そうにわずかに顔を顰めたのは、恐らくあっさりと白状した人物の顔を思い浮かべたからだろう。リシュリオは努めて淡々と事実を告げた。
「その時は、セリオスも特に体調不良はなかったと思います。今朝がたアレイットを出て、日中はここに向かいがてら……ああ、天候が崩れる予感がずっとあったからかもですが、その頃に少し具合悪そうで」
「ああ」
「貴方が立ち寄ったという、旧技術開発研究所の跡地に立ち寄った時に――――」
「跡地に行った?」
不意に低く告げられて言葉に、リシュリオも思わず言葉を切った。
驚いて見返していると、忌々しそうに舌打ちして寝込む姿に目をくれるアズネロがいた。
「アズネロさん……?」
戸惑うエスタに構わずに、上掛けをはぎ取り、濡れてない自らの上着をきつく巻き付けて支度を始めるアズネロが居た。
「ちょっと! アズネロさん! セリオスは今熱出してるのに何を……!」
「ここに置いておけない、そう判断した。特にお嬢さん。あんたの側に居させたら、こいつの体力が保ちそうにない」
「待ってよ! そんな言い方……あんまりだわ」
「事実だ」
「待ってください。彼は今はシュテルの乗組員です。勝手されるのは困ります」
せめてもう少し休ませてやって、ちゃんと理由くらいは聞かせてもらわないと、と。セリオスを抱え上げようとするアズネロの行く手を阻むつもりだと示すようにリシュリオが立ち塞がると、忌々しいと露骨に舌打ちしていた。
「お前たちに話す事なんてねえな」
寝かせた姿から手を放したアズネロは、射殺さんばかりにこちらを睨みつける。だが、リシュリオも決して引かなかった。
「力ずくでもですか」
「脅したければ好きにしろ。だか腕っぷしに訴えられたところで、お前たちに話す事なんて微塵もない事に変わりない」
それとも、と。一層低くなった声で告げた。
「聞いた上で死にてえなら、そうするが?」
それくらいの覚悟があるって言うのか。鼻で笑ったアズネロは、冷ややかに告げた。
「そうだと言うなら、てめえの首をてめえで掻っ切りな。死の間際になら教えてやるさ」
それが出来ないならそこをどけ、と。淡々と言い放ったアズネロに萎縮されて、エスタは血の気の引いた顔で微かに首を振った。
迷いに震えるエスタに反して、それでもリシュリオは道を空けようとはしなかった。
「そこまでするのは親心ですか」
「ハッ! そうだと言えば、納得するのか? 若造が」
出向いて正解だった、と。大層苛立った様子のアズネロは、再三そこをどけと告げた。
「俺を探していたって? お嬢さん、俺が帝国に戻るつもりがないのは、元より知っていたはずだろう? こいつに近づいた目的は何だ。俺を誘き寄せる餌のつもりは無かったとは、言わないよな?」
「それ、は……貴方の技術をセリオスが持ってる可能性があったから……」
正に先程まで迷っていた事だ。言い淀んだエスタは、ついに言葉を無くして俯いた。
都合のいい言い訳だなと、ばっさり言う様は取り付く島もない。
話し合いにもならず、一方的な攻め句に、リシュリオは眉間を寄せて暫し目の前の姿を伺った。相も変わらず表情は険しくて、それほどまでに怒りを露わにすることだったのかと、思わずにはいられない。
だがふと思うのは、初めからそうだったかという事だった。
初めからアズネロが言い募る様だったら、きっとここまで飛空挺の中に招き入れていない筈だ。
旧技術開発研究所。思い返して、まさかと思う。
突拍子もない思い付きだと言われてしまえばそれまでだが、一度そうかもしれないという考えに至ってしまうと、それ以外に考えられなかった。
脂汗が背中に滲んだのが解った。少しだけ震えた唇を誤魔化そうとして、ごくりと生唾を飲んでいた。
「……フロリウスさん、違うと言うなら受け流して貰って構いません。けど、確認させて下さい」
「はあ?」
急に何を言いだすのだ、と。苛立ちを隠そうとしないアズネロに、リシュリオは負けじと続けた。
「貴方がセリに対してそれ程敏感なのって、セリが……帝国に目を付けられる事を避ける為ですか」
「ハッ! 息子に目をかける事に、理由が必要だって言うのか? 無駄口叩くならさっさとどけ」
「大切な事です。以前、セリに故郷の事を聞きました。何もない草原と、わずかな瓦礫の残った場所。ほとんど覚えてないけど、貴方と出会った場所がそこだって聞きました」
相手の沈黙を良い事に、リシュリオは小さく息をついた。
自分の中で、張り詰めた糸のような想いに喉が震える。緊張しているのだと、嫌でも気がついてしまった。
「ねえ、フロリウスさん。俺の考えが違うと言うなら、是非とも鼻で笑ってくださいよ。……未だに俺自身も信じ難い思いでいっぱいですけど、セリは、十三年前に、帝国に囲われて技術開発に携わっていた子供本人じゃないんですか。彼が幼少期の事を覚えていないのは、研究施設の倒壊が関係しているんじゃないですか。だからこそ貴方はそれ程に、必死になっているんじゃないですか」
「ぇ……」
一息に告げないと、途中で言葉が途切れてしまいそうだった。
それ程までに、沈黙は重かった。
唯一エスタだけが、まさかと声を堪えきれずにいた。
驚きに息を詰めて振り返ったエスタの表情は、血の気が引いて一層白い。
それを視界の隅に見たリシュリオは一瞥しつつ、だが目の前の姿の挙動も表情の変化も見逃さないと見つめ続けた。
「フロリウスさん。俺は、俺だって、セリの事が大切です。仲間として、一員として。だから――――」
「黙れよ、若造」
深く、息を吸ったかと思うと、深く、目の前の姿は息を吐いていた。
じろりとこちらに向けられた男の目は酷く淀んでいて、睨まれるだけで身が竦む。これが本当に、一介の工房の親方が向けてくるものなのだろうかと、思わずにはいられない。
何かを考えているようなアズネロの沈黙は、長かった。
否、それほどまでに、場が戦慄していたのかもしれない。
「――――やっぱりてめえら、殺しておくか」
感情もなく告げられた言葉に身を固くして、リシュリオは掴んでいたエスタの肩を乱雑に引き、背中に庇った。




