32. 山都
何処とない様子のおかしさは、近くで見ていてエスタは感じていた。
脇をすり抜けていった姿がふらふらしている時点で、もっと早くに声をかけてやるべきだったと唇を噛んだ。同時に、どうして言ってくれなかったのだと悔しく思う。
「どうしよう、リシュリオさん」
こんな辺鄙な地では、すぐに医師を探す事もままならない。焦るエスタに反して、リシュリオはぐったりしたセリオスの脇に肩を入れて、抱え上げながら苦笑した。
「落ち着けって、大丈夫だよエスタ。多分慣れない旅に無理が祟っただけだ。休めば良くなるさ」
「そう……なら、いいんだけど……」
リシュリオの為に扉を開けて回りながら、エスタは言い知れぬ不安に表情を曇らせる。
「ま、一応診せた方がいいだろうな」
そんなエスタの様子を視界の端に収めながら一人ごちたリシュリオは、室内に戻ると寝室へと向かった。
質素な部屋は、セリオスが使い始めた時とほとんど変わらずに整然としている。
「エスタ。悪いけどこいつの鞄と、それから靴を外してくれるか?」
「ええ」
セリオスが肌見放さず身につけているボディバックを外し、邪魔にならないそこらに靴を放り出した。なんでこんな重たいものいつも身につけているのよと、ぼやいたエスタにリシュリオも苦笑する。リシュリオ自身、気持ちがわからないでもなかったせいだ。
リシュリオは意識のない身体を横たえると前をくつろげた。ひょろいな、と筋肉の少ないセリオスを見て呟いたのは思わずだろう。もし当人に意識があったら憤慨していた事に違いない。
リシュリオは上掛けを首元まで引き上げてやりながら告げた。
「エスタ、俺はルーザに伝えがてら戻るから、ここに居てやってくれるか? もし意識戻る事あったら、ひとまず水でも飲ませてやって」
「ええ、解ったわ」
「それからベットの下に固定のベルトあるから、もし機体揺れて落っこちる心配あったらつけてやって。その時はエスタ、早めに操縦席に戻ってくれていいから」
「アクロバットをするわけじゃないし、揺れくらい慣れてるから平気よ。この部屋に動く家具がある訳じゃないし」
「ああ、頼むよ」
多少の事があろうとも、今は目を離す方が不安だ。離れるつもりはない。そう言わんばかりのエスタの様子に、リシュリオも苦笑を滲ませた。
「気は揉み過ぎるなよ。長丁場にならないとも限らないしな。あるもの使って構わないから、頼んだよ。厨房に氷が少しあると思うから使ってやって」
「ええ、わかった。任されたわ」
エスタははっきりと頷いて、急ぎ足で操縦席に向かう背中を見送った。静けさが、不安に思う気持ちに忍び寄って、よりそれを意識させようとしてくる気がしてならない。
嫌な考えから逃げる様に、エスタは首を振った。しゃんとしなくてはと気持ちを改め、今しんどいのは自分ではなくセリオスなのだと言い聞かせる。
まずは、出来る事をやろうと動いた。目が覚めた時に飲めるようにと、水やタオルの準備をしに部屋を出た。
エスタが資材庫を行き来している内に、間もなく飛空艇は離陸していた。あまりにも自然に飛び立つから、一瞬解らなかったほどだ。わずかに浮遊感があるばかりで、驚くほど丁寧な離陸だった。
技術の高さにエスタは思わず舌を巻く。あるいは、普段どれほど好き勝手に操縦しているのだと、呆れて苦笑してしまう。
通りかかりがてらに窓の外を伺うと、山脈沿いを目指しているようだと知った。例え高所の街でも、ここから一番近くて大きい街であるならば、そこで休ませるのがいいと判断したのだろう。
エスタはただ、セリオスに早く意識が戻って欲しいと願うばかりだ。
水に濡らしたタオル類を手にセリオスの部屋に戻ると、顔回りの汗を拭ってやった。
荒く肺で息をつき、時折、唇を震わせて苦しそうに呻く様子に眉を寄せる。顔色は熱に浮かされてるせいか、随分と赤い。
額に触れると、楽に寝付ける体温でない事は容易に知れた。
こんな風に誰かの看病をしたのはいつ振りだろうか。双子の実姉もそう言えば、よく体調を崩していたなとふと思う。
有事の際は動けるようにと、エスタは身体を動かしたり飛空挺や翼に乗ったりする機会があった。
そんなエスタに反して、実姉は違った。逃げられるような体力をつけられないようにと、徹底した管理がされていたせいもあっただろう。
実際、数月に一度は体調を崩していたのは、今となっては懐かしい思い出だ。
「もっと早く言いなさいよ、ばか」
些細な事でもいいから教えてくれれば、もっと早くに労わってやれるのに。
そんな不満に溜め息を零すと、何故か記憶の中の姉が『だってエスタが心配して世話焼こうとするでしょう? 心配かけたくないんだもの』 と苦笑した気がした。ありありと目に浮かぶ。
同時に目の前の無頓着は、『そういえば気が付かなかった』 と言いそうだなと憮然としてしまう。人の事は目敏く見ている癖に、自分の事に疎すぎると、自然と眉を寄せて顰め面していた。
何度と汗を拭ってやり、少しでも意識を取り戻した様子を見せた時は、小さく呼びかけて何か飲むかと尋ねた。
朦朧とでもいいかららこちらに気がついてくれれば。そう思っていたが、それでセリオスの意識がエスタに気が付く事はなかった。
譫言に魘されて、ふとした拍子に聞き取れた、アズネロの名前に自然と眉を顰めていた。
不快があった訳ではない。ただセリオスも言葉にしないだけで、長く離れた家族を想っていたのだと、改めて認識しただけだ。
横たわる姿の目尻をつと伝った涙も、熱がそうさせた生理的なものだろう。そうしていると、随分と幼く見える気がした。
汗と一緒に、そっと拭った。
「もうすぐきっと、会えるわ」
だから早く元気になって。今は休んで。そんな事を願うばかりだ。連れ出した自分にも責任があると、どこかで感じていたせいもある。
何かを探した様に彷徨った手を取ると、熱を持った手が、すがるように弱く握り返した。
どれほどの時間を、そうして過ごしていたかは解らない。途中でルーザやリシュリオが、様子を見に来ていたのは覚えている。
気が付くと、手を繋いだまま、ベットにうつ伏せるようにして眠ってしまっていた。
「エスタ?」
呼びかける声にハッとして身体を起こすと、室内は薄暗くなっていた。
窓の外から、飛空挺の機体をぽつぽつと弱く叩く雨の音が聞こえている。どうやら本格的に降り出してしまっていたらしい。
廊下を見やると、呆れた顔のリシュリオが明かりをつけた。
「全く、根は詰めるなって言っただろ?」
「あ……ええと、ごめんなさい。つい」
やってしまったと思いつつ、肩を落とした。気にすんな、と。ぽんと頭に落とされた大きな手に慰められても、自然と視線は下がってしまう。
ごめんなさい、と。もう一度呟いた言葉は、リシュリオに笑って受け流された。
「今ルーザが、紹介してもらった医師のところに案内されている所だよ」
「あ……じゃあ、ついたのね。クコルに」
「ああ。天気が崩れた時はどうしようかと思ったけどな。でも、思っていたよりもずっと早くついて、助かったよ」
医師さえ来てくれれば、一安心だな。安心させるように笑ったリシュリオに、エスタは気まずさを感じて視線を反らした。ほっとしたのも勿論そうだが、途中で寝こけてしまった自分が恥ずかしかった。
リシュリオも、それ以上掘り下げようとはしない。
しとしとと降る雨の音は、時間を妙にゆっくりに感じさせる気がした。
気まずさはないものの、ただ待つことしか出来ない空気感が、エスタには何だか落ち着かない。
「あの、リシュリオさんは……」
「ん?」
だから思わず尋ねていた。
「ルーザさんの事とか、家族の事とかで、大騒ぎした経験ってある?」
自分が双子の姉の事で大騒ぎしている様子は、一体彼の目にはどんな風に映っているのだろう。そんな思いから、つい口を突いて出ていた。
変な意味は特にないのだけど、と。尋ねてから失礼な事だったかもしれないと思い、エスタは慌ててその表情を振り返った。
だがそこにあった表情は、怒る訳でもなく、思いの外穏やかな顔をして、微かに口元だけ苦笑したリシュリオがいた。
「エスタみたいに、って? あるよ、すげえ昔だけど」
どこか懐かしいと言わんばかりの表情は、つと考えた様子で首を傾げた。
「あー……そうか、もう十年以上経ってるのか」
窓に視線をくれたリシュリオは、そこに反射した自分の姿を見てまた苦笑する。そこから視線を反らすと、エスタに笑った。
「妹が居たんだ。年の離れた奴がね」
「居たって事は……今は……?」
「…………死んだよ。殺されたというか、殺したというか。そう言う事にした、というか」
やはり、とは言えなかった。またリシュリオの含んだ物言いに、エスタも困って眉を寄せて、恐る恐る尋ねた。
「深く聞いて良い事?」
「構わねえよ。聞いて気持ちいい話でも、面白い話でもないけどな」
ひょいと肩を竦めた表情は、至って気に留めた様子はない。それでも聞きたいなら話しても構わないと、リシュリオは苦笑ながら腕を組み、入り口の壁にもたれた。
「俺が今のエスタと同じくらいの頃、だったかな。三、四才ほど離れた妹が居てね。その頃はまだ、ろくでなしのクソ親父も居たんだ」
兄貴気質はそこからなのかと、エスタは何処か納得した。「その頃からマレスティナに?」
「ああ。今ほどあそこはまだ街らしくなくてね。一応今の街並みの原型はあってさ、交易の拠点っぽさはあったんだけど、もっと部分的で、大半は貧困街で荒れていたよ」
当時はどっからこんなに人集まって来るんだよって感じだったけどな、と。今では随分と変わった街並みに、リシュリオは肩を震わせて笑った。
思えば、随分と小奇麗になったもんだと、年寄り染みてぼやく。
「妹が居て、元飛空挺乗りのクソがいて、さ。俺自身は街外れにある、飛空挺乗り達のガラクタが集まるスクラップ場に、勝手に忍び込んでは、勝手に解体して勉強させてもらう毎日だった」
「生活の為?」
「それもあるけど、そもそも飛空挺の集まる島だからな。あれだけ沢山見る機会があれば、嫌でも興味も湧くさ。――――そんで、あんまりにも俺がスクラップ場で勝手するから、そこの店主には散々叱られていたし、外部から来る飛空挺乗り達にも、それこそ操縦の仕方から喧嘩の仕方まで、随分いろいろ教えてもらっていたんだ」
お蔭で今は、こうして空賊やれてるよ。有り難い事にと告げたのは、彼の間違いない本心だろう。
それだけ聞くと、エスタには特に問題があったようには思えなかった。
だけど、と。続けられた言葉に不穏が宿る。
「ソイツはさ、それこそ昔はそれなりに活躍した飛空挺乗りだったんだ。けど、怪我をきっかけに、飛空挺や翼を乗りこなせるほどの身体能力が無くなってね。それまでは仲間と各地を飛び回ってたのに、家に居るようになってからは酒ばっか飲むわ、外に出れば借金こさえるか問題起こすかしかしない、ろくでなしだったんだよ」
はあと深くついた溜め息は、いつものリシュリオからはかけ離れた重さがあった。
「挙句、金に困ったあいつは妹に手を出してね。暴力……だけでも許し難いのに、無茶苦茶を言って、無理矢理言って色を売らせてたから」
「えっ……?!」
「……あ、悪い。女の子にいう事じゃねえな」
思わず息を呑んでいると、リシュリオは申し訳なさそうに眉を落とした。
「……本当はもっと、俺が気をつけておかないといけなかったんだけどな。俺自身もその時は、家の事実から逃げていたから、気が付いた時には、状況が最悪だった」
「……結局、妹さんや親父さんはどうなったの?」
「親父の元仲間と、その頃懇意にしていた空賊の人達が手を貸してくれてね。妹は血縁関係を一切清算して、新しい人生をやり直しているよ。だから、俺の妹はもういない。死んだんだよ」
「そう。……妹さんがそれで幸せに暮らしているなら、それもいいと思うわ。その、親父さんは……?」
恐る恐る尋ねたエスタから、リシュリオは気まずそうに視線を反らした。
「クソ親父は…………まあ、うん。あの時つい、俺が虫の息にしたのを……その、どうにかしておくからって、あの人たちが引き取ってくれたから……。多分、どっかに捨ててくれたんじゃないかな、うん。トドメは刺させてもらえなかったから、どっかにいるんじゃないかな。多分な」
ボロぞうきんにでもなってたら最高かな、と。悪びれる様子もなく、ただ過ぎ去った事として肩を竦めたリシュリオは告げた。
「ま、薄情な話だろ? 軽蔑してもらっても構わないよ」
そう苦笑したリシュリオは、妹の為にした事を後悔はしていないのだと、背筋を正していた。
恐ろしい事をさらりと告げられた割には、エスタ自身に忌避感がない事に自分でも気が付いた。自分の行っている事と、リシュリオがした事は概ね同じ気持ちからの行動なのだと、理解してしまったせいが大きい。
「まあ、だからさ。俺は俺や妹を結果として救ってくれた恩人たちが大切にしていたあの島を、恩返しも兼ねて守りたいって思っているし、お前の気持ちも解らなくない。だから手を貸してるんだよ、エスタ」
にこりと笑いかけられて、エスタは虚つかれて目を見開いた。
「俺はこれでも、仲間の事は家族同然に思ってるよ。なあエスタ、お前に何かあったとしても、俺は奔走するよ」
「……いきなりそんな事言うの、ずるいわ」
まさかそんな事を言われると思ってもみなかったエスタとしては、心強さを感じている自分にまた驚いた。にっと悪戯っぽく笑うリシュリオは、悪びれなく肩を竦める。
丁度その時、広場の方でただいまという声が聞こえた。
「さ、まずはセリの事だ。それから二人の為に、アズネロ親方の情報を集めよう」
「ええ」
やる事はここからだと。エスタもはっきり頷くと、戻って来た姿を出迎えようと広場に向かった。




