31. 遺物
静かな図書館に、微かな衣擦れの音と時折紙をめくる音がする。
黙々と読書に更けいっていたセリオスは、背後に立った姿に気がつけなかった。
「何を読んでるの、セリオス」
「っ……! わ、びっくりした……」
ひょいと横から覗き込んだ姿に、セリオスは飛び上がる。だが場所を思い出して慌てて声を落とした。
急に声をかけてきた隣を伺うと、至って平然とした様子のエスタの姿がそこにはあった。
表情を見る限り、既に泣いていた面影はない。その事実にほっとしつつも、ひょいと茶化して肩を竦めた。
「随分ご機嫌じゃないか。もう大丈夫なの」
「ええ、お陰様で平気よ。それよりセリオス、貴方身廊にいるって言っていたのに居ないから、捜したじゃない」
「ああ……ごめん。飽きちゃって」
セリオスが苦笑していると、呆れたような白い目を向けられた。
「なあんだ、やっぱり芸術的な感性に疎いのね」
「やっぱりってなんだよ、失礼だな。合唱を聞いて飛び出した人に言われたくないよ」
「それはそれ、よ」
しれっとして言ってのける姿に呆れつつ、セリオスも溜め息を零して本を棚に戻した。その表紙を、エスタも何気なく見てへえと驚いたようだった。
「セリオスでも普通の学術書なんて読むのね」
「僕でもってどういう意味だよ。僕は設計図でも眺めていろって? 面白そうだったから、どんなもんなのかなって見てただけだよ」
「まあそれもあるけど、そう言えば字が読めるどころか、難しい本も読めるんだなって」
「イム……君は本当に僕をなんだと思ってる訳?」
流石のセリオスも、悪気があって言った訳ではないエスタの様子に、苦く口元を歪めた。「あのね、馬鹿はいらないって、親方に散々しごかれてるからね? 最低限くらいは読めるよ」
「ああ……それもそうだったわね。忘れてたわ」
やはりしれっとしてエスタは肩を竦めた。がりがりと頭をかいたセリオスも、それ以上何かを言おうという気にはなれなかった。
それよりも、と、エスタ自身も掘り下げるつもりはないらしい。
「地図出来たから戻って来なさいって言われたわ」
「もう出来たんだ。早いね」
「出来たって言うより……頃合いって言伝だったわ。これ以上は延々と終わらないから、アーレンデュラからリシュリオさんを引き離して欲しいって事だと思うわ」
「あー……そういう事か」
言われて容易に、あの二人が熱く語り合っている様子が想像ついた。アーレンデュラの熱量はあの東屋を見ればお察しの通り、リシュリオもまたある種の同類と言えるだろう。
行きましょうと誘われて、セリオスも頷いた。
温室に戻ると、先程の席にフォルビア院長の姿はあった。
「あら? 院長、もしかしてずっとそこに居たの?」
思わずエスタが驚いて声をかけると、まさかと鼻で笑っていた。
「こんな鳥臭いところ、用がなければ居座ったりしないよ」
先程戻って来たところだと言う老婆は、エスタの表情にわずかに目を細めていた。
「どうやら会ったみたいだね?」
「何の事かしら」
「白々しい事を言うんじゃないよ」
「あら、どの口が言うのかしら」
ぷいっとそっぽを向いたエスタに、素直じゃないねとフォルビアは嘆息した。エスタは何の事だかわからないとわざとらしく白を切るので、諦めた様子でセリオスに目を向けた。
「じゃじゃ馬娘に苦労するだろうが、この子はこの子で精一杯でね。あんたが支えになってくれるとこちらとしては有り難い限りだ」
「ええと、まあ、努力はしますけれど……」
まさか自分に振られるとは思ってもいなかったセリオスは、たじろいで視線を泳がせ、やがて苦笑した。
「その、僕の手に負えなかったら、頼ってもいいですか?」
「ちょっとどういう意味よ、セリオス!」
案の定すぐさま食ってかかったエスタに、セリオスは思わず身を引きつつも、負けじと言い返した。
「だから、そういうところだって話だろ?」
「はあ?! 失礼にも程があるわよ!」
「あっはっはっはっは!」
「ちょ、何よ院長まで!」
さも可笑しいと声を上げて笑ったフォルビアに、エスタは憤慨した。だが、フォルビアもエスタの不満に取り合う訳でもなく、ただ、げらげらと笑う。
「……はあ、良かったじゃないかい。あんたの手綱を取ってくれようとする仲間が他に居て」
「手綱だなんて、人を馬か何かみたいな言い方しないで欲しいわ」
「おや、何か違ったかい? じゃじゃ馬娘に手綱の装備なんてぴったりじゃないか」
「院長!」
流石に聞き捨てならない、と。頬を膨らませたエスタにフォルビアはやれやれと首を振った。
「冗談くらい受け流せないものかねえ、若造が。まあ、いいさ。あんたにとって掛け替えのない仲間で有る事に違いはないんだ。大事にしておやり」
「…………解ってるわよ」
諭されて、エスタも渋々頷いた。そんな姿にフォルビアは慈愛に満ちた満足そうな笑みを浮かべ、セリオスは二人の会話に暫し言葉を失った。
「……槍でも降るのかな」
ぽつりと呟いたセリオスの言葉は、エスタの鉄拳制裁によって消えた。
馬鹿だねえ、と。フォルビアの残念そうな表情を、セリオスは見ることは叶わなかった。
「さて、おふざけもそれくらいにしようかね」
ついておいでと手招かれて、一同はまた東屋に向かった。どうせこちらから出向かないとあれらは戻って来ないだろうと、フォルビアの判断からだった。
「――――――そしたらやっぱ四、五日の計算か」
「水に浮かべられれば別に困る距離でもないさ」
「まあ……けどそこまでするなら、正直言うと山岳超えた方がマシなんだよなあ……」
床に大きく広げた地図に頭を付き合わせながら語っていた姿の一つは、早速こちらに気が付くと顔を上げた。
「と、皆お揃いで?」
遅れて、小屋の主もフォルビア達に気が付いたようだった。
「おや、もうこんな時間でしたか」
アーレンデュラは残念そうに肩を竦めると、身体を起こした。
傍目から見ると、大の男たちが地べたに座り込んで地図を眺めている様はなんとも異様だ。
「お前たち、せめて机のあるところでやったらどうなんだい」
フォルビアは呆れて口角を落としながら顔を顰めていた。そんな彼女に、アーレンデュラは少しばかり白く汚れた膝を叩きながら立ち上がり、なんてことないと肩を竦めた。
「それも考えたのですが、やはり資料はこちらにありますからね。運ぶ手間より、情報交換に都合が良かったので、こちらに居たまでです」
「院長さん。俺としても特に困りはしてないので、その辺にしてやって下さい」
「……別に構いやしないがね、お似合いだよ、あんたたち」
その表情には、呆れ果てて最早何も言いたくないと、顔にありありと書いてあった。
後ろのエスタだけでなく、流石のセリオスまでもが苦笑していた事で、初めてリシュリオも、おや? と片眉をつり上げていた。
エスタは彼らの痴態を見なかった事として、改まって頭を下げた。
「院長、アーレンデュラ。重ね重ね、今回は協力してくれてありがとう」
「何、大した事してないよ」
「そうですね、院長は私を脅すのに加勢しただけですしね」
老婆の同意にすかさず言葉を重ねたアーレンデュラは、表情を全く変えなかった院長の老婆に見据えられて、背筋を慌てて正していた。
「再三言わせてもらうが、どうにもならないなら早めにウチの機関を頼っておいで。お前さんが一人で抱える事じゃないんだから」
「解っているわ。ありがとう院長。それから……彼女の事、どうかお願いね」
「ああ。心配せずとも、あの子が何かを思い出さない限り、こちらから必要以上に何かをすることは無い。だが、もしあの子が助けを求める事があるなら、それはそれでこちらも動かせてもらうからね」
「ええ。……もし、状況的に可能だったら、思い出すような事があったら、教えて」
出来ればそんな事は起こって欲しくないけれどね。苦笑混じりに告げたエスタに、フォルビアは重々しく頷いた。
「ああ。その時は善処しよう。それまでは、お前の心のままに動いておいで」
「ありがとう」
どこかほっとした様子のエスタの頭を、老婆は優しく撫でていた。
そんな姿の傍らで、リシュリオは笑った。
「アレン、有意義だったよ。また機会があれば観測と計測の話を君としたいな」
「こちらこそ。貴殿の実測は私としても非常に助かる情報でした。その時はまた、是非詳細な談義をさせて頂きたいものです」
「ああ」
リシュリオとアーレンデュラが熱い握手を交わしている姿を、セリオスはどことなく『変人の集いだ』と、人ごとに見ていたのだった。
* * *
小国アレイットの夜が明けた。
一晩の時間をかけて積み荷を整えた小さな飛空挺は、広大な大地を貫く大河の上流へ上流へと目指して飛んでいた。地形は至って穏やかで、緩やかだった大河はいつしか細い支流へと分岐していった。
支流の側は大きな街やアレイットのような小さな国がいくつかあり、似たような飛空挺とすれ違う事も数度とあった。だがそれも、初めの頃に限った話だ。
やがて、河川の姿が見られなくなった頃。土地は随分と高度を増して、丘陵地帯へと入って行った。遠くには連山の影も見え始め、いよいよ北東寄りに近づいたのだと言える。
決して平地とは言えない土地が続く中、不意に開けた土地が広がった。遠いほどの昔にそこにも河川があったのだろうか。扇状地のような平野が、遠くの山と通って来た丘陵地の間に広がっていた。
「この辺りなんだけどな」
アーレンデュラから譲り受けた地図と、自らの地図を照らし合わせて眺めていたリシュリオは、遠くの大地に視線をやって首を傾げた。
日差しは随分と巡り、もうお昼はとうに過ぎてしまっている。
アレイットの朝市が終わるくらいの、朝には遅い時間に出立していたものの、これほど移動に時間がかかるとはリシュリオにとっても計算外だった。
「リオ。気圧下がって来てるから、もうあんまりここらに長居出来ないよ。日が暮れない内にクコルに入っておきたいしさ」
「解ってる。確かにこれ以上あんま予定は遅らせたくねえけど……でも、一応見ておきたいだろ?」
「まあね」
ひょいと肩を竦めたルーザは、山の方に目を向けて、まだ雨雲が居ないかどうか探した。
アレイットを出たセリオス達は、直接クコルの街を目指していなかった。昨夜のうちに情報を共有した結果、一度アズネロが立ち寄った旧技術開発研究所の跡地を見ておこうと進路が決まったのだった。
「……ねえ、あれじゃない?」
同じく後方の座席で窓の外をどこかぼんやりと眺めていたセリオスは、風に波打つ草原を乱すようにぽつりと見られた模様を指さした。
建物はそこにあったのではなかろうか。あまりにも不自然にそこだけ下草の伸び方が異なっていた。長方形を二つ縦と横につなげたような模様は、確かに研究施設の名残とも見えなくない。
セリオスはその跡地にどことない不安を覚えて、窓に額をくっつけた。少しばかり熱を持った額に、外気に冷やされた窓の冷たさが心地よい。
セリオスの様子に、振り返ったリシュリオが首を傾げた。
「どうした、セリ。具合悪いのか?」
尋ねられて、慌てて身を起こして首を振った。
「ううん、窓が冷たくて気持ちよかっただけだよ」
「ならいいんだけど、何かあったらすぐ言えよ?」
「うん」
片眉をつり上げた表情は、あまり納得していなさそうだ。だが、心配させてただでさえ押している時間を取らせるのも気が引けて、セリオスはしゃっきりと背筋を正した。
リシュリオも、そんなセリオスの気丈に振る舞う様子に、深く突っ込むべきではないと感じたのだろう。
「……よし、他にそれっぽい場所は無さそうだし、一度降りて確かめてみるか。着陸態勢に入るぞ」
跡地のようなものを目視すると、一同に声をかけた。
それを受けて、周りも動いた。
何もない平野に、飛空挺を下す場所は特別困らなかった。緩やかに着陸したところで、飛空挺の外部一帯に変化はない。誰か帝国の者が現れて警告してくる事さえもなかった。
ついでに建物の痕跡は、地上に立って見ると、より一層周りの景色との違いが解らなく感じた。
「じゃあルーザ、少し見てくるから頼む」
「ああ。みんな気を付けて」
「解ってる」
操縦席から見える一帯と計器に気をやりながら、ルーザは首肯した。
「ただ天気が本当に崩れそうだから、早めに戻ってね」
「はいよ」
行こうかと。リシュリオはセリオス達に声をかけると入り口に向かった。
入り口を開け放つと、青さを含んだ風の匂いが吹き込んだ。少しだけ湿っているように感じるのは、数刻とかからずに雨が降る予感のせいかもしれない。
「よっと、ここが旧技術開発研究所の跡地、か」
真っ先に降り立ったリシュリオは、一帯をぐるりと見回して嘆息した。
リシュリオの腰ほどある草原は、下手するとエスタは胸まで埋もれてしまうところだろう。
遠くには連山の青さが霞み、気候は至って穏やかだ。雨の気配はまだ風の匂い以外にない。
見渡す限り一面の緑に溢れていて、ここに研究所のような建物があったとは、到底見えなかった。
唯一、ぼこぼことした地面から建物の名残のような岩肌が見えていなかったら、アーレンデュラの座標情報そのものが正しいのかを疑った程だ。
「何もないわね」
遠くを見通すためにタラップの上で同じようにきょろきょろと辺りを伺っていたエスタも、あまりの何もなさに肩を竦めた。
「こんな所にどうして、アズネロさんは立ち寄ろうと思ったのかしら」
「まあ……、こればっかりは本人に会って聞いてみない事には何とも言えそうにない、な」
まるで理解出来ないと言わんばかりのエスタに、リシュリオも概ね同意だと苦笑した。
「ここが、親方のいた場所……」
そんな彼らの声を聞きながら、セリオスは一歩二歩と降り立った。同時に、どくっと心臓が音を立てた気がした。
広がる空に穏やかな草原。そこに埋もれるような瓦礫は長いこと放置され過ぎて、既に、場所によっては自然に還りつつある。
「それにしてもほんと、何も無いところね。てっきりもっと、おぞましい何かが残っているのだとばかりだったわ」
負の遺産って言うから怖がって損した気分だわ。そう呆れたようなエスタの声が、セリオスにはよく聞こえなかった。
ふらり、と。自然と足が前に出ていた。
「セリオス?」
訝しんだエスタの声が、よく聞こえない。
頭が熱くて、ぼうっとした。
息が詰まる。まるで補助マスク無しに二翼飛行機に乗った時のようだ。
はっ、はっ、と気が付くと何度も浅く息をつく。冷や汗が滲み、視界がぐらぐらした。どうにかそれらを堪えようと目を閉じたら、瞼に熱っぽさを感じた。
「っ…………」
そして。
酷い吐き気と眩暈を伴って、身体が傾いだ。
頭痛が酷い。誰かが頭の内側を金槌か何かで叩いているかのようだった。
「セリオス……!」
「セリ!」
身体は誰かに抱き留められたようだった。
「酷い熱だわ!」
「疲れが出たか……?」
焦った様子のエスタや動揺した様子のリシュリオの声は、セリオスには妙にくぐもって聞こえた。
少しだけカサついた、ひやりとした手が額に触れて、その手に身を委ねるしか出来そうにない。
驚いたエスタやリシュリオの声を最後に、セリオスの視界は暗転した。
瀬戸際に、幼い誰かの声を聞いた気がした。
『…………レイシェル、タレビオ、ワーレット、アズネロ……皆、どうか生きて』




