29. 白黒
『先生、今ね。皆で歌合わせするところなの。先生も是非お聞きになって?』
久方ぶりに聞いたその声に、エスタは酷く頭を殴られた気分だった。
エスタの知っている限り、そんな嬉しそうな声を聞いた覚えは過去を振り返っても思い当たらない。
整えられた広い部屋にある張り出し窓に腰かけて、ぼんやりと空を眺める後ろ姿はいつもの事だ。時折近くの自分に気がついては、どこか申し訳なさそうに眉を落として困ったように笑う姿しか知らない。
どんなにエスタが、彼女の気が晴れるように動いても、その表情が明るく変わる事はほとんどなかった。
それが。
弾んだ声を聞いた途端に、酷く安堵した。
彼女が覚えていなくて良かった。思い出していなくて良かった。
楽しそうで良かった。あんなにも楽しそうに笑えていて良かった。
同時に。それが酷く寂しくて、言葉にならないものがこみ上げた。
忘れていて欲しい。思い出さないで欲しい。
でも思い出して欲しい。私はここにいる。
彼女の笑顔の側に自分が居ない事が、不意に無性に吐き気がした。
何故。そう思う程に、鼻を突く痛みが、あふれる涙が収められなかった。
安堵なのか、嫉妬なのか。
苦しむ姿をずっと見ていて、嫉妬するなんて最低だ。もう同じ思いは二度として欲しくない想いに嘘はない。
それだと言うのに。
理解と感情があまりにも乖離したせいで、エスタの頭の中はぐちゃぐちゃだった。
今はただ、久方ぶりに見た元気な様子に気持ちが高ぶっているだけ。心の中で繰り返し自分に言い聞かせても、不意に思い出す直視し難い感情のせいで、また涙がこぼれた。
どうしようもない感情に、自己嫌悪さえ湧いて来る。
自分の事で手一杯だったせいだろうか。
「……大丈夫、ですか?」
不意にかかった自分と同じ声に、エスタはびくりと身体が強張った。否、自分が言葉を発するよりも、聞こえたそれは随分と柔らかい。
まさか、そんな。と。
エスタは余りにも驚いて、うずくまっていた体勢から恐る恐る視線を上げた。
どうか気のせいであって欲しい。そんな縋る思いだった。
だが、『無情にも』と言えばいいのだろうか。帽子の影から見えた足元は、修道服の裾に違いない。救いだったのは、セリオスが乗せた鍔の広い帽子のお蔭で、顔までは見られる心配がなかった事くらいだろうか。
「あの、さっき先生とお話しされていた方、ですよね」
恐る恐る伺うような様子に、なんと返したものか解らず、エスタはただ息を呑んだ。だがかえってそれが、堪えようとしていた嗚咽を漏らしてしまった。
「あ……」
そんなエスタの様子に、彼女も気がついてしまったらしい。
「……ここじゃ誰かに見られてしまうわ。立てますか? 大丈夫、誰かに言いふらしたりしないわ。こっちよ」
有無を言わせない強さで腕を引かれて、エスタも立ち上がざるを得なかった。
待って、と。小さく口にした静止は、果たして彼女に届いていたのだろうか。例え届いていたとしても、きっと彼女はエスタの腕を離そうとしなかっただろう。
一体彼女は何を考えているのだろう。エスタがそっと隣を伺っても、ベールに隠された表情は解らない。
連れ込まれたのは、中庭から階段を上がった談話室だった。
床まである両開きのテラス窓は、全て開けられている。そこから穏やかな風が、ふわりとレースのカーテンを揺らした。その向こうは日差しに溢れる中庭が見えて、今のエスタの気持ちとは、まるで対照的だ。
外部に向けて開かれている部屋ではなく、修道院の者のみが利用できる部屋に招いたのは、彼女なりの配慮だろう。
「ここに座って? お水か何か飲みますか?」
「……平気よ。お構いなく」
声はまだ掠れてしまっていて、泣いていただろうという事はありありと伝わってしまっていそうだ。お蔭で顔を上げることが出来ない。
ここまでの道のりの間に、こみ上げていた涙は引っ込んでいた。それだけ彼女に声をかけられた事に、驚いてしまったせいかもしれない。
第一、どうして自分の目の前にいて声をかけてきたのか、エスタには理解が全く出来なかった。
目の前の姿は、邪魔そうにベールを外すと苦笑していた。
「無理やり連れ込むような事をして、ごめんなさい。きっと驚かせてしまいましたよね? でもあそこは人通りもあるから、人目に付かない場所の方がいいのかなって」
エスタはすぐに言葉が出なかった。
「……貴女を追い出す様な事を言った相手よ。不快でしょ」
「不快だなんてとんでもないわ。だって、私がよく考えずにいたせいですもの。怒鳴る訳でもなく、諌めてくれた方を不快に思うなんて失礼でしょう?」
「お人よしね」
自分の口を突いて出た言葉が可愛げなくて、苦虫を噛み潰したような思いだった。そんな考えを誤魔化したくて、目線を上げない様にしながら、ぽつりと尋ねた。
「……ねえ、どうして私を追ったの。歌の練習中だったでしょう」
帽子の影から伺った表情は、虚を突かれたのか瞬きしていた。やがて、どこか悪戯っぽくくすりと笑う。
「だから、かな」
「どういう事なの」
「折角怒ってくれた方が、私の独唱を聞いて泣きそうな顔をしたのよ。それが見えてしまったから、すごく気になってしまったの。お節介でごめんなさい」
別に、と。なんと返すのが正解か解りかねたエスタは、返答を曖昧にして受け流した。
つれない様子のエスタに、窓の外を眺めるようにしていた彼女は何を思ったのだろうか。
「ねえ、貴女は歌は嫌い?」
傍に駆けつけて、対面のソファの背に手を乗せた少女は、わくわくした様子でこちらを伺った。
その表情が、あまりにも眩しく見えた。顔を見られている訳ではないと解っていても、またそっぽを見ずにはいられなかった。
「そうね、今は好きじゃない」
「今はって事は、昔は好きだったの?」
すかさず聞かれた言葉に、口元も歪む。
「大切な人が、好きだった。でももう聞きたくないの」
「そう……」
どこか残念そうに肩を落とされて、罪悪感が湧かない訳がない。
だが、素直な気持ちを言うには今更過ぎた。そして言ったところで、伝わらないという確信に胸が痛くて、それ以上何かを言う気になれなかった。
そんなエスタの様子に、目の前の少女は思うところがあったのだろう。
「あのね、私は歌好きよ! 好きじゃないって言う貴女に言う事ではないかもしれないけれど」
「そう、ね」
思いきった様子で告白した少女は、告白ついでにと初めて視線を少しずらした。
「……私ね、実は昔のこと全然覚えてないんです。何か大切なものがあって、それを守りたかったような気はしたんだけど、さっぱり解らなくて」
「そう。……そういうことも、あるでしょうね」
自虐的に苦笑して眉を落とした姿に、かける言葉はない。エスタはただ、帽子の影からじっと彼女を伺って、次を待つことに徹した。
「貴女はこんな事急に言われても、可哀想とか大変だねとか言わないんですね」
「だって、言ったところで状況が変わる訳じゃないわ」
「そう。本当に、その通りなの」
くしゃりと笑って見せた姿は、それでも少しだけ眉を落として困っている風にも見えた。だが、少女の目を伺って、あくまで心配される事はないのだと、雄弁に語っていた。
少女はそっと目を伏せてていた。
「……私にとっては、歌を歌っているとね、その、何か大切なことを思い出せそうな気がするの。そしてその思い出せそうな何かが、とっても懐かしい気持ちになるんです。寂しく思う時もあるんだけど、温かい気持ちになる方が上回るの」
でもだからこそ、歌が好き。そうして笑った姿を、理解できないものだとエスタは視線を反らした。
「寂しいのに好きって、変じゃない」
「そうですね、私、変なのかもしれない。でも別に構わないわ。私は私だもの。それに……貴女とこうして話していると、何か――――そう、いつもここまででかかってる歌が、見つかりそうな気がしているの」
「え……」
「驚くのも無理ないわ。変な事言ってごめんなさい」
謝罪をしながらも、彼女はまるで本当に気にした様子はなかった。
だからこそ、エスタは一層罪悪感に捕らわれる。
「何で、私にそんな話をするの」
思わず尋ねてしまっていた。言われた方も、不思議そうにきょとんとして首を傾げていた。
「どうしてかしら……? なんというか……馴れ馴れしい話かと思うでしょうけど……どうしても貴女とお話してみたくて。それが出来て、とても嬉しいわ」
「っ……」
困ったように眉を落として笑って告げたそれに、エスタは息が詰まる思いだった。
そんなエスタの様子をどう捉えたのだろう。申し訳なさそうにしながらも、声は努めて明るく尋ねて来た。
「ねえ、折角だから、貴女の為に歌ってもいい?」
「え?」
「何だかとっても歌いたく思えたの」
「……好きにするといいわ」
「ありがとう」
くるりと踵を返した姿は、窓の光を背景に一礼した。
すうとここまで聞こえるほどに息を吸い、先程身廊を響かせていたものよりも、ずっと丁寧に音を奏でる。
数節聞いて、気が付いた。それは、先程身廊で歌っていたものではない。
いつ、聞いたものだろうか。思い返して、途端にはっと思い至った。
目の前の景色が違って見えた。
それを聞いたのは、確かに修道院の身廊ではない。
一帯の音が消える。世界は確か、もっと煙に燻られて空は暗かった。
遠くに見た背中は修道服ではなくて、あれは、自分がかつて共に身に着けていた、支給品の真っ黒なワンピースだった。
熱を持った風が頬を撫でるのに、辺りは風の音もなく奇妙に静まり返かえっていた。
嫌な予感に心臓が早鐘を打っていて、でもあまりにも急いで近づくと、より危険な気がして駆けつけられなかった。
そう、あの時。
あの時だ。
あの時に歌っていたのも、確かこの歌だった。
歌は、言葉として意味は成していなかった。だが、聞くと無性に物悲しい響きだった。
近づいた拍子に足音を聞きつけたのだろう。ハッとした様子で振り返った表情は、エスタを見つけた途端にどこか怯えて見えた。まさかという思いが加速する。
その時になってやっと慌てて駆けようとしたのだが、身を抱くようにして震えた姿は、わずかに後退りして――――そして、行き場の無いことを悟ったみたいな顔をしていた。
みるみる潤んだ瞳は漆黒に艶めく宝石のようで、そこに潜んだ思惑に、吸い込まれてしまいそうに錯覚した。
何故、そんな風に泣いているのか。
何に、それほど怯えているのか。自分は味方の筈だと言うのに。
まさか、やめて欲しい。どうか貴女の思惑が違うと言って。
知りたくて手を伸ばす。駆けつける。
だが。
エスタが伸ばした手は、その手はただ――――空を切る。
あと本当に少しと言うところで、最愛の双子の姉は沼のような黒々とした湖畔に身を投げていた。
引きつった喉からは、その名前を叫んだはずなのに、エスタの耳には自分の声すら聞こえなかった。
遠くなる。
姿はあっという間に暗闇に呑まれていく。
どぶんという音は聞こえていただろうか。
悲鳴は確かでなかった。いや、ずっと叫んでいたかもしれない。
否、喉が絞られたみたいに身が竦んで、半狂乱になっていた。
覚えていないだけかもしれない。
ああ、イヤだ。またなのか。
目の前でご機嫌にくるりと回って歌う姿が、何度と現実と悪夢に見た姿が重なって、震えるほどに恐ろしかった。
ああ、また。自分の手の届かない所に行ってしまうのではなかろうか。もう二度と、戻って来るつもりがないのではないか。
身体が引きつるほどの恐怖が、溢れて押し込める事が出来なかった。
だから。
「やめて!」
――――気が付くと、目の前の姿に飛びついていた。
「ひゃっ!」
びくりと、華奢な肩が大きく跳ねる。目を丸くした姿が、はっきりとエスタを捉えて瞬きしていた。
「びっくりした……! ええと、気に障ってしまいましたか」
そっと伺うような声色に、漸くエスタもハッとした。
目の前のあどけない表情は、あの時見たものとは違う。『今』をとても楽しんでいて、エスタが嫉妬してしまう程輝いている。
今は、状況が違うのだ。目の前の姿は違うのだ。
そんな事実に、酷く安堵してしまう。
「あ……ええと、その、ごめんなさい。その、あまり窓辺に近づいて回るから、うっかり欄干から落ちるかと思ったわ」
「あら……ふふ、ごめんなさい。心配してくれるのね、ありがとう」
流石に私も、落っこちるほど歌に夢中にならないわ。くすくすと笑われて、エスタも苦笑してしまう。
「ねえ、あのね。貴女はまた、ここに遊びに来たりする事ありますか?」
「ええと……どうかしら。来ようと思えば来られなくはないけれども」
「そしたら、良かったら私とお友達になってくださいな。出来ればもっとお喋り出来たらよかったのだけど」
お客様を引き留めるなんて事したら、先生に怒られてしまうわ。
どこか残念そうに告げた様子に、エスタは目をしたたいた。拗ねた様子は、何だか幼い子供でも見ているかのようだ。
「そう、ね。また来た際は、今度は院長じゃなくて貴女を訪ねるわ」
「うれしい! ありがとう。私はアムって呼ばれているわ」
記憶を無くす前の名前は解らないから、そう呼んで。告げられた言葉に、胸がまた少し苦しい。
でも、安堵の方が大きかった。
「貴女は?」
「私はイ……ううんエスタ。エスタよ」
「エスタね! もう、涙は引っ込んだ?」
ふふと悪戯っぽく笑われて、エスタも思わず目を見開く。
やがて、今度は柔らかく苦笑した。
「ええ。お蔭さまで」
その表情の奥に、縋るような想いを隠した。
――――他人として接する事が出来る間は、貴女はあんな想いをしないで済むのだから。どうかこのまま気が付かないで。と。
ささやかなこの祈りが、どうか続きますよう。




